第87話 メイド様の小さな癒し
質の良いソファに背を預け、返ってくる弾力に心地よさを覚えながらリアは、膝に乗った子の頭を優しく撫でる。
すると撫でれば撫でるほど、彼女は気持ちよさそうに目を細め、更にもっともっととせがむようにその喉元を晒す。
その可愛らしい反応に頬を緩めるが、よく拾ってしまう聴覚によって幸せの時間から現実へと引き戻された。
はっきり言って、リアは同じ空間に何人も関わりを持たない人間が居るのを好まない。
だが、状況が状況なだけに致し方ないことだというのは理解している。 だからこうして、何も言わずにいる訳だが。
「殿下。 この件は父上には」
「ああ、ディズニィには君から伝えてくれるか?
少し離れたところから聴こえてくるはレクスィオとレットの話し声。
その不自然な言葉の間に、何やら物言いたげな視線が感じられたが、恐らく気のせいではないだろう。
まだ、根に持ってるのかしら?
理由は話した筈だし、レクスィオも納得したと思ってたのだけど……。
そもそもあれは、レットがアイリスに勝手に挑んで遊ばれただけで、断じて私のせいではないと思うの。
リアは向けられた視線を無視し、その意識を膝元の子へと向ける。
おっと……手を止めてしまっていたわね、ごめんなさい。
数秒に満たない時間ではあるが、止まってしまったリアの手を求める様に彼女は頭を伸ばし、甘えるように赤い瞳を向けてくる。
「……心得ております、殿下。 それではこれで失礼します」
「ああ、頼む」
リアが膝下の子をこれでもかと愛でていると、いつの間にか後ろの話は終わり、扉の閉まる音が聴こえてきた。
現在、この室内の気配は全部で3つ。
レクスィオと私、そしてもう一人の侍女であるゾーイが居ないことで傍から見れば2人っきりの退屈な時間。
しかし、実はここに可愛らしい
部屋には一時的な静寂が訪れ、聴こえてくるのは紙の擦れる音と興奮して求めてくる荒々しい吐息。
「はふっはふっ、……くぅん?」
「ふふ、くすぐったいわアイリス。 もう、甘えん坊さんね」
その可愛らしい両足を膝に付け、これでもかと鼻先を押し付け迫ってくる灰色の犬。 アイリスである。
これは別に、リアが寂しくて目の前の犬に愛しい人の名前を付けて呼んでるわけではない。
いや、過程の中でそういった感情を抱いたのは事実だが、今に至るまでを言うのであれば。
――お互いの愛ゆえに、だろうか。
とにかく! 正真正銘このワンちゃんこそが、アイリス本人なのである。
闇ギルド『ディティリア』のアジトでギルドマスターを洗脳し、魅了を掛けたリアはアイリスとイチャイチャすることだけを考え、それ以外の事はレクスィオに丸投げした。
もちろん、レクスィオの身の安全を把握した上での行動ではあるが、それが思いのほか早く終わってしまったのだ。
闇ギルドのマスター、…………名前は忘れた。
だが
しかし、レクスィオは想像してたよりもずっと優秀だったらしい。
味わうように舌先を絡め、身体を押し付け合う。
そしていざ、これからアイリス分を補充しようと思った矢先、『そろそろ、いいか?』と空気を読まずに言葉を割り込ませ、その目は若干気まずそうに逸らすレクスィオ。
周囲を見てわかる通り、屋内に張り巡らされた氷は融け切って居ないことからそう時間は経っていない。
だというのに、ほんの十数分でそれなりに広いアジトから重要そうな物を探し終え、そのやり切った表情から何かしらの収穫があったのは容易に想像できた。
形だけの関係でも、無能に仕えるつもりはなかったが優秀すぎる主も面倒だなと、この時リアは悟った。
そうしてアジトから脱出し、王城へ戻るということになったわけだが。
リアはアイリスと離れたくなかった。
たった半日離れていただけ、今朝も寝ている彼女と同じベッドに居たが、やはり意識があるのとないのとではイチャつけるレベルが違う。
「待てリア。 まさか、彼女を王城に連れてくつもりじゃないよな?」
「……あら、ダメなの?」
アジトを出ようと再び集まり、何食わぬ顔で戻ろうと思って居たリアにレクスィオからつっこみが入る。
当の本人であるアイリスは、コアラの如くリアに腕を絡め、そのすべすべとした頬を肩に乗せながらレクスィオをジッと見詰めていた。
「っ、何を――」
「貴女は、何を考えている? ……魔族を集め、王城を乗っとろうとでも考えているのか?」
レクスィオの言葉を遮り、そう口にしたのはギルドマスターを肩に担いだレットだった。
(ディズニィから、何かしら私のことは聞いてるはず。 にも関わらずこうして直接聞いてくるということは、私を……見極めようとしてるのかしら?)
真剣な表情で言い逃れできないよう、鋭い眼光を向けるレットには申し訳ないが、その見極めは無駄である。
何故なら、レットが警戒してる未来は来るはずも無く、リアはただ己の欲望を満たす為、同族を連れて行こうとしてるに過ぎないからだ。
すると、黙って聞いていたアイリスが突然に噴き出した。
「……くす、くすくす……この虫は、何を言ってるんですの? 乗っ取る?お姉さまが? お姉さまが最初からそのつもりなら、わざわざこんな面倒なことするわけないでしょう? かの国で、お姉さまが齎したことをご存知ないの?」
「っ!」
蔑みと嘲笑を含ませた声音で、まるで物分かりの悪い子に言い聞かせるように口にするアイリス。
そんな彼女の言葉に、レットは何かを思い出したように肩をビクリと跳ねさせ、急激にその顔色を青ざめさせる。
俯くレットを横目に、レクスィオは暫し黙り込んだ。
そして、数秒の後に静かに口を開くのであった。
「1つ……条件がある」
アイリスは続きを促すよう、その赤い瞳を真っ直ぐに向ける。
「貴女たち吸血鬼は、動物に変身できる能力を有してると聞いたことがある。 城の人間に気付かれないよう、違和感のない存在に化けることは可能か?」
あー、どうしてその可能性を忘れてたのかしら。
移動用にしか使わないから? それとも《万能変化》にのみならず、ただの《変化》では使い勝手が悪いとそもそも手段から排除してたから?
性能だけで見るなら《変化》は死にスキルで、
しかし、効果内容に
(でも、この状況ならむしろ……アリじゃない? 見た目を変えれればそれでいい訳だし、ふふっ♪)
「ねぇアイリス。 《変化》してみましょう?」
「むぅ……お姉さまの《万能変化》に比べてしまうと、お見苦しいとは思いますが。 ――では」
そうして、アイリスが変化したのは彼女の髪色と同じ、綺麗な灰色の毛並みをした可愛い犬型の獣だった。
リアは見たことのない犬種だったが、この世界の魔物なのだろうか。
狼の様に鋭い雰囲気を持ちながら、可愛らしい赤色のお目めと顔立ち。
シベリアンハスキーに似てるかも? あれをもっと、シュッと鋭利な感じにした見た目と言うのかな。
赤い目っていうバッチリ吸血鬼の特徴が出ちゃってるけど……まぁ、大丈夫でしょ。
大体、その対象に変化できるまで必要な『記憶の欠片』は1000~2000体。
つまり、アイリスはその犬を――いや、これ以上はいけない。
「はふっ」
「……ふぁ、ぁっ」
座り心地の良い第一王子のソファに加えて、どうやらアイリスの欠神が移ったようだ。
そんなこんなで。無事に何事もなくアイリスと一緒に居られ、ある程度ひと段落したのが今の状況だった。
戻って来るやいなやギルドマスターは兵士に連行され、レクスィオの指示によってあのアジトもすぐに閉鎖されるらしい。
アジトに居た男によれば、高揚感と全能感を促す薬、いわゆる"麻薬"よね?
ルゥとセレネ、あの子達が今後過ごすことになるかもしれない国にそんなものは置いておけないわ。
「……くぅ、……くぅ」
「あら? ……ふふ、可愛い。 いつもの姿も愛らしいけど、犬になった貴女の寝顔も素敵だわ」
撫で続ける手からは規則正しい、穏やかな揺れが伝わってくる。
気付けばアイリスは瞳を閉じ、その口元から微かに寝息を立てていた。
自身の伝えミスによって、彼女には要らぬ苦労をかけてしまった。
そのことに若干の申し訳なさを感じて、リアは顔を顰めそうになると室内で椅子を引く音が聴こえる。
「随分と遅くなってしまったな。 リア、夕食を食べに行く」
「……ええ、わかったわ。 それじゃあ……また後でね」
彼女を起こさないよう細心の注意を払い、ソファへ寝かせ毛布を掛ける。
未だ規則正しい寝息を立てる彼女に一瞬、目を細めたリアはレクスィオの元へと向かう。
「彼女は、いいのか?」
「いいのよ。 私事ではあるけれど、結果的にこの国に貢献したんだから。 休ませてあげて」
「……そうか」
そう口にするレクスィオはそれ以降は何も言わず、黙って王城の通路を歩いて行く。
この通路、あの馬鹿王子と鉢合わせたところね。
今回は出てこなかったみたいだけど、今頃折れた手足でも治療してるのかしら? それとも既に治療は終わっていて療養中? 嫌なことを思い出しちゃったわ。
……変に目を付けられてないといいけど。
そんな考え事をしてると、気付けばダイニングルームのある部屋へと到着する。
中へ入れば、それなりに広い部屋の中央に奥行の長いテーブルが置かれており、半分も使用されていない卓上には既に料理が置かれていた。
レクスィオが席に着き、私はそこから少し離れた場所で壁を背に控える。
眼前では既に待機していた侍女が忙しなく動き回り、一通りの給紙を終えると他の使用人たち同様、入ってきた扉の横へと一列に待機した。
「給仕は不要だ、下がっていい」
その一言で控えていた使用人たちは一斉に頭を下げ、物音を最小限に室内を退出していく。
これが仕来りであって、この国のルールだというのはわかっているが、やはり面倒なものは面倒だ。
室内にはリアとレクスィオの二人だけであり、周りの目を気にする必要はない。
【戦域の掌握】やリアの直感にも探知しないことから、監視の目はないと思っていいだろう。
「へぇ……あ、これ美味しそう! それで?今日はあったの?」
「何だか残念そう聴こえるのは、私の気のせいか?」
「気のせいよ。 ただどういう毒を使って暗殺するのか気になっただけよ」
「なんでそんなもの……。 ああ、そこに用意させたのが君のものだ」
隣の席に座り、向けられた視線の先へ目を向けるリア。
それらは、レクスィオの料理群から違和感のない距離で微妙に区分けされており、少なめに盛られた皿が数皿置かれていた。
リアはそれらに目を輝かせ、満足げな表情で喜びを露わにする。
本来であれば常識的にありえない状況。 見る人が見れば、王族と一緒に食事など不敬罪となり即刻連行されるのが普通である。
現に、初日と昨日はリアの分などある筈もなく、ただ黙ってレクスィオの食事を見ているだけ……なんてことはなく。 普通に食べていた。
もちろん、内密の報告という体でレクスィオに使用人を出させた後ではあるが。
最初こそレクスィオは驚いていたものの、適用能力が早いのか特に気に障った様子も見せなかった。
だた、次回からはすぐに人払いとリアの分を用意する代わりに、摘まみ食いとテーブルに座って足を組むのはやめてくれと言われてしまった。 少し行儀が悪かっただろうか?
そんなこんなで、人の居なくなったダイニングルームにて食事をしていたリアは、唐突に思い出したように手を止めた。
「ねぇ、そういえばミシス家って……なに?」
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