第5話 内緒と安堵
杉浦が、早智を初めて喫茶店リナリアに連れて来たのは、高校の卒業間近の桜の綺麗なよく晴れた日だった。
高校2年の秋に、祖父母との同居が決まってこちらに引っ越して来た早智はこの辺りの地理についてはさっぱりで、高校時代は自転車で繁華街のある隣町に出掛けることのほうが多かったので、たいした魅力もない地元をうろつくことなんてまずなかった。
だから、海辺にひっそりとたたずむ喫茶店に連れて行かれた時には、こんなとこお客さん来るんかいな!?と本気で心配になったくらいだ。
意外にも常連客が毎日のように訪れるその店は、混雑とは無縁で、けれど不思議と居心地が良かった。
それ以来、早智は一人で暇を持て余した時にはリナリアに顔を出すようになった。
言葉数の少ないマスターは、早智と杉浦が一緒の時は話しかけられるまでは二人の様子を微笑ましそうに眺めていて、早智が一人でやって来た時には、自ら話し相手になってくれた。
そして、察しの良いマスターは、早智が文庫本片手に店に来た時にはそっとしておいてくれたので、その対応が何よりも有難かった。
そんなマスターが杉浦と早智を見つめる眼差しに、愛着以上の何かを感じたのはリナリアの常連になってしばらく経ってからのこと。
珍しくひとりで店に来た早智はいつもはふたりで座る席にひとりで座っていつものピザトーストを齧っていた。
多めにとリクエストしたアツアツのチーズが口いっぱいに広がって最高に幸せで、お代わりをお願いしたいくらいだった。
マスター特製のトマトソースはちょっと甘めで早智の好みド真ん中なのだ。
「マスター最高ー絶品ー」
いつもの感想を伝えた早智にマスターはにっこり笑って
「ありがとう」
と穏やかに微笑んだ。
ちょうど大学の夏季休暇で平日の真っ昼間。
店には早智の他に常連の地元の老人が二人いるだけ。
その日は読みかけの文庫本は持ってきていなかった。
ピザトーストを食べ終わる頃にマスターがカフェオレを持ってやってきた。
早智が手ぶらである事を確かめてから、初めてマスターが向かいの席に腰を下ろした。
いつも杉浦が座る場所だ。
ひとり分の空間が埋まったことで早智はやっぱりどこかで嬉しかったのだ。
自然と笑みを零していた。
ただ単に、マスターがわざわざ早智の話し相手をしに来てくれたことが嬉しかったこともある。
「たまにひとりだと寂しいだろう?」
丸眼鏡の奥で目を伏せて笑った彼が、カフェオレに息を吹きかける早智を見て頬を緩めた。
その目がどこか寂しそうで、懐かしそうで。
もともとお喋りではないので、適当な上手い世間話も口には出せなかった。
ほんの一瞬、困ったような顔をした気がする。
マスターがそれに気付いて笑った。
「ごめんね」
謝られた事の意味が分からすにまた苦笑いを返してしまった。
こういう時の対処方法なんて分からない。
「いつもこの席に座って宿題したり、ゲームしたり・・・並んでテレビ見たり・・・たまにはケンカして泣いたり・・・見ていてハラハラするんだけどね。でも、子供には子供の世界とルールがあるっていうのが家内の口癖だったから。いつもグッと我慢して見てたなぁ。大人が思うよりずっと子供はちゃんとしていて、泣かしても、その後に倍笑わせてあげてたなぁ。知らない間にどんどん大きくなって僕の手なんか要らないくらい成長して・・・・大人になると思ってたなぁ・・・」
最後の一言で全部分かった。
マスターが失くしたもののこと。
マスターが早智たちを通して見ていたもののこと。
マスターが望んでいた未来、全て。
一瞬にして真っすぐに、痛いほどに伝わってきた。
そう言えば、この店に来たばかりの頃、杉浦が亡くなった同級生の父親の店とポツリと零した気がする。
「もうほとんど兄弟みたいで家族みたいで・・・間違いなく、離れないと思ってたなぁ。どこに行くにも一緒でね・・・」
マスターの手がテーブルを撫でる。
小さな傷に混ざって、油性ペンで書かれたらしいクセのある文字がいくつか擦れて残っていた。
「怪我したときも、目が覚めるなり自分のことより、相手の心配したりして。一番純粋な時期に一緒にいたからかなぁ・・・自分の体より何より、一番大切だったんだろうな・・・本人達が気付いていないだけで僕ら大人からしてみれば、友情じゃなくて、完全に愛情なのに。そんなの関係ないって目を瞑ってたのか、見ないふりしてたのか・・・訊きたい事も、言いたい事もまだまだ沢山あったのに・・・」
泣いてしまうんじゃないか?
そう思えるくらい、”泣いた”声だった。
穏やかな表情と口調からは想像もつかないような哀しみがそこにはあった。
かけがえのないものを失った人の持つ、寂しい深い藍色の空気。
雪が積もった朝のようなシンと静まり返った冷たさ。
早智の見たことのない世界。
軽々しく励ましの言葉なんか口に出来るわけなかった。
懐かしそうにテーブルを撫でるマスターのお気に入りの茶色い艶消しの丸眼鏡のフレームを眺めていた。
ひときわ強く風が吹いて、強風のかたまりが窓を叩いた。
ゆっくりと顔を上げたマスターが目を細めて早智の頭を撫でた。
ここ数年自分の親にも頭なんか撫でられたことのなかった早智は一瞬焦ってでも、それより嬉しさで真っ赤になってしまった。
今、この瞬間マスターは喫茶店の店主ではなくって、
1人の子供を持つ父親なんだ。
早智らを見る眼差しに見え隠れしていたのは”父性”だったのだ。
ストンと納得できた。
「話し込んじゃったなぁ・・・ごめんね。おっさんの独り言・・・忘れてね」
笑って立ち上がったマスターはもうマスターの顔に戻っていて、早智は声を掛けるタイミングを逸してしまった。
そして視線を巡らせてテーブルに載せられていたはずの伝票が
無くなっていることに気付く。
「マスター・・伝票」
「話し相手のお礼。今日は奢っとくよ」
「え・・・でも・・」
「いーの、いーの」
「マスター、コーヒーおかわりー」
常連客に呼ばれてマスターは席を離れていってしまった。
・・・・・・・・・・
カランコロンとカウベルが鳴った。
地元の草野球帰りの杉浦が店に入ってくる。
いつもの席に座る早智を見つけて杉浦がなぜが目を丸くした。
そして、足早に近づいてくる。
早智はカフェオレのカップを持ったまま声を掛けた。
「勝敗は?あんたホームラン打てたん?」
尋ねた早智の言葉はスルーされて、杉浦は向かい側に座ることなくテーブルに片手を突いて、早智の顔を覗きこんできた。
それもえらく真面目な顔で。
「どないしたん?」
いや、聞いたんこっちやのに、と思わず眉根を寄せる。
「・・・なんで?」
質問に質問で返した早智に、杉浦がしかめ面のまま気まずそうに言った。
「泣きそうな顔しとるやん」
「・・・・・」
思わず言葉に詰まってしまう。
早智は残ったカフェオレを勢いよく飲み干してやっと杉浦の顔をまともに見ることが出来た。
「カフェオレがな」
「うん」
「めっちゃ甘かってん」
たまには砂糖を入れようと思ってスティクシュガーを1本入れた。
軽く混ぜただけだったので、カップの底には茶色い砂糖とカフェオレのかたまりが張り付いていた。
ずっと消えへんシミみたい。
マスターの抱えている、どうしようもない寂しさや悲しさと重なってしまう。
慌ててカップを杉浦に見せる。
チラリとそれに目を落として、もう一度早智の顔を見てから、杉浦はテーブルに目をやった。
そして、常連客たちと話しこんでいるマスターを振り返る。
「口直しにブラック飲みや」
そう言って向かいに座るとカバンを下ろして、マスターに声を掛けた。
「マスター!焼きうどんとブレンドー」
「いらっしゃい。先にお茶いるかな?」
「あー、ええわ。コンビニで買った残りあんねん」
杉浦の言葉に頷いて、マスターがカウンターに入る。
杉浦がペットボトルの緑茶を一口飲んだ。
「別の大学行ってもあんまなんも変わらんなぁ」
「・・・大学東方面やしな」
「彼女草野球に呼んだりぃな」
「野球よりサッカーのんが好きやねんて」
「おお!今どき女子」
「おまえは?」
「サークル楽しいからしばらくは彼氏はええわ。成人式までには作る、たぶん。この店、彼女に言うてへんの?」
「あー・・・ここのことは教えへんわ、たぶん」
静かに返した杉浦の答えが、なんだか物凄く嬉しかったことを、いまでもはっきりと覚えている。
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