朝凪も夕凪も ~ナチュラル・ラバー イノセント・ラブレター スピンオフ~

宇月朋花

第1話 まわり道じゃなくて、散歩道

雨が上がっても、薄暗い灰色の重たい空は今にも落ちてきそうで、早智のただでさえ暗い心をもっともっと暗くする。


何もする気が起きない朝は、寝坊して、テレビを見ながらヨーグルトを食べて、録画しておいたドラマを見て、買ったきり開いていなかった本を読む。


早智は、元気になる予定だった。何にも捕らわれない自由な場所に帰って思いっきり羽を伸ばして元気になる予定だったのだ。


ストレスに押しつぶされそうになって、電車で貧血を起こしたり、職場を目前にして気持ち悪くなって嘔吐したり。ここ半年のそういう最悪な自分と決別するために職場を離れる事を選んだ。



いろんな意味で自分に負けてしまったのだと思う。



今となっては乗り切れるように思えることも、あの頃の心は完全に八方ふさがりで、生き埋め状態で、誰にも助けを求められずに足掻いていた。


足掻いて、もがいて、自分の限界を感じた時に、ふと、もしもこのまま死んだら物凄く後悔するだろうなと思った。


馬鹿みたいな考えかもしれないけれど。


どうしようもないほど惨めで、情けなくて、自分をちっとも好きになれないまま死んだら、この世を彷徨う幽霊になってしまうと思った。


走って走って、このまま走り続ければ、どこかに行けると思っていた。


けれど、何処にも行けないことに、気づいてしまった。


ちゃんと自分の足で立って、歩いて行けることを確かめるために、選んだ休息。


自分の心に頷いて、納得して始めたこの生活。


駅から家までの道を胸を押さえて深呼吸しながら歩いたあの日から、ふた月近くたった今、早智は以前のような暗い気持ちに支配され始めていた。


あれほど焦がれた自由な生活に、疲れ初めてしまっている。


怠惰を極めようと開き直ったはずが、元来の生真面目さ故か、結局は朝もいつも通りの時間に目を覚ましてしまい、二度寝しようと目を閉じれば聞こえて来る外を生きる人たちの気配に胸を突かれる。


選んだ手に入れた自由が、いつの間にか社会不適合者の烙印に思えて来て、焦りだけが募って行く。


 

二階の自分の部屋でベッドに寝転んだまま、買ったきり開いていなかった小説を読んでいたらインターホンが鳴った。


母親が台所から小走りで出てきて玄関を開ける音がする。


近所のおばちゃんがまた噂話でもしに来たのだろうと思った。


早智が高校入学前に行われた区画整理で、この土地に家を買ったり、実家を建て直したりした人たちの大半が10年以上経った今もこの土地に留まり続けていて、入れ替わりのほとんどない片田舎は、家を一歩出れば必ず誰かしら知り合いに会う。


家の前の細路地で、市場に続く公園の前で、ごみ置き場で、そこかしこで主婦たちは井戸端会議に花を咲かせるのだ。


そのまま本に視線を戻すと、今度は階段を登ってくる足音がした。


その足音は早智の部屋の前で止まる。




「おーっす。おるかぁ」


早智の返事を待たずに勝手にドアを開けて中に入って来たのは、高校時代の同級生の杉浦だった。


ベッドに寝転んだままの体勢で迎えるのも初めてでは無いし、彼に至ってはおもてなしの必要もないと認識していた。


彼も、区画整理に合わせてこの土地に家を建てた家族だった。


つまりかれこれ10年以上のご近所さんである。


「どしたん」


早智はチラリと視線を杉浦に投げる。


杉浦は愛想のいい笑顔を浮かべて早智の向かいに腰を下ろした。


「休みやってな、今日。おまえどうせ暇しとるやろ思て」


ああそうか今日は土曜日なのかと、見ることも無くなった壁掛けカレンダーをちらりと確かめる。


「ずーっと暇よ。イヤんなるわ。オカン煩いこと言いよったやろ?」


次の就職先もなかなか決まらず、家でゴロゴロしている早智に母親が苛立ちを募らせていることは痛いくらいわかっていた。


が、その話をすれば喧嘩になるとお互い分かっているので、穏やかな日常を続けて行く為にその話題を避けつつ生活している。


「んーまあ、焦らんでもええんちゃうの。ゆっくりせえや」


杉浦は、人が落ち込んだり、悩んだりしている時、話を聞きだしたり、無理に励ましたりせずに、そのままをくるっと包み込むように優しくするのが上手い人だった。


早智が仕事を辞めると地元の飲み屋で言った時も、そっか、と言っただけでそれ以上何も言わなかった。


いや、あの時は、それ以上突っ込める雰囲気ではなかったのだろうけれど。


ともかく彼は、高校生の頃から少し大人びたところがあって、そんな雰囲気が一緒にいるととても居心地良くて、家が近い事もあって早智たちは卒業以来ずっと地元友達を続けている。


「また面接アカンかった」


一言だけ言った早智に、杉浦は側にあった短編の推理小説を開きながら事も無げに言った。


「そおかぁ」


そして、また黙りこくってクッションにもたれて読書を始めてしまう。


ぽつぽつ会話を続けることもあれば、そのまま黙ってお互い好きに過ごすこともある。


精神的疲労で心と胃を壊した早智にとっては、気遣い不要というのは今一番有難い言葉だ。


早智もそれ以上何も言わずに本に視線を戻した。




夕方の16時を回った頃に、杉浦が


「気分転換に散歩行かへん?」


と言って読み終えた本を元の場所に戻した。


近はろくに外にも出ずに、半分引きこもりみたいになっていた早智は杉浦の後を追って部屋を出る。


彼はこうでもしないと早智がずっと家に閉じこもっている事を知っているのだ。



「おばさーん、ちょっと出てきますわぁ」


台所を覗いて杉浦が言った。


夕飯の準備を始めていた母親はくるりと振り返って、いつにない明るい余所行きの笑顔を見せる。


「そうなん?お天気ええし気晴らししといで」


「晩飯までには戻りますー」


「ウチでご飯食べていく?」


「いや、たまには家で食わんとお袋も機嫌悪しますし、今日は遠慮します」


「ほな、またいつでも来てねぇ。行ってらっしゃい」


上機嫌の母に見送られて外に出ると、陽射しが思ったよりもずっと強くて早智は目を細めた。


こんな時間に外に出るのはいつぶりだろうか。


「どこ行く?」


「行きたいトコある?」 


のんびりと聞き返す杉浦に早智は別に、と答えた。


そもそも片田舎のこの町は、ウロウロ出来る場所なんてほとんどないのだ。


買い物スポットは、駅の手前にある潰れかけの市場と、駅北に二年前にやっと出来たコンビニだけ。


海沿いの唯一の居酒屋はまだこの時間は仕込み中だ。


「ほないつもの店にしよかぁ」



杉浦が地元人の溜まり場になっている古い喫茶店を上げた。


場所なんて別にどこでもよかった早智は頷いて、海に向かう道を歩き出した。


その後ろをついてきながら杉浦が言った。


「なあ、いつもと違う道通って行こうや」


「ええー」


「どうせ時間めっちゃあるんやし、探検やん、探検。最近また田んぼ無くなって家増えて来とるから」


嬉しそうに言った杉浦が、歩道から住宅街に続く細い道に入っていく。


彼はこういう寄り道が大好きな人なのだ。


気まぐれに歩き始めるとふらふらとわき道にそれることはしょっちゅうだった。


しょうがないので同じ道に入る。


早智たちが学生の頃は、この辺り一体がまだ田んぼや畑で海まで続くいくつもの抜け道があった。


子供の頃は家族で海水浴に行くたびに毎回違う道を通って行ったものだ。


「だいぶ道変わってんで。行き止まりなるんちゃうん?」


「どれか一本くらいは海まで繋がっとるやろ、迷ったら戻ったらええやん」


正直、杉浦のセリフは信用していなかった。


区画整理が行われたとはいえ、この辺りは未だに人ひとりがやっと通れるような細い小道も多い。


溝を飛び越えなければ進めないようなやっかいな道を楽しそうに進むその背中に少し苛立ちを覚えてきた頃。



「なあ、あの家見てん」


急に立ち止まって杉浦が言った。


早智は、杉浦が指差す家に目をやる。


古びた崩れかけのブロック塀に囲まれた、小さな瓦屋根の家。


広く取られた芝生の庭で、この家のおばあさんらしき人が洗濯物を取り込んでいた。


錆掛けの物干しに掛かった、大きなシーツを少し背伸びして引っ張る姿がとても可愛らしくて、思わず早智は見入ってしまう。


カゴに少ない洗濯物を取り入れると、腰を軽く叩きながら縁側におばあさんが戻っていく


よく言えば歴史を感じさせる変色した縁側にゆっくりと腰掛ける、とおばあさんの側に奥の部屋からおじいさんがゆっくり歩いてきた。


笑顔で何か声を掛けて洗濯物の入ったカゴを持つと、部屋の中に戻っていった。お


ばあさんはそばに寄ってきた三毛猫の背中を皺だらけの手で優しく撫でた。


その顔はとても幸せそうだった。



「なんかええなぁ。ああいう年の取り方したいなぁ」



胸に広がるあったかい気持ちに嬉しくなる。


杉浦も同じ気持ちだったようで頷いてる。


二人で歩き始めてから、早智は、さっきまで自分が足元ばかり見ていたことに気づいた。


道に転がる砂利や、濁った泥濘。そんなものばかり見ていた。



「前見て歩くと、ええもん見れるやろ?」


得意げな杉浦の声が前から聞こえてくる。



「ほんまやわ。杉やんみたいに余所見するんも悪ないね」


「おまえはほんまに一言多いヤツやな」


「だってほんまやもん。でも、久しぶりに感動した。大げさやけど」


「よかったやん」 



早智は、今度は庭に生えている木々や、公園のブランコ、塀の上からこっちを見ている野良猫を楽しみながら歩くことにした。


そうすると、さっきまで眩しかった陽射しも不思議と心地よく感じてきて、まだ生ぬるい風もさわやかに思えたりして、自分の気持ちの変化に驚く。



歩きながら、仕事をやめるときに思ったことをもう一度思い浮かべた。



「杉やん、あのさぁ」


「うん?何やぁ」


振り向かないままで、側を通った公園のブランコを見ながら杉浦が返す。


「うちさぁ、すんごい腐ってたわ・・・なんか、世の中から取り残されたみたいな気持ちになってた」


「うん」


「息苦しくて、抜け出してんけど、やっぱり、戻りたくなったり、そういういい加減な自分にめっちゃ腹立ってた。何となく諦めも入ってたと思う」


「そやなぁ、おまえ、卒業してから休む間なしに働いとったしなぁ。どこにも所属せえへん怖さは始めてやからなぁ・・・・自由もなかなか楽ちゃうやろ」


「情けないねんけど、こんななんもかも上手くいかへんこと、これまで無かったから正直もうどうしてええんか分からへんねん」



間違いなく、これが今の早智の正直な気持ちだった。



一人で居ると、部屋はまるで底なし沼のように襲い掛かってくる。


もしかしたら、これから先死ぬまで一生嫌な事ばかりあるんじゃないかなんて思ったりして。


誰かに話を聞いてほしくても、この今の自分の気持ちを表す術が無くて、自分の弱みをさらけ出す勇気も無くて、だから人にも会いたくなかった。




「どこで間違ったんやろ。何がアカンかったんやろ」



見上げた空は、夕焼けの鮮やかなオレンジに染められて、海が近づいてきたのか潮の匂いがして、風も気持ちいい。


ちゃんとこの目に映る世界は、鮮やかな色のままそこにあるのに。


こんなにも美しいままなのに、心はそれを真正面から受け止められない。


それが、酷く哀しい。




「ええんちゃう?間違っても。アカンくても」


杉浦がちょっとだけ振り向いた。


「今日まで、転びながらでも何とか歩いてきたやん、おまえ。どういう結果になってもちゃんと歩いてきたから、さっきみたいなんを、幸せやって感じれるんちゃうんか?」


「でも、ずっとこのままかもしれへん。もっと・・・どんどん嫌な自分になってまうかもしれん」


「ずっと嫌な事ばっかりやったら、俺も、おまえも今歩いてへんわ。とっくに雲の上の住人になってんで。雨かって上がるし、ちゃんと朝は来るし、大丈夫や。心配すんな」



頭を思いっきり殴られ気分だった。



杉浦の、心配すんな、にはちゃんと、何とかしてやるって意味が込められていた。


早智が、心の奥で実は優しくされたくてしょうがなかったことを彼はちゃんと知っていたのだ。



「絶対だいじょうぶなん?」


「大丈夫や」


「ほんでもアカンかったら?」


グズグズと煮え切らない早智に呆れた顔をして杉浦が言った。



「俺の幸せ分けたるやん」



零れそうになった涙がひっこんた。


なんて無敵な事を言う人だろう。まるで正義のヒーローみたいだ。


こんな捻くれたろくでも無い自分に、自分の幸せを分けようだなんて。


慰めでも、その場限りの思い付きでも、嬉しかった。


嘘でも、杉浦の言葉なら信じられた。


下手な慰めよりも、胸にズシンと響いた。



杉浦の、この優しい気持ちをちゃんと受け止められるような、素直な自分でありたいとはじめて思った。



人に貰った厚意を、ちゃんと受け止めて、ありがとうと言える自分になりたい。



雨降りの、どんより暗い夜でも、眩しい朝が来る事をちゃんと信じられる自分になりたい。



平凡な毎日に、小さな幸せを見つけられる自分になりたい。


出会った人が少しでも幸せな気持ちになれるような自分になりたい。


迷わず自分の今を、未来を語れる自分になりたい。



そう思ったら、もう止まらなかった。




「が・・・がんばるぅ」


零れてきた涙もそのままに早智は言った。


こんな自分でも見捨てずに、優しくしてくれる人がいるのに、地面ばかり見ているのはもったいない。



「うん、頑張り。おまえの中に、ちゃんと良い所があるんも、まだ諦めずにいようとする気持ちがあるんも、わかってるで。親かって、友達かってみんな分かってる。寄り道したってかまへんやん。いっぺんきりの人生や、絶対後悔したないから、前向きに生きる選択する言うたんおまえやろ?良かったなあ、まだまだ色んな道探せるで」



いつかずっと年を重ねたら、さっきみた老夫婦のように穏やかな毎日を過ごしたいと思った。


お日様の香りをいっぱい吸い込んだシーツと、よく晴れた空に幸せを感じられるような。


欲しいものは何もなくて、今あるものに最大の愛情を注いで毎日を暮らせるような。



あのおばあさんは、きっと今頃よく使い込まれた古い台所で夕飯の準備をしているだろう。


腰の痛みを気にしながら、それでも、おじいさんの為に夕飯を作るんだろう。



早智の住む世界とは、少し時間のずれたその優しい空間で、静かな時を過ごす二人を思うとまた涙が止まらなかった。



「泣いてごめん」



しゃっくりを上げながらそう言った早智に、杉浦は笑って言った。



「泣くだけ泣いたら、すっきりするやろ・・・・・・それにしてもひどい顔やなあ」



確かに早智は、部屋にいたままの恰好で出てきていたので、前髪は額の上でピンで留めたままだったし、眉毛も半分無かった。


そのうえ大泣きしたものだから目は腫れて鼻水も出ているという最悪の状態だった。


鼻を啜って長袖のシャツの袖で涙を拭うと杉浦は、ちょっとましになった、と笑った。



涙でまだ少し揺れて見える景色は、いつもよりずっと綺麗で優しかった。 


いつの間にか、並んで歩いていた二人は、角を曲がったところで立ち止まった。



目の前には見慣れた地元の海が広がっている。



「出たぁ」


「なあ。絶対出口はあるねん」



杉浦が、ポケットから煙草を取り出した。一本寄越してくる。


海沿いに見えたログハウス風の喫茶店を目指して早智たちは歩き出す。



こんなすっきりした気持ちになれるなら、寄り道も悪くない。


必ず出口があるなら、迷うのも悪くない。


これから、もっともっと寄り道をして、色んな景色を見てみよう。


季節の花や、公園ではしゃぐ子供たちや、町を歩く恋人たちや、縁側でお茶をする老夫婦。



そんな幸せな景色を沢山、たくさんこの胸に刻んでいこう。



久しぶりに吸った煙草は苦くて、でも少しの痺れと一緒に、早智の身体を以前の状態に引っ張り戻した。


朝起きて、化粧をして、満員電車に飛び乗って、書類の山に囲まれて、パソコンと電話に挟まれて、機械みたいに生きていた日々。



戦う場所は、以前とは変わってしまうだろうけど、それでも、負けない。



この身体とこの心で頑張って歩くのだ。



いつか、杉浦が倒れて、歩けなくなった時、自分の幸せを分けてあげるために。



「なあ・・・・さっきの幸せの話な、うちも一緒やと思う。杉やんが駄目になったら、うちの幸せ分けたるから、安心して倒れてええよ」


「おお、頼もしいなぁ」


「ほんまやで。めっちゃかっこええ女になったるからな」


「その前に、その泣きはらした顔で入ったら、めちゃくちゃ情けない女になるんちゃう?」


「・・・ほんまや。ってか間違いなくあんたが泣かしたってマスター思うで」


「かなんわぁ」



そう言って杉浦が煙を吐き出した。


煙草を消して店に入ったら、いつもの一番奥の窓際の席に座ろう。



そして、ミルクたっぷりの特製カフェオレを飲んで、杉浦のブラックと一口交換して、窓から見える海を見て、暫くボーっとしていよう。


きっと、店を出る頃には、新しいパワーが湧いてきているはずだ。


そのパワーで、また、歩き出せばいい。

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