第24話 田んぼにアセスルファムカリウム
筒井靖が起こした事件は全国的に有名になった。憶測と噂、視線を受けても、筒井海里は何も云わなかった。しかしただ一度、ひどく落ち込む彼女を献身的に支えてくれた、気を許した友に全てを話してしまいそうになったことがあった。ある時、顔を青くして帰宅した兄。彼女との長電話。両親や妹を避けるようにボソボソと話していたこと。帰りが遅くなることも多くなった。必然興味をもった海里は、或る時確信的な単語を耳にすることになる。「御腹のこどもは――」云々。明くる日の授業は心ここに在らず、意味もなく辞書を引く。たまたま目にした単語で暗号文をつくることを思いついたのもその時だった。うっかり友達に文を見られて、ひとしきり笑われた後、友達は一授業の間真剣に取り組んでいた。解けたのなら話してしまおうと覚悟するも、幸運にも放りだし、ほっとした彼女は異なる決意を胸に兄を問いただすことにし――。
「兄から聞いたの。彼女を犯してしまったとね」
兄としては、むしろガールフレンドに抵抗されたことにびっくりしたらしかった。怒りと興奮のままに傷つけたあと、冷静になってからは地獄の思いだったという。
「私には何があったかわからないけど、兄と彼女は信じられないことに仲直りした。でもそのあと、妊娠が発覚して再び兄は取り乱した」
伊智那が空のグラスを差し出して口を挿む。
「それで、二人して入谷礼華先生に相談を持ち掛けたのか」
「そう」
「御腹の子がどうなったのかは――」
「ううん。知らない!」
「大妙ブレンドもう一杯!」
*
水の如き善き酒を水のようにというよりは、と思って檸檬入りの炭酸水で割ってみた。あまりしない飲み方だが悪くない。日本酒の甘さがむしろ引き立った気がしないでもない。いやむしろどころではなかった。甘すぎる。いつから田んぼにアセスルファムカリウムを撒くようになったのだ。実るほど頭が下がる稲穂かな、などと褒め過ぎたのではないだろうか。きっと甘やかしすぎたからこんなことになるのだ、と伊智那が目をくるくるさせていると。
「それ、甘い炭酸水だよ?」
「という訳で明日、僕と条と楓と母さんとエルシィ姉さんで入谷家にお邪魔しようと思う」
条が冷蔵庫から無糖の炭酸水をもってきた。
「アポイントメントは」
「ない」
お邪魔しにいくのである。
ガラステーブルには六種類の飲み物が置かれていた。日本酒、コーヒー、紅茶、水、炭酸水、麦茶が並ぶ。伊智那は恒常的にぼんやりとしている頭をふるふる振って、一杯くいと飲み干し辺りをぐるりと見渡した。
「発端は。そう始まりは母さんと条が道でこれを拾ってきたことだ」
ぽんぽんと叩かれた楓が頬を膨らませて抗議したが相手にされない。
「もう慣れてきたがこれは常識外れの世間知らずで、そのくせエロいという……。悪かったって。兎に角、性的な事柄によく親しみながら何も知らない、およそ現代日本に於いて非人間的と云われるべき性質を有し……痛いぞ妹よ」
ぼんぼん殴られた伊智那が頬を腫らした、ということはさすがになかった。
「まあ、それだけならニミッツ級の変態として処理してもよかったのだけど、母さんの古い級友、山王楓を名乗るときた。旅券も学生証もある、彼女にしか見えない別人としてね」
座る山王楓は複雑な表情をしたが、何かを云うこともなかった。
「ここに来る直前の記憶が無いことといい、色々なことを考えるに、何かとてつもない爆弾があることに間違いはない。入谷礼華は元フランス軍人だというし、本物の山王楓は失踪しているし、その恋人は焼身自殺を遂げていたのだからな」
(フランス軍人に襲われたのだよなあ)
条は入谷邸を訪れることがなかなか頭のおかしな行動だということに気づいた。
「そしてここにもう一つ。失踪した山王楓はどうやら筒井靖の子供を身籠っていたらしいのだよ」
秩父にいなかった面々の表情がさっと変わった。
「山王楓が不登校になったのは、妊娠したからだ。望まぬ妊娠のあと二人は仲直りしたらしいが、数か月経って筒井は学校に戻り、山王はまるで来なくなった。当然、身籠った事実など隠し通せないから」
三崎裕司が久方ぶりに口を開いた。
「中絶はしなかったのか」
「問題はそこなんだ、父さん。二人は確実に妊娠の件を入谷先生に相談していたはずだ。実際或る時から兄の精神は安定したと妹の筒井海里は証言している。妊娠の切っ掛けについて仲直りしたカップルは、尊敬する教師に事と次第を告白し助言を求めた。その結果、山王楓は家に帰らなくなるが、入谷先生と手紙のやりとりを続ける。突然恋人が焼身自殺を遂げるまでは」
(明らかなのは、入谷礼華が秘密裏に山王楓の出産を援助したこと。理解のない親や学校に黙って、何かしらの手段で彼女をどこかに匿ったのだ。そういえば、楓の父母が留学云々とわめいたのは本当にそう聞いたからかもしれないな。長期間の留守の云い訳だったのかもしれない。父母が帰ることはなかったようだが)
そして丁度、出産予定日であろうあたりの日に筒井靖が自殺するのだ。
「僕の仮説を云おう。どうしても子供を産みたい山王と筒井は、入谷礼華という協力者を得ることに成功した。彼は何かしらの手段で秘密裏に山王の出産を援助した。匿うなどしてね。もちろん手を叩いて褒めるようなことじゃないかもしれないが、理解のない親のこと。バレていたら中絶は免れなかっただろう。だが――」
条は楓の隣に座っている。
「死んだのだ。やはり環境が不十分だったのか、それとも仕方のないことだったのかわからないが、出産に失敗した。生きる希望を見失った筒井は自殺を遂げた。失敗した協力者、入谷礼華に複雑な心中を伝えてね」
燃え盛る炎のなか、入谷礼華はナイフを避けない。クラフトナイフにも、殺意はない。
条が震える楓をそっと抱きしめた。
「入谷礼華は真実を隠し通して、平和だったはずの学校を去った」
「山王楓は、山王楓はどうなった?」
父の言葉に三人がはっと顔を上げるが、伊智那は暫く黙ったままだった。炭酸の抜けた薄い日本酒を不味そうに口に含んで、さも苦々し気にハぁと息をつく。
「違うよ。彼女が死んだんだ。死産じゃない。死んだのは、山王楓だ」
「……そうか。だから筒井は死を選んだのか。そうだ。愛する恋人を残しては死ぬまい。でも、もし、例えば子供を思って関わるまいと決めていたならば、孤児院に預けるなりするつもりだったならば、もはや彼には何も残っていない。何も。激情のような炎に消えたいと願うのも、無理はないことだ――」
静寂が響いた。どこかで焼け落ちるにおいが立ち上る気がする。それが最期。絶望とともに感謝を伝える父親の笑顔。
みな立ち去るまで一言とて発しなかった。
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