第3話 繋いだのは手のひらと
これまで生きて来たなかで、何度だって傷ついて来たし、へこたれてきた。
けれど、それまでの怪我が、ただの擦り傷だったのだと思えるくらいの大きな挫折は初めてのことだった。
ある日突然社内の人間関係が拗れ始めて、そこからは早かった。
きっとそれまでの間にいくつもの予兆があったはずで、けれどそれら全てを見過ごしてしまっていた鈍感な早智には、方向転換も軌道修正も不可能。
動けなくなって、仕事に行くことが苦痛になって、外に出る事が怖くなった。
徒歩圏内より遠い場所へ行く事が億劫になって、数か月も過ごせば、いっきに性格は内向的になった。
顔見知りへの遠慮のなさは相変わらずだけれど。
杉浦は、そんな早智を遠くへ連れ出すことはしなかった。
散歩に誘いに来たとしても向かうのは海か近所の喫茶店リナリアか、地元唯一の
それも、休日の人が多い時間帯には絶対に早智を誘わない。
言葉数が決して多くは無い彼は、早智のことを昔からよく見ていた。
いまの早智に何が出来て何が出来なくて、何が必要かをちゃんを見極めていたのだ。
だから、彼の隣ではいつでも息がしやすかった。
・・・・・・・
たぶん、あれは告白だったのだろう。
そういう温度ではなかったけれど。
でも、それが、早智にはちょうどよかった。
手を伸ばせば届く場所に必ず彼が居てくれることが、どうしようもないくらい、心強かった。
半分ほど社会復帰を果たして気づいたことは、実は自分はあまり人付き合いが得意では無かったということだ。
クラスに上手く馴染めていたのは、早智をよく知る誰かがいつも側にいてくれたから。
思えば、会社に入ってからもそうだった。
顔見知りばかりが訪れるパン屋のバイトは、足は疲れるものの、慣れてくれば苦ではなくなった。
難しいことを悶々と考えているよりは立って動いて居る方が気がまぎれるのだ。
時々は、地元民以外のお客さんが来る事もあって、そのたび緊張しては顔を強張らせていたけれど、レジ待ちが出来るような人数が押し寄せる店では無かったので、どうにか対応できた。
不特定多数の人間の声や気配が苦手なのだと気づいたのは、ニュースで流れた都心部の通勤ラッシュの映像を見た時。
つい数か月前まで同じように満員電車に揺られて会社まで通っていたことが信じられないくらい、身体が拒絶反応を示した。
気持ち悪くなって駆け込んだトイレで、そういえば、杉浦は釣りに誘い出すのは朝方だし、飲みに行くのもド平日だし、リナリアにお茶をしに行く時もいつもちょっと時間をずらしていたなと思い出した。
そして、呼吸に紛れて告げられた告白を反芻して、また彼を好きになった。
三両編成の各駅停車がのんびりと走る地元の駅は、通勤時間帯以外は大抵閑古鳥が鳴いている。
数年前にとうとう無人駅になってからはより一層閑散としているが、早智にとってはそのくらいがちょうどよい。
休日出勤の代休で、昼過ぎに起きたらしい杉浦から連絡が来たのは14時過ぎのことだった。
”天気ええから散歩行こ”
そんな連絡を受けた10分後には、彼は家の前までやって来ていた。
待ち合わせとは無縁のご近所さんは、楽だけれど恋愛特有のときめきは無い。
が、いまの自分にときめきとか言われても拒否反応を示してしまいそうなので、この温度感が心地よい。
それを彼が分かっているのかいないのか、確かめる勇気はまだない。
デートと言われても、恋愛自体が数年ぶりの早智なので、着ていく服もない。
化粧品は、第一線を離脱してからほとんど手を付けていないし、元からメイクにこだわりも無かった。
同僚達に誘われるままデパートのコスメコーナーを巡っていたあの日々はもはや遠い過去だ。
いま同じように誘われてもきっぱりお断りしてしまうだろう。
女の子の集団が、いまの早智の一番苦手なものなのだ。
だから、コスメフロアとはたぶんもうご縁がない。
彼の言う散歩は本当の散歩で、目的地が明確にされていることがまずない。
適当に歩いてどっかにたどり着くまで、というなんともあやふやなプラン。
最初ははあ?と思っていたが、もう慣れた。
早智の自宅を出発して、さっそく裏道に入った杉浦の後をついて歩く。
まるで野良猫さながらに色んな道に入って行くのに、彼の背中には不安も迷いも見受けられない。
早智一人だったら、すぐに周りをきょろきょろして現在地を確認してしまうところだ。
一応あの日を境に始まったお付き合いだけれど、これといって何も変化は無かった。
お互いマメな方では無いし、杉浦は仕事が忙しいらしくて休日出勤も多い。
電話を架けるより歩いて顔を見に行く方が早い距離感で付き合って来たので、彼氏彼女になってからもラブコールは一度もなし。
電話嫌い、連絡不精の早智にはまさに持って来いの彼氏だった。
それまでよりは会う回数が増えて、母親は娘には何も言ってこなかったが、しっかり杉浦にはうちの子くれぐれもよろしくね、と頼み込んでいた。
変なプレッシャーを与えんといて、と思ったが、言えばさらに増長しそうで無言を通した。
胸のときめきはなくても、この距離で安堵を覚えられるだけで十分。
そう思っていたのに。
ちょっと前を歩く彼の、自分より大きな手が何となく寂しそうに見えて、空っぽの自分の手を見降ろしてしまう。
うちの存在忘れてるんちゃうやろか。
いや絶対そんなことはないし、そもそもついこの間まで友達だった相手と急に手を繋ぐのは、ハードルが高い、高すぎる。
急に恋愛モードに切り替わり始めた思考回路を慌てて封鎖して、彼の隣に並ぶ。
随分色んな角を曲がって、辿り着いた先には長い線路と踏み切りが見えた。
見慣れた最寄り駅の隣の踏み切りまで歩いて来たらしい。
高校時代はいつもここを自転車で駆け抜けていた。
「ここの踏み切りは変わってない」
「駅前の踏み切りは綺麗になったのにな」
「あんまり人が使わへんから忘れられてるんやろか」
農耕路に続く小さな踏み切りは、近道したい学生と、田んぼや畑に向かう人とトラクターくらいしか通らない。
「ちょっとくらい変わらん場所があってもええやん」
ほっといても変わっていくもんのほうが多いねんから、と彼が零した。
こういう物言いをするところに居心地の良さを感じるのだ。
「うん・・・たしかに」
早智が頷くと同時に、踏み切りが鳴り出した。
赤い点滅を見上げて、学生時代のことを思い出す。
「あかん!はよ渡らな、ここ”開かずの踏切”やん!」
一度引っかかると5分近く待たされることもある私鉄の踏み切りは、遅刻間際の学生にとっては毎回死活問題だった。
毎回全速力でペダルを漕いで通過していた記憶が蘇る。
さあ急げ!と杉浦を振り向けば。
「急ぐことない」
穏やかに応えた彼が、早智の手をそっと握った。
まさかその手を振りほどいて駆け出すわけにもいかず、二人の目の前で遮断器が降りて来る。
ひときわ大きく聞こえる警告音と、真っ赤な点滅。
考えるよりも先に、その指を掴んでいた。
目的のない散歩で、時間の制約もなし。
急ぐ必要は無い、彼の言う通りだ。
これは、自分を引き留めるために繋がれた手なのか、それとも別の意味があるのか。
触れた指先から伝わって来る違う温度に、否応なしに心臓が跳ねる。
解かないで。
見上げた彼の眼差しは相変わらず穏やかなままで、一人焦っている自分が情けないやら恥ずかしいやらでわやくちゃになる。
口にしたら多分彼はその通りにしてくれるだろうけれど。
それはなんだか物凄く悔しいから。
「こんな近所で迷わへんやろ?」
ぎゅうぎゅう彼の手を握り返したら、こちらを見下ろして杉浦が眦を緩めて笑った。
「・・・・・当たり前や!」
咄嗟に思わず怒鳴り返したけれど、やっぱりその手は繋がれたままで。
それがなんだかどうしようもなく嬉しい。
相変わらず警告音は鳴り続けていて、のろのろと近づいて来るレトロな列車はまだ目の前までやって来ない。
腕時計を確かめてはイライラしていたあの頃が嘘のようだ。
息を吐いて、目を伏せる。
居心地良い誰かと一緒なら、開かずの踏切は災難なんかじゃなくて。
それは、むしろ。
いま、うちら、ちゃんと繋がってるよね?
言葉じゃなくて、手のひらから伝わる温度に心の中で問いかける。
全部言葉にして確かめる、そうじゃない愛もあるんだなと、二十数年生きて来て初めて知った。
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