第36話 卵サンド

***

 市内から二時間弱、車を走らせ、久慈市についた。

 実家に帰るのは夏以来だ。年に四、五回母の顔を見に久慈市に来ている。

 仕事も何とか終わらせることができ、今日から五日間冬休みが取れたので、年末年始を実家で過ごすことにした。

 カーポートに車を止め、外に出た。外気が肌に突き刺さるように冷たい。岩手県はどこに行っても寒いが、沿岸部の久慈は特段寒く感じる。

 実家は平屋建ての賃貸住宅だ。

 私は生まれてから中学校までの期間、久慈市で過ごした。父は私が小学生に上がる前に癌で亡くなった。

 父との思い出はあまりないけれど、とても優しくていつも笑っている記憶がある。

 母はそれからずっと女手一つで私を育ててくれたのだ。

 高校受験の時には、私が大人になった時に、少しでも苦労しないようにと、久慈よりも学力が高く人も多い盛岡市内の高校に行くように勧めてくれた。

 それで盛岡の高校に通うことになり、母と父と私が過ごした久慈の家を離れ、二人で盛岡市内に引っ越したのだ。

 父と過ごした家を離れてしまうことに私は寂しく思った。でもそれは私よりも母の方が何倍もそう感じていたはずだ。

 私のためを思って、思い出の場所を離れ、家賃も物価も高い盛岡に引っ越すことに、申し訳なく感じた。

 だから、少しでも母の負担を軽減したくて、高校入学後すぐにアルバイトを始めたのだ。私の働いた対価は微々たるものだったけれど、高校卒業までの三年間、毎月全額母に渡していた。

 母は最初はいらないと拒否していたのだけれど、やがて黙って受け取るようになった。だからてっきり生活費に充てているものだと思っていたのだけれど、大学に入学する時に、「これはしずくが自分で掴んだお金だから自分のために使いなさい」と入学金として渡してきたのだ。

 学費も出してもらっているので、さすがに受け取れず、私は拒否をした。

 だけど母は「いいから」と譲らなかった。お互い頑固なもので拉致があかないのでしかたなく受け取った。

 大学でもアルバイトを継続していて、そこで得た収入は生活費分を除いて貯蓄するようにした。

 そして大学を卒業する時、高校で貯めた金額と合わせて母に再び渡したのだ。夢だった教師になることができたのは母の支えがあったからで、その感謝だった。

 でも母は予想通り受け取らなかった。まったく頑固な親子だ。

 高校大学と七年間盛岡で過ごしたけれど、母は度々久慈市のことを懐かしむように語っていた。

 私のために盛岡に出てきてくれたけれど、本当は久慈に戻りたいんじゃないかと思った。

 教員は転勤が多い職業で、ずっと盛岡市内の勤務とも限らない。いずれ転勤することになると思うと、この機会に私も一人暮らしをした方がお互いにとって良いのではないかと思っていた。久慈には母の昔からの友人が何人か住んでいる。

 そうして不動産サイトを見ていたら、前に住んでいた久慈の家が空室になっているのを偶然見つけた。

 母にそのことを話したら、目を輝かせながら「もう一度行ってみたいわね」と言った。

 内見だけでも行ってみようかとなり、その年の春休みに母と二人で久慈に行った。

 久慈に行くこと自体が、七年ぶりで私たちは「変わらないね」とか「ここの店、潰れちゃったんだね」とか言って懐かしんだ。

 不動産屋さんに連れられて七年ぶりに、私たちが住んでいた家に足を踏み入れた。

 家具も家電もなにもない伽藍とした家なのに、どの部屋も記憶よりも小さく感じられた。

 だけれど壁に残っている私の身長を記した父のメモ書きや、寝る時に人の顔に見えてしかたがなかった大きなシミもそのままだった。

 見るだけと思っていたのだけれど、私たちはその日のうちに賃貸契約をした。

 高校の時から貯めていたアルバイト代を契約金や引っ越し費用に充てた。

 これにはさすがに母も拒否しなかった。

 こうして母は久慈に戻り、私は盛岡でひとり暮らしすることにした。父の仏壇ももとの場所に戻った。

 

「あら。おかえりー」

 家に帰ると母は台所で料理を作っていた。

「お昼食べてないでしょ? もう少しでできるからちょっと待ってて」

 三ヶ月ぶりの母はいつもと変わらず元気そうだ。

「元気そうだね」

「当たり前よ。まだ五十代よ。ようやく人生の折り返しなんだから」

 母は菜箸を使ってくるくるくると、何かをかき混ぜている。

「私も作るからちょっと待って」

 そう言って荷物を居間に置き、奥の部屋に入った。母の寝室兼仏壇のある和室だ。暖房がついてないので寒い。仏壇の前に座り、父に挨拶した。静かな時間が流れる。仏前の写真はにこやかに笑っていた。

「なに作ってるの?」

 香ばしい匂いのする台所に行くと、母はちょうど卵焼きを作っていた。

 フライ返しで器用にブロック状に卵焼きを整えている。

「卵サンドね」

 母は昔から卵サンドをよく作ってくれた。硬めに焼いた分厚い卵焼きを、バターとマヨネーズを塗った食パンに挟む。素朴だけど美味しい卵サンド。

「スープ温めてくれる?」

「うん」

 それから玉ねぎがトロトロになるまで煮たオニオンスープ。

 出来上がった料理を運んで私たちはこたつに入った。

「さ、食べよう。疲れたでしょ? ゆっくりしていきなよ」

 いただきます、と片手で卵サンドを口に運ぶ。ふわふわの食パンと、弾力のある卵の層、そしてまたふわふわ。マヨネーズの味が染みてきて美味しい。パンの耳の食感もまた良い。

「んー。おいしい」

 子供の頃からずっと食べているけれど飽きない。素朴な材料で誰でも作れるけれど、これは母の味で他では食べられない味だ。

「職場はどうなの?」

「変わりないよ。順調。お母さんは?」

 母は近所のスーパーで働いている。盛岡よりも久慈の方が家賃が安いとはいえ、時給も安く、ひとり暮らしをするにはギリギリだと思う。

 盛岡だって平均賃金が全国ワースト二、三位とそんなに高くないけれど。

「そうよ、しずくに見せようと思ってたのよ」

 母はそう言うと、卵サンドを皿に戻し、立ち上がった。「ちょっとまってて」と奥の部屋へと入っていく。

 そしてなにやら荷物を抱えてすぐに戻ってきた。

「今ね、これ作ってるのよ」

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