第二十章 善光寺と市兵衛
永禄四年(1561年)
実に九年間に及ぶ川中島の戦い(一次~四次)が実質上終わった。3年後に第五次の戦いがあるが、にらみ合いで終わっている。
妻女山に陣取った上杉政虎(謙信)の本陣を飯富、馬場、真田、相木市兵衛率いる1万5千の依田七軍の攻撃隊が裏をかかれた形となったが、逆にそれが功を生じた。
武田本陣を攻める上杉軍の後ろから、挟み内する形で攻める事が出来たのである。
武田方の勝利という結果にはなったが、上杉政虎は逃げ延び、武田方は軍師である山本勘助と弟信繁を失ったのである。
しかし、この戦いにより、信濃の実権をようやく武田信玄が治める事が出来たのである。
※晴信はその二年前の1559年に出家し名を信玄に改名していた。
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは、武田景虎と村上義清の戦いに端を発している。
村上義清が武田信玄に敗れ、上杉謙信を頼ったのである。
武田信玄、初陣である海ノ口城の戦いにて相木市兵衛の助けにより、功績を挙げてから
二十五年の歳月が流れていた。
そして、信玄はその時の約束を忘れてはいなかった。
信濃を任せる。
相木市兵衛の幾度の活躍により、信濃をようやく治める事が出来たのである。
躑躅ヶ城館
武田家臣を始め信濃の武将たちが一同に集められていた。
「皆の者、面を挙げよ」信玄
「ははっ」
「此度の戦、皆、大儀であった。長きに渡る上杉との闘い。ようやく決着が着いた。」
「信繁と勘助を失ってしもうたがの」信玄
「誠に」教来石
「勘助の策の裏を掻かれたが、それが功を生じた。それも相木勢・真田勢がいち早く舞い戻って来たからにほかならぬ」
「有難きお言葉」市兵衛
「信濃衆の働き、見事であった」
「ははっ」
「これより、信濃衆の知行を言い渡す」
それは、村上が支配する以前の領地をそれぞれが与えられたのである。
小県の真田には、上田城、小諸では楽巌寺城、
おおっ。と信濃衆の喜びの声があがった。かつては敵対していた村上の家臣たちにも各々の領地を安堵されたのである。 村上・上杉との決着がようやく付き、朱印状の約束を今一度、果たしたのである。
「市兵衛殿、これで良かったかの?」信玄
「ははっ。有難き幸せにございまする」
「市兵衛殿も、欲の無いお方じゃな。」
「但し、わしの言い分も聞いてくれ。勘助がここにおらぬが寂しいが、下知を下す」
「?」
「相木市兵衛、善光寺近くに城を建てよ」
「善光寺に?」
「相木市兵衛、これより善光寺の治安を命ずる」
「なんと。善光寺の・・」
市兵衛の身体が、心が震えた。
それは、信濃国を治めるに留まらず、日の本の仏教の源である信仰を守れという事であった。
「父上。なんという誉れでしょう」頼房
「父上。」森之助
「父上。」善量
「相木市兵衛昌頼。我の初陣である、海ノ口城の戦いから、志賀城攻め、砥石城攻め、そして此度の川中島の戦いの功績、大儀であった」
「有難きお言葉」市兵衛が泣いて答えた。
「齢は幾つになられたかの?」
「はっ。六十六になりまする」
「そうか? 六十六か? もう、そんなになるか?」
「はっ。お恥ずかしゅうございまする」
信玄が立って市兵衛に近づいて来た。
「御屋形様?」
信玄が市兵衛の前で片膝を付いた。
「そなたが、まだ年端の行かぬ我に味方してくれた故、今のわしがある。一度足りと、そなたへ勘助を通じて言った約束を忘れた事はないぞ。 今、その約束を果たそう」
「二十五年か? 長い事、待たせたの。すまなんだ」信玄が続けて言った。
市兵衛は涙が止まらなかった。
「相木勢の活躍は大したものじゃ」
「真っ先に、妻女山から戻って来たのう」
「恐悦至極にございまする」
「市兵衛殿。勘助が最初から言うておった。小県・佐久そして信濃を平らかに治める事が出来るのは、相木殿をおいて他には無いと」
「勘助殿が」
「左様じゃ。そしてそれは当たっておった」
「そちの闘い方で余は多くの事を学んだ。決して力づくでは人は従わぬと。敗者に対しても、慈悲を与え、その土地も奪うことなく、与える事によって配下に治める術を教えてもらった。」
「御屋形様」
「お主も、欲のないお方じゃな。領地をたんと与えるとゆうたに断りよった。それも、領地は元々の者に任せるが最良との考えじゃな?」
「なんと。市兵衛殿」真田幸隆
「市兵衛殿」右馬之助
「かたじけのござる」芦田
「但し、上杉もまだ、諦めてはおるまい。いずれまた、来るやも知れぬ」
「確かに、義清殿もまだあきらめてはおられまい」右馬之助
「真田弾正忠幸隆、楽雁寺雅方、市兵衛殿を助け、皆で善光寺を、いや信濃を守ってくれ」
「ははっ」
「ははっ」
こうして、信玄の元信濃は、名実ともに、ひとつになったのである。
しばらくして、善光寺の近くの三輪に、相木城が建てられた。(現・長野女子高跡)
2年後に上杉が再び、攻めてきたが、にらみ合いで終わった。
信濃に平和が訪れたのである。
相木市兵衛氏のその功績が称えられ、城山に築かれた相木城から善光寺に続く道を「相ノ木通り」と名付けられ、現在もその名が残っている。
そして、相木市兵衛は愛する息子達、そして村人達に看取られ72年の生涯を老衰の為閉じた。
その葬儀は善光寺の守護を携わった市兵衛故、各地より多くの参拝者が訪れたと伝わる。
そして、その身柄は、故郷である南相木村の常源寺に送られ祭られている。
長野・善光寺には毎年、年間100万人の参拝者が訪れるという。
そして、7年に一度の御開帳には、毎回参拝者が増え、実に7百万人を超えるまでに。なった
全ての仏教の総本山である、長野・善光寺。
乱世であった戦国時代、善光寺の覇権を争った時代に、信濃をひとつにし、最初にその治安を守ったのが
信濃の英雄・相木市兵衛昌頼その人なのである。
第二十章 完
第二部 完
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