06,奇跡の器と策謀
人間の感情は消耗品だ。
いつまでも怒り続けられるほど、人の体力や気力は長続きしない。変わらぬ愛を誓っていても、心の摩耗には耐えられない。褪せないはずの悲哀も、時間の経過に希釈させられる。楽しかった経験までもが薄ぼけて、感謝の気持ちは軽くなるのだ。どれだけ劇的な体験を経て生涯忘れなかったとしても、虚しくなるほど細部の記憶は朧気になる。
人間は感情や記憶を上書きし続ける生き物だ。永遠なんてものはなく、変わらないものなんかどこにもない。だから自身に根付いた感情を風化させない為に、日々の言動で関係維持の為の感情を更新し続けるのである。感情のアップデート、これは人の基本機能なのだ。
(なんか、おかしいよな)
だから必然だった。社会人として一般的な常識やモラルを持っている俺は、時間経過と共に完全な落ち着きを取り戻せてしまった。
俺が人並外れて冷静沈着だった、なんてことはない。激流じみた状況の変遷に取り残され、混乱し続けることで懐いた諦念やらなんやらを、ずっと維持し続けるのに疲れてしまったのだ。長時間緊張し続けられるほど、俺の精神がタフじゃなかったというだけの話である。
すると一般的な価値観を有する俺が、ゴスペルに疑念を持つのも仕方ないことだ。
俺は自分が万人を惹きつける超一流の人間力を有しているなんて驕ってはいないし、無条件に人の厚意を信じられるほど能天気でもない。今の世の中ギブアンドテイクが基本である以上、他人に無償の善意を期待するような世間知らずでもなかった。
だからゴスペルは逆に怪しいのである。
なんでゴスペルは俺を保護してくれた? なんで事情を全て説明すると言ってくれる? 今のところ何から何まで、ゴスペル側に利益があるようには見えない。俺側に情報が皆無なのだから、ゴスペルが俺に親切を働く動機がまるで想像できないのだ。
もし俺が二十歳未満の小僧だったら、頼りになるし親切な人だと安心して、全幅の信頼を置いていたかもしれない。そうでなくても頼りになるのは事実だし、まるでラノベみたいな展開だと内心ドキドキしていた可能性もある。だがこれでも三十路のオッサンなのだ、無邪気に未来が保証されていると信じていたらただのアホだろう。そして俺はアホじゃないと自分では思っている。
(普通に考えてゴスペルは、あのクソ女天使の身内だろ? マッチポンプはないにしても、よくよく考えてみれば信じられる要素も特にないんだよな)
ヘリで移動するだけの一時間だか二時間だかは苦痛だった。時間感覚が馬鹿になるほど、機内の誰もが一言も喋らないし、ゴスペル以外の奴らは全員こっちをチラチラと見てくるのである。
気になって仕方ない。気が休まらない。針の筵とは違うが、会ったこともない親戚達に混じって忘年会を過ごした時のような気分だ。要するに普通に気まずい。本当に辛い時間だった。
どことも知れない場所に着陸し、ゴスペルの先導に従って教会に入ってからは、ゴスペルやシモンズ達が人払いをしてくれたから人心地がついたが。それだってどの方角にどれぐらい離れた場所へ連れて来られたか、自分では全く分からない不安を打ち消してはくれない。
(極めつけは、アレだ)
俺を教会中央塔の最上階に連れてきて、一人にしてくれていたゴスペルが、唐突にやって来るなり『話を合わせろ』と無茶振りしてきた。途端に謎の光の柱が発生して、それに映し出された謎の場所にいる天使達と、理解の追いつかない話をし始めたのだ。挙げ句、俺を妹と呼ぶ不審者と顔を繋いで来て――普通に現実離れした現象に、俺は普通に圧倒されたものである。
(これはアレだろ。お
何がなんだかよく分からんが、このままではマズイとサラリーマン魂が叫んでいる。デキる男とは仕事ができる男という意味ではない、リスク管理と能う仕事の見極めができる男という意味だ。できないならササッと身を躱し、できる奴とやる気のある奴に流す男である。
俺はデキる男だと自認している。できないことはできないから、能わない仕事はサッと躱せるのだ。長年と言うほどの経験値はないが、磨いてきた直感が告げている。――ゴスペルは俺に無理難題を押し付けようとしている、と。どんなことになるかは分からんけども、そうした気配に敏感にならなければ、現代社会の荒波を泳ぎ切ることは困難である。
(結論。ゴスペルは他の奴らよりはマシっぽいが、頭から信じ込んでたらヤバいタイプ。だって目がイっちゃってるもん。会社に魂を売り渡した社畜先輩味を感じる。敬遠するのが大吉だぞ俺)
これでも人を見る目はあるつもりだ。それがないと生き辛い世の中に嘆けばいいのか、見る目を磨いてくれた世の中に感謝すればいいのか……判断に困るが、俺のするべきことは決まった。
(とりあえずゴスペルから話を聞けるだけ全部聞いて、自分の頭で考えて、行動する。これだな。言うなら定時間際で急に仕事を押し付けようとしてくる先輩とか上司を躱せってことだ。得意分野だぞそういうの……社畜の沼になんか絶対にハマらないんだからな……!)
残業する時は手当目当てだと決意を固めてゴスペルと対峙する。
あの謎の会合を経て、コイツはこれで時間が稼げると言った。猶予があるという意味だろうが、別の見方をすれば『なんらかのアクションを起こしたくても制限時間がある』とも取れる。
状況が理解できないならそれでもいい。こういう時の対処法を俺は知っている。乗り越えがたい局面を迎えた時は、目の前にある課題を過大評価せず、むしろ矮小化させて捉えるのだ。
これはゲームだ。ゲームだと思え。勝利条件も敗北条件も曖昧だが、それを探りながら目的を達成するゲームであると。そして眼前の難題を矮小化させ、ゲームであると捉えたら話は簡単だ。
ゲームの仕様を把握しろ。ゲームのルールを見つけ出せ。攻略法は絶対にある、そのためにもまずは情報を揃えろ。自分というプレイヤーキャラを操作して、目指すゴールに辿り着くのだ。
(対戦よろしくお願いします)
声には出さず、ゴスペルを見る。ゲームスタートだ。
† † † † † † † †
「じゃあ、最初に聞きたいのは――俺のことですね。俺ってどうなったんですか?」
辺鄙な山奥にあるような教会だが、意外と小綺麗で掃除が行き届いている。
それでも中央塔の最上階にあるこの部屋は、普段利用されていないらしく物置になっていた。
そこそこ埃臭いし、蜘蛛の巣が天井の隅にある。長居したい場所ではないが贅沢は言えない。我慢して古くなりクッションの萎んでいるベッドに腰掛け、若白髪の巨漢を見上げる。
間抜けみたいな質問だし、実際間抜けではあるが、これをはっきりさせておかないと前には進めないだろう。前ってどっち? って話ではあるが、進める方向が前だと思っておく。
名も無き天使の質問に、ゴスペルは笑わなかった。真面目くさって、真摯に答えてくれる。そうしていると本物の神父様みたいだ。いや、本物なのか。
「誤解や勘違いのしようがないように、はっきりと申し上げます。
「……生きてるんですけど?」
反駁する声の響きが、自分でも驚くほど軽い。何故だと考えてばかりの一日だ、沢山の『何故』に求める答えは一つも示されない。自身の小さな体を見下ろして、顔を上げる。そんな場合でもないのに、ゴスペルの似合わない慇懃な態度で半笑いになってしまった。
「死んでおります。少なくとも元の人間としては確実に。その上で、しかとご理解いただきたい。あなたは死んだ上で蘇りました。――天使として」
「天使、ねぇ……」
天使。世界的に有名な虚構の存在だ。少なくとも無神論者だった元人間はそう認識していたし、救世教の信者を除く世間一般の人達も同様であるはずだ。
救世教に関して名無しの天使は然程詳しくない。しかし天使と悪魔、名前すら不明な神様がいることは常識のレベルではある。
救世教の教えで名無しの天使が知っているのは、大昔に救世主が生まれて世界を救ってくれたから今の世界があるんだよ、だから皆は救世主に感謝して正しく生きるべきなんだという程度だ。かなりフワッとしているし、曖昧すぎて詳しくは語れない。
肝心なのは、元人間が虚構の存在に生まれ変わってしまったということで、それを頭から否定して掛かる術がないということだ。だって今の元人間の体が明白な証拠になってしまっている。
「マモ……表の世界では魂と言った方が通りは良いでしょう。あなたは魂を我が主である天使、フィフキエル様に取り込まれ、確かにフィフキエル様の危機を救うという誉れを得られました」
「はぁ?」
「しかしなんの因果か、フィフキエル様は取り込んだ人間を受胎してしまい、ご出産した末に命を落とされたのでしょう。そしてあなたは母たるフィフキエル様の全てを継承し、更に昇華させてこの世に降臨なさいました。フィフキエル様の全てを受け継いだ以上、あなたは誰から見てもフィフキエル様であると認識される。それが今のあなたを取り巻く状況というわけです」
「あー……わざと俺が理解し辛いように言ってます? 噛み砕いて説明してください。妙な表現で煙に巻かれても、理解できるまで繰り返し質問しますよ? そんなの時間の無駄でしょう」
「ではお望みのまま、簡潔に述べましょう。あなたは瀕死になったフィフキエル様に、傷を癒やす手段として魂を食べられた。如かる後にフィフキエル様はあなたに力を奪い取られ、肉体はおろか存在そのものを簒奪されお亡くなりになられ、新たに二代目フィフキエル様とでもいうべき存在として生まれ直されたというわけです。そして多くの者は、あなたをフィフキエル様だと感じてしまわれる。細かい理屈を抜きにして言うと、そうなります」
数秒、間を置く。話された内容は、およそ理解し難いものだ。
しかし思考を放棄するわけにはいかない。なんとか情報を飲み干して、自分なりに理解する。
そして質問した。
「ゴスペルさんの口ぶりからして、本来なら俺がこうしてここにいることは有り得ないんでしょう。あなたの言うフィフキエルって奴が、五体満足のままここにいる方が自然というわけだ」
「仰る通りです」
「じゃあなんでこうなってるんですか?」
「それに関してご説明すると、少し長くなります」
そう前置きしてゴスペルは朗々と語った。話し慣れているのか、淀みない語り口である。
自分達は【救世教団】という組織に属し、地上に欲望と混沌、穢れを撒き散らす害悪の存在、つまりは全ての悪魔と悪魔信仰者集団【曙光】を滅ぼそうとしている。日本には【曙光】の研究所があり、人造悪魔という危険な存在を作り出した奴らを粛清する為に来日した。
研究所をゴスペル達は襲撃し、ほとんどの資料を接収して、研究員達もほぼ粛清したものの、フィフキエルは人造悪魔の奇襲を受けて重傷を負った。だがここで、フィフキエルも予想だにしていない事態に見舞われたのだろうとゴスペルは言う。なんでもフィフキエルに傷を負わせた人造悪魔は、三つの属性を具えていたというのだ。それこそが性交、不幸、破滅だ。そんな奴に深手を負わされた女天使は男の人間の魂を食べることで、擬似的に性交をしたと見做されてしまい、不幸にも受胎して、力と存在を奪われる形で破滅したわけだ。
「へぇ、ならその人造悪魔ってのは俺の命の恩人ってわけですね。ありがたい話ですよ」
元人間が嫌味を言うとゴスペルは微笑んだ。全く気にしていない顔である。
「流石はフィフキエル様。ご理解が早い。それともアニメ大国ニホンの方だから、こうした事態にも想像力が働きやすいのですか?」
「どうでもいいでしょう、そんなの。それで? ゴスペルさんは気にしていないみたいですけど、ゴスペルさん達からしてみたら俺はフィフキエルのパチモンでしょ。なのになんであなた達は俺を守ろうとしてるんです? ……いや、シモンズさんですっけ? あの人達は俺がフィフキエルそのものだと思ってるみたいですが、あなたは違いますよね。なら正しく言うとあなたが私を守ろうとしている。俺が人間だってバレたら殺されると言ったのに。なぜですか?」
「保身のためです」
臆面もなくゴスペルは言い切った。スッ、と心が冷える。
「私の一族は代々、フィフキエル様に仕えております。一族の者は多く、その全てがフィフキエル様にお仕えしているわけではありませんが、こうしてフィフキエル様にお仕えする栄誉を賜っていながら、主をお守りできなかったとなれば我が身の破滅は必定です。私はそれを避けたかった。私はまだ死にたくないのです」
嘘だな。元人間は直感的にそう感じる。この野郎は今、嘘を吐きやがった。
言っていることに嘘はない。ないが、思惑の全てを話したわけじゃないってところだろう。
なんでそう感じて、しかも確信しているのかは自分でも分からない。
だが伏せた。自分の事情を。思惑を。それは間違いないと感じている。なら100%絶対に信じるというのはやっぱり無理だ。理性の話じゃない、感覚的な話である。そしてこの感覚が絶対的に正しいのだという、傲慢なまでの自信が名無しの天使にはあった。
いいさ、何を信じるかは俺が決めることにするよ。元人間はそう思う。
「なるほど、気持ちは理解できます。誰だって死にたくはないですよね? 俺は誰かさんのせいで死んだらしいですけど」
「それは……」
「ああ、単なる嫌味です、気にしないでください。次です……あなたは俺を一目見ただけで人間だと気づいてましたね。なのに他の人達には気づいた様子がなかった。何故です?」
嫌味を言うことで、ゴスペルの嘘に気づいていないという態度を取り、それとなく話を進める。
隠し事してるじゃん、約束と違うぞとツッコミを入れるのは簡単だ。しかし平然と約束を破るような奴に、そんなツッコミをしても無駄だろう。逆に嘘を見抜かれたと知られ、変に身構えられる方が不都合だ。こういう時には敢えて気づいていないバカのフリをした方が色々とお得だと思う。なぜなら人間はその心理上、自分が下に見た相手には油断するものだから。
下に見た相手にこそ人は安心する。わざと自身を低く見せ、望んだように話を進ませるのも商談を有利に纏めるテクニックの一つだ。サラリーマンに腹芸は無理だと思うなよ? 舐めてたら痛い目に遭うなんてのは、社会だと割とありふれた話だと思い知らせてやる。
「簡単な話ですな」
言いながらゴスペルは思った。思いの外、頭の回転が早いなと。元からなのか、それとも性格的な欠点で明晰な頭脳を活用できていなかった、フィフキエルの素養を有効に引き出せているのか。
どちらでもいいが、馬鹿ではない。悪くないなと彼は評価する。
ゴスペルとしては嘘を吐いたつもりなど毛頭ないのだ。故に悪気などない、【教団】に属するゴスペル・マザーラントとしての本音は隠していないのだから。ただ単に叛逆者としての顔を見せるのは早いと判断しているだけ。――当然のリスク管理だろう。幾ら相手が人間の魂を持った存在とはいえ、【下界保護官】の一員である天使の同位体でもあるのだ。この存在の本質は視えているが、いきなり信頼して全てを明かすのは愚かな行為である。ゴスペルは現在、元人間を見定めている最中なのだ。そうした慎重さがなければ、到底スパイじみた活動などできる訳がないのである。
「私の目は特別製です。私は視認したモノの本質を捉えてしまう。故にフィフキエル様の中身――魂が本来のものとは全くの別物であり、あなたが人間であると分かってしまうのですよ」
「へぇ……魔眼みたいなものですか。リアルにあるんですね、そういうの」
言いながら黒髪の天使は思惟を走らせる。
本質を捉える目。この存在を明かしたゴスペルに、少し驚いたのだ。
それは一部隠し事をした相手に明かして良いことなのか? だって普通に考えてヤバいほど便利な力だ。どこまで捉えるのかは不明だが、対面している相手の性格的なものを視覚で認識できるということだろう? 交渉事に於いてはとんでもないチートであろう。
いいなそれ、仕事が楽になる。サラリーマン魂が羨む声を脳内で上げるが、ゴスペルの中での線引きがどこで為されているのか不透明になり、走った思惟が具体的な思考を瞬時に組み立てる。
(……待てよ。考えてみたら簡単だ。俺がフィフキエルじゃないってバレたら殺されるっていうのがマジなら、俺がフィフキエルじゃないって知ってるゴスペルは【救世教団】ってところの忠実な信徒じゃないってわけだ。俺のこと周りに隠してるし。隠し事の内容は分からんけど、コイツ……副業やってんな)
持っている
ありがちな話だ。そのありがちな話にゴスペルが該当するかは不明なはずだが、副業をしていてそちらへの転職を考えているとするなら、転職前に不祥事を起こして上司に睨まれたくない気持ちは理解できた。つまり隠し事の内容は副業に纏わる視点、業務内容的なものだ。
我ながら的を射た推察だと感じる。感じるが――そうした勘を信じ過ぎている自分が少し怖い。
「ゴスペルさんのその魔眼で、俺の何が、どこまで視えてるんです?」
「魔眼という呼称は正しくありませんが……まあいいでしょう。私の目に映るのは、捉えた者の具える属性や性格、思想、そして能力となります」
「凄いですね。じゃあ、俺のこと教えてください。ちょうど次は俺に何ができるのか聞きたいと思っていましたから」
「承知しました」
思い出すのは、あれだけの惨劇があった自分の家で、ガラスドアを目の前で修復してしまったこと。そしてフィフキエルを喰ったというのに、部屋が至って清潔であったことだ。
たぶん天使的な何かの力で、不思議なことを起こしたのだろうとは思う。しかし具体的に何ができるのか知れるなら知っておきたい。今後はどう楽観視しても、身の危険に晒されるのは自明だ。自衛の手段を得られるならなんでもするべきだろう。
天使の問いに人間は惜しまず頷いた。どこか愉悦を滲ませて。
「フィフキエル様は【傲り高ぶる愚考】の号を与えられた、【下界保護官】の一員であります。
「あー……つまり、何? フィフキエルは頭の良い馬鹿ってことですか」
「左様です。見栄を重視し、相手を見下し、実力に不釣り合いな小さな事故で命を落とす。愚かという他にありますまい。しかしそのお力は確かなものでした。ああ、端的に言いましょう。『あなたは素晴らしい母胎から産まれ直されたのだ』と」
「わざと俺の癪に触る言い方をしなくてもいいですよ? 普通に苛つくだけなんで」
「申し訳ありません。本題に移りましょう」
本質は視えても細かい性格は分からないのか。だから俺が怒ったらどう反応するか探りを入れた。天使はそう察するが、衝動的に口を衝いた台詞に自分で動揺する。言う気のなかった失言だ。
ゴスペルが笑う。なるほど、愚かなフィフキエルの性質というのはこういうことか。不本意ながら確かに受け継いでいるのだと実感してしまう。もしかしてそれを自覚させてくれたのか?
「あなたはフィフキエル様です。しかし、フィフキエル様ではありません」
「……元々の属性? っていうのから変化してるってことですか」
「はい。フィフキエル様は生粋の戦闘員であらせられました。得意とするのは浄化、洗礼、祝福、そして破壊の四種の奇跡です。しかしあなたは処女である母が処女受胎し、お産まれした経緯から【聖偉人】と【祝福】の二つの属性を得られ、また強調されております。お喜びください、フィフキエル様。あなたは我らの信仰で伝えられているところの、メシアと同じ産まれ方をなさった」
「……ん、ちょっとよくわからないので、もう少し詳しく」
世界一普及している本、神書。そこに記された救世主と同じ産まれ方。聖偉人や祝福とかいう属性もよく分からない。天使がそう言うと、ゴスペルは皮肉げに応えた。
「お持ちの力と、起こせる現象を、端的に述べましょう。あなたはフィフキエル様にできたことならなんでも能う。そして同時に、あなたの力が及ぶ範囲という注釈は付きますが、
「……え。なにそれ、チートじゃないっすか」
「
「………」
ガラスドアが修復されたのは、その望みを叶える力とかいうのが、無意識に働いたからなのか。ではあの部屋も無意識に綺麗にしていたのか……?
「その、願いを叶えるって……無意識にやっちゃったりもするんですか?」
「考えられますな。お力に無自覚だからこそ、無作為に願いを叶えた可能性はあります。たとえばご自身が意識を取り戻すまで、誰も近寄るなという拒絶の意思を現象として現したりなど」
思い返したように言いゴスペルは笑う。あの部屋に中々入れず、七時間以上も待たされた理由が今なら分かる。この名もない天使が自己防衛本能を発露して、無意識に侵入を拒んでいたのだ。
面白い力だ。非常に。
だが悲しいかな、誰にでも通じるわけではない。現にあの時の強制力も、ゴスペルがその気なら無視もできたのである。故にゴスペルはあくまで親切で黒髪の天使へ告げる。
「ああ、そのお力を行使なされば、一時的に裏の世界から逃れることは能うでしょう。しかし逃亡生活は長続きしません。たとえば【下界保護官】の一員であらせられる、【晒し上げる意義】の号をお持ちのエンエル様などには、一日と保たず見つけ出されるでしょう」
「……はは、そうですか。それは残念です。けどもっと残念なのは、俺にその気はないってことですかね。なんせそういう力の使い方とか、全然分かりませんし」
嘘だな。本質が視えるゴスペルは内心断定する。
この
特異なものはどこにもなく、現状を理解すれば理解するほど、力を自覚すればするほど、やりそうなことなど容易く想像がついてしまう。
実に人間的だ。素直に好ましく思う。だが、関係ない。どれほど人間的であれ、既に説明した通りこの人間は天使である。自身もよく知るフィフキエルの性質と混ざったのなら、なおさら読みやすいというものだ。だからゴスペルはわざと自覚を促す。
「あなたはフィフキエル様の全てを継承なさっておいでだ。そしてフィフキエル様が私の部下に授けた加護はまだ継続している」
「つまり?」
「今もお力を行使なさっておられる最中ということです。使い方がわからないというのは有り得ない。それでも分からないというのなら、それはそうした力をお持ちであると自覚していなかったからでしょう」
「なるほど……?」
「目を閉じて、強く願ってみてはどうですか? きちんとした衣服が欲しい、などでよいでしょう」
「分かりました」
天使が目を閉じる。
男が見れば女に、女が見れば男に見える中性的な少年。いや性別などないのだ、少年や少女という形容は相応しくないだろう。だが性別がないからこそ、人智を超えた美しさがある。
真剣に自らの力を感じ取ろうとする姿を黙って見詰め、ゴスペルは思った。男の天使も、女の天使もいる。しかし性別がないモノなど天使には居ない。ならば、この者は果たして天使なのか?
天使ではある。しかし、天使ではない。結論はそうだ。
なぜならこの者は不安定だ。無性という状態がその証拠。おそらく人間としての精神と、天使としての肉体の調和が取れておらず、どちらに傾くかで性別が変わるのかもしれない。
人間なら男に。天使なら女に。どちらかの属性に傾くことで、在り方まで変容する可能性がある。そしてゴスペルとしては、どちらにも傾かず今の状態のままでいる方が幸せだろうなと思う。
なぜならば無性である今の状態だからこそ、天使フィフキエルの欠点が軽減されており、人間としての無力さが現れていないのだ。謂わば人の精神と天使の力という、双方の利点だけが顕在化している状態だと言えた。まさしく、
――果たして、黒髪の天使は忽然とその姿を消した。
「逃げたか」
ゴスペルは失笑する。
「願いが叶うと知り、現状の危うさを理解すれば、逃げると思っていたとも」
元人間にとっては巻き込まれた世界だ。自分には関係ない、放っておいてくれと思いたいはずだ。
実際、あの元人間にとってはとんでもない災難であり、理不尽である。逃げたくなって当然で、むしろ果敢に現実へ立ち向かう強さを凡人が持ち得るはずもない。
だからこうなるのは分かりきっていたのである。
(……聞こえているな? 予想通りターゲットが逃げた、回収を急げ。下界の守護者を気取る畜生共に気づかれる前に)
天使に説明をしに訪れる前、事前に話を通していた相手を思い描いて内心呟けば。
『りょーかいっ。どーせ東京の歌舞伎町あたりに逃げ込むでしょ? 間もなく最寄りの子が到着するってさー。言われた通り、めちゃくちゃ優しくしてあげろって伝えてっからね』
彼の頭の中に、ここにはいない人間の声がした。
ゴスペルは笑う。
(オレの許から。そして天使の名から逃げられたと安心させてやる。暫しの別れだ、再会の時を楽しみにしておけ)
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