11.小さなすれ違い

 正司は通勤の途中、ずっと昨晩のことを考えていた。


(あの友達、一緒にご飯食べようと誘っていたはずなのに、まったく食べなかったな……)


 三人での夕食。花凛の話では友人が誘ったとのこと。


(ほんのちょっと味見して、すっごい苦しそうな顔していたな。あれってまるで……)



 ――まるでこれまでの俺の顔じゃん!!


 それは正司が31年間付き合って来た不味い物を食べた自分の顔。体が、脳が、舌が、全てが拒否反応を示している証。自分から誘って来たのになぜ……



(もしかして彼女、肉じゃがが嫌いだったとか? いや、それはない。だったら花凛がそれを作るはずがない。だとすると、もしかして、もしかしたら……)



 ――花凛の料理って、まさか普通の人にはのか!?


 思ってもみない発想。

 全く普通の味の感覚がない正司には、花凛の料理の評価と言うものがよく分からない。



(ま、いいけど。俺にとって彼女は最高の料理人。こんな俺に食べる喜びを教えてくれた人。できるならずっと花凛の料理を食べていたい。でも、それって……)


 毎日同じご飯を一緒に食べる。

 それはつまり正司がこれまで考えては否定してきたを意味する。



(俺、こんなおっさんだしな。花凛ちゃんのような若くて可愛い子なんて……)




「おっはよ~!!」


 会社へ向かって駅から歩いていた正司に明るい声が掛けられる。



「お、みこ」


 年下の同期、美咲みさきみこである。



「どうしたの? 暗い顔して??」


 彼女には今の自分の顔が暗いように映ったようである。


「ああ、ちょっと考え事していてね……」


「考え事? 今日のお昼のこととか?」


 正司が笑って答える。



「それはいつも考えているよ、困ったってね」


 ふたりが笑う。みこが言う。



「ねえ、今日の夜さ、久しぶりにたまご焼き作りに行ってあげようか?」


 みこのたまご焼き。花凛と出会う前は良く作って貰った食べ物。特に美味しいとは思わなかったのだが、何を食べても不味いとしか思えない正司にとっては有り難い品だった。



「うん……、いいよ」


 そう返事しながら頭の中に花凛の顔が思い浮かぶ。

 昨晩彼女が作ってくれただし巻きたまご。ほんのり甘く、それでいてしょう油の味がきいたふんわり柔らかい至高の一品。あまりの美味しさにもう死んでもいいと死を覚悟したぐらい美味しかったのだが、かと言って今まで世話になったみこを邪険にする訳にも行かない。みこが言う。



「じゃあ、夕方部屋行くねー」


「あ、ああ」


 そう言ってみこは前にいた同僚の女の子の元へと走って行く。


 みこはモテる。

 可愛らしいのはもちろんだけど、屈託のない性格で同性からも好かれた。一度は付き合った相手。ただはっきりしておきたいこともある。正司はふうと息を吐いてから会社へと入った。






 ピンポーン


(来た)


 正司は仕事を終え、部屋で着替えていると来客を告げるチャイムを耳にして急ぎ玄関へと走った。



「よお、来たぜ。ニイちゃん!!」


 この明るい性格がみこがモテる理由。こんな味覚障害の自分にも時間を見つけてはこうして遊びに来てくれる。正司が言う。



「さ、入って」


「邪魔するよん!!」


 みこはそう言って笑いながら入る。



 バタン


 正司の部屋のドアが閉められた後、外にある近くの階段でそれを見つめる女性がいた。



(正司さんの部屋に、女の人が!? だ、誰なの一体……)


 渡辺花凛は手からスーパーの袋がずり落ちるのすら気付かずに、その場に立ち尽くした。





「相変わらず汚いね~」


 みこはいつも通り汚れた正司の部屋を見て言った。脱いだままの服や埃の積もった床。考えてみればこの状態で女子大生を部屋に入れたのだから恐ろしい。

 みこがキッチンに立ってたまご焼きの準備に取り掛かる。




「はい、どーぞ!」


 しばらくしてみこが出来立てのたまご焼きを机の上に置く。ゆげが立ち、とても美味しそうなたまご焼きだ。正司が箸を手にして「いただきます」と言ってからからそれを口に入れる。



(味がない。これまで変わらないはずだけど、この物足りなさは一体……)


 花凛の料理を知るまでは最高の品だと思っていたみこのたまご焼き。それがこんなに淡白なものに感じるとは。にこにこと正司見つめるみこ。正司が言う。



「ちょっと食べて欲しいものがあるだけど、いいかな?」


「え? 私が??」


 驚くみこ。正司はすっと立ち上がり、冷蔵庫の中から皿と一緒にラップされただし巻き卵を取り出して言った。



「これ、一度食べてみてくれない?」


「これって……」


 正司のことだから生野菜でも出されると思っていたみこ。意外な料理に驚きながらも、それが手作りであることは一目瞭然であった。みこが尋ねる。



「これって、正司君が作ったの?」


 正司が首を左右に振る。

 それは分かっていた。料理や食材を見るだけで嫌な彼が料理をするはずがない。みこは箸でそのだし巻き卵を取り、口に入れる。



「うっ、ううううっ、おえっ、っごごご、おええええぇ……」


 みこがそれを口に入れた瞬間、これまで見たこともないような酷い顔をしてすぐに口を手で塞ぐ。そしてそのままキッチンの方へと走って行き躊躇いなく吐き出した。



「ごほっ、ごほっ、な、何なのよ、この不味いだし巻き!!!!」


 涙目になりながらみこが正司に言う。



(ああ、やっぱりそうなんだ。彼女の料理って、やっぱりんだ……)


 キッチンで顔を赤くしてむせるみこを見ながら正司は思った。





「じゃあね、おやすみ。もう、あんなの私に食べさせないでね!」


「あ、ああ、分かってる。おやすみ」


 暫く正司の部屋にいたみこが帰って行く。笑顔で手を振る彼女に軽く手を上げ振り返した。正司はひとりになってからキッチンに片付けただし巻き卵を手でつまんで食べる。



「うまっ!!! もう、死ぬほど美味しんだけど……」


 それでも世間一般ではこれは不味い物として見られるようだ。

 ちょっと複雑な心境。自分がその彼女の不味い料理を食べられるのはこの狂った味覚のせい。それがいいことなのかどうなの分からない。でも思う。



(でも俺は彼女の料理をずっと食べていたい!!)


 他人がどう思おうが関係ない。彼女の料理が俺にしか合わないなら、俺が一生食べてやる。



(いや、「食べさせてください」か、俺こんなおっさんだし……)


 正司は苦笑いしながら残っただし巻き卵をポンと口に入れた。



(俺の味覚障害のこと、きちんと彼女に話さなきゃいけないよな……)


 騙すつもりはまんざらない。色々なことを知ったのもつい最近。ただそのせいで彼女が傷ついてしまうのは是が非でも避けたい。



(正直に話して、それでずっと彼女にご飯を作ってって頼む、頼む、頼めるのか……、俺?)


 あまりに若くて輝きを放つ現役女子大生の花凛。自分のようなくたびれたおっさんがどうのこうのできる相手ではない。偶然隣に来ただけの関係。


(でも……)


 何も伝えぬままじゃ始まりも何もない。正司はグラスに水を注ぐと一気にそれを飲み干した。





(え、ええっ、あれって誰なの!?)


 花凛は自分のドアをずっと少しだけ開け、正司の部屋の様子をうかがっていた。そしてその女性が帰る際に言った言葉が頭の中でぐるぐると回る。



(良く聞こえなかったけど、『私を食べて』みたいなことを言っていたような!? そ、それって、まさかえっちなこと!?)


 花凛はひとり色々な妄想をして顔を赤らめる。


(た、確かに正司さんって独身って言ってたけど、彼女がいるかどうかは聞いたことはない。たまご焼きの女は違うって言ってたけど、あの人は一体誰なんだろう。すごく可愛らしい人だったし……)


 花凛はそう思うとどんどん気が重くなっていくのに気付く。



「あれ、涙……」


 そして花凛は自然と頬に流れる涙に気が付いた。

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