第11話 呪い呪われ、丑の刻参り
1.お品書き:未読歓迎
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本話は『叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼』関連エッセイです。シリーズを横断してうろちょろしている幽霊が見える
https://kakuyomu.jp/works/16817330657885458821
それから明治幻想奇譚のシリーズもわりと薄く浅く呪いの話が多いかもしれない。
https://kakuyomu.jp/users/Tempp/collections/16817330649554910714
そんなわけで、そもそも古今東西あまねく世界に存在する呪いのうち、主に丑の刻参りについてのエッセイです。何故ならばこれを書いたのが確か丑年の正月だったから(適当。
このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。にわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。
2.丑の刻参りな歴史
丑の刻参りの形式は江戸時代くらいですでに固まっていたようだ。頭に鉄輪をかぶって3本蝋燭を立てて鏡を体の前に下げて藁人形を釘でコンコンする。
けれども丑の刻参りとは、元々は不幸をもたらすものではありませんでした。
丑の刻参りの現場といえば京都の貴船神社が有名だけど、貴船明神が「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に仏国童子とともに貴船山の鏡石に降り立ったことが起源らしい。これは貴船神社社家秘伝の
ともあれ、最初の丑の刻参りは降臨した貴船明神を祀る縁起の良いものだったとして、これが人を呪うものになったのは鎌倉時代ごろだ。平家物語の剣の巻の橋姫の姿が丑の刻参りの姿に結びついている。
「
「
僕的にはこれ、貴船明神を騙った魑魅魍魎の類にしかみえないんだけどね。それで指示された女の姿というのがこんな感じ。
どうみても魑魅魍魎に騙された感です。でも神様の感性って人と違うからよくわからない。ともあれ、この話が混ざって、宇治川で行われた鬼化が貴船川にフィードバックして丑の刻参りの元になったと思われる。
ところで貴船神社は結構清涼な印象の神社です。川床(時期によっては藪蚊だらけ)が有名だけど、清流が流れている。でも素晴らしい木々のそれなりに高いところにくぎ打ったような穴が結構残ってる。だから妙に、チグハグな印象。
貴船川は
前述の橋姫は
つまるところ、この辺の勢力争いが呪いを相手に押し付けるというスタイルで発露したのが前述の橋姫で、だから貴船川が宇治川で呪いを生じさせ(橋姫を見て死んだのは宇治周辺の人だ)、宇治川がそれを貴船川に呪い返ししたという構造なのかなぁと思わなくもないのだけれど、今のところ根拠はない。
昔の豪族の勢力争いをよく妖怪の仕業にしたりしているのだ。
3.どうやって人を呪うのか。
世界にどんな呪いの形態があるかというのは非常に興味深いところではあるんだけど、今日は何故呪われるのかという話を考えたい。これは今書いている家の話の核心でもあるのかな。
1番わかりやすい相手に呪いをかける方法。それは相手に「呪いをかけた」と宣言することだ。
身もふたもないが、「お前は呪われているぞ!」といわれると嫌な気分になる。強い恐怖を感じるとカテコールアミンが過剰に分泌される。これは神経伝達物質、ようするにドーパミンとかアドレナリン、ノルアドレナリンのことだ。動悸が激しくなり、不整脈になり、心臓麻痺すら起こりうる。
暗示にかかりやすい人なら、1つの事象を呪いによるものと認めればこれまで起きた不幸な事象を五月雨式に勝手に思い浮かべ、最終的には十把一絡げに繋げて呪いを想起する。それ以降、本来ならば気が付かないような不幸を転がるように発見し続け、更に呪われたとの思い込みを深め、最終的に病む。
特に昔の人にとっては悪鬼や魑魅魍魎、呪いは実在するものだから、その効果は高い。そのような噂さえ流せれば、わざわざ藁人形を打ち付ける必要もないかもしれない。
一方の現代人は「呪う」ということに鈍感になっている。「呪われているぞ」と言われても困惑が勝つだろう。
けれども不幸が起きた現場に藁人形や噂、怪しげな呪符を紛れ込ませると、嫌な気分が倍増する。そのような不可解な悪意というものに普通の人は慣れていないから、「理解できないものが悪影響を及ぼしている」という心理状態に傾きやすく、結果、病むことがある。いわゆるノーシーボ効果だな。
前述の橋姫でもその姿を衆目に晒し、その異様な姿で人の心臓に不整脈を与えて祟り殺しているわけで。
基本的には知られることこそ、呪いを発動させるのに必要なプロセスで、この一連の機序が呪いだと思ってる。
けれども丑の刻参りは少し特殊な形式だ。
何故かというと、他人に知られちゃいけないというルールがある。人に知られると自分に効果が反射するという縛りがある。
でもこれ、妙なんだわ。
上記のように「自分が呪われていることを知らせる」ことで、心にダメージを負わせる呪いのベーシックなスタイルをとるなら、見せないと話にならない。見せなくても効果を発揮するなら、それは本物の異能者なわけだ。スタンドアロンな何かの異能で相手に影響を与えるわけだから。
けれども橋姫の話を見ても、この丑の刻参りは霊能者じゃない人間が人を呪うパターンである。なら、本人に知らせないと話にならない。
だから多分この部分は後付なんだと思う。
あまりに自分のところの杉に丑の刻参りをしていく輩が多いから、貴船川側が付け足したのかもしれない。やっぱり勢力争い感がある。
4.丑の刻参りの構造として考えられるもの
ところでジェームス・フレイザーという社会人類学者がいます。この人はギリシャ神話と各地の神話を対比して、呪いや原始宗教とかが社会に対する影響を研究していた。それをまとめた「金枝篇」という本はその筋の人にはメジャーな書籍。
フレイザーは呪術を「類感呪術」と「感染呪術」に二分類した。これは既にどこかで書いたような気がする……(僕の記憶力はザルだ)。つまりどのように呪いを伝えるか、という問題。
類感呪術は類似が類似を生むという考え方だ。
そのわかりやすい例が「丑の刻参り」だ。呪いの対象を藁人形に置き換え、藁人形を害することで実際の呪いの対象を害する。これは「似てる」ことを理由に影響を及ぼす呪術だ。
物と物の間の共通性から呪いを伝播する。
似てるというだけで呪いが実行されるから、呪われる本人は完全なとばっちり。この場合、依り代となる藁人形は似てれば似てるほどいい。だから現代だと顔写真とかを藁人形の顔に張り付けたりするとより良いのかもしれない。
感染呪術はもっとわかりやすくて、呪いの対象の髪の毛や爪といった体の一部を取得して、その本人の一部を媒介に、本人に対して呪いを送る。
「似てる」ではなく本人を本人そのものから呪う。本人の細部から呪いを感染させる。最近の藁人形では髪の毛を入れるのも主流になったりしてるから、複合してるのかもしれない。
呪いとは異なるけれど、金枝篇では勝利した相手の頭の皮を剥いで食うと強くなるという話が例に出ている。胃を食べると胃がよくなるとかそういう概念に繋がっていると思うけれど、これは案外世界的に広がりをみせる観念である。
ただしフレイザーは完全な本の虫で、フィールドワーカーじゃない。全て図書館の本をめくって比較して作成したものだ。全然無関係な文脈での対比も多いので、参考にするとと誤謬を生む可能性もそれなりに高い。このへんは創作の下地的な基礎知識。
僕は現代の人なので「金枝篇」にあるような呪術は現代には存在しないと思ってる。ジェームズ・フレイザーの興味の対象も、サブカル好きがよく議論する本当に呪術が存在するか/効くかどうかじゃなく、呪術が存在するとした上での社会的な影響を調査してるものだ。未開人の発達過程みたいな上から目線は少し感じるけれど、主な対象は社会制度のほうである。
で、呪術が成立するかどうか、については、その呪術が発生する場所における共感性の有無が問題だと思う。旧来の呪術を現代で成り立たせるには、タブー感が強くて社会全体が『呪い』が成立しうる状況じゃなければ多分、難しい。文明を受け入れない寒村などの特殊閉鎖空間や都市伝説といった半架空の場面設定をしないと、呪術にリアリティをもたらすのは難しいと思う。
そして前述のように呪われている認識が呪いの効果を生むとしても、その意味合いは古代の日本と現代の日本では大きく異なっているだろう。
例えば自分に対して『丑の刻参り』がされていると知ったとき、昔は『呪い』それ自体に恐怖を感じたはずだ。けれども今だと多分『丑の刻参り』をするようなヤベェ奴が身の回りにいることについての恐怖、のほうが強い。『呪い』という人知の及ばないなにかに蝕まれる恐怖によって心臓がとまるより、『ストーカー』というまさに人に対する恐怖とストレスによって寿命を縮めるパターンだ。
対処方法も異なってくる。
現代だと、証拠をあつめて警察に通報だ。一方で、昔の日本では、呪術者が呪術を直接祓ったり、流し雛など人形に穢れをうつし流して祓ったりする。人柱や生贄も、特定の人を不幸にするという対価を支払うことによって、そこに不運と呪いを移して不運から逃れる。
ここまで書いて金枝篇の扱いが雑だと思ったので、少し紹介。
金枝篇では、日本の天皇について「神と崇拝されたのが翌日には犯罪者として殺されることに矛盾はなく首尾一貫している。王が神なら王は民を守らなければならず、これが守られないならば譲位しなければならないのだから当然である」的なことが書いてある。こういった視点は異なる文化ならではの発想だなと思う。
それで何故そういえるのかといえば、祓詞というのがある。
神道儀式の前に唱えられる言葉で、信心深い家庭なら朝夕唱えたりするので、似たようなのは聞いたことはあると思う。家で唱えるのは大祓詞が多いんだろうけど。
「掛けまくも畏き
これは伊邪那岐が黄泉路から逃げ帰ったときに海で体を清めたときの詞だ。このとき伊邪那岐の体からポコポコと祓戸の大神達がたくさん生まれて、以降日本の津々浦々で世の穢れを祓うための御神力をふるうことになった。お祓いの元祖。
ここにでいう「諸々の禍事・罪・穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」というワードがある。昔は禍事(凶事)と罪と穢れは同じことを意味した。だから罪であっても祓えばよい。このころは贖いと祓いは同じ概念だった。何かに寄せて遠くに追いやるというスタイルだ。蛭子神を葦舟で川に流すのと同じ理屈。
そしてフレイザーが言うには、天皇も昔は神への
ともあれ贖物というのは祓いの代償として差し出されるものだ。だから祓いは宮中で行う。生贄はそれが尊ければ尊いほどよい。だから、天皇こそが生贄だ。ヤマタノオロチの生贄も、女神であるクシナダヒメが生贄になっている。
今みたいに法律がしっかりしていない古代では、強大な力を持つものに対してお供えや生贄等で凶事を丸ごと剥ぎ取るという手法をとっていた。他にとる術がないから。
時代が下ると罪と穢れは分離し、罪は刑罰で、穢れは祓いで解消するようになる。近代になると、人知を超える穢れは科学の光で払拭され、存在しないものとして扱われるようになったから、現在では刑しか残ってない。
祓われる妖怪がいないと浪漫がない。
5 呪ったらいかんのか。
それでは最後に残った刑について。
日本では、因果関係が明確じゃなければ罪に問えない。
殺意はめっちゃあっても、それが人を殺す行為、いわゆる実行行為と直結しないと駄目だ。だからどんなに呪っても、人を死に至らしめる具体的な行為がないと罪にはならない。
「不能犯」という概念がある。
どれだけそれをやっても死という結果を物理・科学的にもたらさない行為は、もともと不能だということで罰せられない。
有名な判例としては大正時代に人を殺そうと思って硫黄を鍋に入れて食わせた行為や硫黄入り水を飲ませたりして気持ち悪くさせた行為を殺人未遂じゃないと認定した。多少の硫黄じゃ人は死なないの。傷害罪にはなったみたいだけど。
けれども「お前を呪い殺してやる」と言い続けることによって相手を鬱にさせたりすると、傷害になりうる。現在では人の言葉によって相手が傷つくということは、科学的(?)に実証されているからだ。だから、藁人形を相手に送り付ける行為は脅迫罪とかストーカー規制法の「つきまとい」に該当する可能性がある。
脅迫は「害悪の告知」を指し、「お前を殺しに行くぞ」みたいに脅す行為なんだけど、藁人形じゃ直接死ななくても藁人形を送り付けるような奴には、家に包丁を持って現れかねない。生命の危険を感じる。だから脅迫罪は成り立つ。
そういえばゾンビとブードゥの回で、ハイチではブードゥを人に施すのが刑法に規定されていると書いた記憶があるけれど、刑法ってのはその国の文化も包摂される。だから日本が現代でもコテコテの呪術国家ならば人を呪い殺す罪ってのが作られたかもしれない。
現在の日本で呪いで殺せたらそれは即完全犯罪になる。そして推理小説でそれをやったらボコられる。ノックスの十戒でも中国人(異能者)は登場させるなとありますしね。
6.おわり
あんまりまとまりませんが、このエッセイはいつもまとまりません。
遊郭の話をしようと思ったけど、家を始めたので家の備忘にシフトチェンジ。家はフーコーとかデカルトとか謎の展開をするので、うん。ごめん。先に謝っておきます。あれはホラーに名を借りた僕が当時描きたいことを書いたやつです。
リクエストがあれば受け付けるかもしれません。
ではまた。
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