第26話 これ以上何を隠し通しましょうか

 橘の悲痛な表情は冷徹の仮面を容易く貫通している。

「子供は助かったのですね?」

「ええ、ええ。幸いなことです。屋敷に専門家はいませんでした。色々尽くせる手はあったはずだと、今でも思います。愚かな後悔です。――私たちは山王楓を密かに埋葬しました。そして、彼女の死亡を聞いた筒井靖はしばらく顔を見せず、主人は落ち込むばかり。突然呼び出されて、彼に『感謝された』とき、本格的に狂われたのだと思います。教職も辞めて遺児を『楓』などと呼び出したのもそれ以降なのです」

 貴女はそれを看過したのか。そう思っても、簡単に云えるものではない。

「失礼。私は本来関わりの無い身。ここで出しゃばるべきではないことを理解しています。しかし、訊かねばなりません。貴女とこの館の主人は、楓嬢を監禁して育てた上に、父であるべき人物と性的な交渉をもたせたのですか?」

 振り下げられるべき正義の刃が斬るはずだった悪魔は既にいない。英国騎士は怒りのやり場に困っているようだ。

「貴女たちには理解できないと存じますが、主人も私たちもお嬢様を正しく愛していたと確信しております。いずれ日の当たるところに送り出せなければいけないことも知っておりました。ただ一点、おっしゃる通り主人とお嬢様の性的な関係について弁明するつもりはございません」

 橘は努めて冷静に、とみえた。

「なら――」

「主人の精神状態はそれを拒否できるほど健康ではなかったのです。私は、私は使用人です。お止めして、もし主人が自殺などされては、と恐れました。不可能でした。何時だって無理やり求めるのはむしろお嬢様だったのです。幸福ならそれでよいではないかと、思ったのです。責めたいなら責めればよろしい。しかし貴女に何が解るというのですか」

 一様に黙った。

 楓だけが、慰めるように橘に手を伸ばす。彼女はそれにひどく動揺しているようにみえる。

「あ、ありがとうございます。お嬢様」

 伊智那がふと思い立って口を開く。

「楓くん、お手洗いに行きたいのだけれど、どちらかな」

 山王楓は考えるように唇に指を当てた。

「ごめんなさい思い出せないわ」

「まるで覚えていない?」

「そうね。あまり覚えがないのよ。変なお話ね。橘さんはこんなにも懐かしく感じるというのに」

 橘が立ち上がってドアを開けた。

「伊智那さま、ご案内致しましょう」

「ああ、どうもありがとうございます」



 行儀よく歩く橘使用人に僕はいくつか訊かなければならない。

「橘さん、とても広いお屋敷ですが、管理は貴女お一人で?」

「今はそうですね。昔はイブラヒムという老執事がいらっしゃいました」

「中東の方?」

「いえ。マリ共和国だそうです」

 旧フランス領スーダン。西アフリカの国だったか。

「なるほどフランス軍時代のお知り合いですか」

「ご慧眼ですね。当時軍が駐留していたと聞いております」

 いよいよもって面倒な事態である。

 アンティーク調の化粧室で装飾の目立つ鏡に問いかけた。山王楓は橘さんによくなついている。しかしここで引き渡してよいものだろうか。


「お姉ちゃんまだ?」

 呼んでおいた条がドアを四回ノックした。ここで四回も叩く必要はないだろうに。

「今開ける。かなりお洒落なつくりだぞ。見たまえ……」

 僕は木製のドアをギィと開けて妹を中に引きずり込む。橘さんが近くにいないことを確認して、耳元で囁いた。

「辻褄が合わない。違和感を覚える。楓はこの屋敷を知らないと云うし、何よりも使用人は彼女一人で、楓と二人暮らしだったそうじゃないか。入谷礼華も死んでいるのだろう?」

 妹の顔が微かに赤くなる。息が耳に当たるのだろうか。

「そ、それがどうしたの?」

「それじゃあ、僕らを襲った軍人は誰なんだ?」

「あ」

「楓が残る流れになったら、僕も残る。そのつもりで」

「――わかった」


 応接室に戻ると、表面的には和やかに談笑していた。

「条と会ったかしら?」

「会ったよ」

「それはよかったわ。それとね、母さん入谷先生のお墓にお参りしようと思うの。橘さんに聞いたら、意外と近くだったからタクシーで行こうかなって。条とエルシィさんも来るけど、伊智那はどうする?」

 口ぶりから察するに、楓は残ることに決めたのだろうか。

「楓は残るのかい?」

「うん。これ以上ご迷惑はかけられないもの」

「ところで橘さん、大事なことをまだ聞いていないのですが、記憶喪失の原因は?」

 全員「あっ」と漏らした。何といううっかりどもなのだろうか。

「私としたことが抜けていましたね。簡単に申しますと、主人が亡くなったショックだと思われます。大変狭い世界にいらしたのですから、無理もありません。私が御遺体を扱う間に、ふらふらと出ていかれてしまったようで、皆様方に拾われたのは幸運でした」

 屋敷を一人で管理していれば、そうもなるだろう。

「主人が亡くなられた今、これが良い機会だと考えます。私はお嬢様をしかるべき組織に託す心づもりです。これ以上何を隠し通しましょうか。それに、病院にも行かせるべきでしょうから」

 楓が不安な顔を見せる。特定の単語を出せば激しく動揺するだろう。そのあたりの洗脳的教育はまったくもって許しがたい非道である。

「今夜くらいはお姉ちゃんも楓と一緒にいてほしいな。だめですか、橘さん?」

 条が戻って、しばらく話を読んでから真っ直ぐ云った。

「え、ええ。構いませんよ。ありがたいお話です」

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