第5話
「遅い……」
聖索を旅籠の周りにぐるりと巡らせたナエマは、馬小屋の中でシーリュウを待っていた。
先程から雨が降り出している。
雨が降る前、待つついでに、と旅籠の前の広場にも魔除けの紋章を描いておいた。それが雨の中でもぼんやりと光っている。
これだけ対策を施したのであれば、そう簡単にこの守りが崩れることはないだろう。
しかし、暗闇の中でランタンの明かりだけで待つというのは心細いものだ。
先程、何やら遠くで大きな音がしていた。
――何かあったのでは。
そう思うと不安になる。
「神よ……。どうか、あの方をお守りください……」
自分を落ち着かせるためにも、ナエマは祈った。
そのとき、何かを引きずるような音がしてナエマは顔を上げた。
音がどこからしたか耳を澄ませていると、また、ざっと音がする。旅籠の前の道からしているようだった。
聖索の守りの外に出るのは勇気が要ったが、見るだけだ、と自分を奮い立たせる。
ナエマはトランクの中から光を放つ硝子玉を取り出すと、地面に叩きつけてそれを割った。すると割れた硝子の中から光球が現れて宙に浮かんだ。
それを確認すると道に出る。光球はナエマの後をついてきていた。
辺りを見回すと、誰かが道の真ん中に倒れていた。
ナエマは慌てて駆け寄ると、それが傷を負ったシーリュウとわかった。
「シーリュウさん! どうしたのですか!」
ナエマはシーリュウを抱き起こすと、肩を貸して急いで旅籠に戻った。
ナエマが旅籠の戸に手をかけようとすると、シーリュウは息も絶え絶えの声で言った。
「中、入るな……。皆、怖がる……」
確かに、皆安心して寝入っているのだ。そこに怪我をしたシーリュウを見ると混乱が起きるかもしれない。
ナエマは馬小屋の藁の上にシーリュウを寝かせると、改めてその体を見る。
服の右袖が焼け落ちたようになっていて、右腕自体も血に塗れ、ひどい火傷のように爛れている。
「魔物の、血、浴びた……、が、は……っ!」
言ってシーリュウは咳き込み、口から血を吐き出す。
「魔物の血を……? 少し待っていて下さい!」
ナエマは水の入った手桶を持ってきた。納屋を覗いたら桶だの甕だの色々と物があったので、水を入れられそうなものには全部水を入れて聖水を作っていたのである。
「魔物の血なら、これで何とか……」
言いながらナエマはシーリュウの右腕に聖水をかけた。
「ぐ、う……っ!」
右腕にこびりついた魔物の血が聖水によって蒸発する。魔に侵されつつあったシーリュウの腕は聖水の力に痛みを感じるようになっていた。
シーリュウは声を殺して痛みに耐える。
魔物の血が洗い流されると、シーリュウも楽になったのか呼吸が元に戻っている。
「大丈夫ですか?」
「腕、平気……。でも、少し、瘴気、吸った……」
「で、ではこれも飲んでください!」
ナエマはトランクから聖水の入った小瓶を取り出すと、シーリュウを抱き起こして少しずつ飲ませた。
やがて聖水を全部飲ませると、ナエマは不安そうにシーリュウのことを見た。
「……ああ、楽になった。寝たら、元に戻る」
シーリュウに言われて、やっとナエマは安心した。
シーリュウをまた寝かせてやると、ナエマは尋ねた。
「外の様子はどうでした」
「南の窪地、毒の泉、あった。魔物の巣。そこから魔物、力を得ている。新たな魔物、生まれている」
言ってシーリュウは宙を睨む。
「毒の、泉……」
ナエマは息を呑んだ。
いくら魔物を倒したとて、根元を断たねば状況は好転しないということだ。
ここには結界が張ってあるから魔物の侵入は防げるが、いつまでも立てこもっているわけにもいかない。食料もわずかだ。
飯もろくに食えず、外には魔物がうろついている。その状態で皆の精神はどれほど正常でいられるか。長くはないだろう。もって一日か二日。
シーリュウは右手を前にかざし、指輪を見た。ひびが入っている。しかし、それを接ぐように赤い光が灯っている。
饕餮号には多少の損壊を自分で修復する力がある。特に魔の力には強い。一旦装甲が融かされたとはいえ、時間が経てば戻るだろう。
シーリュウは手を胸に置き、ナエマのほうを見た。
「ワタシ、戦う力しかない。あの泉、どうにかする。お前の力、必要」
「私の、力が……」
ナエマは震える声で言った。
「お前の力、魔を清める。今使わないで、いつ使う」
シーリュウの言うとおりだ。
ここで皆を救えるかは自分にかかっている。
ナエマは確かに魔に侵されることのない、神の寵愛を受けた人間である。
だが不死身というわけではない。
魔物の鋭い牙で体を食いちぎられでもしたら。
そう思うと体が震える。
だが目の前のシーリュウは、たとえここにいる人間を見捨てたら寝覚めが悪いという利己的な理由でも、自らの体を危機に晒して戦った。
その覚悟が、まだできない。
その覚悟さえ――。
「まだ迷うか、臆病者」
シーリュウの言葉は叱責のようだったが、責めるものではない柔らかい言い方であった。
「誰だって痛い、嫌だ。死ぬ、もっと嫌だ。でも、ワタシ、こんなところで死ぬ弱い人間思われる、絶対に嫌だ」
「っ……!」
ナエマはシーリュウの言葉に息が詰まる。
シーリュウは使命だの良心だのそういう話をしていない。
人として譲れぬ矜持の話をしている。
ナエマはどうだ。
このままシーリュウ一人に全てを任せて、危険な目に遭わせて、最悪、彼が死ぬことになってものうのうと生き延びるつもりか。
その犠牲の上で神の寵愛を受けたなどと言うつもりか。
それで悪魔に復讐するなどと嘯くつもりか。
「や、やります……っ!」
ナエマは断言した。
「私にだって、譲れないものくらい、ある……!」
そうだ。悪魔を討伐するのに魔物風情に怖がっていてどうする。
司祭でありながら、目の前で困っている人間を助けられなくてどうする。
いつまで逃げているつもりだ。
逃げてばかりでは何も掴めない。
自らを危険に晒してこそ何かを得られるのだ。
ナエマは自らを奮い立たせるように拳を握りしめた。
「……よく言った」
言ってシーリュウはナエマの手に自分の手を添えた。
「ワタシ、何があってもお前、守る。ワタシの鎧、人守るため作られた。たった一人守れなくて、この鎧、纏う資格、ない」
「シーリュウさん……」
何がそこまでこの男を駆り立てるのか。
武門に生まれ、育てられた。
それだけで説明できるものなのか。
シーリュウの話を聞いていると、どこか危うさを感じる。
跡取りとしての厳しい教育を受け、父に役立たずと言われ、弟が跡継ぎになり、家も国も捨てた。
彼はそこで生きる目標、意味を見失った。
その上で、彼は問い続けている。自分が何のために生まれ、何のために力を持ち、何のために力を振るうのか。
答えを追い続ける強さこそ、シーリュウの持つ本当の強さかもしれない。
「……ナエマ。礼する、言った」
シーリュウが初めて自分の名を呼んだので、ナエマは戸惑いながら続きを聞いた。
「は、はい! 必ずお礼をいたします!」
ナエマが答えると、シーリュウは安心したように目を閉じた。
「シーリュウさん!」
シーリュウがこのまま死んでしまうのではないかと焦り、ナエマはシーリュウの名を叫んだ。
「うるさい。疲れた。眠い、だけ……」
今にも寝入ってしまいそうな声でシーリュウは答える。その言葉にナエマはほっと胸を撫で下ろした。
「柘榴……、腹一杯食べたい」
それだけ言うとシーリュウは静かに寝息を立てて眠ってしまった。
「まったく、あなたという人は……」
ナエマは苦笑した。
命を懸けて戦って、その見返りが柘榴だけとは。どれだけ欲のない人間なのか。
ナエマは法衣を脱ぐと、シーリュウの上にかけてやった。
「……神よ、どうか、私だけではなく、この方にも恵みを与えてください」
ナエマはロザリオを手にそう祈った。
いつしか雨は止み、雲の隙間から月が覗いている。
その祈りを月だけが聞いていた。
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