32,胃痛の呼び水






「ハッハァ、久々に見たぜぇ? ここまでガンギマってるガキはよ! ハァッハッハァ!」


 何度も手を打ち鳴らして爆笑する坂之上は、血の臭いが漂う凄惨な光景になど、まるで気を取られた様子がない。筋骨隆々の翁は愉快そうに歯茎を剥き、長身を反らして呵々大笑していた。

 口元を和服の袖で隠している勅使河原も、目が笑っているので喜悦を隠し切れてはいない。老婆と翁の異様な喜びように、仲間の頭部を粉砕したばかりの修道女は胡乱な目を向けた。


 シスターの格好こそしているが、エーリカ・シモンズは救世教を信仰する信徒ではない・・・・。彼女は十三体の上級天使に仕える為だけに生まれた奉仕一族、つまりは生粋の下僕スレイヴなのだ。


 マザーラント、シモンズ、ローゼンクロイツ、マモン、クインス。この五つの一族を品種改良の末に育て上げたフィフキエルは、それぞれの一族にとってはまさしく生みの親、あるいは神なのである。流石に神と呼んで崇めるのは禁忌だが、事実として主が忠誠を捧げているから神の教えにも忠実なだけで、主が堕天するというのなら地獄の底まで共に堕ちるのが彼らだった。

 【教団】の信徒としては当然失格だ。処刑されるのが道理の不敬さである。だがそれが赦されているのが十三体の上級天使に仕える六十五の一族であり、その過剰なまでの依怙贔屓こそが彼らの末路を表していた。――究極的に言うと、彼らは非生物・・・なのである。


 もちろん肉体は人間のものだ。魂もある。だが彼らは死後、一切の慈悲なく消滅する・・・・のだ。

 死んで地獄に堕ちるでも、天国に導かれるでも、下界を彷徨うでもなく、消え去ってしまう。

 救世教の定義として、そうしたものは生物ではなく道具だとされていた。


 そう、彼ら奉仕一族は人間ではなく、道具に過ぎないと定義されているからこそ贔屓を赦され、神ではなく上級天使という持ち主を信仰する不敬が容認されているのだ。人ではない道具になど、信仰という崇高な祈りを持つ資格はない、といったところだろう。


 だが、上級天使の中でただ一体、フィフキエルのみは自らの道具に例外的な処分を下している。

 フィフキエルはその称号通りの愚考を働かせていたらしく、死して消滅を待つ身となった道具の魂を回収し、自身に取り込んでいたのだ。フィフキエルが何を考えそうしていたかはともかく、それが意味するのは天国への導きだ。すなわち救いである。

 上級天使は一万年に一度、天界へ帰還する義務がある。その際に死した奉仕一族もフィフキエルと共に天界の門を通り、天国に住まうことを赦されることになるのだ。死後には消滅しか残されていないモノ達にとって、これがどれほどの救いとなるのか……仮に主が堕天したとしても、行き先が天国から地獄に代わるとはいえ、消滅だけはしないで済むのは同様である。


 故にフィフキエルに仕える奉仕一族は、他の上級天使に仕える奉仕一族よりも格段に熱気を帯びている。高い士気を保持している。異常極まる忠誠心を捧げている。


 フィフキエルの存在こそが彼ら奉仕一族にとって唯一の救いだからだ。

 そしてそうであるからこそ、エーリカには何一つとして理解が出来ない。なぜクリスティアナがフィフキエルという至高の主に付き従えないのか、と。

 理解できない故に、そして主への従属に否と答えた故に、エーリカは一瞬の躊躇いすらなく、刹那の間に殺意を滾らせクリスティアナを撲殺した。これはもはや自然の摂理とすら言えること。彼女の価値観で言えば、名も知らぬ翁に笑われる謂れなどない。


 不快げに翁を睨んだエーリカは、トンファーにこびり付いていた血痕と髪の毛を振り払い、翁の巨躯や霊力の強さに怖じけづくことなく問いを投げた。


「ご老人、なぜ笑っているのです」

「あぁん? 何言ってんのか分かんねぇな。日本にいるんなら日本語で喋るんが礼儀だろが」

「……言葉が通じていないのですか? 困りましたね……どうしましょう」


 片方は英語を知らず、片方は日本語を知らない。マルチリンガルも珍しくない世の中とはいえ、言語の壁は依然として厚いままだ。それを見兼ねたわけでもないだろうが、エーリカに対して坂之上の言葉を伝えるべく口を開いた者がいた。女神アグラカトラである。

 日本の古き神である神性とはいえ、神は神。神に言語の壁などない。故に、アグラカトラは笑顔で友好の意を示しながら親切に通訳してやったのだ。


「やぁ、忠実な下僕たる誉れの人。あたしはアグラカトラ、エヒムの仲間だ」

「む……私はエーリカ・シモンズ。我が主の仲間……新たな同盟者であるとは聞き及んでおります。アグラカトラ殿、私の如き未熟者にまでお声掛けいただき、心より感謝致しましょう」

「お、礼儀正しい娘じゃね。あたしそういう娘ぉ大好きよ。じゃけぇ教えちゃるけど、このクソジジイはな……今、オマエん忠誠心を笑いおったんよ」

「……なんですって?」


 柳眉を逆立てるエーリカを見て、咎めるようにエヒムが口を開こうとするのを、アグラカトラはまあ待てとばかりに身振りで制した。

 エヒムにも言語の壁はない。故になぜ嘘を吐くのか理解できなかった。だがアグラカトラはあくまで堂々とエーリカへ讒言を囁くばかりである。


「オマエは躾のなってない犬やね。人様んとこの庭を汚すなんて、オマエの飼い主は道理っちゅうもんを弁えてない野人なんか? って。恥じゃ思うんなら飼い主連れてこい、犬っころの代わりに掃除させちゃるってさ」

「……貴様」


 エーリカが殺意を秘めた目で坂之上を睨む。自分はともかく、主まで引き合いに出して侮辱するとは何事だ。あまつさえ至高の主を野人と例えるだと? 万死に値する。

 突然向けられた殺気に、しかし坂之上は全く動じずアグラカトラへ問い掛けた。


「おう主神殿よ。この小娘になに吹き込みおった?」

「楽しいこと。ほら、笑顔で手ぇ振っちゃりぃ。この娘も早く遊んでって誘っちょるやろ?」

「……ならいいか! おうおうガキぃ! こっち来いこっち!」


 一瞬考え込んだ坂之上だったが、すぐに思考を放棄したらしく、エーリカを笑顔で手招いた。

 それを挑発と見做したエーリカは無言で青筋を浮かべる。一応怒りを抑えようとはしたのだろう、だが堪え切れなかったのかトンファーを握る手が震え、エーリカは小声で宣言した。


「……不衛生な髭面だな。不細工な畑のようだ。綺麗に耕して、少しはマシにしてやろう」

「ぉおうっ? ハッハ、なかなか良い踏み込みしてんなぁ、ガキぃ!」


 地を蹴り音速で踏み込んだエーリカがトンファーで殴り掛かるのに、打刀の鞘で受け止めた坂之上が陽気に笑った。漲る殺気に身を任せて怒涛のラッシュを仕掛けるエーリカは、笑いながら逃げに転じた坂之上を追っていく。やがて二人が遠ざかった頃に、アグラカトラは一度パンッと手を打ち鳴らして空気を変えた。あたかも何事もなかったかのように。


「そんじゃ仕事の話と洒落込もうよ」

「――いや。社長、あの二人は?」

「ええんよ別に。あのジジイはおったらおったでいらん茶々ばっか入れてくっし。あの娘はあの娘でなんだか落ち込み気味じゃったし。遊んどきゃそのうちスッキリして帰ってくるじゃろ」


 呆れながら指摘したエヒムだったが、意外と理知的な返事に納得した。

 坂之上の人柄を知らないエヒムだが、アグラカトラが言うなら仕事の会議中でも騒ぐ人なのだろう。それなら席を外してもらった方が良いし、エーリカも気落ちしていそうではあったから気晴らしをするのもいいかもしれない。エーリカは自分を残して仲間が全員死んだばかりなのだ、気を遣ってやった方が良いに決まっている。

 そうやってエヒムが無理にでも自分を納得させていると、勅使河原が薄く笑んだまま女神アグラカトラへと伺いを立てた。


「ま、それはそれとして、仕事の話をしようってのに血の臭いがするんは嫌だねぇ。片付けちまうが構わないかね? 主神殿」

「おお、ええよババァ。好きに・・・して」

「そんじゃちょっとばかり失礼するよ」


 和服の裾を捲り、人差し指を目の前で立てた勅使河原が瞬きの間に霊力を練る。そして人差し指を修道女の死体に向けるや否や、彼女の足元から影が伸びたではないか。


「忍法・影送り」


 まるで獲物を飲み込まんと舌を伸ばした蛙。一瞬にして獲物を絡め取って飲み込んだかのように、勅使河原の影は死体を取り込んでしまった。

 異様な現象である。血の一滴、肉片の一つも残さず綺麗に消し去ったのだ。エヒムは目を細めて老婆の業を見ていたが、とうの勅使河原は素知らぬ顔で引き下がっていった。仕事の話ならどうぞご勝手に。口は挟まないから勝手に始めてくれ――そう態度で示したのだ。

 後を引き継いだのはやはりアグラカトラ。彼女は存在感の弱い女神であり、声を発していないと姿を見失いそうである。自己主張の塊のような個性を持っているのに可笑しな話だ。


「そっちの別嬪さんはエヒムの影ってことでええんよな?」

「ええ。余計な口出しはしないから、さっさと話を進めてちょうだい」

「ん。まず直近に起こり得る、特大イベントの告知をすべきじゃな。――このままだと日本は滅亡する!」


 デデドン! という擬音まで口に出して言ったアグラカトラに、エヒムは眉を顰めた。


「いきなりですね。どういうことですか、社長」

「情報化社会の弊害よ。東京での事件は一週間以内に全世界に知れ渡る。埼玉の件もすぐに広まると思うんよ。そうなるとな、まあ過激な奴らがログインしてくるのはほぼ確実なんよな。この過激な奴らってのにあたしは心当たりがあるんじゃけど、まだ若いエヒムや知識の継承元のフィフキエルも知らんはず。なんせフィフキエルよりもずっと古い奴らじゃし。ソイツらが動くっちゅうことは【輝夜】んとこもてんてこ舞いさせられるし、日本が戦場になるんは確定じゃから余波とかで日本沈没不可避の流れが来ちょるんよな。あたしは日本が滅ぶんはまあええとは思うけど? 流れに乗るだけっちゅうんはつまらんし、敢えて流れに逆らおう思うとるんじゃけどな。そうするんにもちぃとばっかし足らんモンが多すぎる。んなもんで、その足らんモンをなんとかせんといかんわけ。ここまではオーケーか?」


 流石はアグラカトラ、喋り出すと止まらない。途中で何度か口を挟もうとしたエヒムだったが、あまりの情報量にそんな隙は見い出せなかった。

 エヒムは嘆息した。話が急過ぎるし、事がデカすぎる。そのせいで深刻に受け止められず真実味も得られないままだ。しかしひとまずアグラカトラから出された情報を整理して首肯しておく。


「はい、オーケーです。その足りないものというのは人手だという理解でいいですか?」

「うん。流石エヒム、ちゃんと話を理解してくれちょるね」

「何が流石ですか。【曼荼羅】の正社員は私だけなんでしょう? 幾らなんでも頭数が足りないのは明白です。人員の補充は急務としか言えません」

「そ。んなわけで呑気に求人募集しとるわけにもいかんのよな。じゃけぇね、あたしは今のあたしンとこみたいな弱小ギルドを糾合したいんよ。あわよくば最大手の勢力の一部を取り込みたい。そこでエヒムには弱小ギルドんとこに足運んで、ウチんとこの仲間にしてもらいたんよね。オーケー?」

「ノー。私も営業の経験はありますが、その件を成功させられる自信がありません。やれと言われたらやりますが、失敗は目に見えてるでしょう」

「やっぱりぃ? あたしも無茶言ったなとは思うんじゃけどね。弱小言ぅてもあたしの【曼荼羅】より規模の小さいとこなんかないしなぁ。じゃあどうすんのよって話にならん?」


 アハハと快活に笑う女神の様子に、またしても嘆息させられるエヒムであった。

 日本滅亡は確定であるなんて言っているのに、まるで緊迫感がない。どうしたものかと真剣に悩んでいる様子がないのだ。組織のボスがそんなだと、下の者もどうしたらいいと迷ってしまう。

 そもそも急に日本が滅びると言われて、本当にそうなると信じられはしないだろう。エヒムがフィフを一瞥すると、彼女も肩を竦めた。どうやら思考を放棄しているらしい。


 仕方ないのでエヒムは自分の頭で考えた。日本が滅ぶ、日本列島が海の底に沈没する原因に成り得るものを脳内で列挙してみたのだ。


 まずは【曙光】の件。人造悪魔などというものを作り出し、人工異界まで容易に確立する技術も開発してのけている。不穏な気配を察知した【教団】が、意図不明の企みを潰すべく仕掛けているのは身を以て理解している。【曙光】が既存の暗黙の了解を無視し、公然と一般人を巻き添えにしはじめたのがそもそもの発端である。今後も自重するとは思えない。

 次に【教団】の件。こちらは【曙光】の暴走を止めるべく動いているが、別に正義の味方というわけでもない。彼らは正義であるつもりだが、表世界が一般的に認識する正義を標榜しているわけではないのだ。彼らは彼らの正義を果たすために、最後には形振り構わないようになるかもしれなかった。具体的には近日中に、日本へ中級天使までが派遣されてくるだろう。中級天使達の手にも負えない事態となれば、上級天使が出張ってくる可能性は極めて高い。

 最後にアグラカトラの言っていた過激派とやら。詳細はこの女神に聞くしかないとはいえ、彼らが東京や埼玉の件で裏世界の情報流出を重大視し、なんらかの暴力的な手を打つとして。女神の言う通り日本が戦場になれば、【輝夜】も出動して争うことになる。そうなれば三つ巴どころの騒ぎではなくなるだろう。


 普通に考えて、まあ、普通に日本の危機であるのは事実だ。新参のエヒムをして、机上の知識しかない身であるがそう考えざるを得なかった。


「ちぃとババァが口を挟んでもいいかい?」


 早くも行き詰まった感が場に満ちると、呆れた様子で苦笑した勅使河原が口を開いた。

 するとアグラカトラは一喝する。


「駄目! なわけないから言うてみ?」

「ああ。アンタら揃いも揃って発想が貧弱だねぇ。アンタはあの上級天使の後継で、しかも伝説上の救世主とおんなじ属性まで持ってるんだろう? なら手早く頭数を揃える手はあるじゃないか」

「へぇ! 冴えてるなババァ! その案採用!」

「……勅使河原さんはまだ何も言っていませんが?」


 嫌な予感がして声を上げると、アグラカトラは愛想笑いで濁した。


「しゃあないじゃん? あたしに名案なんかないし。まあとりあえず冴えたババァの案を聞こうか」

「は。東京でエヒムの坊やに救われた人間を集めりゃいいのさ。声を掛けたら何人かは絶対に・・・主神殿のところに加わるだろう。所詮は素人の腑抜けばかり、弱卒ばかりとはいえね、エヒムの坊やが加護を与えりゃ戦えはするはずよ。そうじゃあないかい? 主神殿」

「いいなそれ採用!」

「……本気ですか?」


 勅使河原の案を聞いたエヒムが、露骨に渋面を作る。全く以て気の進まない話だったからだ。

 しかし老獪な老婆はニヤリと笑んで意地悪く言う。


「本気よ。なんせ日本の危機なんだ。日本人に手を貸せと言ってもバチは当たるまい? 有象無象でも猫の手を借りるよりかはマシだろう? それとも他に名案があるってぇのかい?」

「……対案のない身で物申してもアホらしいですね。しかしどうやってあそこにいた人達に接触しろと言うんですか」

「それを考えて実行するんはエヒムの仕事! はいこれ決定! ギルド長命令じゃけぇな!」

「………」


 ニマニマと笑うアグラカトラと、ニヤニヤと嗤う勅使河原。二人に挟まれたエヒムは頬を痙攣させた。

 助け舟を求めてフィフを見遣るも、やはりフィフは素知らぬ顔をしていた。

 困った。本気で。どうしてそうなるんだと不満と不安が脳内を駆け抜ける。だが勅使河原はともかく、アグラカトラの無駄に巨大な信頼の目を向けられては断れない。恩義があるからだ。

 それに勅使河原の言にも一理はある。日本という国の危機なら、自分達だけではなく日本人の手を借りてもいいはずではあるだろう。天を仰いで熟考したエヒムは、諦めたように開口する。


「……分かりました。では本件は私が仕切らせていただきます。異存はありませんね?」

「おうともよ! 全部任せっからあたしを楽しませてぇな、エヒム!」


 無責任とまでは言わないが、ポンと全権を放り投げてくる社長に、期せずして副社長か専務にでもさせられそうなエヒムは腹を押さえた。どことなく、胃が痛くなりそうだったからだ。

 久しい感覚だ。サラリーマン時代にも味わった覚えがある。まさか人外になってまで胃痛の気配に怯えそうになるとは、まさしく鬼の目にも涙という奴だろう。……いや違うか。

 嫌な未来の足音が聞こえた気がするのを努めて無視し、エヒムは言った。


「明日から本気出しますんで、今日はもう休みますね」


 今日はもう、本当に色々と有り過ぎた。端的に言って疲れた。

 一礼してシニヤス荘の自室に戻る旨を伝えると、アグラカトラと勅使河原は笑顔で手を振った。








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