本章

第1話

机に寄りかかる彼女は、長い髪を風に踊らせその顔を隠していた。

 

「卒業するとしばらく会えなくなるわね」

 

ついぞ、会えず仕舞いだった。

やはりできない約束なんかするもんじゃない。


教室の片隅。夕陽が窓から差し掛かる。

坂本も少し表情を暗くした。

何か言いたい。そんな時にこの口は役に立ってくれない。

「まぁでも、これで一生の別れってわけじゃないもんね」

坂本はその言葉に食らいついた。


「そうさ…。きっとまた会える。

落ち着いたら、必ず会いに行くよ」


「そう…。

じゃあ、待ってるわ」


そう言ってポンッと立ち上がると、彼女は外へ向かって歩き出した。


扉に手をかけたとき、一瞬、立ち止まった。


が、振り返ることもなくそのまま出ていってしまった。

その長い髪を風に流して。

 

彼女が去った扉を、坂本は見つめ続けていた。

このシーンを、焼き付けないといけない気がした。


「熱っ…」

ラーメンの湯気が顔を覆う。

一すすりすると坂本は頬杖をつく。

目の前では窓ガラスが相変わらずの阿呆面を写し出している。

あのとき彼女は、何かを待っていたんじゃないか?

俺の何かを期待して、立ち止まったんじゃないのか?


あれから3年、いまだに考えている。

だったら会いに行けばいい。

俺だってそう思う。

だが俺にはやることがある。

何を?

それがわかれば苦労しない。

窓の外を行き交う人々はせかせかと先を急いでいる。

坂本が小さくため息をついたとき、肩が急に重くなった。

そこに乗った手の先を見上げると、島が立っている。

「行こうぜ」


二人は並んで街路へ出た。

「何をため息ついていた?」

「疲れたよ」

「何に?」

「人間ってやつにさ」

クスッと笑う島を、坂本は気にしない。

「だがお前はおそらくあと40年は人間をやっていくんだぜ」


二人とすれ違う人々は相変わらず先を急いでいる。


「たった1つの道、たった1回、死ねば終わる。

みんな何をそんなに頑張っている?」

「みんな追われているのさ」

「何に?」

「社会という全体に追われ、自分個人を追っている」

「ふーん」

二人の横を、小さな子供を連れた母親が通り抜けた。その手には、遊園地のチラシがあった。


二人は隣の路地に入った。

途端に人通りが増え、繁華街が現れる。


「まあでも、人間ほど愚かな生き物もないだろうな」

そう言う島は、つまらなそうに小石を蹴飛ばした。

「そうでもないさ」

「ん?お前は人間に疲れたんじゃないのか?」

「人間は生存競争に勝ち残るために道具を使い、進化させてきた。他の生物と原理は変わっちゃいない。

そういう意味では、むしろ優秀な生き物だろう。

しかしだな…。

その、道具だけが進化してきた。

人間はいつになったら次のステージに進む?」

「次のステージって?」

「肉体がなくても脳はいくらでも感覚を、世界を作り出せる。つまり進化すべきは肉体じゃない。この脳だ。価値観だ」

「ほう…」

「価値観が変われば人間は変わる。

人間を構成する一番のものは価値観だ。

そいつを次のステージに進めてやれば、人間というやつは次のステージに進むのさ」

「具体的にどうするんだ?」

「さあな。それがわからんから疲れたんだ」

自販機の前まで来ると、二人はベンチに腰かけた。坂本は口をぽっかり開けて空を見上げる。


空がある。青い。

青い空が今、俺の眼にある。


「なあ島、俺はどこにいるんだ」

「どこって…ここにいるじゃねえか」

「そうだ。俺はここに"ある"んだ」

「何が言いたい?」

「俺は他人に写る俺でしかない。

人間は他人によって初めて人間になれるのか?

収入、経歴、地位…

人間は他人と比べて自分の存在を見つける」

「それが個性ってもんだ」

「そう、個性だ。

だがその個性たちは皆同じ方向に向かっていく。

一部の人間が線路を作って、皆それぞれ走りたい線路を選んでいく」


こいつは何も考えてないようでいちいち細かいことを考えてやがる。


「いいか?どんな地位や役職でも、どんな仕事でもどんな環境でも、問題はお前がどうあるかだ。

それがお前だ。

どんな画材を与えられても、ピカソはピカソだ」

「才能はそうだろう。

ピカソとして生まれりゃ、素晴らしい作品を残すことだろう。

だが環境が変われば、描くものも変わる」

「……」


ドンッ


急な爆発音に二人は顔を上げた。

悲鳴を上げながら人々が二人の前を走り抜けていく。通りの奥では、モクモクと黒煙が立ち込めていた。

「また爆弾テロか」

「うちの奴らじゃないだろうな」

「行ってみようか」

「は?」

島が呆気にとられるうちに、坂本は駆け出した。

慌てて追いかけると、坂本は黒煙を吐く建物の前に立ち尽くしている。

「急に走り出すなよ…。ハァ…ハァ…

ん?ここはお前…」

「脱国取締局だ…」

建物の一階には大きな炎が上がっている。

「おい、あそこ…!」

坂本が指した二階は煙で覆われて何も見えない。

「なんだ?」

「女がいた」

「まさか、逃げ遅れたのか?」

「いや、違うな」

坂本は足下に飛んできた紙を拾い上げた。

そこには大きく墨でこうあった。


"戦争がくる

新時代に備えよ"


「新世界運動の奴らか」

「だろうな…」


ドンッ


今度は2階から爆発が起きた。

爆風に乗った大量の紙が路上へ吐き出される。

「ここまでやっても、この国の人間は変わらねえよ。自分の生活で手一杯だ」

「だから非日常を起こしてるんだろうよ」

「いくら非日常が起きても、自分の日常に及ぶまでその存在は蚊帳の外だ」

ふと、燃える建物の脇に目をやると、女が走っていくのが見えた。

脱出していたか、とそっと胸を撫で下ろしていたとき、坂本の脳裏に"あの"光景が蘇る。

 

「いや、まさか…」


あの時もあの長い後ろ髪をなびかせて、彼女は俺の前から立ち去った。


坂本は女を追って駆け出した。

「おい!急に走るなって!」

置き去りにされた島はため息をつく。

 

この場を逃せばもう、会えないとわかっていた。

「晴香!晴香だろう!?」

坂本の声に応えるように一瞬見せたその横顔は、紛れもなく内田晴香、彼女だった。

しかし彼女は、気のせいかとでも言うように前へ向き直ってしまった。


「晴香!待ってくれ!」

今度は確かに届いた。

晴香は立ち止まると、振り返って坂本の目を見た。

 

「……」


また、何も言えないのか…?

いや、彼女は俺の"何か"を待っている。


「あ……」


やっとのことで口を開いたとき、彼女の頭上に瓦礫が燃え落ちてきた。

「危ねぇ!」

坂本は飛び込んで、すんでの所で彼女を瓦礫から救った。

「何してるんだ!こんなところで!」

「あ、あなたこそ…」


そのとき、炎の奥で無数の声と足音がする。

「行かなきゃ…」

「ちょっ、待…」

「あなたも!」


晴香は坂本の手を取り引き起こすと、路地の奥へと駆け出した。

坂本はわけもわからず後を追う。

「お前まさか、運動員に?」

晴香は無言で角を右に曲がった。

すると前からは、警備隊が迫っている。


「こっちだ!」

振り向くと坂本が塀の上から手を伸ばしている。

「早く掴まれ!」

晴香を引き上げ塀を越えると、二人は一目散に駆け抜けた。

二つ目の塀を飛び越え、顔を上げると、前から銃を構えた警備隊が押し寄せていた。

あっという間に二人を囲む。

「両手を頭の後ろで組んで塀の方を向け」

二人は黙って指示に従う。

黒ずんだ石塀が視界をいっぱいにする。


「楽しかったなぁ、あの頃」


ランドセルを背負った少女がまだ新しい石塀の上に座っている。

「来ないの?」

塀の下にいる少年は口を尖らせた。

「高いとこは嫌いなんだ」

「ふ~ん、怖いんだ」

少女はいたずらに笑った。

「お前だって怖いものくらいあるだろ!」

「うん、あるよ」

少女は真剣な表情で少年を見つめた。

「私は死ぬのが怖い」


「そんなまだ先のことを…」


そんなまだ先は、実はもうそこまで来ていた。

社会は死に覆われようとしている。

「お前はこんな社会が来ることをわかっていたんだな」

警備隊は手錠を取り出し二人に歩み寄る。

「そう。怖いから、立ち向かうの。

 でもそれももう終わり」

「いや、まださ」

ニカッと坂本が笑ったとき、その手から何かが転がり落ち、それは忽ち閃光を放って警備隊の目を眩ませた。

再び目を開いたときには、その場に二人の影はない。


「いつもそんなもの持ってるの?」

「ああ。俺の生活も穏やかでないんでな」

繁華街の人混みをすり抜ける二人の前に、一台の車が停まった。

「迎えが来たみたい。

ありがとう、助かったわ」

「おいっ…!」

坂本が止める間もなく、晴香は車に乗り込んだ。

「まだ、待ってるから」

その言葉を残し、車は走り去った。

「晴香っ!」

車を追おうとした坂本は、強い力で腕を引かれた。

「放せ島!まだ間に合う!」

「落ち着け…。サツが来ている。

 この場を離れよう」

「チッ…」


繁華街を離れた二人は、基地への道を急ぐ。

「晴香って、あの?」

「ああ、間違いねえ」

「行くのか?」

「行くって?」

「追うんだろ?」

何やら島の方が楽しそうである。

「だが追おうにも…」

「奴らの拠点なら掴んでいるぜ」

「……」

坂本は口を閉じることを忘れて振り返った。

「情報屋は健在だな」

「当たり前だ。で?行くんだろ?」

「当たり前だ。あとは奴らがうんと言うかだ」

「言わせるさ」

二人が神社の階段を登ると、境内の片隅に社殿の明かりが見えた。

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