六、騒街の姫(五)
男の捜索が始まって三日目の朝、街は混乱に陥っていた。
闇と紛うほどの黒雲が、街の上空を覆ったのである。
「まずいわね……」
宝劉は急いで神社に向かう。馬を走らせ到着すると、役人を束ねる祥斉はもう来ていた。
「おはよう。今日は、北の山には人をやらなくていいわ」
「はい?」
祥斉が疑問符を浮かべるのも無理はない。目に見えて危機が迫りつつあるのに、なぜ捜索の人を減らすのか。
「北の山にいた部隊を、南の山に集めるのよ。人海戦術で、山を洗いましょう」
「なるほど。承知いたしました」
こうして舜䋝だけが、北の山に向かった。
宝劉はまた神社に残り、神様の様子をうかがう。
「まだ見つからぬようだな」
「はい。重ね重ね、お詫びいたします」
宝劉は深く頭を下げる。
「本日も捜索を開始いたしました。今日こそ例の男を見つけるべく、街の役人たちも全力を尽くしております」
「いくら力を尽くしたとて、あやつが見つからねば意味が無かろう」
「重々承知いたしております」
邪気はその力を増し、街全体に広がっている。空を覆う黒雲は、強い邪気の表れだ。
なかなか朗報は入ってこない。
太陽が南の空に高く昇る頃、一度本殿を出た宝劉は、街が騒がしいのに気付いた。
「何かあったの?」
彩香に訊く。
「街の住民たちが、避難を始めたようです。空には黒雲が広がっておりますし、妙な風も吹き始めました。誰がどう見ても、今この街は危険ですわ」
「確かに、こうなったら逃げるのが普通よね」
なるべく落ち着いていようとは思うが、宝劉もここまで怒った神の近くにいるのは初めてだ。一刻も早く事態を収拾せねばという焦りが、頭の中を支配していた。
「今日中に見つかるかしら?」
「分かりません。見つかることを祈るばかりですわ」
「そうね」
しかし、その日も男は見つからないまま夜になった。
「この様子じゃ、何があるか分からないわね……」
宝劉は宿に戻らず、神社で一夜を明かす事を決める。
「私は今晩、ここに残るわ。神様も、話し相手がいた方が、気が紛れるでしょう」
「承知いたしました」
黒雲に覆われた空は、平生の夜よりも暗い。月明かりは差さず、梟や猫の声もしない。ただ、生温い風だけがびょうびょうと吹いている。
「劉家の娘よ」
本殿に入ると、神はすぐ宝劉に呼びかけた。
「はい」
宝劉は静かに答える。
「私は神だ。今まで神として、人々の信仰に基づき、その願いを叶えてきた」
「存じております」
「人と私とは、共に信頼関係にあると、そう思っていた」
「はい」
神の口調は淡々としているが、その奥に激しい怒りが聞いて取れる。
「しかし、人は私を裏切った。約束を違え、眼を返さずに遁走した」
「申し訳ございません」
「赦せぬ。どうしても人を赦す事はできぬ。このまま眼が返ってこなければ、私は邪神となるだろう。太平の世を私の手で終わらせてしまう事、申し訳なく思う。しかし、この怒りを抑えておけぬのだ」
神は握った拳を震わせる。宝劉はそれを見ながら、もしもの事を考える。
そのままぽつぽつと話は進み、お互い一睡もできぬまま、朝になった。
「今日は、北の山を全員で洗いましょう」
宝劉は一旦本殿を退出し、寝る暇も朝食をとる暇もなく、祥斉はじめ集まった役人たちに、この日の指示を出す。
「関所からも、渡しの方からも、男がいたという連絡は無いわ。いるとしたら、山の中だと思うの」
燿と空鴉の二人には、それぞれ関と渡しの周辺を捜索するよう言ってある。しかし、進展の知らせは、どちらからも来ていなかった。
「今日こそ連孝一家を見つけて、平和な街を取り戻しましょう」
役人たちは口々に御意の言葉を述べ、北の山へ向かう。
「舜䋝、南の山は頼むわね。もう、あなただけが頼りなの」
「承知しています。待っていてください。絶対に、あなたを死なせやしませんから」
「ふふ、ありがとう」
強がった笑顔も、見透かされているのだろうか。宝劉はそれでも、友の言葉が嬉しくて、笑って見せる。
「行ってまいります」
「うん、よろしくね」
舜䋝を見送ると、肩の力がどっと抜けた。
「少しお休みください。お疲れでしょう」
彩香が優しく言うが、宝劉はためらう。役人たちが必死に男を探しているのに、自分だけ休むのは気が引ける。
「大丈夫、起きてるわ。一日くらい、寝なくても平気よ」
「しかし、お疲れのままでは判断力が鈍ります。もし何かあった時のために、今はお休みになった方がよろしいかと」
彩香の言う事も一理ある。
「そうね。じゃあ、少し寝るわ」
「では、布団を用意させますわ」
雑用係を呼ぼうとする彩香を、宝劉は止める。
「あ、布団はいらないわよ。熟睡すると困るから」
「しかし……」
「いいの。畳さえあれば寝られるわ」
そう言って、宝劉は床に寝転んだ。
一晩中、神と話して疲れたのだろう。宝劉はすぐに寝息を立て始める。
しばらくして目を覚ました時には、太陽はもう南の空へ昇っていた。
「おはようございます」
彩香は、主人が目覚めた事にすぐ気付く。
「お休みになれましたか」
「ええ、頭も体も軽くなったわ」
宝劉は伸びを一つして起き上がる。身体にのしかかっていた疲労は、どうやら改善したようだった。
そこへ、北の山に行っていた祥斉が戻ってきた。気まずそうな顔で、宝劉に頭を下げ、報告する。
「恐れながら申し上げます。現場の捜索部隊の中に、男を探すのを諦め、避難すべきという意見が多く上がっております」
半ば予想していた反応だったが、宝劉は顔を曇らせる。
「私自身も、部下の命を危険に晒す事はしたくありません。これ以上、無理なら無理とおっしゃってください。避難命令をいただきたく存じます」
祥斉の言う事ももっともだ。
「分かったわ」
宝劉は覚悟を決めた。
「街の役人も我が国の民。国民の命は、何より優先して守られるべきものだわ」
そう言って、祥斉とその部下全員に命令を下す。
「命令よ。捜索を打ち切って、この街から逃げなさい。全員で、安全な場所に避難して」
「御意!」
祥斉は改めて拝礼し、伝令のために走っていく。
「よろしいのですか……?」
捜索部隊を撤退させるとは、すなわち男の捕縛を諦める事だ。
「いいのよ」
国が邪神をどう鎮めるのか、知る国民はほとんどいない。祥斉も多分、この後どうなるかは分かっていないだろう。
「まあ、そうね……」
宝劉は黒い空を仰ぐ。
「悪くない人生だったわ」
その時。
南の方から、獣の遠吠えが聞こえた。
「あら?」
宝劉は耳を傾ける。
遠吠えは何かを確実に知らせるように、何度も響く。
「もうちょっと、待ってみてもいいかもね」
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