第6章 幻の偶像
#122 幕間:藍野水理「父の愛した数式」
「
そういつも父は私の事を褒めてくれていた。
でも父は一度も私に「数学者になれ」とは言わなかった。
私の父の職業は数学者だ。
正確には大学の教授なんだけど、数学者の方がカッコいいから父は数学者なのだ。
そんな父には夢があった。
「水理、この式はね『アーデルハイトの定理』と呼ばれていてね、今まで誰も解いたことのない問題なんだ」
「じゃあパパが最初に解くんだね!」
「ははは、そうなるといいね」
父の夢はその数式を解いて数学界に名を残す事だった。
そんな父の夢を私は応援した。
私はそんな父が大好きで自慢だったからだ。
一般的に数学者というと家庭を顧みないイメージがある。
でも父は私との時間をとても大切にしてくれた。
「水理、こんど海に釣りに行こうか?」
「うんパパ! 私、お弁当作るね!」
「そうか! 水理のお弁当、パパ楽しみだな」
でも⋯⋯。
「パパ! お魚! 引いてる、引いてる!」
「うおっ!? 寝ていた! ゴメンゴメン! さあ釣るぞー! でっかい魚をな!」
父は私をよくいろんな所へ遊びに連れて行ってくれた。
でも今思えば、ボーとして居られる場所や遊びが多かった気がするけど⋯⋯。
まあそれも普段大変な父の都合だったのだろう。
そう、父は私との時間も数学者としての思索の時間も大切にしていた人だった。
私はそんな父が大好きだった。
でも1人の時間が長い事も不満だった。
だったら私が父のお手伝いが出来ればいい!
そう考えるのは幼い私には当然だったのだ。
だからいっぱい勉強をした、私も数学者になる為に!
クラスで1番に!
学年で1番に。
学校で1番に⋯⋯。
頭がよくなるほどにわかる、私と父との距離が。
それをだんだんと私は理解させられていった。
「水理は好きなことをしてていいんだからね」
それが父の優しさなのは理解できた。
でも期待されていないのも理解できてしまった。
父にとっては私はただの娘でしかないのだ。
しかしそれでも私は父に近づく為にがんばり続けた、しかし⋯⋯。
「水理。⋯⋯その、お父さん、再婚しようかと思って」
なんと父が再婚することになったのだ!
母が居なくなったのはもうずっと前の事だった。
私と父、2人で今まで支え合って生活してきた。
すこし複雑な心境だったが私は父の幸福を願った。
「うん、いいよ! パパ、幸せになってね!」
「ありがとう、水理!」
これまでずっと父は自分を犠牲にして1人で私を育ててくれたのだ。
これからは父が幸せになる番だと私は思った。
そして私は新しい母と会う。
驚いたことに外国の人だったのだ!
父のような堅物がこんな
その時は意外に思ったものだった。
どうも父が海外でのフォーラムで知り合ったお相手らしい。
彼女もまた数学者だった。
そう⋯⋯私は必要なかったのだ。
父にはちゃんと理解し寄り添える相手が出来たのだ。
私は父との距離を感じるようになった。
父の再婚の時、ちょうど私は海外への進学を視野に入れていたので思い切って別居することにしたのだ。
最初は反対されたが父も新しい母との新婚生活を水入らずにしたかったのか、最終的には私の海外の高校行きを認めてくれた。
その1年後⋯⋯子供が生まれた。
私に妹が出来た瞬間だった。
その妹の名前は『
日本人の父とドイツ人の母の間に生まれたハーフだった。
父は嬉しそうだった。
私も嬉しかったと思う。
でも⋯⋯。
父が数学者からただの父親になったと思った瞬間でもあった。
とても難しい数式を解くことが生き甲斐だった父はもう居ない。
私にはそれが寂しかった。
海外で多くを学ぶうちに私は知っていく。
真の数学者という者を。
彼らは家族なんか顧みない自己中心だ。
いや⋯⋯数字だけしか興味のない
昔の父は優しかった。
何よりも私との時間を大切にしてくれていた。
だから⋯⋯気づきたくないのに気づいてしまう。
父が⋯⋯どうしようもなくただの『人間』だったのだと。
数学者でありながら名を残せない父は『人外』になれない凡人だという事に。
私が憧れた父は幻想だった。
父は夢を捨ててただの『人間』になったのだ。
私はそれが許せない。
私はそれを嬉しく思う。
とても矛盾した気持ちだった。
父を愛しているのに同時に失望している。
いつしか私の大好きだった『数学者』が嫌悪の対象になっていた。
こんなものがあるから私は⋯⋯。
父が大好きだったのに。
父が大っ嫌いになったのに。
⋯⋯自分自身の自己矛盾にも嫌になる。
そう⋯⋯どこまでも『人間』なのだ、私も父のように。
それが嬉しい。
それが悔しい。
そんな思いを抱きながら年月だけが過ぎて行った。
そして私は思う。
人間を超えたいと。
人間を辞めたいと。
ただ純粋に数字だけを追い求めて式を解く『存在』を願ったのだった。
そんな私は数年ぶりに帰国し⋯⋯妹と再会した。
最後に会ったのはまだ赤ん坊だった頃だった。
すっかり大きくなって初めて会ったような気分だった。
父もすっかり小さくなった気がする。
でもそんな私の感傷は吹き飛んだのだった。
「水理お姉ちゃん!
なんと妹は赤ん坊の頃の記憶があるというのだ!
私の事も覚えているのだと⋯⋯。
そして知った⋯⋯妹・乃愛が
この時私は22歳、乃愛はまだ⋯⋯6歳だった。
神様は残酷だ。
欲しい者にはくれないで無欲な者を選ぶ。
それを思い知った。
この妹は、
「お姉ちゃんの役に立てて乃愛、嬉しいの!」
「⋯⋯ありがとう」
その時の私はちゃんと笑えていただろうか?
そしてその時の功績は私のものとして認められた。
それを元にそのプロジェクトは進んでいく。
乃愛という天才が居たからこそ始まったこのプロジェクトを。
翌年、私は今までの研究所から芸能会社ポラリスに籍を移した。
このプロジェクトの実行役として。
私には義務がある。
このプロジェクトの行き先を見届ける義務が。
私と父の夢のその先が何なのか?
そして私の『プロジェクト・アイ』は⋯⋯。
父の夢だった『アーデルハイトの定理』を解いてしまったのだった。
その時の父は⋯⋯どんな気持ちだったのだろう?
私もどんな感情だったのだろうか?
わからない。
私にはわからない人の気持ちが。
そしてこの『アイ』にも人の
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