第三十六話 若流が愛した女たち

 UOKうまるこwの事務所を後にした若流賢人わかるけんとは、事務所前にある並木通りを歩いていた。この並木道は駅に近づくにつれてカフェなどが立ち並んだ街並みへと変化していき、洗練された都会の一角といった景観へなっていく。通りを歩く人々の姿も同様に洗練された人たちばかりであった。

 こういった人通りの中を若流が通り過ぎていく。かれはスタイルが良いだけでなく身長も高い上に、類まれな美しい顔立ちをしていたから、通り過ぎていく人たちはみな、男女を問わずり返って思わず若流の姿を見てしまう。この日の若流は長官に会うためスーツ姿だった。このオーダーメイドのスーツは、プロポーションの整った若流にとりわけよく似合っていて、奇抜きばつなところなどまったくないのにもかかわらず、どうしても人の目を引いてしまうのだった。

 若流がこういった人の視線に心地よさを感じつつ、すれちがう女性の顔に上から目線を差し向けてみれば、彼女かのじょたちと目の合ってしまうことのなんと多いことか。女性の方では思わず吸い寄せられるように若流の顔を見てしまうので、若流の方でも視線を向けてみれば、おのずと目が合ってしまうのである。

 この男は本当にれするほどの色男だった。


 先ほど副長官室のドアの隙間すきまから女の秘書が若流わかるのぞいていたが、この女も若流におとらずおどろくほど見事な美女であった。こしまである絹のようにつややかな長い黒髪くろかみを真ん中に分け、そこから見える小さな顔は、生まれてこの方直射日光を浴びたことなどないかのようなけがれのない白いはだで、サクランボのようにハリのあるやわらかなくちびるに、長いまつ毛のうるおった眼差しが、上目づかいでドアの隙間すきまから若流を見つめていたのだった。


 若流は先日副長官に呼び出されたことを思い出した。

 その時もドアをノックして最初に顔を見せたのはあの秘書であった。若流を部屋に招き入れた秘書は、その長いまつ毛から差しむ眼差しで、若流の頭のてっぺんから足のつま先までを、文字通りめるように見つめ回した。若流がいい男であることは一目見ればわかる。それが本物なのか確認しているのだ。ヘアサロンにはちゃんと行っているのか、肌のメンテナンスにもしみなく金をかけているのか、スーツやくつだけでなく、身だしなみや身につけているものにいたるまで、それらが高級かどうかを品定めしているのだ。外見に自信のある若流にとっては、これはむしろ喜ばしいことであって、喜悦きえつらしそうになるのをおさえながら、女の顔をめ回すように見つめ返した。

 執拗しつような品定めを終えた秘書が、余裕よゆうのある優雅ゆうがな笑みをかべて口を開いた。

「副長官は多忙たぼうでいらっしゃいます。次の予定がございますので、手短にお願いいたします」

 これを聞いた若流わかるは思った。

 手短にだって? 呼ばれたのはおれの方だぜ? 俺は副長官に用事なんかない。手短にしてほしいのはこっちの方だ。

 しかし、若流も白い歯が見えるように、さわやかな笑顔をかべてこう答えた。

「副長官。おいそがしいところおそれ入ります。お呼びいただいた若流賢人わかるけんとでございます」

 副長官は机の椅子いすに座ったまま窓の外の方を向いていた。この部屋は窓側全面がガラス張りで、都会的な景色が一望できる。

手志摩てしまさん、ご要件をお伝えして」

 副長官はり返りもせずにいった。背もたれの高い革張りの椅子に座っているため、ひじけに乗せた指先くらいしか若流からは見えない。

「承知いたしました。副長官にはあまり時間がございませんので手短に申し上げますが、今般こんぱん、あなたが司法取引に応じて、サンズマッスルを調査するよう命じられていることは我々も承知しております。単刀直入に申し上げますと、その調査内容について我々にも報告してほしいのです。応じられますか?」

 若流わかるは秘書ではなく副長官の方を向いて答えた。

「この件につきましては、長官へ直接ご報告申し上げることになっております。それに何か問題がございますか?」

 秘書は歩いて副長官と若流の間にわざわざ割って入り、子どもをさとす時に見せるような笑顔を取りつくろって見せた。

「失礼ですが、我々は長官だけでなく副長官にもご報告願いたいと申し上げているのです。応じられるかどうか、イエスかノーかでお答えください。おそれ入りますが、手短にお願いしたいのですよ。副長官には次のご予定があるのです」

 若流は目の前に立った秘書を無視して副長官にいった。

「ですから、長官へ報告することになんの不足があるのでしょう?」

「あなたの発言は私が承ります。私は副長官にもご報告願いたいと申し上げているのですよ。不足があるかどうかなど、あなたの判断することではありません」

「…………」

 若流は一瞬いっしゅんだけ秘書の顔を見て、すぐに副長官が座る椅子いすの背中に目を移してこう続けた。

「副長官。ご理解いただきたいのですが、私は直接長官へ報告をするよう命じられております。これはすなわち、長官から副長官へ情報共有があるという認識でございます」

「我々は、それでは不十分だという認識なのです」

「長官が情報共有をしないとでも?」

「そういうことを申し上げているのではありません。我々は直接あなたから報告を聞きたいのです。別にそれほど難しいことではありませんよね? 五分十分お時間頂戴ちょうだいするだけの話ですよ? それを副長官のためにわずかな時間すら取れないとでもいうのですか、あなたは?」

 若流わかるはさわやかに白い歯を見せながらいった。

「長官から情報共有があって当然という認識です」

手志摩てしまさん? 次の会合におくれてしまうわ。かれに例の話をしてあげてくださる?」

「承知いたしました。それでは若流さん、あまり大きな声では申し上げにくいことなのですが、あの長官にはいささか不謹慎ふきんしんなところがございまして、おそらく近い将来に何らかの沙汰さたがあることはけられそうにないのです」

「長官が? 何があったのです?」

「極めて機微きびなことですから私の口から申し上げることはできませんが、近い将来、あなたがこの事実を知ることになることは間違まちがいありません。それでですね、わかさん。あなたのことを思って申し上げれば、あの長官と関わりを持つことはあなたのためにならないのですよ。実のところを申し上げますと、あなたにはこの件から手を引くべきなのです」

「なんですって?」

 若流が動揺どうようするのを見て、秘書はより優雅ゆうがな笑みをかべた。

「あなたのお気持ちはわかります。せっかく司法取引に応じて、犯した罪を帳消しにできるはずだったのですから」

「いや、そんなことは……、でも、しかし」

 この美しい秘書はうれしそうに目を細めた。

「あなたが心配するのも無理はありません。今、あなたの司法取引は実質長官との取引になっているのですから。ともなれば、長官の取引に応じたあなたも無実ではいられますまい。しかし、副長官とも取引をしていればですね、話がちがってきますよね? 世の中それほど無慈悲むじひではないということなのです。副長官ならば、司法取引を有効なままにできるのですよ」

「な、なんですって……?」


 若流は考えた。あの取り調べの時もそうだったが、この件はわからないことが多すぎる。あの時の取調官は具体的なことは何も知らされずに、ただ強引に司法取引をし付けてくるだけだった。この女も同じなんじゃないのか?

 取引に応じてみれば、結局のところサンズマッスルにからんだメロンズとかいうヤツと、その仲介ちゅうかいをした宮内先生についての調査任務だった。

 サンズマッスル自体はクソみたいなただのNPOだとして、その裏にかくれているメロンズとかいう男と宮内先生には何かがありそうなのでる。それが何なのかまったく説明がないのだ。

 メロンズをサンズマッスルに紹介しょうかいしたのは宮内先生ではないかと長官は考えている。しかし、なぜ宮内先生なのかがわからない。長官は何か情報をつかんでいるのかもしれないが、その情報が知らされていないのだ。そして、なぜ宮内先生が殺害されたのかも。しかも、この件は今国会で審議しんぎしている光合成法案に関係していることも間違まちがいないのだ。

 宮内先生はサンズマッスルに殺されたと思っていたが、これまでの情報をつなぎ合わせてみれば、メロンズという男に殺害されたと考えた方が自然だとも思える。

 このメロンズというヤツは相当ヤバいヤツらしい。絶対に深入りしてはならないとのことでもあった。おそらくだが、この外国人はサンズマッスルを通して光合成法案の成立に関与かんよしている。サンズマッスルとの間を仲介した宮内先生の存在が、メロンズにとって不都合になって、殺害したと考えられないだろうか。

 少なくとも理事長は次に殺されるのは自分だと考えている。

 サンズマッスルで盗聴とうちょうした時の理事長と太満の会話を思い出してみれば、スザクやセッカと契約けいやくしているのはメロンズ対策であって、それも光合成法案が可決されるまでという話だった。つまり、スザクやセッカは、対メロンズの用心棒としてやとわれているのだ。

 このメロンズという男は何者なんだ?

 この男とその背後にいる何かは相当ヤバそうだ。おそらく宮内先生も無関係な人間ではなかったのである。宮内先生だってよく考えてみるとおかしいじゃないか。メロンズとサンズマッスルをつないだってことは、もともとメロンズと知り合いだったってことだよな? サンズマッスルとだってどんな関係があったっていうんだよ? よく考えてみろ。隠居いんきょしたUOKwウアックウの元副長官にコイツらとどんな接点があったっていうんだ。さらになんで殺されたっていうんだよ? おかしいじゃないか。宮内先生は、本当は何者だったんだ?

 ひょっとすると、長官はすでに知りすぎていて、身の危険にさらされているのかもしれない。それで失脚しっきゃくさせられようとしているのだろうか。しかし、だれが長官を失脚させようとしているのだろうか。あのメロンズという外国人だろうか。あるいは、まさか、この副長官がそうなのか? もしそうだとすれば、おれを呼び出して利用しようとしている可能性が高い。

 若流わかるは目の前にいるおそろしいほど美しい秘書と、大きな革張りの椅子いすに背を向けて腰掛こしかけ、指先しか見えない副長官を見て思った。

 こんな人をおとしいれて目を細める人間などだれが信用できるものか。ましてや人をはるか下に見て、直接会話もしない人間などなおさらのことだ。確かに長官だって裏に何かあるにちがいない。しかし、それでも血が通っている同じ人間に感じられるではないか。もし、仮の話として、どちらにだまされる方がまだマシか、そんなことを選ばなければならないほど追いめられた最悪の場合、血が通った長官の方がまだマシだと考えてしまっても、それは人情といえるものではないだろうか。

 この副長官と秘書を見てみろ。こんな者どもを誰が信用できよう?


「なるほど……、しかし、にわかには信じられません。あの長官に……、本当なのですか?」

「あなたが混乱してしまうのも無理もありません。私どもも長官のことは残念でならないのです。何もこの場で結論を出さなくとも結構でございます。本日のところはここまでとして、ゆっくりとお考えいただくのはいかがでしょうか? ただ、あなたが思っているほど時間はないかもしれません。急がれた方があなたの身のためだということも、親切心から申しえさせていただきます」

「承知いたしました……」

 この場は副長官を敵にまわすことは得策ではないと判断し、若流わかるはお礼をいってその場を後にしたのだった。

 これがつい先日のことだった。本当は今日、長官に報告したかったのだが。


 さて、駅に向かって歩いていた若流は、駅前にある並木沿いのオープンカフェに入っていった。そこである女と待ち合わせをしていたのである。

 待ち合わせをしている女というのは、明智あけち大臣の秘書を務めている女だった。

 この女は海外の名門大学を卒業した後、外務省に入省したという経歴の持ち主で、おそろしく頭の切れる優秀ゆうしゅうな女であった。

 なぜ若流が明智大臣の秘書に近づいたのかというと、この案件が光合成法案にからんだ思惑おもわくが裏にひそんでいることがわかって、いくつかのアプローチを取っていたからなのだ。サンズマッスルの理事長は有識者会議のメンバーを務めていたから、その関係者も洗い出していたのである。するとどうであろう。この法案は明智大臣が中心となって進めていたのだが、調整ごとなどのさまざまな事務方の仕事は、この女が中心となって進めていたのだ。どうもサンズマッスルの理事長をメンバーに加える方向で調整を進めたのは、当然、明智大臣の承認を得た上での話であるが、この女なのだそうである。サンズマッスルの理事長をよく思っていない関係者も少なからずいて、そういった人たちへの聞きみでわかってきたことなのだ。

 そういった次第で若流わかる明智あけち大臣の秘書に近づいたのだが、今回カフェで待ち合わせをしていたのは、それ以外の理由があった。


 若流は再三説明している通り大変な色男である。背も高くスタイルもよいので女性から無闇むやみにモテた。今まで付き合ってきた女の人数は星の数ほどである。これほどの美男子ならば、さぞ美女とのお付き合いも多いのだろうと思われるだろうが、実際にはそうでもない。確かにおどろくほど美しい女とも数え切れないほど付き合ったことはあったが、ここ数年はそういうわけでもなかったのである。

 若流の女の趣味しゅみは、一般的いっぱんてきな男性と比べるといくらか趣向しゅこうが異なっていた。実は、この男の趣味は、どちらかというと外見に劣等感れっとうかんを持った女の方が好みなのだ。

 ルックスに自信のない、いや、むしろコンプレックスをいだいているような女が、若流のような大変な美男子に二人きりで趣味のいいお店や美しい夜景がのぞむ場所で熱くいい寄られてみればどうであろう。若流は時として情熱的であからさまなものいいをする。想像してほしいのだが、まゆ毛の整ったその美しい眼差しで見つめ続けられ、そっと手を重ねられ、耳がとろけるほどのあまめ言葉が執拗しつようり返されればどうであろう。若流わかるはスタイルがよく背が高い、しかもいいにおいがするのだ! このような男に、だれも見ていない咄嗟とっさのタイミングで強引にき寄せられ、熱いキスをされようものなら、もはやこしがくだかれ、これまでの人生で身につけてきたさまざまな心のよろい、閉ざされた心、白馬の王子など現実にはいない、いたとしても自分のもとにはやって来ない、自分などが異性から情熱的に愛されるわけがない、だから自分は相応のいをすべきであって、美男子から愛されたいなどという願望を持つべきではないのだ、そういった心の奥底おくそこに閉ざしたものに、無意識にも鎧を何重にも着込きこんでいたはずだったものが、図らずも一枚一枚はがされてしまうのだ! それも無理もないことだろう! なぜなら、若流はにくらしいほど容姿端麗ようしたんれいな男なのだから!

 若流はこれにたまらぬほど興奮する!

 美しくなくとも社会人としての立ち振舞ふるまいを身につけてきた女たちが、自分のせいで、はじも外聞もなく、文字通り身も心も丸裸まるはだかになる様が! それを見て興奮するのだ! それほどまでに自分は魅力的みりょくてきなのだと! この男はなんという破廉恥はれんち魔物まものであろうか!


 極めて高キャリアである明智あけち大臣の秘書は、おそろしく頭が切れるたけでなく、細部まで気配りが行き届く上に高い調整能力を持った女であった。ただ、美人ではなかった。そういった外見のことは本来重要なことではないのだが、若流わかるはそれをとても気に入ったのである。そういったわけで、駅前の並木通り沿いにあるオープンカフェで待ち合わせをしていたのだった。


 しかし、待ち合わせ時間をとうに過ぎているというのに、待てど暮らせど明智あけち大臣の秘書は来なかった。スマホのメッセージアプリを開いてみても既読きどくはついていない。空になったアメリカーノのカップを横目に念のため電話もかけてみたが、電波の届かない場所にいるか、あるいは電源を切っているかのどちらかだとのことだった。


 仕方なく家路についた若流は、途中とちゅうで昼間から営業しているスポーツバーに立ち寄り、一杯いっぱい飲んでから高層階の自宅へ帰った。その時にはすでにあたりが暗くなり始めていた。

 エレベーターに乗り、だれもいない通路を通って自宅玄関げんかんを開ける。この時に異変を感じた。

 おくに見えるリビングが明るいのである。

 玄関ドアのかぎはかかっていた。照明を消さずに家を出てしまったのだろうか。そんな思案をめぐらせながら若流がリビングへ向かうと、ソファに黒いマント姿の男が座っているのが見えた。

「やあ、おそかったじゃないか」

 男はグラスを片手に若流わかるに向かっていった。

「君、なかなか酒の趣味しゅみがいいじゃないか。遅いから一杯いっぱいもらっていたよ」

だれだ……、お前は? なんでここにいる?」

「ふん」

 男は鼻で笑って立ち上がると、マントの中からピストルを出して若流に向けた。

「まったく。余計なことに首をんじまったもんだよ、お前は……」

 男がそういい終わらぬうちに、若流は一瞬いっしゅん距離きょりめると、ピストルを持つ手をひねり上げた! ATP能力がないとはいえ若流も光合成人間なのである! 一般人いっぱんじんには到底とうていおよばぬほどの高い戦闘能力せんとうのうりょくを持っているのだ! うでをひねり上げた勢いのまま、ヒジで男の首を打ち上げ、そのまま小外掛こそとがけでヤツの軸足じくあしはらいのけると、ゆかたたきつけた!

「ぐほ!」

「テメェ! 何者だ! なんでここにいる!」

「ゲホ! ゴホゴホン! 待て! 何でも話す! だから待ってくれ!」

「どうやって入ってきたんだ!」

 若流がマントのえりをつかんで首をキメようとしたところ、後ろから誰かの気配を感じてり返る! そこにはもう二人黒マントの男がいて、若流めがけてサイレンサーつきのピストルで何発もち放った!

 若流わかるが今まで経験したことのない衝撃しょうげきを体に感じ、目の前が真っ暗になった! 平衡へいこう感覚を失い、何かがたおれる音がする。しかし、リビングで倒れたものなど何もなかった。倒れたのは若流だった。若流が受け身も取らずにそのまま倒れたのだ!

「痛えなこの野郎やろう。何も知らず泳いでいればよかったものを、仕事を増やしやがって……」

 男が何かいったが、若流には次第に聞き取れなくなっていく。

「何だ? 何がどうしちまったんだ? 真っ暗で何も見えねえ!」

 若流が所構わず手探りをすると、何かに手が当たってだれかがいるのがわかった。しがみついて立ち上がってみると、その人はミキちゃんだった。

 ミキちゃんとは、若流が高校時代に付き合っていた女の子である。

「ミキちゃん……。な、なんで?」

 ミキちゃんは当時と何もかわらぬ若い姿のままで、浴衣を着ており、結い上げたかみの毛にカラフルな髪飾かみかざりをしていた。

 背後にも誰かの気配がして、り向いてみるとそこにも浴衣を着た女がいるではないか。この女は当時まだ行われたミス・キャンパスの優勝者で、若流とはお似合いのカップルだといわれていた女だった。

 さらに視界のはしに別の人影ひとかげが入ってくる。この女はバイト先で出会った女だった。この女も浴衣を着ていた。

 それだけではない。すぐとなりにいるのは就職活動中に出会った女だ。こっちには元同僚もとどうりょうや取引先の女、あの子は飲み屋の店員だし、そっちの子はジムのインストラクターで、そこの子は旅先で知り合った女だ。こういった調子で次々と女が姿を現し、若流わかるは無数の女たちに囲まれていた! 彼女かのじょたちはなんと、おどろくべきことであるが、みんなが色とりどりの浴衣を着ていて、全員がすべて若流と付き合った女たちだったのだ!

「みんな? いったい何? どうしちまったんだよ? なんでこんなところにいるんだ?」

 若流がそう問いかけると、彼女たちは一人、また一人と後ろをり返って歩き出した。

「どうしたんだ? みんなどこへ行くの?」

 若流が後を追おうとすると、どういうわけか思ったように足が動かない。そんな若流をよそに女たちはどんどんはなれていく。彼女たちが向かった先には高く生いしげったヨシ原があって、みなその中に姿を消してゆく。ヨシ原の背後には色とりどりの何かが煌々こうこうと照っていて、夜空を明るくしていた。これを見て、若流はあそこで祭りがやっているのだと思った。自分も祭りに行きたい。彼女たちみんなと祭りで楽しみたいと思った。しかし、思うように足が動かない。それもそのはずである。若流は川のほとりにいたのだ。どうりで先に進めないはずだった。

 夜空で重油のように黒くなった川の流れは、今も昔もかわらぬように流れている。彼女かのじょたちが姿を消した対岸のヨシ原は、今では無闇むやみに遠いところにあった。あんなに遠かっただろうか。

 そんなふうに不思議に思いつつも、若流わかるは気づいていた。自分が死んでしまったことを。

 川のあちら側は生者の世界なのだ。対岸の黒いヨシ原の向側、色とりどりに照らされた世界にはたくさんの男女がいて、喜びや悲しみ、出会いや別れが星の数ほどり返されている。今までも。そして、これからも。

 それに対してこちら側は真っ暗闇くらやみで若流一人しかいない。それもすぐに消えてしまうのだろう。

 それはたとえようもないほどの孤独こどくだった。

「いいな、みんな。楽しそうで……」

 若流は対岸へ行きたかった。

「ねえ、みんな。おれはここだよ。ねえ……」

 次第に祭りの明かりが消えていき、辺りは完全な真っ暗闇になってしまった。

「ねえ、みんな! ねえったら! みんな! みんな! みんな!」

 体中に弾丸だんがんまれた若流は、自宅リビングでその若い命を落としたのだった。(続く)

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