第三部

覚えていたい

 目を開ける。

 カーテンの隙間から、太陽の光が一筋入って、お部屋に線を引いている。


 朝。

 朝、だ。


 パンが焼ける香りが、鼻腔をくすぐる。

 朝一番に嗅ぐにおいがこれになるのも、今日が最後だ。

 起きないと。

 ベッドの上で上半身を起こし、グッとのびをする。

 変わらず関節が、小気味いい音を立てた。


 芋虫のごとくもそもそとはい出て、途中洗面所に移動しつつ、身支度を整えていく。

 最後に鏡の向こうにいる私と目を合わせて、私は笑みを浮かべた。


「……よし」


 ひとつ、しっかりとうなずく。

 

 キッチンに入れば、ちょうど柳生くんがエプロンを脱いでいるところだった。


「おはよう」


 私の声に振り向いた柳生くんは、茶色い瞳をとろりと溶かすように微笑んだ。

 胸がキュッと切なくなったのは、その微笑みにときめいてしまったのか、それとも明日からは二度とこの微笑みを見ることができないという切なさからなのか。

 今の私には、どちらも正解のような、どちらも不正解のような、そんな心地だった。


「おはよう。それと、お誕生日おめでとう」

「ありがとう」


 お礼を言って、微笑む。

 柳生くんが亡くなっていることを、私は大家さんから聞いてしまった。

 でも、その話はまだしていない。


 席につく。

 目玉焼きと、トマトとレタスのサラダ、コーンポタージュに、こんがり焼けたトースト。

 なんだか。


「柳生くんが初めてうちに来た次の日みたいなメニューだ」

「みたい、じゃなくて実際同じメニューだよ」


 向かいに座った柳生くんが、頬杖をつきながらこちらを見て笑う。


「そうなんだ?」

「なんか、そういうのよくない?」

「お話の最終回みたい」

「確かに」


 二人の笑い声が重なる。

 心地いい。


「柳生くん」

「うん?」

「ずっと、大好きだったよ」

「……っ!」


 頬杖をついた手の上から、ズルッと顔がずれ落ちる。

 柳生くんが口を開いたのを遮るように言葉を発した。


「返事はいらないよ。言いたくなっただけだから」


 実際、答えなんてわかりきっていた。

 何度も振られるのも、きっと振るのもつらいから。

 私はそっと手を合わせた。


「いただきます」


 受け入れる。

 今日起きる全部を。

 でも、朝のこの時間だけは。

 二人でいられるこの時間だけは、この一か月の日常そのままを感じたかった。

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