02,産声は戸惑いの色







 足元もおぼつかなくなるほどの法悦に、束の間、俺は呆然としていた。


 いつの間にか晴れていたのだろう。雲に隠れていたお月様が顔を出し、割れたガラスドアから吹き抜ける風に乗って俺を照らしている。

 外からは喧騒が聞こえる。車の走る気配、通行人の奏でる話し声、誰かが信号を無視して横断歩道を渡ったのか、車のクラクションが鳴らされてもいた。

 どうでもいい。少し前まで堪らない快感に脳を焼かれていた。呆然としたまま、何時間もその場に佇んでいた気がする。我を取り戻した後にも、快感の余韻で上手く頭が回らない。


「……何が」


 何があった。そう思って呟くと、妙に高い声が耳朶を打った。

 誰の声だ? 聞き覚えがない。のろのろと辺りを見渡して、ふと肌寒くなっているのに気づいた。

 それもそのはず、割れたガラスドアから夜気が流れ込んでいるのだ。

 晩夏を迎え、夜はすっかり秋の顔をするようになっている。四季とは意外と尻軽なもので、いつの間にか移ろうものだとはいえ、寒いものは寒い。なんでガラスドアが割れているのか皆目見当もつかないが、こうも寒いとまともに寝られないだろう。明日もまた早いのだ、どうにかして塞がないといけない。


「ん?」


 ガラスドアの修復とか面倒臭くて敵わん。マンションの管理人にでも連絡して、事情を説明してなんとかしてもらおうにも、今夜中にどうにかできる話でもない。

 どうやって塞ごうかと頭をひねっても良案は思いつかず、なんでもいいからとにかく塞いでしまおうと思った。……思っただけだ。なのに――唐突に無数のガラス片が目の前で浮き上がり、ガラスドアがひとりでに修復され、完全に元通りになってしまった。


「………?」


 我が目を疑う。ごしごしと手で目を擦り、改めてガラスドアを見ても、そこには綺麗な状態のガラスドアがあるだけだった。


「酔ってんのか、俺……?」


 確か仕事の帰りにビールを買って帰ってきたはず。俺の脳はアルコールに侵されているのか? 自分でも気づかない内に泥酔している……? いやいやそんなまさか。意識は完全に醒めてるぞ。

 自身の見たものが信じられず、よたよたとした足取りでベランダに近づいていった。ガラスドアに手を触れて、割れていないか確かめようとしたのだ。しかし、


「おっ、と……?」


 暗くて足元にあるモノに気づかず、足を取られ転びそうになってしまった。

 慌てて体勢を維持しようとするも叶わず、みっともなく転倒してしまう。だが咄嗟に両手を床について、衝撃を緩和することはできた。すると予想外の感触を全身に感じる。

 何か、濡れている。床に水たまりがあるのだ。なんだ? 床についた手と、膝と足に感じるこの生温い液体は。暗くてよく見えない、ビールでもこぼしてしまっているのだろうか?


「あ?」


 次に気づいたのは、俺が足を取られたモノ。俺のすぐそこに、見知らぬ誰かが横たわっていた。

 ヒッ、と悲鳴みたいな声が漏れる。だ、誰だお前! そう叫んだかもしれない。尻餅をついたまま後ろに下がり、威嚇するように誰何するも、反応は何も返ってこなかった。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 動揺の余り息が荒くなる。光源がお月様しかない部屋だ、今まで気づかなかったのも無理はない。しかし気づいてしまったからには対処しなくてはならなかった。俺は立ち上がると無反応な男の傍に慎重に歩み寄る。そうして息を潜めて近寄って、男の様子を注視した。

 すると、既視感を覚える。よく見ようとすると、闇に目が慣れたかのように――まるで昼間のようにくっきりと男の姿を目視することができた。明らかにおかしい、目が良すぎる。その違和感に気づく前に、俺は男の正体を悟って瞠目してしまう。


「ぇ、あ……こ、コイツ……俺と同じ顔……!?」


 横向きになって倒れていた男の顔は、俺のものだった。


 なんで俺と同じ顔のやつがこんなところに!? 動転して言葉を失くすも、自身の手足に付着する液体の正体にも気づいて、俺の心的許容値はいよいよ限界に達した。

 血だ。余りにも膨大な量の血が、リビング全体に散っている。よく見たら白い骨らしきものや、肉片や内臓なども飛び散っていて――俺はそこでようやく全てを思い出した。


「ぅ……ん」


 ばたり、と。受け入れ難く、理解し難い現実を前に、俺はその場に倒れ気絶してしまうのだった。









  †  †  †  †  †  †  †  †









 スマホの着信音が鳴り響いている。会社からの鬼電だ。

 俺は皮肉にも、忌避しているその着信音で目を覚ました。


「………」


 夜は明け、朝日が昇っている。俺はコールし続けるスマホに手を伸ばして、画面に目をやり上司の名前が表示されているのを確かめた。

 無言で切る。後が怖いが、今はそれどころではない。

 のっそりと上体を起こした俺は、スマホを放り出して頭を抱えた。


「なんだってんだよ……」


 呻くように悪態を吐く。現状はあらゆる全てが理解の範疇になかった。

 昨日、帰宅した俺は自宅に不法侵入している女を見つけた。その女に、俺は何かを吸われた・・・・・・・のだ。

 その後、なぜか俺は女から産まれ、飢えていた俺は本能のままに、女を――


「うぷっ……!」


 吐きそうになる。いや、吐いた。ゲェゲェと、気持ち悪さの全てを吐き出すように。

 しかし腹の中には何もなかったらしい、胃液しか吐くことはなかった。どこか俯瞰して自分を見ている俺が頭の片隅で思う。そんな馬鹿な、あれだけ貪っていた肉や骨が、欠片も腹に残ってないなんておかしいだろ、と。まさかもう消化したのか? 息が荒くなるも、暫くすると嫌でも落ち着いてしまう。動揺し続けるのにも体力を使うのだと初めて知った。知りたくもなかったことだ。


 精神的な限界から、一周回って落ち着くと、猛烈に頭が痛くなる。


「……俺、どうなったんだ」


 くしゃりと髪を掻き上げ、頭を掻く。ぽつりと呟いた独り言の響きがおかしいと、今更気づいた。

 声が高いのである。嫌な予感を覚え、俺は無言で立ち上がると自分の体を見下ろした。


「………」


 裸だ。全裸である。しかしそんなことよりも、俺の意識は全く別のことに向いていた。

 まず、体格がおかしい。肌も異様に白くなっている。そして何より、自分の体が縮んでいるばかりか、股間にあったはずの男性の象徴がなくなっている。女性のそれもない。

 喉が渇いた。カラカラに、口の中も乾いている。放り出したスマホに手を伸ばしカメラアプリを開くと、自身にカメラを向けた。するとどうだ、そこに映っていたのは見知らぬ少年だった。


 艶のある黒髪に、大きな黒い瞳。顔立ちは――昨日見た、女の不審者を彷彿とさせるもの。


 手の中からスマホが滑り落ちる。動揺がブリ返し、持っていられなくなったのだ。

 掌で両目を塞ぎ天を仰ぐ。深呼吸をして、激しい動悸が鎮まるのを待った。


「フゥー」


 細く、長く息を吐く。手をおろし、目を開いた。


「声、出してけ。無言になるな、俺。なんでも声に出して、確認して、現状を把握するんだ」


 自分に言い聞かせる。それは新社会人だった頃の自分に課した自分ルールという奴だった。

 相談する相手がいたとしても、まずは相談する内容をはっきりさせておかないといけない。そういう時、『何が分からないのかが分からない』という状態は論外だからだ。

 だから声を出す。喋って、自分の中で疑問や取るべき行動を整理する。


「まず……部屋、綺麗になってんな。疑問一、なぜ部屋が綺麗になってる?」


 とんでもなく汚かったはずだ。血と……肉片と、内臓とかで。

 思い出すとまた吐き気が蘇る。しかし必死に堪えて、声を出した。


「疑問二、俺はなんでこんな・・・になってる?」


 縮んだ俺。いや、子供化しているだけじゃなく、完全に別人になっている。

 性器すらないのだ、明らかにおかしいし……何より昨夜の不審な女に似通った顔なのも気になった。


「疑問三……疑問三……」


 ひとまず疑問に解答を出すのを後回しにしながら、疑問の全てを克明にしようとする。

 そのために周囲を見渡して、すぐに目が止まった。

 リビングの中心に倒れている、俺と同じ顔の男を再認識したのだ。

 ドクン、と一際強く心臓が鳴る。


 固い唾を飲んで、俺は男に歩み寄った。

 スーツ姿の男の懐へ手を入れて、そこから財布を抜き取る。


「……コイツ、俺か?」


 中にあった身分証や所持金を見て、この男が間違いなく自分なのだと理解してしまった。


「ぎ、疑問、三。……コイツが、俺、なら……」


 混乱しそうになりながらも、意識して声を出し続ける。聞き慣れない美声で気が狂いそうだ。


「コイツが、俺なら……ここにいる俺は、誰だ……? と、とりあえず、俺を起こそう」


 見たところ倒れている男の俺に外傷はない。ピクリとも動かない自分に触れるという、気色悪い体験に鳥肌が立つ。筆舌に尽くし難い違和感を努めて無視し、俺は別の自分の体に触れた。


 ――花房藤太はなぶさ・とうた。三十歳。1992年2月21日生まれ。血液型はA型。身長178cm、体重75kg。出身地は山口県で、大学に進学する際に上京。現在彼女なし、貯金そこそこ。50歳になるまでに2000万円貯めて、故郷に帰ってのんびり暮らすのが目標。生涯独身のまま孤独死コースまっしぐら、でも死ぬまで楽しけりゃそれでいい。趣味はVtuberの配信を見ることと、ネット小説を読み漁ること。推しのVは笑い声が特徴的な兎さん。


 自身に関する情報を脳内で並べつつ、今の自分の記憶に穴がないのを確かめる。花房藤太としての記憶は残っていた。子供の頃の楽しかった思い出、忘れたい黒歴史、どちらも覚えている。思い返して自己認識を再認しつつ、花房藤太の体を揺する。

 起きない。

 最近は睡眠が浅いのが悩みで、些細なことで目を覚ます俺からは想像が付きにくい無反応さだ。それでも根気強く揺するも、やはり花房藤太は目を覚ます様子は全くなかった。

 だんだん苛立ちを覚える。しかしその苛立ちも長続きせず、すぐに不安な気持ちにシフトした。


「まさか、死んでんのか……?」


 自分で言っておきながらゾッとした。背筋が泡立つ感覚に突き動かされ、俺は花房藤太の口元に手を翳す。すると、微かに呼吸を感じられた。


「息、してるな。死んでない」


 ホッとする。流石に自分――らしき男の死体なんか見たくもなかったのだ。

 死んでないならそれが一番良い。だが……だったらどうして起きる気配がない? 死んでないなら意識が戻るはずだろう。俺だったら他人に触られた時点で目を覚ましてる。

 安堵した反動で苛立ちが蘇り、舌打ちして花房藤太の頬をビンタした。これで起きるだろうと思って、遠慮なしに。それでも反応はない。一拍の間を空けると、冷や汗が額に滲んだ。なんで起きない? 再度ビンタをして反応を待つも花房藤太は眠ったままだった。


「おい、おい! 起きろよ、おい!」


 声を荒げて揺すったり叩いたりする。それでも全く反応を示さない花房藤太に、俺は遂に諦めた。


「げ、原因不明やけど、なんでか俺が……俺? 俺……だよな。俺は、寝たまま。なんでだ? いやそれを言うならそもそも俺が『俺』なのに……花房藤太が起きないって表現がおかしい?」


 表現がおかしい。自分でそう言って、なんとなくピンとくるものがある。

 現実的じゃないが、昔はサブカルチャーの沼にどっぷり浸かっていたのだ。今でこそ仕事の疲れで遠ざかってこそいるものの、その手の知識は一応ある。いわゆるオタク知識というやつだ。

 そのオタク知識に頼ると、類似した現象はある。少なくとも発想の手がかりにはなった。

 だからもしかしてと思える。

 もしかして花房藤太の体は、俺という自意識を持った魂がない状態なんじゃないか? と。

 別人になった俺がここにこうして居る以上、花房藤太は抜け殻になっているのかもしれない。


 確証はない。現実的じゃない。そうした否定的な見解は、そもそも今の状況そのものが現実的じゃない以上、説得力は極めて希薄だと言わざるを得ないだろう。


「俺一人の手じゃ余る」


 結論はそうなる。多くの疑問があるし、オタク知識と勘でこじつけることはできても謎は解けない。手に負えないのなら恥なんかない、すぐにでも他人に頼るべきだというのが最適解になる。

 でも、じゃあ誰に頼れば良い? って話になるわけだ。

 会社の同僚とか先輩? んなアホな。仕事と関係ないトラブルだぞ。頼っても迷惑になるだけだ。なら大学時代のダチに……社会に出てから疎遠になってる、いきなり連絡しても相手が困るし、なんなら俺の方が困りそうだ。なにせ今の俺って、これ・・よ? 全裸の少年だか少女だか、ともかく今の俺は子供になってしまっている。花房藤太の子供と名乗るのも無理があった。


 俺の交友関係終わってんな……? 交友関係に縋れないなら、公共機関に縋りつくしかない。


(こういう時は救急車、か? んで俺の体を病院に持って行ってもらって、そっからどうするよ)


 このまま放置して衰弱死されても困る……困るか? 困る、よな。多分。

 どうしたらいいか分からんから、そこからはもうノータッチにするとして。後はどうする?


(ラノベのセオリーなら……こういう時、『敵』か『味方』がコンタクトを取りに来てくれて、否が応にも状況を動かしてくれんだろうけど……)


 半笑いになる。そんな馬鹿な話があるか。

 味方って誰だよとか、敵なんて物騒なのが来たら詰むとか、色々とツッコミどころが満載だ。

 そう思う。

 思っていたのに。

 ――ピンポーン、とインターホンを鳴らされたのが聞こえた。


「……マジ?」


 予定にない来訪者。その存在に、俺は顔を引き攣らせた。






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