探偵少女ロリータをひろう

存思院

第1話 三崎条は新川を上っている

 東北東に成田国際空港が控え、南方に千葉港を望むY市及びその周辺は物流が盛んな街である。やれ○○ロジスティクスだ、それ××運輸だと描かれたトラック、立ち並ぶ倉庫を見ていると如何にも直線的に無機質で、「炭もてわたる」前の「火桶」のように好くない。冬の朝である。ただ、動線は冷たく煩くても、半歩も外れれば山と川の田舎町で、庚申塔の目立つ古人の村々との境界は水彩画のような曖昧さで溶け込んでいた。

 由比ヶ浜からY市に移り、高校の美術科にてひたすらアクリル画を描く三崎条は、海運を営む父の影響から、文句をつけながらも親しみのある街と海、そして鎌倉の美景に知名度の外は負けぬ自然、人文景観にすっかりと絆されて、東隣のS市に穴をあける広漠たる湖沼や、南方検見川浜に通い、潮に錆びた自転車を益々疲れさせる日々を送っている。

 本日も恒例のサイクリングと意気込んで、三崎条は新川を上っている。

 問題は今日が始業式ということだった。

 実のところ通う高校はまさにこの川上にあり、十分も走らせて少し逸れればなんら問題のない、ただの遅刻で終わるだろう。鬱々とした九月の初日に、流れれば休めてしまう寝坊の朝に、わざわざ川を遡ることができればの話だが。

(今私は遡っているけれども)

 学園に通じる道を含む、あの交差点は刻一刻と近づいて、車輪の回転はカタカタタンと衰えた。ノロノロと眼前の老人についていくような様で溜息ばかりついていた三崎条は、ついには自転車を止め、ハンドルに額をのせてウンウンと唸りはじめてしまった。通行人は、体調不良と誤認して声かけるものあり、少女に不用意に近づくのを恐れて遠巻きに眉寄せるものあり、少々奇怪な光景である。それら親切の声たちは彼女にとってまるで聞こえていないようで、無視の具合が病状を一層シリアスにみせてしまい、危うく救急車を呼ばれるところだった。

 危うくというのも、卒然彼女は起き上がり、再びペダルを踏みしめたからに他ならない。

 彼女は登校を諦めた。

 数秒前とは打って変わって、うきうきと体を揺らして学校に背を向け、川を下るに迷いなく、追い風か、下り坂か、それら以上に心持ちか、快調に自転車を飛ばすものだから、あっという間に家に戻ってきてしまった。見慣れた瓦屋根を視界の端に捉え、小さい牧場のある路をゆるゆると通り過ぎているとき、不意に電話がかかってきた。画面には姉の名前が表示されている。

「もしもし、お姉ちゃん?」

「条、母さんが帰って来るなら買い物に付き合ってほしいって云っているぞ」

 寝起きの気だるげな声だ。

「なんで帰ってくるってわかったの?」

「鼻歌が響き渡っていたからな」

「あ……」

「私に付き合ってほしい買い物って?」

「さあ。母さんに聞いて」

 玄関で母が待っていた。訊くと千葉駅に箸を買いに行きたいという。暇ならば自分と姉の箸を選ぶためについてこないか、とのことだった。

 了承してリュックサックから教科書を取り出そうとして、なくて――今日は始業式だ――軽いから背負う必要もないかしら、などと考えていたら、後ろから声がかけられた。

「ねえ条、ガスの元栓が閉まっているかみてくれない?」

「お姉ちゃんがいるのに?」

「ごめんなさいね」

 尋ねつつも、これは彼女の癖だから知っていた。条の母はガスを殊更過剰に警戒するのだ。ついでとばかりに軽いリュックにお菓子を入れつつキッチンと風呂場の元栓を確認している条は、ブルーチーズとシャンパンを堪能している姉に何気なく訊いた。

「お姉ちゃん、母さんは火事が怖いのかな」

「さあ。もしかしたら、トラウマでもあるのかもしれない。だからこそわからない。安易に訊けないから。でも僕には関係のないことだ」

「私もお姉ちゃんに訊いているしねえ」

「その通り」

 姉が在宅であるにも関わらずガスの元栓を閉めるというのはやや常軌を逸しているようにも思えるが、姉が知らないと云うのに条はむしろ安堵した。姉は姉で常人とは程遠く、例えば今朝も「旧シャンパーニュ地方の親切な住人」を名乗る怪人物からシャンパンの贈り物を受けていたほどなのだが、怪人脈があるとかそんなことよりも、知見が最も非人間的で、関心のあることで知らないことはなかった。この場合、母の奇妙な性癖に関心がないということで、それ故に条はむしろ安堵したのだった。

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 もう一つ付け加えるなら、姉は酒豪だ。

 いくつかのバスを乗り継ぎ電車を乗り継ぎ、千葉駅に着くまでの間、母子の会話は多くなかったものの、穏やかな時間が流れていることに疑いはなかった。母、三崎ふうきは「たいして嫌でもない学校」を初日からサボってしまう娘に対して怒るでもなく、諭すでもなく、かといって選択を歓迎するでもなく、短く理由を問うだけだった。条にとってこれは姉、伊智那の遺産のようなもので、バスの座席で内心ちょっとした感謝の念を抱きつつ、絶えなかった親子喧嘩を回想した。

「母さん、お姉ちゃんって昔からあんななの?」

 母は苦笑した。

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