第5話 暗夜の銀狼

 再びの目覚めは、暖かなぬくもりの中だった。朝の弱い光のなかでアンナが顔をあげれば、青年の寝顔が間近にある。


 夢じゃなかったのだわ。ほんのりと幸せな気持ちになりながら、アンナはそろりと眼鏡をずらした。ゆっくりと体を動かし、彼がいまだに眠っていることを確認してから、頬に指先で触れる。白い肌はしっとりしていて、どこか人形めいている彼が、ちゃんと生きている人間なのだとしみじみと思う。


 青年が目を開けた。アンナは慌てて顔をうつむけ、眼鏡をかける。


「何をしている」

「なんでもないわ」


 子供のようなごまかしを口にするのもなんだか楽しくて、アンナは笑みをこぼしながら眼鏡越しに青年と目をあわせた。


「おはようございます、眠りの君さま。とっても素敵な朝ね」

「早起きすぎる」青年はくあと小さくあくびをした。「普段なら眠っている時間だ」

「あら。わたくしは起き始めてる頃よ」

「一晩中起きているのに?」

「あまり長く眠れないの。二時間か、三時間か、それくらいね」


「そうか」と眠そうに相槌あいづちを打った青年は、アンナの肩からずりおちた毛布を引き上げた。ほんのりとしたぬくもりと、心地よい腕の重みが戻ってくる。去りがたい誘惑に目を細めたところで、アンナは青年がじっと見つめていることに気がついた。


「どうかなさったの」

「ずっと気になっていたんだが、君はそんなに目が悪くなったのか?」

「あぁ」アンナは眼鏡のつるに指先をかけた。「目は悪くないわ。これは見ないようにするために、先生が作ってくださったの」


 青年がかすかに眉根を寄せた。特に隠すことでもないので、アンナは苦笑いして言葉を続ける。


「魔女は分かる?」

「君を追いかけている、狩人の男だろう」

「そう。人は己の罪を自覚すると、不思議な力を手に入れる。そんな人たちのことを、わたくしたちは魔女と呼ぶ。でもね、わたくしの目は見えすぎてしまうの。罪を暴いて、魔女にするだけじゃない。魔女たちの心を壊して、殺してしまう。そういう危険なものだから、眼鏡で隠さなければならないのよ」

「僕に対しても?」


 静かな問いかけが、どこか寂しげに聞こえたのはきっと気のせいだ。あるいは、わたくしが浮かれすぎて舞い上がっているせいね。心の中で苦笑を、彼に向かっては冗談めかした笑みを浮かべつつ、アンナは声音だけは真面目に「もちろん」とうなずいた。


「だって、あなたは未来の旦那様ですもの」

「……僕の好みは、物静かでおしとやかなご令嬢なんだが」

「うふふ。そんなに照れなくたっていいのよ」


 アンナは立ち上がった。なにはともあれ、彼の傷の手当が必要だ。血は止まっているようだったけれど、彼の右手はすっかり赤黒くなっている。


 ずいぶん軽くなった籐籠を取りあげた。そこで、足音がした。


 鉄格子てつごうしの向こう側、階段を降りきって姿を現したのは二人の男だ。薄汚れた狩人の服を着た男がアンナをにらみつけている。彼を従えているのは、身なりのいい男だ。えりを立てた黄土色キャメル外套コートをまとい、磨き上げられた革靴と、なでつけられた茶髪がささやかな朝の光を汚すように輝いている。


 アンナは凍りついた。


「……メレトス様」


 なんとか口にできたのは、男の名前だ。商家の嫡男ちゃくなんにして、アンナ・ビルツの婚約者。そしてアンナに狩りの遊戯ゲームを命じた張本人。


 けれど何故、ここにいるのか。彼は古臭いビルツていを毛嫌いしていて、よほどの用がない限り立ち寄ることはない。次に来るのは、この冬の終わりだったはずだ。狩りの結果を確認しにくると言っていたのだから。


「おいおい、そんなにおびえてどうしたんだ。我が妻よ」メレトスは――アンナの婚約者は、穏やかで寛容かんような、けれど品のない笑みを浮かべて見せる。「まさか不貞ふていの現場を押さえられるとは思ってもみなかったか?」

「どうして、ここにいらっしゃるの。冬はまだ終わってないはずよ」


 アンナが硬い声で問いかければ、メレトスが笑みを消した。狩人の男に目配せする。


 狩人がろうに押し入り、アンナの腕を掴んで引きずり出した。そのまま地面に投げ捨てられ、アンナはメレトスの足元に倒れ込む。


 険しい顔をした眠りの君が立ち上がったのが見えた。


「アンナ……!」

「犬は黙っていろ」


 メレトスは、三つの銀の輪を組み合わせた飾りを突き出した。地下牢の青年は金縛りにあったように、体をこわばらせる。


 〈王狼おうろう〉の鍵だわ。冷たい恐怖心とともに思ったところで、アンナは後頭部を強く踏みつけられ、地面にひたいをつけざるをえなくなった。


「良き妻は、夫の質問に正しく答えるものだ。なあ、そうだろうが。アンナ・ビルツ」

「……あなたは婚約者であって、まだ夫じゃないわ……っ……」

「あぁ俺は悲しいよ」アンナをさらに蹴りつけたメレトスは、大仰おおげさにため息をついた。「お前が血濡ちぬれの革命家となろうとも、お前が記憶喪失になろうとも、見捨てずに世話をし続けてやったというのに。なぁ、かつての革命家殿。これは俺からの愛の試練だったんだぞ。君がまともな神経をしているのなら、恩のある俺に従って、他の男にまたを開くようなことはしないはずだと、信じていたのさ。それがどうだ。年頃の顔だけはいい犬と一緒になった途端、獣のようにつがおうとする」

「そんなこと……してない……」

しつけが必要だな」


 むちで打たれた時の痛みを思い出して、アンナは思わず顔を上げた。ひどく情けない顔をしていたことだろう。メレトスがにったりと目を細める。


「安心することだ、我が妻。躾は家畜にするものだ。そしてお前に不貞を働いた犬がちょうどそこにいる」

「や……めて……」


 血の気が引く。アンナは思わずメレトスにすがりついた。


「駄目……眠りの君さまに暴力を振るわないで……」

「眠りの君ぃ? 犬なんぞにまた、たいそう夢見がちな名前をつけるじゃないか。冷酷な革命家ともあろう君が!」

「犬なんかじゃない! 彼は人間よ!」

「っはは! こんな飾り一つで命令を聞くんだ。殺しだってためらわない。それこそ、人間ではなく獣の心を持っている証だろうに!」

「あなたがそうさせているだけでしょう!」

「なるほどなるほど! そうさせているだけ、か!」メレトスは三輪の飾りをアンナの眼前に垂らし、猫なで声で言った。「なあ、これが欲しいか? 我が妻よ?」


 アンナは石床をひっかくようにして手を握りしめた。そんなの、答えはわかりきっている。


「……っ、ほしいわ」

「あの犬に仕置もしてほしくないと」

「そう、よ」メレトスの目に試すような光が宿り、アンナは唇を噛んでから頭を下げた。「お願い、します……眠りの君さまに手を出さないで。あなた……っ、」


 メレトスの右足がアンナを蹴り飛ばした。擦りむけた頬がじんと痛む。


行儀マナーがなってないなあ、アンナ・ビルツ! 靴をめて懇願こんがんするくらいの気概きがいを見せたらどうだ?」


 面白がるような声に体が震えた。それでも、まだ大丈夫と言い聞かせた。


 震える腕に力をこめて、アンナはよろよろと体を起こす。眠りの君さまに暴力をふるわれるのに比べれば、こんなの、なんてことない。彼の右手の傷に比べれば、痛いうちにはいらない。


 アンナは身を投げ出すようにして、メレトスの足元にひれ伏した。革靴に両手を添えて、言われたとおりに舐めてみせる。土と磨き油の、吐き気がするほど冷たい味だった。こんなわたくしを、眠りの君さまは嫌いになってしまわないかしら。いっそう自分が恥ずかしくなって、顔を上げることができない。そこで髪の毛を掴まれた。


 アンナは痛みこらえる。目と鼻の先で、メレトスが興奮したように目をぎらつかせていた。


「気高き血濡れの革命家が、よくもまあ、犬ごときにここまで出来るものだ。俺は心打たれたよ、アンナ・ビルツ。だから、愛の試練はこれで最後にしてやろう――眼鏡を外して、狩人の男を見ろ。それができたら、鍵はくれてやる」


 アンナは目を見開いた。息が止まる。

「待て」という狩人の焦ったような声が聞こえた。


「そんな話、聞いてないぞ!」

「そうだとも。可愛らしい妻のおねだりに答えて、今考えたのだからな」メレトスは面倒くさそうに言った。「だが、お前にとっても良い機会じゃないか。この女は丸腰だ。逃げ道もない。今なら確実に殺せるし、殺せずとも、仮にお前が生き残れたのなら、お前の家族が遊んで暮らせるだけの金をやろう」

「っ、駄目……! だまされないで……っ!」


 眼鏡を奪おうとするメレトスの指先をつかんで、アンナは必死の思いで見つめた。


「わたくしの目は魔女を殺す。例外なくよ。仮になんてありえないの。だからお願い、あなた。他のことなら何でもするから、これだけはやめて」

「そうか。それで?」

「それで、って」


 アンナは言葉を失った。人が死ぬのだ。それ以上の理由なんて必要ないはずだ。


 なのに、どうして目の前の男は笑っているのだろう。まるで自分は関係ないと言わんばかりに笑えるのだろう。アンナは体を震わせた。寒さからではなく、底知れない恐怖からだった。


 メレトスが満足そうに目を細める。


「あぁ、気高きかつての革命家よ。お前のそういう顔が見たかったんだ、俺は。いい顔だ。実に実に、いい顔だ」

「……や、めて……」

「なに、心配はいらない。お前は革命で何人も殺した。魔女もかつては誰かを殺した人間だ。いまさら一人殺したところで、お前らの罪の重さは変わらんだろうさ」

「……っ、い、や……!」

「さぁ、罪をあばけ。アンナ・ビルツ」


 眼鏡を奪われ、体を突き放された。アンナは悲鳴をあげて目を隠そうとした。あぁけれど、なんてことだろう。意を決したような狩人と目があった。あってしまった。


 視界に景色が流れ込んでくる。アンナの目の前に広がるのは、もはや地下牢ちかろうではない。


 暗い森だ。森の中を駆けて、アンナが――いいや、狩人の男が、女の背中を追っている。


*****


 女は、革命軍の拠点となる街に住んでいた。たしか幼い子供が二人いたはずだ。夫は家にいなかったが、これは戦禍せんかで死んだからだ。だがそんなことはどうでもいい。大切なのは、彼女が革命軍の息がかかった街に住んでいたということで、いまやその街は、男たちの所属する兵士が占拠したということだった。


 彼女が革命軍に協力していたかどうかは不確かだが、殺さなければならないことは確かだ。


 簡単なことだ。彼女がいま裏切り者でなかったとしても、いつか裏切るかもしれない。そうなれば自分を殺しに来るだろう。


 仮に裏切らなかったとしても、住民に情けをかけた罪で、今度は自分が仲間から追われることになる。そうなればやっぱり、自分は殺される。それは駄目だ。だって自分には子供がいる。妻がいる。老いた父母もいる。生きて帰らねばならない。


 その意味で、彼女は裏切り者だった。何度もそうやって言い聞かせた。自分が生きるために。


 ――気が狂いそうだ。一体いつから、誰かを殺すことを代償に、自分は生きるようになったのだろう。


 逃げ惑う女に追いついて地面に引き倒した。本当は撃つべきではない。銃口を暴れる背中に押し当てた。殺すべきじゃない。銃の引き金に指をかけた。死なせたくはない。指先が震えた。けれど自分も、死にたくはなかった。


 すまないと、謝る。発砲音が響いた。


 *****


「……女を殺したのね。なんの罪もない女を」


 胸をかきむしりたくなるような悲鳴が唐突にみ、■■は異様な空気を肌で感じた。


 牢屋の外では、目を見開いた狩人が蒼白な顔で立ち尽くしている。アンナは泣いていた。けれど彼女の薄青うすあおの瞳は凍りついたように冷たく、狩人を逃さないと言わんばかりにらされることもない。


 それはまさしく、アンナ・ビルツの目だ。


「あなたは、自分が生きるために彼女を殺した。自分が殺されるかもしれない恐怖で彼女を殺した」アンナは低い声で言った。「でも、ね。考えられなかったの? 彼女だって同じように生きたかったのかもしれないって」


 狩人の男が後ずさった。


「……見、るな」

「知ってたんでしょう。彼女に子供がいること。彼女が死ねば、子供が帰る場所を失うこと。あぁそれに、そうだわ。あの子どもたちは、あなたの子供と同い年くらいだった」

「っ、俺は、生きたかったんだ! 生きるためにはそうするしかなかった! それしか考えられなかった!」

「嘘よ。それ以外の方法だってあったはずだわ。あなたは革命軍側に抜ける逃げ道を知っていた。直前まで、彼女にそれを教えるべきか迷っていた。でも教えなかった。教えずに殺した。自分が死ぬかもしれないと恐れたから。そうならない可能性もあったはずなのに」

「違う、俺は」

「あなたは」


 アンナはあえぐように呼吸をして、ゆらりと指先を男に向けた。


「女を殺したのよ。自分勝手な理由で。だからこそ、『深緑の慟哭ヴィザル』という罪名がふさわしい」

「違う!」


 男が悲鳴のような声を上げると同時、周囲に暗緑の光が散って、いくつもの猟銃りょうじゅうが現れた。魔女の力だった。


 何が面白いのか、メレトスは笑っている。アンナはふっと力が抜けたように立ち尽くした。罪を追求する酷薄こくはくな光は瞳から消え失せて、ただただ両手で顔をおおった少女が泣き崩れる。


「……ごめんなさい」


 全身の血が沸騰ふっとうして、次の瞬間には冷たくなって逆流した。あえて詳しく言うなら、そんな感じだ。短い言葉で言うなら激情で、途方もない怒りで、彼女が死んでしまうという焦りだった。


 ■■は牢から飛び出した。メレトスはぎょっとしたような顔をしたが、知恵だけは回る。銀の三つ輪を絡めた鍵を突き出す。それだけで、冷や汗が吹き出して足が鈍くなる。


 ■■は、彼女を殺さねばならない。

 いいや、違う。


 ■■は右手の傷を左手で掴んで爪を立てた。鮮血と激痛が声なき命令をつかの間遠ざける。おおいかぶさるようにして、彼はアンナを地面に引き倒した。肩の傷に銃弾の一発が当たったが、これも致命傷ではない。


 追撃はすぐにこなかった。視界の端では地面に光が散っていたから、きっと終わりではないはずだ。次の銃の準備でもしているのか。都合がいい。


 ■■はアンナの肩を無理やりつかんで、向かいあった。


「っ、駄目!」アンナはおびえたように身をすくませて、目を両腕で覆い隠した。「見ないで! わたくしは、」

「駄目じゃない」


 細い手首を握って、祈るようにひたいをつけた。


「僕を見ろ。アンナ」

「いや……いやよ……そんなことしたら、眠りの君さまが死んじゃう……!」

「死なない」

「嘘、」

「死なない!」


 アンナの悲痛な声を強い口調で遮った。少女の体がこわばる。恐怖だ。自分は彼女を恐怖でねじ伏せようとしている。これじゃあ婚約者と変わらない。思わぬ皮肉に笑ってしまう。それでも彼女の手をゆっくりと引きがした。助けるためには、そうするしかない。


「今から君に教えるのは、僕の名前であり、罪の名前だ」涙をはった薄青の目に、■■は誓う。「それでもどうか、呼んでくれ。僕は壊れない。殺されない。約束する。君のそばに帰ってくる」


 美しい泉の青を見つめ、呆然とする彼女へ■■は懇願こんがんするように微笑んで、名前を告げる。今の彼女は、きっとそういう顔に弱いだろうと思ったからだ。打算まみれの己に呆れたが、果たしてそのとおりだった。


 空元気が得意で、寂しがりで、誰かを見捨てることのできない心優しい彼女は、のどを震わせて■■を呼ぶ。


〈暗夜の銀狼〉ルー・アージェント


 二人の間で光が弾けた。その光を迷いなくつかんで、■■は――ルーは振り向きざまに腕を振りあげる。

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