第3話 擬洋風建築はロマン砲
1.お品書き:未読歓迎
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本話は『君と歩いた、ぼくらの怪談 ~新谷坂町の怪異譚~三章』関連エッセイです。そういや怪談を投げ入れるのを怠っていることに気がついた。
https://kakuyomu.jp/works/16817330649666532797
明治幻想奇譚の時代にもあたりますので
https://kakuyomu.jp/works/16817330650851134123
このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。にわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。
2.擬洋風建築について
では早速。
さて、直球で「擬洋風建築」とはなにか、ご存じでしょうか。
「擬洋風建築」は、幕末から明治ごろにかけて流行ったなんちゃって洋風建築です。幕末・明治期に西洋文化がたくさん入ってきた時代に、外人になめられちゃいかんっといって、当時の大工が西洋建築を見様見真似でとりいれた建築群、といわれています。
和風と洋風と時には中華風もまざったオリエンタルな建物で、一種独特な雰囲気を醸し出していました。まさにロマン砲。
けれども時間の経過とともに「擬」じゃないちゃんとした洋風建築の知識も入ってくる。そうすると、きちんとした知識に基づく洋風建築が建てられるようになって、「擬洋風建築」は廃れていくというよりは自然消滅していきました。
現代でも少ないですが、残っています。
有名な例は箱根の「萬翠楼」や長野の「旧開智学校」でしょうか。
「萬翠楼」は現在でも旅館として営業していますので、一回泊まってみたいな、と思っています。
さて、「擬洋風建築」はやはり幕末から明治にかけてポッと出てポッと消えた建築群なので、あんまりたくさんは残っていません。それに西洋建築の技法を「知らない」からこそ生み出されたデザインというのがポイントです。
明治10年くらいからは洋風建築の技法が入り、体系的に教えられるようになってきましたので、これ以降は正式な「西洋建築」が建てられるようになりました。
正しい「西洋建築」が増えていくと、「擬洋風建築」は正しい建築を知らない偽物だっていう話になります。きちんとしたものがある以上、新しく「擬洋風建築」が建てられることはなくなっていきました。
そして今残っている建物も、並外れた努力で維持されているのです。
3.建築基準法との戦い
古い建物は維持が大変なんです。
細かいところだけでなく、建物の梁とか柱といった構造自体も古くなると痛んでしまう。でも、これを直すのって大変なんです。技術者がいないという問題もさることながら、大きく立ちはだかるのが法律の壁です。
建築基準法という法律があります。
大幅改装、つまり柱や屋根、外壁といった主要構造部をいじる場合、今の最新の法律にあわせないといけません。例えば旅館を直す場合、今の知識にあわせた耐震耐火構造にしないといけませんし、消防法でも避難経路を策定し、一定以上の廊下の幅を確保しないといけません。
ところが昔の建物は柱とか妙なところにたってることもあるし屋根は重いしで、耐震確保は結構難しい。廊下は狭いけれども既存の客室との関係があるから広げることもできない。そしてそもそもそこを直してしまえば、伝統的な建築の良さというものが全く残りません。なんていうかね、いりくねった迷路のような大正ロマン的木造建築なんて、今は法律的に建てられないのだ。だからそもそも現在の形状のまま直すのは難しいんです。
その結果、建物自体の維持がもう無理で、やむなく解体という話は結構あります。古い建物をだましだまし使うのって、すごくお金がかかります。
建築基準法3条1項3号というのを使って、地方でその状況に応じた条例を制定すれば建築基準法が適用除外となる規定もあるのですが、自治体にとっても独自の条例って結構難しいんです。
神戸や京都、横浜は景観条例という景観を守る条例に混ぜたり新しくつくったり、古い建物が保護されやすくするような条例はあったりしますが、もっと広がってほしいなと思っています。なお、この知識は現在時点から大分前の知識なので、今は増えているかもしれません。
だいぶん話がずれたので、「擬洋風建築」の「擬」っていうところに話を戻します。
4 誰がそれを「擬」と呼ぶのか。
「擬」という言葉は、当然ですが建築当初にあった言葉じゃありませんでした。
昭和に明治を振り返ったときに、あのころの建築はたんに西洋をまねただけの「擬」物だといわれたところから生まれた言葉だといわれています。
本編で「擬洋風建築の大家」っという表現が出てくるけど、実はものすごい嫌味くさい表現である自覚はあるのですな。けれどもそれは、未だ西洋建築が華やかに持て話されていた大正昭和初期の話です。
戦後になってからその独創的なデザインが評価され直されてきました。
「擬洋風建築」は大工さんたちが見様見真似で作っていたものなので、バリエーション豊かです。後期のほうには傾向がまとまってきはしましたが、まさに和洋折衷を地で行くロマン砲な建物が多くあります。
本編の中で出てくる紅林邸は、外観は漆喰白壁で中は木造(内部の木材は経年劣化で黒光ってる)です。紅林邸は内部設定では明治20年に建築されたもので、時代としては「擬洋風建築」が作られた時代の最後の時期にあたります。
当時は普通の洋風建築の知識も広まってきたころだから、正直、建築した治一郎が東京にいつづけても活躍できなかったんじゃないかな。
「擬洋風建築」もそうですが、明治・大正期は今から見返すとロマンあふれる時代です。明治大正とはどんな時代で、なぜロマンを感じるのか。それはおそらく、明治大正というのはナーロッパ同様、現代から見ると異世界だからでありましょう。
江戸川乱歩は明治生まれですが、乱歩の書く探偵も怪人もマントを羽織ってたり独特な恰好をしています。アトラス好きなら葛葉ラ〇ドウとかもそう。ああいうイメージは、すでに現代とは認識されないかつての都市伝説感だと思う。そういえば都市伝説はいつまで存続しうるのかという話は怪談の7章あたりの首刈り魔人の話で『口裂け女は現代日本で生きていけるか』というテーマで書いているので、そのうち持ってくる予定。
さて明治幻想奇譚のシリーズのテーマでもあるのですが、この明治の時代は科学と非科学、そして様々な価値観や文物が混じり合った時代でした。本地垂迹のあたりでも述べましたが、日本の奇妙なところは、価値を拒絶するのではなく混ぜて混同しようというところにあります。
未だ世界は混沌に包まれ、世界は不確かさにあふれていた。明治は幕末から大正、昭和に至る過渡期で、江戸の価値観が全て覆されかけ、西洋文明といいう新しい価値観、まあつまり化け物が襲い掛かってきた時代です。使い古された言い方だとパラダイムシフトというやつ。隣ではずっと大国だった中国が薬を盛られて半ば植民地になっていたし、自ら新しい価値観を構築し、その上に立脚する必要があったわけです。この辺は詳しく描くと政治含みなのでとりあえずスルーする。
その価値混同はあたかもカンブリアの大爆発のように様々な場面で現れます。
例えば白井光太郎という東大で世界初の植物病理学教室を作った学者がいるんですが、そのような西洋科学の大家とされる極理系に見える人でも、大正年間に「植物妖異考」という植物の妖怪の本を真面目に書く時代でした(なお国会図書館のデジタルアーカイブで読めます)。伝承を集めたものに考察を加えた本です。
幕末・明治は妖怪も色々バリエーションがある。江戸から明治にかけて狐狼狸という妖怪が人々を十万人単位で何人も食い殺しました。ぶっちゃけていうと西洋から入ってきたコレラのことなのですが、様々な文物を妖怪という形で日本の文化の中に包含しようという姿はなかなか興味深い。
このように、未だ妖怪や幽霊が実在しうると考えられていた、というのは、現代から考えればまさに異世界でしょう。フェンリルやドラゴンがいるのと大入道や一反もめんがいる世界は、自分にとってそう代わりはないように思えますね。
この時期は変なのも多いですね。江戸時代後期の草双紙や錦絵などで描かれてる豆富小僧は街角で立ってて豆腐たべさせようとする妖怪です。なにかの風刺が入っているのだろうか。色々混迷もみられます。
そしてこのような世界の不確かさが許されたのは、やっぱり大正あたりまでなんでしょうね。つまりそれ以前は現代の価値観を前提とすれば、異世界ファンタジーに等しい。
5.おわり
いつもどおりまとまりませんが、金のたまごで紹介していただいたので、今日はあとでもう1本UPします。
同じ怪談のネタで『ブードゥー教とゾンビ映画』です。リクエストがあれば受け付けるかもしれません。
ではまた。
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