歴史・神霊・科学・宗教な雑多関連エッセイ
Tempp @ぷかぷか
第1話 神社合祀と伝承の断絶
1.お品書き:未読歓迎
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本話は『君と歩いた、ぼくらの怪談 ~新谷坂町の怪異譚~二章』関連エッセイです。
https://kakuyomu.jp/works/16817330649666532797
それから時代的には明治時代、『明治幻想奇譚』のシリーズのベースの時代になります。この記事を書いた時にはまだ投稿してませんが、『鎮華春分』『月の足る宮』それから少しだけ『長屋鳴鬼』の話に関連します。
https://kakuyomu.jp/users/Tempp/collections/16817330649554910714
このエッセイは小説を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。にわかなので間違いが見込めますので、発見された方はお気軽にご指摘くださいませ。
2.合祀の猛威
では早速。 さて、日本にはたくさんの神社があります。
とりあえず、本編に出てきた合祀の話からいたしましょう。合祀はそのまま「合わせて祀る」ということで、日常では遺骨に使います。この場合は複数の神社を「合わせて祀る」ことを指します。 明治期の合祀の流れは明治39年に発布された「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」という勅令に端を発します。 短いので、全文引用してみます。少し平易文に直しました。なお、国立公文書館デジタルアーカイブに原文が保管されています。
勅令第220号
『神社寺院佛堂の合併により不要に帰したる境内官有地は官有財産管理上必要のものを除くの外内務大臣において、これをその合併したる神社寺院佛堂に譲興することを得』
これだけ見ると何だそれって感じですが、法令は解釈が問題です。明治維新、つまり御一新前後で日本は外圧と内圧でいっぱいいっぱいで、様々なものがお上の思うがままに動かないまま、試行錯誤や色々な思惑で斜め上の方向に向かってしまうことがよくありました。 この勅令も、最終的には一つの町村には一つの神社にしなさい、と解釈されました。アクロバティック。 この勅令は都道県知事に裁量が大きかったとされています。実際、京都は一割くらいしか減ってないようです。京都は他より寺社仏閣というか、宗教勢力の力が強かった。
京都といえば、朝廷にも明治二年まで陰陽寮もありました。その陰陽寮は明治二年に天社禁止令によって廃止されました。これは最後の陰陽師である土御門晴雄の薨去を機に行われたものです。この令によって公式職としての陰陽師は終了しました。なので、今いる陰陽師は非公式陰陽師です。
早速少し話はそれますが、陰陽寮は飛鳥時代に天武天皇によって設置された古い機関です。陰陽師というとなぜか歌いながら呪文を唱える印象が強いですが、江戸時代以降に重要なのは暦の編纂、そのための天文知識、そして漏刻(時間の管理)です。 ところが、明治政府がグレゴリオ暦を採用して天文・暦法のお仕事がなくなり、最後期には大嘗祭等の儀典のお仕事くらいしかなかったようです。こちらは文科省の天文台に引き継がれたようですね。
このような扱いを受けたのは陰陽寮だけではありません。修験道は仏寺の傘下に入りましたし、様々な宗教が国家神道のもとで統合されようとした時代です。 何故このような動きが生じたかは後述します。
京都はそんな感じで合祀は案外免れていますが、一方、三重や和歌山は合祀が多く行われ、三重は九割ほどの神社がなくなりました。 反対運動は行われたものの、そんなに大規模なものにはならなかったようです。 そこで大きな影響力を持ったのが南方熊楠。 南方熊楠は植物学とか粘菌学で有名な人ですが、民俗学等を含めてあらゆる事象に興味赴く人でした。和歌山にある南方熊楠記念館にいったことありますが、そこは鉱石とか粘菌とかの博物学的なものがメインだった記憶。小高い山の上にあって景色が結構よかったです。 多分人としての魅力に溢れた人物だと思うのですが、野放図な変り者でもあったようです。酔っぱらって人の家に押し入り、逮捕されて入った刑務所で粘菌をみつけて発表しています。
そんな南方熊楠が記した「神社合祀に関する意見」では、合祀の状況について以下のように書かれています。なお、青空文庫で全文読めます。これも多少平易に直しました。
【去年12月19日と今年1月20日の『読売新聞』によれば、在来の19万400社の内より、すでに府県社5、郷社15、村社5,652、無格社51,566、計57,238社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社1、郷社12、村社3,500、無格社18,900、計22,413社あり。残れる11万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多】い。
この時点で、全国の神社の3分の1以上は合祀または廃社されています。この動きが如何に大きかったのかというのが実感できるところです。
肝心の当時なぜ神社を減らすことになったのか。 理由はいくつかありますが、一番大きいのは国家神道。当時はただ、神道と呼ばれることが多かったのですが、明治政府はこれまでのいわゆる『神道』とはぜんぜん違う、天皇を現人神とする国家神道をクリエイトしようとしました。
名地に多くある神社をよりまとめて資本投下して威厳を保つこと、仏教が管理していた檀家を神社に移行すること等が目的としてあげられます。地方神道は民間伝承色も強く、怪しげなのも多かったのもあります。これから文明国として国を上げて西欧と対峙する時に、生贄を捧げる宗教を国家神道に統合してはたまりません。加えて合祀にあわせて鎮守の森や御神木もずいぶん伐採され、お金に変わりました。 南方熊楠はこの点、今で言う自然破壊にも反対しています。 明治維新というものはこのように日本の有り様をガラリと変えたのです。
3.仏教と神道の違い
ところで今回のテーマは神社合祀ですが、近世レベルで広く見ると、この頃廃されたのは神社だけじゃありませんでした。つまり仏寺も大きく数を減らしました。
さてここで問題です。 仏教と神道の違いはなんでしょう。 というより今は、同じものと考える人は極少なので、なかなかピンとこないかもしれません。 仏教はインド伝来の釈迦(ゴーダマ・シッダールダ)を開祖とした教え、経典及びそれに基づく教義解釈、神道は日本書紀をはじめとした日本神話を起点とした民間伝承、そう考えるのが今の世の中です。 ところが、これは少なくとも二百年以上前は一般的な考えではありませんでした。
『神仏習合』というやつです。 日本では奈良時代に仏教が入り、その後、護国のために広く仏教寺院が建てられるようになりました。聖徳太子のころですね。そういえば聖徳太子は聖人君主なイメージですが、実際はアグレッシブな人で、若い頃は戦争ばっかりしています。蘇我氏と物部氏が仏教布教をめぐって争ったと学校で習いますが、実態としては信心の話じゃ全然なくて、軍事、外交、権力闘争です。
そして、その頃から神社と仏閣はどんどん混ざっていきます。 まったりまじりあい、平安時代には神社でお経を唱えるとか、かなりゆるふわな感じになりました。神宮寺とか別当寺がたくさんできました。神社の中にお寺を建て、お寺の中に神社を建てるのです。 今でも結構残っていて、日光東照宮の中にはお寺があるし、奈良の宝生寺には鳥居がある。少なくとも国学が起こる江戸中期くらいまではこれが普通でした。
でもちょっと考えよう。 仏教と神道が混ざり合った場合、何に祈ればいいのでしょう、という問題が発生します。ざっくりといえばまあ、同じものに祈っていると考えます。『神様仏様』はまさにその表れ。 この辺がさっきの『仏教と神道は何が違うの』っていうとこに繋がります。
そもそも、神様は違う宗教においても同時並行で存在することはわりとよくあります。異なる宗教の国を参加に治めた場合が典型ですが、この場合は被支配国の神を下に置くことが多いです。これはアジアだけではなくてキリスト教でもそうですが、征服した地の神様を悪魔に落として恐れさせたり聖人(人)にしたりして、文化を混ぜて統治するのは常套手段です。例えばオリエントの慈雨の神のバアルセブルが蝿の王ベルゼブブになったりと枚挙にいとまがありません。 大きく見ればイスラム教もその傾向があり、アダム、ノア、エイブラハム、モーゼ、イエスの五人の予言を完成させたのが最後の預言者ムハンマドのコーラン、という定義で優位性を主張しています。
日本でカオスなのは、ここで『
このように、日本では神道や仏教を信仰的にも理屈的にもあまり区別せずに、地域の守り手とか道徳教育の担い手的なものとして、ゆるふわく信仰されていたました。地域色も濃い。あ、禅寺とか修験者はまた少し別なので、それを除いた民間信仰としてです。
昔の神道は地域の氏神を中心としていて、自由度が高すぎた。 そのような神仏習合は、戦国時代になって儒教を交えて天道思想に至ります。簡単にいうと、すべての宗教は一つにつながり、人の行いは天道様が見ていて最終的には自分に返ってくる、ってもの。まぁ、昔でいうところの『お
なお、最初はキリスト教もお天道に入っていました。宣教師が最初にデウスが世界を照らすとやったからです。けれども日本人を奴隷にして海外に売ってたのが公になるにつれその排他性も明らかになり、お天道様から除かれました。 豊臣秀吉は『天正十五年六月十八日付覚』で日本人の売買を禁止しましたが、当初の覚自体は、むしろ信教の自由を認めるような内容で、キリスト教自体を否定するものではありません。その後『吉利支丹伴天連追放令』、いわゆるバテレン追放令では邪法と断じるように変化します。
この時の統治者が豊臣秀吉ってのも大きかったのでしょう。 この当時は日本でも人身売買自体は普通にありましたし、ポルトガルにおける奴隷制度も日本の人身売買とさほど変わらなかったようです。 しかし豊臣秀吉は労働力確保の観点から人身売買禁止を何本も出していて、ポルトガル本国とも掛け合い、最終的には本国から日本人奴隷禁止のおふれが出ました。
この辺の書簡とかやりとりを見てると、キリスト教の奴隷感が興味深いですめ。 コエリョの『ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであり、パードレはこれを悲しんでいる。殿下がそれぞれの港の領主に日本人を売るのを止めるように命じ、違反者を重罰に処するなら、容易に停止するであろう』という言葉が闇深い。 ポルトガル本国では日本人の奴隷売買は禁止されましたが、マカオあたりで好き勝手やってる。領主たちは率先して領民を海外に売り飛ばし、その金で戦争をする。結局奴隷貿易は形をかえながら随分続いていく。 閑話休題。
4.仏教が嫌われていた話
そんなゆるふわな宗教観が終わるのは江戸末期。 長い江戸時代の間に少しづつ雰囲気はかわってて、まじりあいながらもだんだん仏教が強くなっていった。これは教えとか信仰とかじゃなくて、生臭い権力的な話です。
徳川幕府は民衆の管理のために寺請制度をとっていました。お寺が寺請証文っといってキリシタンじゃないという証明をします。これがのちには戸籍のようなものになり、転居等にも証文が必要になりました。檀家にならないと葬式もできない。こういう流れで仏教僧侶の権力が強くなっていきます。
そこで神仏分離と廃仏毀釈の流れです。 明治政府は武力による革命政権です。だから権威付けが必要でした。王権神授説的なやつ。そこで『国家神道』という概念を作ります。 国家神道に権威を持たせるためには、神道と仏教が混じったなんだかよくわからない状況なのはまずい。それに仏寺の力も弱めたい。 そういう思惑もあり、明治元年前後に、全部合わせると「神仏分離令」と呼ばれる布告類を出しました。
具体的には、神社にいるお坊さんを還俗させたり神社に仏像を安置するのを禁止したりです。本居宣長や平田篤胤らの系譜の国学者が神官と一緒に民衆を煽って「廃仏毀釈」を起こします。 そこで「ええじゃないか」。 「ええじゃないか、ええじゃないか」っていって町を踊りまわると習いますが、「天から御札が降ってくる、慶事の前触れだぁ」と踊り狂うんです。狂気。
ちなみにこれは慶応3年の夏から秋の出来事です。慶応4年が明治元年で、神仏分離とほぼ時期が被る。「ええじゃないか」のノリで仏寺に襲い掛かったのが廃仏毀釈、だと思う。仕込み感を感じるけれど、確か通説では廃仏毀釈は神仏分離を拡大解釈して民衆が行ったことになっています。 寺に火を放ち暴徒が押し寄せ、仏像に矢を射かけて地蔵を打ち壊す。仏像・仏具・仏塔・仏跡なんでもかんでも壊され持ち去られ、何が何だかわからなくなりました。神社の御神体が仏像ということもありましたから、被害を受けたのは仏寺だけではありません。 そのどさくさに紛れて、ご本尊が入れ替わり、お祀りする神様も変わりました。つまり、今の神社仏閣は明治以前と違うものを祀ってるってことは普通に多いのです。 その被害は文化的には文革レベルじゃないでしょうか。貴重な経典や資料はかなり失われました。
そして明治4年と8年に上知令が出され、寺社領のある寺社の所領が次々に切り取られていきました。 上知令というと水野忠邦の天保の改革のほうが有名ですが、今回は明治政府が行った上知令についてです。当時、寺社は寺社領という独自の領地を持っていました。これは寺社を運営するためのものですが、そもそもは古代の荘園のころからある制度です。
今回は江戸時代のころの話なのでそこを中心に。 豊臣秀吉は太閤検地で寺社領のほとんどを解体したのですが、その後徳川幕府になって、幕府から朱印状を付されたものを朱印地、大名から黒印状を付されたものを黒印地として一部が寺社に返還されました。それを明治政府が上知令で境内以外の寺社領地を返還させました。 色々例はあるのですが、ぱっと思いついて大きいのは次の通りです。 上野動物園や各種博物館がある上野公園はもとは上野東照宮の寺社領です。 溜池山王の議員会館や国会議事堂あたりは、確か日枝神社の寺社領です。 京都だと花見小路界隈は建仁寺の寺社領で、円山公園あたりも八坂神社あたりの複数の寺社領だったと記憶しています。清水寺は往時の10分の1サイズになりました。奈良県庁や奈良地裁とかあのあたり一帯は興福寺の寺社領だったんじゃないかな。
土地利用のために利用されたケースも多いのですが、清水寺や高台寺は山林伐採目的のようです。江戸時代は寺社が管理していた京都三山は、明治時代にはげ山になりました。民間に競売された旧寺社領も多かったようです。ともあれ、幕末明治を期に、日本の宗教観は恐ろしく確変されたというお話でした。 そしてこういった流れで、日本の仏寺は半分まで減りました。
何故こんなことになってしまったのか。 先ほどの寺請制度でお寺の腐敗がひどくて民衆の不満がたまってたっていうのが通説ですが、おそらく長年の鬱屈が時代的な狂気を背景に爆発したんでしょうかね。やっぱり革命前夜・後ってテンションがおかしいんじゃないかな。 神官と平田派がタッグを組んで煽りに煽ったという話ですし。 先ほどから出ているこの平田派というのは、江戸中期に起こった国学という日本の根っこを見直そうという学派です。有名なのは本居宣長・平田篤胤で、古い神道を復活させようとしていた。ちなみに古神道という名前でも呼ばれますが、幕末にできた新興宗教です。
そんなわけで神仏分離・廃仏毀釈・神社合祀とコンポが続いて日本の宗教界は虫の息です。こんな状態で廃祀されて、その後復祀(復活)されても、伝承が続かなくても道理ですよね。
そんなわけで本編の新谷坂神社も神社合祀で廃された後、復活はしたけどいわれは失われています。今は神津市の神職が片手間管理しています。昔のトンネル工事っていうのは、神社合祀の際の自然破壊なのかもしれません。
5.国家神道その後
以下は政治的な話を多少含むので、ご興味がないかたは飛ばしてください。 国家神道が何か、というのは実は難しい論点です。 国家神道という言葉自体は幕末以前もなくはなかったのですが、一般に使われだしたのは第二次大戦後、GHQが使用はじめたものです。 ざっくりいうと明治にできた新興宗教。天皇陛下御一家を現人神として、わかりやすく王権神授説に則ったものと思われます。この『思われます』というのは実態がよくわからないからなのだけど。
日本には人を神とする考えは昔からありました。 菅原道真は天神様、徳川家康は東照大権現で、それぞれ太宰府天満宮と日光東照宮に祀られています。ですから、人が神になること自体はそれほど珍しくはありません。いや、珍しいと言えば珍しいのは間違いないんだけど。 珍しいのはその枠組みで、国家神道は宗教ではないんです。
明治時代の「大日本帝国憲法」にも「信教の自由」はありました。 もともと、明治政府は王政復古(まつりごとを古い時代に戻す)と祭祀一致(宗教と政治を一致させる)を目指していて、天皇を中心とした国家神道を国教にしようとしていました。 当時は強大な欧米列強に対抗する必要があって、国を一致団結して引っ張っていく、という目的には必要だったのでしょう。それで平田派が強プッシュして神仏分離を強行しましたが、平田派自身は理論派であって実践派じゃない。古典復興しか言わない平田派では新しい時代の舵取りは難しかったのかもしれません。 すぐあとの明治4年に、神祇官という祭祀をつかさどる役職ができるころには平田派の重鎮は国事罪(内乱罪のようなもの)で捕まってしまいました。何やってんの。
それで神祇官は国家神道を広げる役職なのに、内ゲバ的に宗教論争・権力闘争をして結局倒れてしまいます。それでやっぱり神祇官は廃止して、仏教主導で明治5年に教部省ができますが、これも結局キリスト教の外圧に倒れてなくなって(それだけではないけども)、最終的には大日本帝国憲法に「信教の自由」が入ります。 なお、教部省が教えを広めるために作った大教院が増上寺に作られたのですが、放火されて本堂が全焼しました。増上寺は東京タワーの真下にあって、今はきれいなというか少々近未来感のあるお寺です。 このころにはもう国家神道の内実はグダグダです。憲法にも信教の自由を入れてしまった。けれども目的の、国民が一致団結して国は守らねばならないという前提条件は変わらない。そこでコペルニクス的転回の登場です。
国家神道は「国家の宗祀」である。 「宗祀」をweblioで調べると、「最も大切なものとしてまつること」と出ます。ようするに、国で一番大切なことだから、他の宗教とは違うよっていうこと。神道はもともと民間信仰で、固定の教義も特にないから宗教じゃないっていう理屈もつけて。 それで、神(現人神)を敬うことを国民の義務として、明治憲法発布の翌年に教育勅語を道徳の基本として発布されます。実際「国家神道」が何かっていうのは不勉強でよくわかりません。宗教というよりは組織を作るための制度という側面が強いように思われます。
6.おわり
あんまりまとまりませんが、このエッセイはいつもまとまりません。
こんな感じで作中にでた色々を交えた解説をするエッセイになります。本編未読でもいいし、エッセイ未読で本編でも全然いいアレです。
予告もなんですが、次は怪談のネタで『ミイラ、屍蝋、即身仏の違い』を予定しています。リクエストがあれば受け付けるかもしれません。
ではまた。
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