霞む夜景

「ヤッホー。待った?」

 紅音が待ち合わせ場所であるフクロウの石像の前にやってきた。賢二は具体的な待ち時間を口にするかわりにペコッと軽く頭を下げた。

「ねえねえ、どう?」

 紅音が自分の服装を見せつけるようにその場でクルッとターンした。ブラウンのセーターに膝下丈の黒のチェックスカート。グレイに近い青のパンプスにテディベアがプリントされた靴下で足元を固めている。耳元には普段はしていないさくらんぼのようなイヤリングが見えた。

「はい」

「はい? あんだと? まさかそれだけとか抜かさないよね」

「素敵です」

「いまいち感動が伝わってこんな」

 いつもより少し女の子っぽい格好の紅音は新鮮だった。しかし賢二にはその状態を具体的に指し示す語彙が浮かばなかった。

「まあいいや。とりあえず火星人が店員をしているカフェでも行くか」

「そんなカフェあります?」

「世界は広いのさ」

 二人が向かったカフェは、いたって普通の地球人が店員をしているお洒落なカフェのようだった。一人だったらこんなところへは来ないだろうと賢二は思った。

「今日は付き合ってくれてありがとうね」

 賢二の向かいに座っている紅音が言う。

「どう? あたしとの初めてのデートの気分は?」

 紅音に言われ恥ずかしくなった賢二は、顔を逸らせた。それを見た紅音がクスクスと笑った。

 カフェでしばらくのんびりした後、水族館へ行った。

「定番か!?」

「なんですか?」

「いや、べつに」

 水族館の薄暗い順路を進んでいく紅音は楽しそうだった。

「なにこれ? 木の枝が泳いでる」

 そんなわけはないと思って見ると、水槽の中を確かに木の枝にも似た細身の生物がゆったりと動いていた。

「シードラゴンと言うみたいです」

「タツノオトシゴと似てるね。不思議な形だ。これも魚なの?」

「おそらく」

「ねえねえ、あっちにエイリアンがいる」

 そんなわけはないと思って見ると、確かにエイリアンと見紛うような奇怪な生物、巨大なタコが水槽のガラスに吸盤を張りつけていた。頭の部分はぶよぶよしている。

「うっわ。うっわって感じだね」

「なんですかそれ、と言いたいところですが、確かにうっわ、ですね」

「ねえねえ、あっちに人間が展示されてるよ」

 そんなわけはない、と思って見ると、本当に水槽の中に人間がいて一瞬身構えた。

「飼育員さんですね。何かのパフォーマンスでしょうか。展示されているわけではないと思いますよ」

 次は海月くらげのエリアにやってきた。薄暗い照明や立体感のある音響も手伝って、神秘的な雰囲気が醸し出されている。水中というより、まるで宇宙空間のようだ。

「海月ってさ、海月だよねえ」

「それは海月でしょう。海月なんですから」

 非建設的なやりとりを交えつつ先へ進んだ。

 賢二は水槽の中の生物を見るふりをして、紅音の横顔ばかり眺めていた。それはとても綺麗な横顔だった。大切にしたい、守りたいと思うような。

「ねえ、ちゃんと楽しんでる?」

 賢二の視線に気づいたのか、紅音がそう尋ねた。

「はい」

「それならもっとはしゃげばいいのに」

「子供じゃないんですから」

「少年の心は忘れたのか?」

「どうですかね」

 屋外のエリアへやってきた。外が暗くなってきたため、順路脇の樹木がライトアップされていた。紫のライトが幻想的だ。

「デートっぽいね」

「そう、ですか」

「手でも繋ぐ?」

「向こうにペンギンがいますよ」

 賢二の話の逸らせぶりに紅音は大きく息を吐いた。

 概ね満足した水族館を出た後は商業施設の専門店を回った。

 雑貨屋の時だけ少し滞在時間が長かったものの、紅音は物にあまり興味がないようだった。彼女は自分自身を繕うことに手間をかけない。彼女が喜びを見い出すのは、自分でない誰かを笑顔にすることだから。だけど賢二は彼女自身を笑顔にしたいと思った。たとえそれが自分勝手なエゴだとしても。

 夜はビルの高層階にある中華料理店で食事をした。窓から東京の夜景が見渡せる。

「あたしさ、意外に思うかもしれないけど、高いところ苦手なんだよ」

 熱々の小籠包をなかなか食べられないでいる紅音が言った。

「そうですか。それは確かに少し意外ですね」

「展望台の床が透けてるところとかダメなの。作った奴アホかって思う」

「遊び心だと思いますけど」

「ケンケンは怖いものある?」

「それはありますよ」

「なに?」

 あなたが怖いです、と口から出かかったがどうにか噤んだ。危ない。こんなところで彼女を不機嫌にさせても得はない。

「ケンケンはあたしと違って繊細だから、悩むことも多いと思うんだよね」

「……それは違いますよ」

「ん? 何が?」

「繊細なのは、ソラさん、あなたです」

「……」

「僕はあなたが本当はとても傷つきやすい人だと知っています。自分勝手なようで、周りにすごく気を遣う人であることも」

「そう、かな」

「はい。あなたは繊細な人です。人の痛みがわかる、優しい人です。優しすぎるがゆえに、自分を蔑ろにしてしまうところがある。もっと自分を大切にしてください」

 賢二の言葉に、紅音がニッと笑った。

「ありがとう」



 食事をした後、二人は夜景の見える海岸沿いの公園へやってきた。空いているベンチにどちらからともなく腰を下ろす。

 湾を挟んだ向かい側に東京のパノラマが広がっている。

「寒くないですか?」

 賢二は隣に座っている紅音に尋ねた。

「大丈夫。だけどケンケンが温めてくれるっていうなら遠慮はしないよ」

「大丈夫そうですね」

 紅音が楽しげに笑った。

 しばらく会話が途切れる。お互いにいろいろなことを頭の中で考えていることがわかった。

「あの、ソラさん」

「なに?」

「一つ訊きたかったことがあるんですけど」

「なんでしょう」

「ソラさんはどうして、今日、僕をデ……誘ってくれたんですか?」

 紅音が微笑みながら一度賢二のほうを見て、それから前を向いた。

「ケンケンに言いたかったことがあったんだ」

「それはなんですか?」

 紅音が気持ち顔を上に向けた。

「ありがとう」

 彼女の優しいその声は、ゆっくりと夜の空気に溶け込んだ。

「ケンケンと一緒に過ごせて、すごく楽しかった。いつもあたしのおかしな発言に付き合ってくれて、ありがとう」

 なぜだろう? ありがたい言葉なのに、胸の内が寂しくなる。彼女が遠くへ行ってしまうかのような。

「ケンケンが作ってくれる曲、大好きだよ。楽器を弾いてる姿も様になってる。いつもかっこいいと思ってた。依頼者の人たちが喜んでくれたのは、ケンケンがいてくれたから。感謝してる。ありがとう」

 賢二は自分の胸を右手でギュッと押さえた。感情が、膨らんでくる。

「一緒に仕事して、一緒に笑って、一緒に喜んでくれて、ありがとう」

 賢二はくしゃっと目を瞑った。弾かれた涙が頬を伝う。

「あたしたちと一緒に歩いてくれて、ありがとう」

 氷山が溶けていくようだった。温かいものが氷に触れ、とめどなく涙が溢れてくる。

 紅音が微笑みながら賢二のほうを向いた。

「あたしたちの仲間になってくれて、ありがとう」

 賢二は恥もなく泣き続けた。自分にはどうすることもできなかった。

「ありがとう」

 東京の夜景が涙で霞んでいた。

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