第33話 大切な命
三種の毛にぼんやりした目つき。三毛猫はルカを見つけて、走ってきては、抱っこしろとせがんだ。
「この子は……っ……とっても可愛いですね」
「ああ、その子ね。残念だけど売り物じゃないのよ」
女性はやや早口で言いきり、ルカの腕の中にいる猫を奪おうとした。
三毛猫は今まで聞いたことのない威嚇の声を出し、女性の手から逃れようとする。
「あはは……懐かれちゃったみたいですね」
「そうみたいね。あら、電話だわ。ちょっと待ってね」
女性は子機を持って部屋を出ていった。
猫は間違いなくオリバーだ。生きていた。無事だった安心感は、ひとすじの涙となって頬を濡らす。
落ち着け落ち着け、と言い聞かせ、携帯端末でオリバーの写真を撮る。愛する恋人へ送り、GPSをオンにした。
オリバーが生きていたのは喜ばしいが、地獄の世界へ案内された。ここにまともな人間はいない。
背後に気配を感じ振り返ると、無表情の女性が立っていた。
「その子をずいぶん気に入ったみたいね」
電話を終えた女性が戻ってきて、冷たい目を向けてきた。
「や、ええと……この子が寄ってくるんです」
「あなた、どこかで見たことがあるわ」
「そうですか?」
弁護士としてこの付近を何度か足を運んでいる。見慣れない人間がいれば、どうしたって記憶に残ってしまう。
突然にオリバーがルカの手から飛び降り、廊下を走ってしまった。
「待って!」
ルカも慌てて追いかける。後ろから女性が追いかけてくるが、あわよくば猫だけでも窓からこっそり逃がせないかと考えていた。
「そこは入るな!」
女性の叫び声などお構いなしに、オリバーはドアを勝手に開けて隙間から入った。
漏れる空気に混じり、血生臭さが鼻についた。ここは何かある、と直感と臭いが危険を訴えてくる。それでも、入らずにはいられなかった。
「これ、は…………」
下から十センチほどの壁に広がる血痕に、そこからひび割れた跡。床は毛や糞尿が散乱していた。
想像し難いことであっても、現実は物語っているのだから、これは実際に行われた。
「お、えっ…………」
嘔吐しそうになるのを必死でこらえ、ルカは窓を開けた。
外の空気の美味しさに感動できる日がくるとは思わなかった。
「オリバー、おいで」
かしこいオリバーはルカの言いたいことを察知し、窓から外へジャンプした。
後ろにいた女性はいない。猫への虐待部屋を見られた以上、逃げるかルカ自身を殺すかのどちらかだ。
ルカも窓から逃げる直前に、壁に埋まった銃弾を引っこ抜いた。
外にはパトカーが数台並んでいて、警察官がぞろぞろと降りてくる。
「ルカ!」
警察官の中にエドワードがいた。厳しい表情を変えず、ルカを一度抱きしめるとすぐに離した。
「説教は後だ。パトカーへすぐに乗りなさい」
「ええ……中には女性がいました。ここの部屋は血の臭いで充満してます。それとこれ……」
「銃弾?」
「壁にめり込んでいたんです。血痕も、そこから広がっていて……」
エドワードは息を呑んだ。
「ルカ、ここからは警察の仕事だ。意味は判るね?」
「はい。一応、証拠隠滅のために建物自体を燃やす可能性があります。消防車も呼んで下さい。中にはたくさんの猫がいますが、猫を生き物と思っていない人間です」
「判った」
短く返事をしたエドワードだが、ルカをもう見ていない。
ルカをパトカーに押し込め、同僚と共に建物の裏口へ回っていった。
「今、消防車も呼びましたからね。安心して下さい」
「猫を避難させてほしいです」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ」
窓を飛び越えるとき、微かに臭った焦げ臭さは嘘であってほしいと願う。
だが現実に起こってしまい、建物からは灰色の煙が立ち上がる。太陽が拒否しているのか、煙は風に煽られて横に流れ、警察官たちを隠した。
ほどなくして消防車が止まった。最悪の事態が起こってしまい、こうなるとルカには祈るしかできない。
見覚えのあるワゴン車が走ってきた。運転席には数日前に三毛猫の飼い主だと偽った男が乗っている。
「あの人! あの人です!」
ルカはドアを開けて警察官に向かって叫んだ。
聴取を終えて戻ってきた頃には太陽は沈んでいて、ルカは何もせずにベッドにダイビングした。
起床すると綺麗にベッドへくるまっていて、エドワードが布団の中へ入れてくれたのだと察する。
寝過ぎると体調は悪化したりもするが、すぐにベッドから起き上がれるほど調子が良かった。
シャワーを浴びた頃に、コーヒーの良い香りが漂ってくる。
キッチンでは、エドワードがスープを温めていた。
「おはよう、寝坊助さん」
「おはようございます。かなり目覚めが良くて、お腹空いちゃいました」
「まずは食べよう。話はその後にする」
エドワードもシャワーを浴びたばかりで、同じボディソープの香りがした。
食後の紅茶を飲みながら、エドワードは深夜日付が変わった頃に帰ったと明かした。
「あの建物から煙が上がったが、ぼや騒ぎ程度で済んだ。君が消防車を呼んでほしいと訴えたから助かったよ」
「猫たちは無事でしたか?」
「元気だし餌もしっかりと食べていた。残った猫たちは、ちゃんと育ててくれる人に渡すそうだ」
これにはルカもほっとした。
「猫のブリーダーをしていた女と、旦那も逮捕した。ワゴン車に乗っていた男だ。君が大統領家族のエディを助けたときがあっただろう? あのときに放たれた銃弾と一致し、問いつめたところ白状したよ」
「どうしてエディを狙ったんですか?」
「大統領の息子だとは知らなかったらしい。服装から良いところのお坊ちゃんだと察して、ちょっと脅して一人になったら攫うつもりだったと言っていた」
「そうだったんですか……」
「君には耳を塞ぎたくなる話だが……猫には毛色などで同じ命であっても値段が変わる。売り手が見つからない猫は処分をしていたようだ」
「エディや僕を襲った拳銃は、虐待や殺しの道具としても使われていたんですね」
壁に広がる血痕は、どう見ても撃った跡だ。何を、と聞かれてもその先は恐ろしくて口には出せないが、彼女たちはとんでもない過ちを犯してしまっていた。
「旦那は金になりそうなものをかき集めたり、動画サイトの編集も行っていた。猫も売れるんじゃないかと思って、家を特定して入ったらしい。殺人については否認しているが、時間の問題だろう」
「これから裁判やらいろいろ大変でしょうけど、とりあえずは解決したってことでいいんですよね」
「そうだな。君の働く法律事務所の前で起こった事件だ。怖かっただろう」
「はい……そうですね」
嘘をつく理由もなく、素直に認めた。隠しても良いことはないし、吐き出せば気持ちも楽になる。それに嘘をつけばエドワードは苦しげな表情を浮かべてしまう。
「二度とこんなことをしないでくれ。君が死んだら、俺は生きていけない。ひとりで動かず、相談してほしい」
「ごめんなさい。僕も確信がなかったんです。でもこれからは、ちょっとでも怪しいと思ったら相談します」
信頼と愛情の証を込めて、エドワードにキスをした。
「事件の耐えない日々ですね……ロスは」
「日本へ行かないか?」
ルカは何度か瞬きをした。
「旅行しに」
「案内できるほど、僕はそんなに詳しくないですよ」
「でも日本語は話せるんだろう?」
「一応……まずまずですね」
母親相手に話してはいるが、母以外の日本人と話す経験が乏しいので、曖昧に濁した。
「行きたいです。あなたとならどこまでも」
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