【急】分け隔ての無い世界。

■19『名前』

 引っこ抜かれた穴から大量の血が身体の外へと大きく噴き出す。意識が朦朧として今にも倒れそうな体を奮い立たせ、文はギリギリで姿勢を保つ。


「ぐはッ!!」と口からの吐血。致死量は優に越えており、今すぐにべネップが治療をしなければ一分と保たない。


「……くそっ」


 しかしお互いに近づくことは出来ない。近づけば殺される。脳が理解する前に、肌で感じる。

 シャーレとべネップは老婆アベナ、いや、それに似た誰かに対し恐怖を感じていた。


「ふ〜〜、シャーレちゃんに抱きつかれた時は焦ったぁ〜。が少し解けちゃってたし。やれやれ、それにしても仕留められて良かったよ、文」


「お前……何者ダ?」


 少しでも動けば倒れそうな体、動かずとも死ぬ身体からだ。遺言のように文は言葉を放つ。


「ん? ああそうか。この姿じゃ分かんないか」

 老婆はパチンっと指を鳴らすと体全体が粘土のようにグニグニとその姿形すがたかたちを変えていく。


 それはそれは若々しく、見目麗しく、『傾国の美女』と表現されてもおかしくない程の女の素体へと戻る。


「貴方は……」

「嘘……でしょ?」

 シャーレとべネップも蛇に睨まれた蛙のようにギョっと硬直しながら驚く。


 そして目の前で別者へと変貌したその姿を見て、文がボソッと小さな声で呟いた。


「ボス………」

 その声を聞いたはニコッと天使のように微笑み、文の体をポンッと押す。


 バタンッとドミノが倒れるように無抵抗に地に伏した文に生気は無く、まばたきもせず虚ろな目を開いていた。

 流れ出る血液が道の小さな溝をなぞって広がっていく。脈打つ心臓はうの昔に無く、巡るはずの酸素は脳に届くことは無い。


「坂口………カナデ!」

「覚えててくれたんだ♡ やったぁ♪」

 

 むくろと化した文に対する興味など霧のように消え、べネップの言葉に喜ぶ坂口。

 

 距離にして1mにも満たない、確実に負ける。アフリカで発動させた空間ごと『直す』力でも、コイツには勝てない。二人はそう直感した。

 

「さて、いったい何から話したらいいかな……」


 う〜んと頭を悩ませる坂口。二人は警戒をしつつも数ミリ単位で距離を少しずつ離す。

 そんな二人の気持ちもいざしらず、よしっ! と話す内容を決めた坂口は、べネップの顔を見ながら語り始める。


「べネップくん、日本ジパングには"酒池肉林"って言葉があってね。ボクにとってそれがなんだよ」


 見せびらかすように両手を広げる坂口。「ココ」というものが、何を意味しているのか分からない。


「ボクの、ボクだけの"養人場ようじんじょう"」


 と言葉を続けていた坂口は、不安で不思議そうな顔をしている子供二人の様子に気がつき「うーん、やっぱり難しいかぁ」と頭を悩ませる。

 

 えーと、それじゃあ──────。


「二人は『スピノザ』っていう学者さんは知ってる?」

「……知らない」

「知らないです」

 オランダの哲学者:バールーフ・デ・スピノザ。

汎神論。簡単に言えば「神は自然そのものである」って考えを広めた人物。


 神は無限であり、神に例外はなく、全ては神様の内部に存在している。

 つまり、ボクたちは神様の一部であり、ボク達の意思は"自由意思"ではなく自然の大いなる一部。


「……何が言いたいの?」

 シャーレは要領の得ない話、その核心を聞き出す。

「うーん、簡単に言うとねー、その一つ一つの意志を統一したい」

「「…………?」」


 まあまあ、よく聞いてね二人共。


「クラモトくんは夢の世界へ人類を隔離することによって"統一意思スピノザ"を否定し、皆に自由を与えた。そして五十嵐くんのような人達は、間違った意味で"酒池肉林ハレム"を手に入れた訳だ」


 坂口は話をしながら肩をすくめる。


「だってさ、みんな一緒の方が気持ちがイイ。嬉しいよね? ボクのこの"気持ち"だってきっと、神様と同じはずなんだよ」


 みんなの夢はボクの夢、ボクの夢はみんなの夢。


「だからね、皆が一緒になれる場所に、皆が僕と一つになれる素敵な世界に作り変えたのさ」


 その血肉を、心を、その意思を"分け隔ての無い世界"へと導き食べる。それがボクの目的。


「つまりそうだね、さしずめこの世界に名前をつけるなら────」

 坂口はうんうんと納得したように頷き。クラモトの事を思い出しながら、その名を二人へと告げる。


「『人類全てスピノザ酒池肉林ハレム』……かな♪」

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