第二
豪雨の中、反対される家族を押し切って正邦の家に向かった。
正邦に電話をかけるも、出ない、繋がらない。
泊まっているホテルに電話をしたけど、その日、正邦は泊まっていなかった。
「え、と、ありがとうございました…」
電話を切ってすぐに走った。ここからなら新居よりアパートの方が近いからと向かった。
正邦はもう解約したと言っていたけど、胸騒ぎに押されて走った。ジャブジャブとすぐにずぶ濡れになるけど、構わなかった。
昨日別れてから事故にでも遭ったのかと心配していた。
いや、その時わたしは考えないようにしていた。
やましさを抱えた人間が考えることなど、一つしかないなんて、考えないようにしていた。
替わりに思い浮かべたのはここ二ヶ月あまりの記憶だ。
結婚式の規模の変更だ。
元々地方出身だったのと、マンションの資金も必要で、式に招いたのは少なく、ほぼ身内だけで行うような規模だった。
友人知人はおりを見て後日、なんてしていた。でもそれは最初の打ち合わせの規模とは違っていたと思い出す。
『ああ、会社、今混乱しててさ、悪いなって』
確かに四月からの規制の緩和で社内は混乱していた。わたしの会社も人員が急に足りなくなっていたからそれはわかる。
だけど、あたかも少ない傷に抑えようとしていたように思えてならない。
目に見えない傷を、その傷の大きさをまるで最初から知っていたように思えてならない。
少しずつ削られていった、そんな風に思えてしまう。
「いない…よね…」
学生の頃から住み続けているアパート。
少しボロいけど、近所に公園があって、正邦はそれを気に入って住み続けていた。
わたしも足繁く通った場所だ。
何度押しても返事がない。
何度呼んでも返事がない。
何度も何度も叩いても、雨の音だけが耳に障る。
当たり前だ。当たり前だと頭のどこかで気付いていた。
焦る気持ちだけが、まるで回し車をひた走るハツカネズミみたいにぐるぐると回っていたのを覚えてる。
名残惜しさを抑えて、新居に向かおうと思った。
でもここから離れたら、思い出の場所を後にしたら、悪い未来が決定しそうで堪らなくて涙が出そうになる。
雨が降っていて良かったなんて、強がりを口にしながら、新居の扉の前に立つ。
息を整えて、一つ大きく深呼吸をした。
ポタリポタリとわたしの雨がマンションの扉の前に溜まる。これは未来を暗示していないと言い聞かせてみる。
扉を開ければ、きっと正邦がいる。
優しく起こしたら、『緊張して寝過ごした。ごめん』なんて言って、雨で良かったよねって笑い合う。
そうなるに決まってる。
未来はそういう風に出来ている。
そう願って扉を開けた。
◆
廊下は薄暗かった。
びちゃびちゃの雨に濡れたわたしの身体が、まるでわたしのここ四か月の汚れみたいで、新雪みたいなフローリングを気にして上がるのを躊躇した。
だけど、玄関に頼んでいた二人の写真がない。
「なんで…」
わたしが頼んだのは、二人での旅行の写真だった。それを確かに正邦は置いたと言っていた。
雨で震えているのかな。
冷えて震えているのかな。
いや、わかっている。ガタガタと身体が震える理由はもう見当がついている。認めてしまえ、認めろと何か、どこからか、いやわたしのまとう雨が、汚れがそう諭してくる。
そしてリビングに入ると、何にもなかった。
わたし以外の荷物が、やっぱり何にもなかった。
「……」
そして漸く気づく。とっくに気づいていて、でも考えないようにしていて、いやまだ諦めてはいないけれど、言葉が口から諦めを持って出てきてしまいそうで、咄嗟に口を塞いだ。
そこには卓袱台があった。
わたしが一人暮らしの時に使っていた、白いまんまるな卓袱台だ。
捨てても良かったけど、子供用にでもしようかと捨てなかった卓袱台だ。
新居はそこそこ広く、一人暮らしにしか似合わないそれが、寂しそうにポツネンと居座っていた。
これは、これが未来だと感じた。
だから諦めが口から勝手に出てきてしまう。
「…知って…たんだ…」
わたしは正邦に逃げられたのだと。
そう気づいた時には全てがもう遅かった。
長く辛い道のりを耐えてきたわたしの心を折るには充分過ぎるほどの結末だった。
わたしは膝をつき、放心しながらここ四ヶ月あまりの出来事をもう一度思い出した。
少しずつ削られていった式の規模。
不自然なくらい訪れていた回数。
でも宿泊はしない。
セックスもない。
そして睡眠薬に頼らねば眠れないほどの精神的な疲労。
よくよく思い出せば、いつもの優しさとは違った種類の優しさに、わたしは十分怪しんでいた。
怪しんでいたけど、スマホを見ても女の影はなく、ただただ疲労だけが溜まっていっていた。
それがそもそもの勘違いだったのだ。
罪悪感からわたしは尋ねることが出来なかった。だから楽しめる話を、未来の話を、なんて張り切って話していたけど、正邦にはどう映っていたのだろうか。
白々しく映っていたのだろうか。
嘘つきのわたしを見て、どう思っていたのだろうか。
その結果はすでにこの新居が教えてくれているけど、正邦の本音を知りたかった。
昨日のキスが今のわたしくらい物理的に冷たかったのは、ああ、そうだ。こんなことしそうだなぁ…ヒントなんて、いくらでもあったのだ。
正邦がそんなことをするわけないって、勝手に思い込んでいただけだ。
「ずっと…覗いてたんだね、正邦…」
覗いていたのに、言わなかった正邦が何をするかなんて、今のわたしには丸わかりだ。
ね、正邦。わたしは今日に賭けていたんだ。
でもそれは、正邦もだったんだね。
長く辛く耐えていたのは、わたしだけではなかったんだ。こんなにもお揃いだから、こんな結末がお似合いなのかも知れないね。
「嘘つき…ふふ。あれは確かに嘘の月だね」
だってさ、正邦。
わたしのことが、嫌いなら、無関心なら、あなたはキスなんてしないんだよ。
最後の最後に失敗したね。
「あの月がまぁるいわけだよ…」
そう言って、わたしは小さくクスリと笑った。
涙なんて、雨の滴りで出ているのかわからないから、せめて小さく笑ってみた。
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