世界でひとりぼっちの君へ
ニシマ アキト
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ひと際大きな風が道路を吹き抜けていって、ビルの後ろにある大樹の葉が唸り声をあげるようにさざめいた。
木の葉と同じように鬱陶しく揺れる髪の毛先をおさえながら、誰もいない街を歩く。いや、この場所はもうずいぶん前から街とは呼べない有様になっているけれど、かつては世界の中でも有数の栄えた街であったし、その物的証拠としてこの道路の両脇には見上げるほどの高層ビルがいくつも立ち並んでいる。
まあ、今となってはそのビルはどれも、全身を緑色の蔦に絡めとられて朽ち果てているけれど。
かつて、まだこの街に多くの人が行き交っていた時代にはこのビル群も燦然と銀色に輝いていたのだろうけれど、今では植物が光合成をするための格好の良い支柱に成り下がっている。
大きなスコップを肩に担いで、人の気配が一切しないビルの隙間をひたすら歩いて二十分。陽炎が揺らめくアスファルトにいい加減うんざりしてきた頃、僕はやっと目的地に到着した。
この建物にしても、かつて大勢の生徒が毎日通学していたあの頃の面影は全く残っておらず、今では校舎内まで中庭が範囲を拡大してしまっている。
壁は黒く汚れ、窓ガラスは割れて、キラキラ光る埃が全体に充満していて、床は緑に覆いつくされていて、校舎内は酷い有様だった。適当に邪魔な雑草を刈りながら階段を上り、かつて僕が授業を受けていた教室——六年二組の教室を目指す。
教室の扉に手を書けたが、蔦が変な絡まり方をしていてなかなか開かなかった。どうせもうこの建物に足を踏み入れる人なんて僕以外にいないのだし、と思って、躊躇なく扉を蹴破った。
あの頃一年間毎日通って、様々な思い出を残しているはずのその教室を目にしても、特に何のノスタルジー的感慨も湧かなかった。そもそもその教室の床は草原に覆われているし、派手な柄の蝶が何羽も飛んでいたりして、記憶の中の教室とはまるで別世界だったのだから、記憶が蘇ってくるはずがない。
草をかき分けて進み、かつての僕の座席を確認しに行く。机の引き出しにはなぜか土がこんもりと敷き詰まっていた。椅子の上にはジオラマのような小さな草原ができていて、タンポポが三輪ほど咲いていた。
僕はなんとなくそのタンポポを全部引っこ抜いて、そこら辺に捨てた。そして、残った湿った雑草の上に尻をのせて、机の上に肘をついて、あの頃のように黒板を向いた。
もとの色よりも幾分か明るい葉の緑色に覆われた黒板をぼんやりと眺める。鳥のさえずりがどこからか聞こえた。右腕に白いモンシロチョウがとまった。
黒板から目線を逸らして、窓の外を見やる。窓といってもガラスが割れていて枠しか残っていない。その枠の中だけ絵具で塗りたくったような綺麗な青い空には、何もなかった。朽ち果てた緑色のビルと樹木が生い茂っているだけで、他には何もない。そう、何もないんだ。
この世界には僕以外、何も残されていない。
一度大きなため息を吐いて、スコップを担ぎ直して立ち上がった。そのまま、窓の枠に足を引っかけて身を乗り出して、地面へと飛び降りた。
両足で着地して、同時に膝を曲げて衝撃を軽減する。地面に転がる人の身体を踏まないように、脚をぷらぷら揺らしながら校舎の周りを歩き、中庭に辿り着く。この学校の校舎は中庭を囲うようにコの字の形になっていて、中庭の中心、つまりこの校舎の中心には、一本の大きな桜の木がある。
校舎内の人体を全て窓から中庭に放り捨てたのは、今から何年前のことだっただろう。中庭にはうず高く人体が積み上がっていて、桜の木と背比べをしている。
気味の悪い人体の山は無視して、ちょうど満開となった桜の木を見上げる。頬の上にピンク色の花びらがひとひら落ちてきた。若干湿っていて不快なのですぐに払いとる。
桜の木の下には死体が埋まっている、という話は、いつどこで聞いたのだったか。ともかく、鬼が出るか蛇が出るか、といったところだ。
スコップを地面に突き刺して、奥に入れ込んで、そのまますくい上げる。その動作をひたすら繰り返す。一メートルくらい掘り進めたところで、やっと硬い手応えを感じた。それがただの大きな石でないことを祈りつつ、まわりを掘り進めていく。
手で土を払って、その銀色の箱を取り出す。
「本当に、あった……」
桜の木の下から出てきたのは、死体でも何でもない、ただの箱だった。
両手で抱えるほどの、大きな直方体の箱。
これが、二百年前から僕への贈り物。
一度大きく深呼吸をしてから、僕はその箱の蓋を外した。
「……え、……な、なんだよ、これ……」
僕と全く瓜二つの顔をした生首が、タイムカプセルの中にあった。
それが、僕の表情筋が百五十年ぶりに引き攣った瞬間だった。
*
私立傀儡学園、というその名前にある通り、この学校はアンドロイドを養成するために設立された。
といっても生徒全員がもれなくアンドロイドというわけではなく、むしろアンドロイドは少数派だった。全体の九割以上の生徒は普通の人間で、アンドロイドはクラスに一人いるかいないか、という程度の割合だった。
学校の方針としては、まだ人間の模造品としては未完成であるアンドロイドを学校のクラスメイトの一員として扱い、人間に囲まれて生活する中でアンドロイドに搭載された人工的な心を自然な形で育成しようとしていたらしい。
今となっては、どうしてアンドロイドに心なんていうプログラムを搭載したのか、僕としては甚だ疑問だ。
この学校で育成された僕の心が役に立ったことなんて一度もなかったし。
私立傀儡学園は、高度に発展していったアンドロイド研究をさらに推し進めるため、いわばアンドロイドの実験をするためだけに作られた学校だった。そのためだけに学校をひとつ作ってしまえるほど、アンドロイド研究というものは凄まじい勢いがあったのだという。僕はそこら辺の事情についてあまりよく知らない。
そして、今から二百年前——人類の文明が朽ち果ててしまった今から二百年前、僕というアンドロイドは、私立傀儡学園初等部六年二組の教室に放り込まれることになった。
「今日からこのクラスの新しい仲間になる、柊ヤナギくんです! みんな、仲良くしてあげてね!」
担任の若い女性教師が僕の肩に手を置いてそう言うと、クラス中の視線が一斉にこちらに集中する。僕は思わず息を呑んだ。
この学校に通っている人間の生徒には、生徒の中の誰がアンドロイドなのかは知らされていない。だから大抵のアンドロイドは極力怪しまれないように新入生が入学するのと同時にこの学校に在籍することになるのだけれど、僕の場合は事情によりイレギュラーな形で、途中から六年生のクラスに転入することになった。
私立の小学校で、学年全体の人数はそんなに多くない。六年生にもなれば、学年のほとんど全員がなんとなく知り合いになっているだろう。しかも五年生から六年生は進級する際にはクラス替えがないし。
学校というものを、及びその中の人間関係の在り方というものを、当時の僕は知識としてしか知らなかったが、転入初日の僕の胸の中には暗雲が立ち込めていた。
このときの不安も、僕の心の成長にとっては必要なものだったのだろうか。
僕が二百年間生きていくために、必要な感情だったのだろうか。
「初めまして、柊ヤナギです。六年生になって急に転校することになって不安だったんですけど、なんか面白そうな学校なのでワクワクしてます。これからよろしくお願いします」
僕が感じの良い微笑みを浮かべて、淀みなくそう言うと、教室内はまばらな拍手に包まれた。このときは普通の人間とは逆の意味で心が未発達で、内側の不安が全く外面に表れなかったのだ。
今から振り返れば、誰も知り合いがいない状況でここまで緊張した様子もなくしっかりと話せる小学六年生なんて滅多にいないし、もっと演技を逆ベクトルにしたほうが良かったんじゃないかと思う。
このときの僕は演技がものすごく得意だった。
人間が演技をする際に障壁となるような感情を、このときの僕は一切持ち合わせていなかった。
その後、先生に中央の列の最後尾の席に座るように指示されて、僕はクラス全員に歩く姿をまじまじと見られながら、その座席に向かった。小学六年生として生活するために、僕の意識を入れるための器である義体を、十二歳の少年相応の小さいものに替えていたので、少し歩き方がぎこちなくなっていたかもしれない。
僕が着席すると、わざわざ首を後ろに向けてまで僕の姿を観察し続けようとする人はさすがにいないらしく、各々がそれぞれの作業に戻っていた。だがしかし、僕の座席の右隣に座っていた女の子が、身を乗り出して僕に顔を近づけてきて、嫌でもその子の輝く瞳が視界に入ってしまった。
彼女はしばらくの間黙って、その大きな瞳で穴が空くほど熱心に僕の目を見つめていた。
「……あ、あのさ、僕ってそんなに変な顔してる?」
「うん、してる、変な顔」
不思議そうな表情で僕の顔を覗き込みながら、彼女は言った。
「え、えっと、具体的にどんな顔?」
「人間じゃないみたいな顔」
「……意味が分かんないよ」
「柊くん、もしかしてアンドロイド?」
「いや、違うけど」
「ふーん……」
彼女はまだ体勢を変えないまま、僕の顔を下から覗き込んでいた。僕がたまらなくなって横に顔を逸らすと、彼女は僕の頭を両手で挟み込むようにして、そのままぐいっと僕の首をひねった。僕は無理矢理彼女と向き合わされた。
「じゃあさ、柊くん。柊くんは、どこから転校してきたの?」
「え、えっと……、あんまり、言いたくないかな」
「なんで? なんで言いたくないの?」
「あー、その、ものすごく田舎だから、恥ずかしいっていうか」
「田舎から転校してきたことが恥ずかしいの? なんで? わたしたち、同じ日本人なんだから、なんにも恥ずかしいことなんかないよ?」
「いや、僕は日本人だけど、日本で生まれ育ったわけじゃないんだ」
「えっ」と、そこでやっと彼女の表情が動いた。露骨に驚いていた。「じゃあ、なんでそんなに日本語上手なの?」
「勉強したからね」
「す、すっ、すごいね。柊くんはどこの国から来たの?」
「あー……アゼルバイジャン」
「あ、あぜ、ばじゃ……?」
もちろん適当な嘘だった。小学生はアゼルバイジャンなんか知らないだろう、たぶん、おそらく。
「ほら、知らないだろう? だから言いたくなかったんだよ」
「そ、そうなん、だ……」
彼女は消え入りそうな声で気まずそうに言って、僕の顔面から両手を離した。前に向き直ると、担任教師が一時限目の算数の授業の準備をしていた。
「あのさ、柊くんは、わたしの名前知ってる?」
知ってるわけねーだろ少しはこっちの事情も考えろばーか、とか、普通の小学六年生の男子ならそれくらいの生意気な口答えをするものなのだろうかと一瞬考えたが、僕の勝手なイメージで作り上げた小学六年生の男子を演じるとかえって不自然になるかもしれないと思い直した。
「今日転校してきたばっかりだからね、まだクラスメイトの誰の名前も知らないよ」
「そうだよね……」
彼女は言ったきり、何も言葉を継がなかった。五秒間くらい沈黙が続いたところで僕が少し驚きながら彼女のほうを向くと、彼女は何食わぬ顔で机の引き出しから算数の教科書を取り出していた。
彼女はそのまま僕に目もくれず、筆箱の中身をいじくっている。
「あ、あのさぁ……、僕に名前、教えてもらってもいい?」
「ふかしぎ」
「え?」
不可思議?
確かに彼女はさっきから不可思議な振る舞いを続けているけれど……。
「深、シギ。シギって名前」
「シギ……、シギさん?」
「うわ。下の名前さん付けで呼ばれたの人生で初めて」
「そ、そっか……」
「柊くんって、やっぱりちょっと変かも」
あんたにだけは言われたくないんだけどな、とは口に出さなかった。いや小学生同士ならこれくらいの歯に衣着せぬ言葉を躊躇なく放つのが自然なのかもしれない。
……いや、もう深く考えるのはやめよう。他のクラスメイトならまだしも、シギ相手にそんなことを考えてもあまり意味がない気がする。
「これからよろしくね、シギ」と、僕が柔らかく微笑んで握手を求めると、シギは無表情で「うん」と頷いただけで、僕の握手には応じずすぐに黒板に向き直った。差し出したまま虚空をさまようことになった手を握ったり閉じたりしながら、僕も前に向き直る。
それから程なくして算数の授業が始まって。
その日、僕は放課後になるまで、シギ以外の誰からも話しかけられなかった。
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