一、山里の姫(二)
「あーあ、もっと自由な身分に生まれたかったわ……」
出立の準備をしながら、宝劉はつぶやく。
確かに、かわいい服は着られるし、金に困る事も無い。女官たちにかしずかれる優雅な生活も送れるし、権力だってある。
しかし宝劉が望むのは、王位継承争いに巻き込まれ、自由に将来も選べずに、堅苦しい伝統と礼儀を押し付けられる事のない、自由に生きられる人生だ。ごく普通の娘に生まれていたら、と妄想するのは、もう日課のようなものだった。
隣の部屋を片付けていた彩香が、襖から顔をのぞかせる。
「殿下、昨日狩った猪は、どういたしましょうか?」
「ああ、そうね……」
この時期の猪は、あっさりしていて食べやすい。焼肉にでもしようと思っていたのだが、もう丸々食べている余裕はなさそうだ。
「土地神様にも挨拶しなきゃだし、その時に持って行くわ」
「御意」
翌日、自室の片付けを終えた宝劉は、舜䋝に猪を持たせて屋敷を出た。村の土地神に、別れの挨拶をしなければならない。
山間の里は今日も平和だ。田起こしの終わった山田は泥を煌めかせ、山鳩の声はのんびりと響いている。河鹿蛙もどこかで歌い、卯月の空を謳歌しているようだった。
「あなたと会うのは二年振りね。少し背が伸びたみたい?」
宝劉が後ろの舜䋝に声をかける。
「でも相変わらずの優男だし、色も白いわ。ちゃんと食べて鍛えてる?」
舜䋝は苦笑する。
「お言葉ですが宝劉様、僕自身は変わったつもりでいます」
「そうなの?」
「はい。昨年の秋、蓮華に入隊いたしました」
蓮華は国王の私軍という位置づけだが、実際には国王が自由に使える手足だ。その仕事は雑用から国を動かすものまで、様々である。そこに入隊できるのは相応の実力を持つ者だけで、人数も限られている。
「あら、すごいじゃない!」
宝劉は思わず脚を止め、幼馴染を振り返る。言われてみれば確かに、どこか大人っぽくなっている。
「頑張ったじゃない。さすが舜䋝ね」
「ありがとうございます」
礼を述べる舜䋝の頭を、宝劉は笑顔でわしわし撫でる。
「私はずっと、あなたはやればできる子だって思ってたのよ。私の眼に狂いはなかったって事ね」
「か、髪が乱れてしまいます、宝劉様」
「ああ、ごめんね」
舜䋝が複雑な顔になるのを見て、宝劉は手を引っ込める。
「でも、本当にすごいわ。泣き虫で怖がりで私より弱くて、虫一匹殺せなかったあの舜䋝が、蓮華入隊ねー……」
そう言って歩き始める宝劉の後ろで、舜䋝は少し赤面する。
「それは言わないでください……」
「あなた大丈夫なの?
「はい、何とか……」
互いに近況報告しながら道を行く。
「宝劉様は、お元気でしたか?」
「ええ、見ての通りよ」
「少し日に焼けましたね」
「女の子相手に、そんな事を言うもんじゃないわ」
宝劉は笑って言う。
「そういう気遣いに欠けているところを見ると、あなた、まだ彼女とかいないわね?」
舜䋝が一瞬足を止めた。何か言いたげに口を開きかけ、やはり黙って目を伏せる。
前を歩く宝劉は、それには気付いていない様子だ。
「舜䋝、顔は悪くないんだから、その辺りを直せば、恋人の一人や二人はできるんじゃない?」
「……そうですね。努力してみます」
振り返らない宝劉と目を伏せる舜䋝の間を、温かい風が通って行った。
村のはずれから少し山に入ると、よく手入れのいき届いた社がある。
その屋根の上に、黒い猫が座っていた。
「どうした姫。そなたが彩香以外の者を連れて来るとは珍しい」
猫が言った。
「こんにちは土地神様」
宝劉は丁寧に答えた。
「彼は私の幼馴染で、舜䋝という名の者です」
黒い猫も、その声も、舜䋝には聞こえない。神と話ができるのは、紅髪緋眼の選ばれし一族、劉家だけとされている。神と言葉を交わし国を治めるのが、王家たる彼らの仕事だ。
「実はこの度、都へ帰る事になりました。明日には里を離れますので、ご挨拶を申し上げに参りました」
「そうか」
猫の姿をした土地神は、黒い尾を揺らす。
「村の者もよく参拝には来るが、私と言葉を交わす者がいなくなるのは、残念だ」
「国王である兄の命です。ご了承ください」
宝劉は舜䋝に、供えの猪を置くように言う。
「おや、こいつは面白い」
神はふわりと屋根から降り、舜䋝の匂いを嗅いだ。
「私も永く存在しているが、このような者を見たのは初めてだ」
「そうおっしゃる神様が多いですね」
ひとしきり舜䋝を観察した後、土地神は首を傾げた。
「こやつは、私と話す事はできないのかね?」
「残念ですが」
宝劉は苦笑した。舜䋝を連れて参拝すると、いつものように訊かれる事だった。
供え物の猪を置き、舜䋝が宝劉の後ろまで下がる。
「それでは土地神様、私たちはこれで失礼いたします」
「うむ。元気でな」
「ありがとう存じます」
宝劉は黒猫に拝礼する。舜䋝もそれに倣った。
「願わくは、土地神様の治められますこの土地が末永く繁栄し、多くの幸に恵まれますように」
こうして二人は、土地神に見送られながら社を後にした。
その帰り道、ある畑の前を通りかかると、そこで両親と共に種まきをしていた男の子が、宝劉に気付いて声をかけてきた。
「あ、姫さん!」
「あら新太、精が出るわね」
宝劉はそこで脚を止め、身をかがめてその男の子と話し始める。
「なあ、里を出るって本当か?」
「本当よ。城に帰って来なさいって、王様に言われたの」
「ふうん」
合点のいかない顔で相槌を打ち、新太は鋭い目で舜䋝を見上げる。
「こいつが、姫さんを迎えに来た怪しい奴?」
「怪しくないわ。舜䋝っていうの」
少年は舜䋝を無遠慮なまでにじろじろ見る。
「髪白いし変な奴だな。弱っちそうだ」
カチンときた舜䋝は、新太の前に仁王立ちになった。
「田舎の子どもは礼儀も知らないのかな? お父さんとお母さんに、年上を敬えって言われてない?」
「こら舜䋝」
齢五つの子ども相手に、何を本気になっているのか。冷静に見える割には喧嘩っ早い性格は、前と変わっていないようだ。
新太の両親はおろおろしているし、二人は睨み合っているし。
(何だか面白くなってきたわねぇ)
宝劉は、しばらく成り行きを見守る事にする。
「おいお前! おれと勝負しろ!」
新太が舜䋝に向かって啖呵を切る。
「いいよ。やれるもんならやってみな」
舜䋝は即答した。
二人の間に火花が散る。空気は今にも裂けんばかりに緊張し、絞った弓の弦のように張り詰めた。
「あっ、何かいる!」
新太が空を指さした。舜䋝はつられて視線を上にやる。
「いってぇ!」
舜䋝が声をあげた。彼が眼を上にやった瞬間、新太がその脛を蹴り飛ばしたのである。
「このガキ!」
舜䋝は、弁慶の泣き所を抑え、新太を睨む。
「べーっ」
男の子は舌を出し、自分の尻をぺしぺし叩いて走り出す。
「待て!」
舜䋝もそれを追いかけて走り出した。
「すみません姫さん、うちの息子が……」
新太の両親が揃って頭を下げる。
「ああ、気にしないで。うちの舜䋝も大人げないのよ。新太に怪我をさせるような事は、ないと思うけど」
結局、舜䋝が屋敷に帰って来たのは夕方になってからだった。
「お帰り舜䋝。決着はついたの?」
「ええ、もちろん。僕の圧勝でしたよ」
「その割には……」
宝劉と彩香は、舜䋝の頭から足の先まで眺めてみる。
「随分と怪我をしてるみたいだけど」
「大丈夫ですか?」
「かすり傷なので平気です」
強がっていても怪我は怪我だ。彩香に手当されている間、彼が何度か呻いているのを宝劉は聞き逃さなかった。
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