第3話 「伸びのついでに見る先には」

 陽がかなり傾きかけた頃、外周の走り込みとコートの片付けが終わった。

 部室前の通路で体をほぐすように、大きく両手をあげる。

 

「んーっ……! 疲れたぁ……」


 血がドクドクと腕や肩に流れ込むのを感じながら、部室前のグラウンドや校舎を見回す。さすがにもう生徒の姿はない。

 だが部室が並ぶ通路の先にあるちょっとした広場に視線を向けた時、


「……あれ?」


 ある種、異様とも言える凛とした雰囲気を漂わせる生徒をみつけた。


 ――本田莉々奈さんだった。



 高校2年に進級したばかり、まだクラス内には緊張が残る変な時期に彼女は転入してきた。

 担任の山中先生が朝のホームルームを行うべく教室に入ってくると、氷の上を歩くような滑らかさで先生の後ろを着いてきたのを覚えている。

 先生は教壇に手をつくと、口元に笑みを浮かべわざとらしくごほんと咳払いをひとつ。


「今日からこのクラスに転入することになった本田だ。皆よろしくな」


 彼女の腰まで伸びた長い黒髪は、窓から差し込む陽光によってきらきらと宝石のように輝いていた。

 髪と同じ色をした長い睫毛。ぱっちりと大きな瞳。すっと通った鼻筋。小ぶりながらもぷっくりと魅惑的な唇は自然な潤いをたたえていた。

 制服からすらりと伸びた長く細い手脚は白磁のような肌で、無垢な純粋さを感じさせる。

 彼女の美しさは、現実から切り離された幻のようですらあった。


本田ほんだ莉々奈りりなと申します。皆様、よろしくお願いいたします」


 長い髪を気遣いながら、丁寧な言葉遣いで挨拶をすると、ゆっくりとお辞儀をした。そして心安らぐような笑顔を皆に向けた。


「――――ッ!」


 瞬間、僕は激しい鼓動と頭痛に襲われた。

 その笑顔とぞわぞわするほど甘く切ない声音に、血液が体中を煩いくらいに跳ねまわり、そして頭の奥のほうで何かが強くざわめいたのだった。


 彼女の噂はあっという間に学校中に広まり、授業の合間の短い休憩時間でさえ彼女を一目見ようとクラスに押しかけてくる輩がしばらくの間絶えなかった。


「ヤッバぁぁあ! なにあの顔! 小さ過ぎない!?」

「ねぇ、どうやったらあんな綺麗な髪になるの!?」

「えっ、うそ! あれ、付け睫毛じゃないの!?」

「脚長げぇぇっ!! モデルやってたりすんの? おい! 誰か聞いてこいよ!」


 小声で話しているつもりなのかもしれないが、教室の入口は休憩時間のたびに、騒がしい事この上なかった。


 彼女とお近づきになろうとする生徒もちらほらは見かけたが、意外なことに彼女に声をかけるのは女子生徒ばかり。

 男子は女子以上に彼女に関する噂話をしていたのだろうが、直接声をかけるような男子生徒は、ほとんどいなかった。

 きっと、あまりにかけ離れた美貌を前にして、自らの立ち位置を必然的に理解させられてしまうことを恐れたのだ。

 もちろん僕も、その仲間だった。


 ただ、初めて彼女を見た日から、僕は彼女を意識しないではいられなくなった。それだけは確かだった。

 それは単に彼女の美貌が異性として魅力的だから、というだけではない。

 そのしぐさ、その表情、その視線、その声音。

 彼女が発するそれら全てが、僕に得体の知れない違和感のようなものを感じさせていたからだ。

 それが僕の頭の奥の方にずっと引っかかり続けていた。



 伸びのついでという言い訳を自ら作りだし、コンクリートのベンチに座る彼女を横目で覗き見る。

 特段何をしている風でもなく、膝の上に置いてあるのは本だろうか。それをなんとなしに眺めて、彼女は俯いていた。


 長い黒髪は電灯の光の反射により白い輪を作っていた。

 そして相変わらず背筋をシャンっと伸ばし座る姿は、一日の疲れなど全く感じさせないくらいに整っている。


 このような時間、このような場所で、何をしているのだろう?

 もしかしたら……恋人と待ち合わせ? いや、告白のために呼び出されたとか?

 そんな事を考えていたら、上条や大澤とのやり取りを思い出した。


『お前はどっち派よ?』


 彼らには曖昧に答えたが、比べるまでもなく本田さんのほうが素敵だと、僕は思っていた。

 だが特段の華もないありふれた人生を送ってきた僕と、これだけ美しい彼女。

 違う世界を生きる住人であろう。

 そう考えると、自然と視線を逸していた。

 部室に戻ろうと体の向きを変えた。

 その時だった。

 一瞬だが、視界の端に彼女がこちらを見て微笑んだように感じた。


「…………えっ?」


 僕はドキリとして咄嗟に視線を戻す。

 だが彼女はこちらを見ている風はなく、先ほど同様、背筋を綺麗に伸ばし俯いているだけだった。

 気のせいだとはわかっていても、こっそりと見ていたことも相まって心拍が跳ね上がり、体温もかあっっと上がった。

 変な期待と妄想を膨らませたことを後悔しながら、部室に入りそそくさと帰り支度を始める。


 その時ふと気づいた。

 彼女を見るといつも感じていたあの違和感。

 それを今は感じていない、ということに。

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