第3章

第29話 幸呼来


 しずく先生に家族のことや受験のことを相談してから、僕はしずく先生のことが気になって仕方がなくなってしまった。

 あの笑顔、あの優しさ、あの強さ。平凡な僕の頭の中に、彼女の存在が日に日に大きくなっていった。

 春野先生。春野さん。しずく先生。しずくさん。僕は中学生みたいに先生の名前を頭で何度も唱えていた。

 でも僕は中学生じゃないから、彼女が教師として僕に接してくれていることは十分に分かっている。生徒全員に平等なのだ。

 たった少しだけ優しくしてもらっただけなのに、僕はなんて単純なんだろうと思う。

 だけど僕はしずく先生を教師以上の存在として見てしまうのだ。自分のこの気持ちが何なのか分かっている。

 こんなに人を好きになったのは初めてかもしれない。彼女のことを考えると何も手につかない、なんてドラマや小説では使い古された表現なのかもしれないし、みんな知っていることなのかもしれないけれど、僕にとってはまさにその通りで、勉強をしても食事をしても、テレビを観ている時だって、本当に何をしていてもあの人のことを考えてしまうんだ。そして彼女は僕の頭の中で優しく笑いかけてくれて、あの透明な声で語りかけてくれる。

 それだけで平凡な僕の学生生活は本当に世界が変わったかのようにキラキラと輝いているし、映画の主人公のように、ロマンチックなBGMが流れ出すような気分だってしている。

 ああ。彼女ともっと話がしたい。彼女のそばにいたい。

 先生。しずく先生。しずくさん。しずくさん……。

「なあ、大地、聞いてねぇだろ」

「え。あぁ、うん」

「ったく、聞いてないのかよー」

 ずっと前の方で自転車を漕いでいるノリが僕の方を見ずに大きく手を振った。

 いつものノリとの帰り道。帰り際、下足箱でばったりしずく先生と会ってしまい、気がつくと色々考え事をしていた。

「ごめん。なんだって?」

「だーかーらー。紫波さんのニューシングルの発売日だからCDショップ寄るぞーって」

「あぁ。いいよ。ってどこの? 大通りまで行くの?」

 盛岡駅のフェザンにあったCDショップは先日閉店してしまったのだった。

材木町ざいもくちょうのとこ行こうぜ。前に大地が言ってたとこ」

「あー。そうだね。あそこなら帰り道だし」


 僕らは盛岡駅を出て材木町に向かって歩き出す。材木町には「いーはとーぶアベニュー材木町」という430メートルほどの小さな商店街通りがある。

 そこに僕らが今から行こうとしている村定むらさだ楽器店があるのだ。この商店街には岩手を代表する童話作家の宮沢賢治が『注文の多い料理店』を発刊した「光原社こうげんしゃ」という小さな出版社がある。今は民藝屋さんになっているのだけれど、その敷地内に「可否館コーヒーかん」というお洒落なカフェがあるのだ。

 可否館の入り口は通りから少し奥まったところにあり、民藝屋さんの横にあるトンネルのような通路を潜り抜けた先にある。

 僕は一度も行ったことがないのだけれど、光原社の横を通るたびに、トンネルの向こうに見える洋風の小さな建物やその前にある中庭、地面に落ちる木漏れ日、そのひとつひとつの光景がファンタジーのようで、行ってみたいなと思いつつどうしても一人では行く勇気がなく、そのまま通り過ぎているのだ。

 一体、中はどんな感じになっているのだろう。カフェでコーヒーを飲む姿を想像してみる。

 暖色の暖かいライトが小さく店内を照らす。僕はエスプレッソコーヒーを口にする。カチャ、とテーブルに小さなカップを戻す。

「美味しい?」しずく先生が微笑みながら尋ねてくる。

「ここね。私のお気に入りなの。『雨ニモマケズ』って知ってる? 宮沢賢治が残した詩の言葉でね――」

 先生は授業のように偉人の言葉を教えてくれる。僕はそれを一言も漏らさないように聞く……。

 きっとあのトンネルの向こうには、そんな光景が待っているのだ。

 なんてありもしないことを想像して、本当に僕は中学生みたいでダサい。ダサすぎる。


 旭橋あさひばしを歩き北上川を渡る。橋の上から北上川の上流側を見ると、岩手山の全景がよく見える。だいぶ日が長くなったようで、夕陽に染まる空と岩手山がとてもきれいだ。確か条例か何かで、景観を守るために市内の建てられるビルの高さ制限があったはずだ。その条例のおかげもあって川沿いは岩手山がよく見えるのだ。


 ドンドン、ドンドン

 サッコラーチョイワヤッセ!


 今日もどこからか風に乗ってさんさ踊りを練習している声が聞こえてくる。

 サッコラーというのは、漢字にすると「幸呼来」で、幸せを願う掛け声なのだそうだ。

「来週から夏休みだもんなー」

 学力テストも終わり、僕らは来週から夏休みに入る。「夏までに決めれば大丈夫よ」としずく先生が言ってくれたが、結局僕はまだ将来についてどうしたいのか決められていなかった。

 岩田さんは今回の学力テストで自己最高得点を叩き出したらしく、ぐんぐんと夢に向かって成長している。ノリも上京すると決めたようで、受けたい大学もいくつか絞り込んでいた。なべやんも奥寺さんも志望校が決まって、その大学レベルに合わせて勉強をしていた。

 なんだか僕だけが目標も持たずにフラフラしていた。しかもこのところは勉強もろくにせずにしずく先生のことばかり考えてしまっているのだ。本当に情けない。

「そーいや、しずくちゃん、さんさのパトロール隊らしいな」

「ひぇっ」

 急にしずく先生の名前が出てきて、声が上ずってしまった。

「なに? どうした?」

「あ、いや何でもない。先生がどうしたって?」

「なんか俺らが悪いことしないように、見回るらしい」

「へぇー。春野先生だけ?」

「いや、数人出るみたい。会わないようにしないと」

「なに? ノリ、悪いことすんの?」

「ちげーよ。友だちと行くんだけど、一緒にいるとことか見られたくないじゃん」

「なるほどね」

「大地は行かねぇの?」

「俺は特に行く予定ないなー。あんまり興味ないっていうか」

「それがいいよ。ばったり学校の先生に会ったらめんどくせぇもんなー」

 しずく先生、さんさ踊りに来るのか……。

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