第2話 侑李の記憶
けれども侑李は今目の前に横たわっている。耳元にそっとコーヒーを置く。ふうわりと漂うインスタントに芳しい香り。私と侑李が何千回も淹れあった飲み物。これで少しでも記憶が喚起されればいいのに。頬を撫でる。五感の作用はあればあるほどいい。
今の侑李は植物状態だ。医療技術の発展で、脳自体は劣化しないように保てるけれど、新しい外部刺激がないからシナプスはどんどん痩せ細っていく。
私が好きだった侑李のこころがどんどん薄れていく。
私は侑李が好きだった。色々な意味で侑李がとても好きだった。
侑李にとって私は妹みたいなものなのだろうけど、朝から夜まで研究室で二人きりで一緒に過ごして、その毎日の半分以上を共有していた。たくさん話をした。休日もよく一緒に出かけた。買い物やカフェ、まるでデートみたいに手を繋いで。
侑李の暖かな手のひらに触れる。この感触は変わらないのに、握り返されたりはしない。その断絶が私のこころに突き刺さる。このまま失わせるわけにはいかない。
侑李は脳神経学、私は工学博士だ。
最初に会ったのは共通語学で、他に共通科目はなかった。けれども私はその存在に一目惚れをした。だから風にゆられる木の葉のように、私は侑李を追いかけた。侑李は最初はどこか迷惑そうな様子だったけど、そのうち諦めてつき合ってくれるようになった。一緒に映画を見たりとかご飯に行ったりとか。侑李の趣味は食べ歩きと、それから絵。大学のサークルには入らずに、休日は公園やカフェで風景を描く。
「つまらなくない?」
「全然つまらなくないよ」
「本当に? それならいいけど」
言葉とともに再現された記憶風景。
手元に街並みを描いたクロッキー。少し若い私が正面にいて、侑李の視点で私との会話が進む。今までより記憶が少し長い。喉に流れるブラックコーヒーの苦味。苦手だけど、これが侑李が好きな味。そう思うとなんだがその酸味すら愛おしい。
ふっと全てが消え失せた。再び広がる暗い闇の海。この場所に保管された記憶の断片はこれだけだ。これが今の侑李。
侑李により潜り入り込む。深いというのはイメージで、正確には『広い』。
記憶は大脳皮質に分散記録されている。
記憶とはつまり神経、シナプスの繋がり、脳波の旅路。だから広範囲のシナプスを渡り歩れば歩くほど、それだけ関連する記憶情報が浮かび上がる。侑李が『思い出す』代わりに、私がそのシナプスを刺激し、記憶を浮かび上がらせる。
息を止めて深く潜り、クラゲの長い足を引っ掛けるようにたくさんのシナプスを光で繋いで釣り上げる。範囲を広げるほど、その分、観測する私の脳の負担は増える。はぁはぁと小さく息切れする音が私自身の耳に響く。
でももう一回。
当たりをつけて深く潜る。薄ぼんやりとした微かな光を灯しながら先程と異なるルートで繋いでいく。あれ? ちょっと待って、ここはさっき通った? どっちから来たっけ? よくわからずに急いで外を目指す。
手元の半分ほど減ったコーヒーカップと仁凪の顔、それから論文資料に視線を行ったり来たりと彷徨わせる。
「総当たりじゃダメなの?」
「それは無理。無関連の視覚と聴覚と触覚の記憶を一度に思い出しちゃうよ? ごちゃごちゃに繋がって、何が何だかわからなくなるんじゃないのかな」
「そっか、難しいね」
ふふ、仁凪が額に小さく皺をよせている。真剣で可愛い。
「そう、回路が繋がるところをたどらないと。特定のルートじゃないと特定の記憶には繋がらない」
「それならむしろシナプスの繋がり方からサーチすればいいのかな。樹状突起の起点の向き」
見つけた。
関連記憶。これは割と最近の記憶。
ここを拠点に侑李のシナプスを辿ればきっと構想を見つけられる、かな。けれどもこのあたりは……場所がよくない、どうしよう。本当はもう少し違うところに拠点を構築したい。記憶を探る拠点を。
とりあえずもう一度、大丈夫と思われる範囲で潜る。ぽぅぽぅとした光の線に沿って脳波をつなぐ。うっすら線が見えるようになってしまった。この辺りはもう何度も通って『思い出しやす』くなりすぎている。
あれ?
「仁凪、何かついてる」
「えっ?」
「なんだ? お菓子? ポテチっぽい。ふふ、また食べながら寝たでしょう」
「うう、そういえばそう。ちょっと大詰めだったし。他についてない?」
「んー、大丈夫かな。かわいい」
「もう、からかわないで」
本当に可愛いなぁ。起こった顔もかわいい。
近づいている。このあたりだ。
これは一ヶ月前位の会話。この辺りに探している侑李の記憶がある。何箇所も侑李の大脳皮質を渡り歩いたけれど、このあたりが一番近い。困った。困ったな。
状況整理をしましょう。
困った時、侑李はいつもそう言っていた。
侑李が海岸で倒れているのが見つかったのが4日前。すぐ救急搬送された。検査の結果、脳の作用は失われておらず、心臓も動き、自発呼吸も再開した。けれども意識は回復しなかった。今は鼻から胃にチューブを通し経鼻経管栄養でエネルギーを摂取している。
植物状態の原因は大脳の軽度の損傷。損傷自体は再生手術によって既に回復している。意識が戻らないのは器質的な問題ではなく、その精神だとか心の問題ではないかと医師は言う。精神的な領域については医学が発達した現在でもわからないことが多い。
私と侑李は、こころというのは結局の所、記憶なのだと思っている。記憶というのはその人の全てだ。多くの出会いや行動の結果の記録がその人に影響を及ぼし、その人の人格を形作っていく。だからきっと、大事な記憶が歯が抜けるように欠けていけば同じ人格は保てない、と思うんだ。
だから私は侑李の記憶の中から侑李が構築した『記憶を再構成して植え付ける』方法論をサルベージしようとしている。それをこの私がプログラムして形作った夢と名付けた機械にインプットして起動する。それで侑李を復元する。それが私の目的。
そう、侑李の横たわる台にも、私が情報を整理するコンソールの回りにも、たくさんそう書いてある。決して目的を見失わないように。
『私は、仁凪』
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