僕の瞳に月が滲んだ

墨色

有馬正邦

第一

 魔が刺す。いや指すだったか、差すだったか。


 今の僕にはどれも正しいと思えてしまう。


 今僕がいるのは彼女の家のトイレだ。


 用を足すわけでもなく便座に腰掛けていた。



「これは…どうしようか」



 手元には彼女のスマホがあった。最近の彼女のふとした違和感から寝ている彼女を横目に覗いてしまったのだ。


 怖くなったのか、気づけば何故かトイレに持ち込み立てこもっていた。


 そのスマホの中にあった一つのメッセから、紐付けるようにして検索し、そのスマホ内を指でチェックした後に出た言葉だった。



「は」



 はは。


 スマホ内の彼女は、僕の知る彼女ではなかった。淫ら、堕ちる、豚。そんな低俗な言葉しか出てこない。



「いつから…この中西ってやつと…」



 思ったより冷静な自分に驚きながら、スクロールする。長年の付き合いから彼女がすぐに起きることはないだろうと予想するが、気持ちが焦燥に駆られているのか、指が速いし、胸が痛い。


 こんな時に何故罪悪感みたいなものを感じるのかは生来のお人好しの性根のせいかわからないが、スクロールは終わらない。


 彼女と出会ってから十三年。


 付き合ってから七年。


 確かに彼氏としては、頼りないかもしれないが、そこまで不満に思われていたのだろうか。



「あった…二か月前…」



 遡って遡って辿り着いたその最初。その浮気相手との行為はここから始まっている。



『また愚痴りなよ』

『いつでも聞くから』


『酷い』

『酔わせて襲うなんて』


『嫌がってなかったじゃんw』


『嘘』

『そんなことありません』


『ほらこれ見て。彼氏の愚痴だらけ』

『あとあんあん動画w』



 最初は僕とのことを相談していたらしい。思い出せば、確かに二か月前は彼女となかなか時間が取れなかった。お互い社会人だし、仕方ないとは思っていたのは僕だけだったのか。



『消してください』


『いいよ』

『でも直接見ないと消したかわからないよ』

『またあっこで』

『待ち合わせしよ』


『行けば消してくれるんですね』

『わかりました』


……


『中西さんは嘘つきです』

『最低』


『全部消すとは言ってなかったじゃんw』

『また増えて困ったね』

『彼氏にバレるかな』

『けど気持ち良かったでしょw』


『最低』



 客観的に見れば、僕の彼女は手玉にとられるかのようにしてやり取りしている。さん付けから相手は年上だろう。


 言い訳ではないが、この時はすることが多くておざなりにした覚えはあるし、その事に罪悪感もあって、その後ひたすら優しくして山場を乗り切って、きちんと向き合っていたつもり…



「だったのか…僕だけが…」



 スマホ内の過去を遡り、今の現在までのやり取りを見るに、躊躇った跡も、抵抗の跡もある。


 だけど、これは餌にしか見えない。


 その蓋をこじ開けて欲しいとねだっているような。そんな風にしか見えない。


 そして最初は無理矢理だったようだけど、最新のやり取りはもう自分から誘っていた。



「最初に相談してくれれば……」



 そうは思うけど、もう遅かった。それにどう見ても僕が添え物、快楽の増幅装置程度にしか思えない。



『まさくにって言うと締まるよなw』

『やめてくださいw』



 彼女であるみゆきとは、中学からの同級生で、高校生の頃から付き合っていた。二人でいろいろなところに出掛け、様々な思い出を共有し…



「やめよう…」



 手のひらから、指の隙間からまるで溢れる砂のように、僕の中からみゆきのことがすり抜けていく。


 それは果たして、掴みたいのか、零したいのか、ただ無くなるまで眺めていたいのか。



「どうでもいいか…」



 そう口にするも、強がりなのがわかってしまう。そんな軽い気持ちじゃなくそう溢したのは本当なのに、白々しく聞こえてくる。



「いや、これのせいか…」



 このやり取りの中で、あくまでセフレ扱いしている部分が気になった。



『付き合ってよ』

『嫌です』


『彼氏と別れろよw』

『無理です』

『だって彼氏のこと好きですから』


『嘘だろ』

『あんな喘いでてよく言うなw』


『そういうの嫌いです」

『やめてくださいw』


『わかった』

『とりあえずじゃあ日課送れw』

『エロ自撮りw』

『ちゃんと日付添えろよw』


『ほんとそれ好きですよねw』

『わかりました』

『使ってくださいw』



 僕は涙も小便も出ていないのに、気づけばトイレットペーパーを手に取っていた。


 いつもより多く引き出していた。


 床に触れるくらい伸びていた。


 くるくると巻き直しながらそれをぼうっと眺めて、最後に小さく千切った。



「好き…か…なんだろうな」



 スマホの中のその汚いやり取りを、消えるわけもないのに、それでゴシゴシ拭き取りながら、とても小さく呟いた。

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