29,サイタマ危機 (中)






「――ロイが死んだ、だって?」


 【曙光】の三大頭目の一角であり、最も魔力に長ける大悪魔はピクリと眉を動かした。

 信頼する女からの報告が、およそ想像の埒外にあった結末だったのだ。

 戦闘員としての幹部の一人で、自身の腹心でもあった男の戦死。それは彼にとって決して軽い損害ではない。アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは顔を伏せて告げた。


「はい。プラン通り奇襲を仕掛けたものの仕留めきれず、僅かな交戦期間でロイを凌駕しました。エヒムと名乗る救世主は、真実【救世主】足り得る才覚を有しています。このような無様を晒していながら帰還した挙げ句、エヒムの捕殺を断念する決断を下したこと、どうかお許しください」


 何もない深淵の闇の如き暗黒の空間に、大悪魔メギニトスと女科学者ペトレンコが二人きりで相対している。跪く女を見下ろす大悪魔の視線に色はない。冷酷な眼差しに、女も無表情で応じた。


「いいけどさ……キミとロイがいて、なんの成果も得られなかったのかい?」

「はい」

「エヒム君だっけ? それの左腕を手に入れたって聞いたけど?」

「はい、確保してあります。しかしこれだけで成果を得たと言い張るほど厚かましくなれません」

「……ふぅん?」


 メギニトスは腕を組んだまま、自身の二の腕を指先でトントンと叩く。

 彼は寛大な悪魔だと自認している。相手が誰であれ契約は守るし、有能で勤勉な部下には甘い。

 今回もそうだ。ペトレンコは極めて優秀だから特に咎める気はなく、誰にでもミスはあるから気にしないでいいよと慰めてやるのも吝かではなかった。

 だがどうにも納得がいかない。メギニトスは生じた疑問をそのままにせず、率直に投げつけた。


「……なんでキミ、生きてんの?」


 言ってから、率直すぎたなと反省する。

 メギニトスは事細かに言葉を尽くす真摯で紳士的な悪魔だった。無知な人間相手でも、契約する時は詳細に内容を詰めるし、自身の取り分がなくなるほど親切にメリットとデメリットを説明してもやる。なぜならそこまでしてやってなお破滅する愚か者が好きだから。

 故に自らの欲望に逆らい、自制する人間をメギニトスは憎むし、愛する。悪魔の誘惑に耐えられる人間など稀有だから、特別に目を掛けてやるのである。その目を掛けてやっている人間がペトレンコでありロイなのだ。


「ロイを殺せるぐらい実力があるならさ、キミのとこのワンちゃんも殺されてないとおかしいよ。現場にはフィフキエルの奴隷達も来てたんだよね? ゴスペルとエーリカがいたらまず逃げられないはずだ。ワタシでさえフィフキエルとゴスペルのコンビは撃退がやっとなんだしさ、ホワイトなワンちゃんとキミじゃ太刀打ちできないはずだよ?」


 メギニトスは敵対者を愛している。何百、何千、何万年と殺し合ってきた間柄だ。これはもう愛がなければ成り立たない関係だとメギニトスは思う。故に相手の実力は正当に評価していた。

 かつて。といっても僅か十年前だが、メギニトスはフィフキエルとゴスペルの二人と交戦している。流石は下界を保護する天使と宣う上級天使と、【救世教団】製の最高傑作である英雄で、大いに苦戦した覚えがあった。油断や慢心のないフィフキエルは当然として、人間の英雄如きに苦しめられたのには新鮮な驚きを覚えたものである。ゴスペルは神話の時代の大英雄に匹敵する力を発揮していたのだ、現代ではもう極めて稀有な存在だろう。

 だからこそ解せない。エヒムはまあいいとして、ゴスペルがいたなら白い犬の悪魔とペトレンコは逃げられる余地はないし、生還してのけているのは奇跡としか言い様がないのだ。そして奇跡とは天使側の専売特許、都合のいい偶然など悪魔勢力には有り得なかった。


 この疑問にペトレンコは単純な事実で返す。


「ゴスペル・マザーラントはいませんでした。エーリカ・シモンズが【天罰】の隊長代理として現れ、わたしのボーニャと対峙したのみです」

「ゴスペルがいなかった? 【天罰】が来たのに? なんで?」

「おそらくフィフキエルが死亡した件を、【教団】はまだ把握していないのだと思われます。エヒムをフィフキエルだと誤認したままなのでしょう」

「……へぇ。ペトレンコ君、どう思う?」

「フィフキエルの死を、現場にいたゴスペルが把握していないはずはありません。なのに他がフィフキエルの死を知らないとなれば、ゴスペルが主の死を隠蔽しているのでしょう」

「へへぇ……なぁるほど。ゴスペルはただの奴隷じゃなかった、ってわけか」


 英雄はやっぱそうでなきゃ、と楽しげに呟き、ペトレンコが生存した理由に納得する。

 もしやペトレンコが裏切ったのかと内心疑っていたが、そういう事情があるなら理解可能だ。


 ゴスペルが主の死を隠蔽しているなら、【教団】はフィフキエルの死を知らないのだろう。ならばその隠し事を暴き、【教団】がゴスペルの秘密の罪を追求するように仕向ければ、面白いことになりそうではあるが。生憎と一朝一夕で成功させられるプランではない。

 大体【晒し上げる意義】エンエルがいる以上、こちらから意図して情報を流すのは不可能だ。潜入員を送り込もうと早晩露見し、無駄に人員を損耗するだけに終わる。思いつきの嫌がらせとしては悪くないが、通じないのであればやるだけ無駄だろう。メギニトスはそこで思考を打ち切り、ペトレンコへと次の指令を与えた。彼にとっても、ペトレンコにとっても当たり前の命令だ。


「まあ何はともあれボーニャは廃棄しなよ。エーリカと交戦して殺せてないなら、絶対キミじゃ逃げきれない。早々に始末して、エヒム君の左腕だけでも持ち帰って来な」

「……お待ちを。あのシスターから逃げきれない、というのはなぜですか?」

「……え?」


 まさかの反駁にメギニトスは呆気に取られた。コイツは何を言っているんだと思い掛け、しかしはたと思い至る。そして悪魔なのに天を仰いだ。


「あー……そっか、そうだった。ペトレンコ君、キミって異能の代償として、無作為に記憶の一部を失うんだっけ。それでエーリカのこと忘れちゃってるんだ?」

「……どうやらそのようです」

「あちゃあ。よりにもよってこのタイミングで、エーリカのことをピンポイントで忘れるとか。ワタシの使徒らしい不運というか、天使らしい幸運というか……詰み掛けてるよ、早く逃げなさい」

「は?」


 疑問を覚えた様子のペトレンコに、丁寧にエーリカの有する加護を教えてやる。するとペトレンコはただでさえ白い顔を更に青褪めさせた。自身が如何に危機的状況にいるか理解したのだ。


「も、申し訳ありません。早急に撤退します、エヒムの左腕も――」

「それは要らないから、キミだけでも早く逃げなさい。ぶっちゃけキミに代わる人材なんていない、キミを失う方がワタシ的には痛いよ」

「――――」

「どうせ大々的にヤッちゃった後なんだよね? ならもう徹底的にヤッちゃいな。イワト君に言って出せる駒は出させる、ワタシの方からも幾つか駒を回そう。そしたらエヒム君もキミを追うのが難しくなるはずだよ。分かったらさっさと行動に移るんだ、いいね?」

「――は、はいっ! 」


 跪いたまま深く頭を下げ、頬を紅潮させて感激した様子のペトレンコの姿が消える。

 何もない漆黒の世界にはメギニトスだけが残された。

 だが、他に誰もいないはずなのに、メギニトスは語り掛けるように言葉を紡ぐ。


「さてさて――ロイ・・君、キミの若年期が殺されたようだけど?」

「ははは。参りましたな、アレ・・は私の全盛期だったのですが……」


 すると、一人の老人が忽然と現れた。

 色素の抜けた白い髪と、皺だらけで枯れた肉体。しかし背筋をピンと伸ばしたその様は、裾の短い黒い外套を羽織っていることも相俟って、美しい老い方をした上品な紳士といった風情だ。

 名は、ロイ・・アダムス・・・・。死んだはずの男である。

 彼の諧謔をメギニトスは鼻で笑った。


「ハッ。たくさんある世界線・・・で一番強いロイ君はキミだよ? 老境まで生き残ってるロイ君もキミだけだ。結構疲れたんだからね? キミをワタシのいる世界線に引っ張ってくるのは。労力に見合うだけの働きはしてくれないと流石のワタシも怒るぞ?」

「怖いですな。では私は万一の場合に備えての後詰めでもしますか?」

「頼むよ。ペトレンコ君に死なれるとホント困る。他の世界線に干渉するのはもう御免だからね? 何度もやってたらワタシといえども暫く魔力が枯れてしまう。この時期にそれは非常にマズイ」

「仰せのままに、偉大なるメギニトス様」


 一礼し、老人は消える。それを見送って、メギニトスもまた消えた。









  †  †  †  †  †  †  †  †









 埼玉県加須市にある、自然豊かなテーマパーク。その地下空間を切り抜いたかの如く、一つの広大な人工異界が展開されていた。

 この異界にテーマはない、異界特有の【法則変異】による物理法則の崩壊もない。ただ通常世界と隔絶しているだけの、単なる異空間でしかない場所だ。


 そこに、一人の女がいた。


 ペトレンコである。


 施設管理室の一室にいた彼女は、慌ただしく一つの革鞄に資料の束を押し込んでいた。

 この現代社会に在って、彼女はデジタルな情報管理を一切信頼していない。紙に記したアナログな情報にこそ秘匿に向く絶対性があると信じていた。

 故にペトレンコは筆まめであり、自身の得たデータは直筆の資料として纏めている。彼女が鞄に詰め込んでいるのがそれだ。まるで夜逃げの為に荷造りをしている、自己破産者の末路を辿る最中にいるかのようで、いっそ哀れを誘う有り様だった。


『ペトレンコ様! こちらゴーウィン01、応答願います!』


 そんな彼女に、無線機越しの悲鳴が届く。

 デスクの上に置いていた細身の無線機を引っ手繰り、ペトレンコはすぐさま応答した。


「何?」

『【聖領域】の反応を感知! 奴ら・・です、テーマパークの上空までヘリが! 【天罰】の奴らが!』

「っ……もう来たの。慌てないで、急ぎ迎撃しなさい。民間人を盾にすれば時間は稼げるはず。焦る必要はないわ、時間さえ稼げたら増援が来る。それまで耐えるのよ」

『りょ、了解! 迎撃しますッ!』


 明らかに浮足立っている部下の報告に舌打ちし、ペトレンコは東京から帰還して一時間としない内に襲来するとは思いもしなかった。もしメギニトスへの報告を遅れさせていたら、きっと完全な奇襲として成立し成す術もなく蹂躙されていただろう。

 ここは単なる研究施設だ。隠蔽に特化していたからまともな防衛機構も実装されていない。流石のペトレンコもこうまであっさり見つけられるのは想定外で、【浄化の追手】であるエーリカ・シモンズの存在さえ覚えていたらここにボーニャを連れてくることもなかった。

 ペトレンコは大事な資料を鞄に詰め込むと残りは焼却した。山のように積み上げた書類へ向けて掌を翳し、あらかじめ仕込んでいた魔法陣を起動。単純な発火の魔術で燃やし尽くす。踵を返して管理室から飛び出したペトレンコは、ドアを開くと一度立ち止まって振り返った。そして管理室の隅に寝そべっていた白い犬、ボーニャに向けて短く命じる。


「……ボーニャ。そこで待ってなさい、敵が来たら好きにしていいから」

『分かっタ、分かっタ。……アガーシャ、ドコ行く?』

「わたしはここから退避する為、脱出路を開きに行くわ。あなたをここに残すのは、わたしが戻るまでに管理室を抑えられたら困るからよ。いい? わたし以外を管理室に入らせないで」


 嘘ではない。部下にも増援が来るとは言ったが、本当に来る。メギニトスは嘘を吐かないのだ。

 だが主目的はペトレンコの救出である。既にこの拠点は駄目になると分かりきっている、だから他の全てを捨て駒にして、ペトレンコだけでも逃がすのがメギニトスの決定だった。

 部下達はおろか、現行の人造悪魔の中でも最高傑作であるボーニャも、ペトレンコが生還する為の捨て石に過ぎない。本音ではボーニャを捨てるのは惜しいが、データは既に取ってある。これと同型の悪魔も量産可能になるだろう。なら惜しくても捨てることは出来る。

 ペトレンコは後ろ手に扉を閉めると、すぐさま走り出した。白衣の裾を翻して、手にした鞄を抱えながら全力で。自分だけは死ぬわけにはいかない、なぜならメギニトスはこのペトレンコの生還を望んだ。主に求められたのだ、これほど光栄なことはない。


「はっ、はっ、はっ……」


 アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは人間である。【曙光】は悪魔信仰者と、三柱の大悪魔によって成り立つ組織であり、メギニトス以外の大悪魔に仕える幹部は半悪魔化している。だがペトレンコをはじめ、メギニトスに仕える幹部は人間のままだ。

 なぜならメギニトスは悪魔という種を信頼していない。だから人造悪魔という禁忌に平然と手を出すし、造られたものとはいえ悪魔が人間に従うことを許容している。メギニトスは知っているのだ、たとえ人間でも上位者に迫る実力を具えることは能うのだと。

 故にペトレンコの身体能力は人間の域から逸脱していない。ロイ・アダムスが身体能力に特化し、位座久良アラスターが魔力に特化しているように、多津浪岩戸とペトレンコは頭脳にのみ特化して成長する、拡張手術・・・・を受けているからだ。その恩恵でメギニトス配下の幹部達は、それぞれの分野で他派閥の幹部を圧倒している。


(ロイ……!)


 走りながら、ペトレンコは死んだ仲間を想う。

 彼さえここにいてくれたら、こんなに焦ることはなかったのに、と。

 ロイはエヒムに敗れた。結末だけを見たら完敗だったと言えよう。だがペトレンコには分かる。あれは一つの駆け引き、読み合いで上回られただけなのだと。もしその読み合いで勝っていたのなら生死は逆転していた。そう……【曙光】の中だとロイだけが、エヒムに勝利し得る人間なのだと、ペトレンコは正しく理解しているのだ。

 だけどそれ以上に、ペトレンコは思う。ロイを惜しんで、悲しみに浸る。


(なぜ死んだのよ。あなたは、わたしを――)


 ――瞬間。人工異界を劈く轟音が、激しく地面を揺らした。


「きゃぁぁぁっ!?」


 堪らず転倒したペトレンコの思考が中断される。凄まじい衝撃だった、コンクリートの破片が飛び散り、破片の多くが粉状に四散している。施設の天井が撃ち抜かれたのだ。

 慌てて立ち上がり背後を振り返ると、ペトレンコは信じ難いものを目撃する。


 ――天使・・がいた。


 タイトな黒いパンツを穿き、白いワイシャツに青いネクタイを締め、スーツを纏った人外。

 人間の域を逸脱した完璧な左右対称の美貌に、銀の瞳が氷のような冷徹さを添えて。純度100%の純金より目映い金色の髪をシニヨンの形に結わえ、その頭上に光の円環を浮かせていた。そしてその背には、純粋な天使には有り得ない、天力による非実体翼エネルギーウィングが神々しく展開されて。ペトレンコは戦慄の槍で、頭頂部から串刺しにされた心地を味わった。


(エヒム!? は、早すぎるわ……! それに、なにあの翼――進化・・しているというの!?)


 救世主ヒカリの再来エヒム。その視線が、ちらりとペトレンコを一瞥した。瞬間、光り輝く祝福の死が落ちてくるのを覚悟させられるも。エヒムはペトレンコの顔を視認すると、興味を失ったように背を向けて、管理室へと歩んでいった。

 呆然としたのは一瞬だけ。コツン、コツン、と刻まれるエヒムの足音を聞いて我に返ると、ペトレンコは必死の形相で再び走り出す。ここは異界だ、人工のものでも。であるのにエヒムはどうして、管理者であるペトレンコにも察知されずに侵入できているのか。

 そういう疑問も今は捨て置く。

 幸いだったのが、エヒムとその前身フィフキエルが、ペトレンコの顔を知らなかったことだろう。知らなかったが故に、エヒムはペトレンコではなく自身の定めた標的を優先したのだ。何よりも人間を殺す気が今のエヒムにはなかったというのが大きい。


 その幸運を瞬時に理解したペトレンコは、ひたすらに手足を振って脱出の為に必死になる。


 ボーニャがエヒムを相手に、一秒でも長持ちすることを願いながら。

 








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