雑踏
寄賀あける
摺りあう袖
どんより曇った空を眺めながら、雨が降るのは今か今かと待ち構えていると一向に降らなかったりする。それが何も気にしていない時に限って、ザーーーッと降り出したりするものだ。出会いはそれに似ている。
その日も雨だった。すし詰めの電車の中、靴の中に忍び込んでくる誰のものか判らない傘の雫にうんざりしながら、僕は今日の仕事を考えていた。
(今日は十時にA社との打ち合わせ……昼過ぎにはB社へ商品の搬入があって……搬入、立ち会わなきゃならないかな、調整試験もあるはずだし……)
すると駅はまだのはずなのに、急に車輪を
<お急ぎのところ……>
停止信号でしばらく停車するという。反射的に腕時計を見る。時間にはいくぶん余裕があった。停止信号ならそうそう長引くこともないだろう。
時計から視線を放したときに、すぐ目の前にいた女性と目があった。心細げな眼差しで僕を見ている。車内はぎゅうぎゅう詰めだ。衣類越しとは言え触れ合っている身体に急に羞恥を感じて慌てて目を
「何時ですか?」
「……八時十五分になるところですよ」
自分が乗った電車の時間を考えれば判るだろうに、僕は腕時計を見たことなど忘れてそう思った。それが顔に出たのだろうか、
「今日、寝坊してしまって……急いで家を出たものですから、時間の感覚、なくなっちゃってるんです。時計も持ってこなかったし、スマホさえ忘れちゃって」
言い訳するように彼女が言った。
「ああ、それは不便ですね。それに心細い……どちらまで行かれるんですか?」
なんとなく感じたバツの悪さから、聞きたくもないことを僕は口にしていた。
「S駅まで……八時半の約束なんです。もう、無理ですね」
S駅まではこの電車がたとえ止まらなくても僅かにその時間に遅れる。
困り顔の彼女に、そうですね、とも言いづらく、
「お仕事ですか?」
無難な質問を僕はしていた。
「いいえ、そうじゃないんです。でも、大事なことだったので……」
そのとき、何の前触れもなく電車が走り始めた。自分の手柄でもないのに、なんとなく得意な気分になって僕は彼女を励ました。
「動き始めましたね――八時半は無理でも、遅くとも九時には着きますよ。電車が止まったんだ、相手の方もきっと許してくれますよ」
「それならいいのですが」
そんな目で女性に見られたことなどなかった。込みあった電車の中で、異常とも言えるほど今、僕は彼女と接近している。心臓が早鐘のように打ち始めた。
偶然乗り合わせた電車の中で時間を訊かれただけのことだ。どこの誰とも知れない、どんな性格かも判らない、それなのに意識するなんてどうかしている。そう思おうとしても感情が言うことをきいてくれない。落ち着こうとして僕は饒舌になっていた。
「よくSには行かれるんですか?」
彼女が言った駅はこの電車の終点で、僕の会社がある駅でもある。
「ええ」
不安げだった彼女の顔に、ごく普通の明るい笑みが浮かぶ。
「でも、最近ほとんど行ってなかったんです」
「賑やかな街でしょう? うまいものを食わせる店もたくさんある」
「あら、そうなんですか? わたし、買い物はよくするんですけど食事はしたことないんです」
それから僕は聞かれてもいないのに、Sのどこにどんな店があるか、こと細かく彼女に聞かせた。彼女もそんな僕を嫌がる風もなく微笑を浮かべて聞きながら、相槌を打ったり、時には話を引き出すような質問をしてくれた。Sにつく三十分あまりの時間はあっと言う間に過ぎていった。
<まもなく終点の……>
Sに到着することを告げるアナウンスが一抹の寂しさを僕に感じさせる。そしてある迷いを生じさせていた。名前と連絡先が知りたい。そしてできれば……彼女ともう一度会いたい。
そんな僕の気持ちに気付く様子もなく、それまでにこやかだった彼女が急にそわそわし始めた。
「相手の方、待っていてくれますよ、きっと」
無責任に保証する僕に彼女が言った。
「そうね……彼があなたみたいに優しかったらよかったのに」
浮かれ気分だった心がドンと音を立てて落ちていった。
「彼、転勤なんです。それで今日S駅から九時の電車で……こないだ喧嘩しちゃってから、ずっと会ってなかったんです。転勤の話も聞いてなくって。―― なのに今朝、急に電話が掛かってきて、八時半までに来なかったらお前とはおしまいだ、なんて一方的に言って切っちゃうんですよ。八時半には無理だったけど、九時の電車には間に合いますね。ありがとう、あなたの楽しいお話で気が紛れました。いい顔で彼とも会えるわ」
電車がホームに滑り込み、ドアが開いてゾロゾロと人が降りていく。
「それで……彼についていくんですか?」
歩き出せずに一人電車に取り残された僕に、曖昧な笑みを浮かべて彼女が会釈した。そしてそのまま人込みに消えていった。
< 完 >
雑踏 寄賀あける @akeru_yoga
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