五霞殺人事件

鷹山トシキ

第1話 怪異

 五霞町は茨城県の西南端に位置し、関東平野のほぼ中央にあり、東京都心からの距離は約50キロメートルである。


 町内の北東部を利根川、東部を江戸川、南西部を権現堂川および中川の四方を河川に囲まれている。隣接している自治体は、茨城県古河市・境町、埼玉県久喜市・幸手市、千葉県野田市の5市町である。茨城県内の自治体では唯一、町内全域が利根川の右岸(南側)にあり、江戸川の起点としても知られている。


 茨城県内の他市町村から当町へ直接アクセスできる道路は、1981年(昭和56年)に新4号国道春日部古河バイパスの新利根川橋が有料道路として架かる(2001年(平成13年)4月7日からは無料開放)まで存在していないため、同じ茨城県内へ直接行くことが出来ない飛び地であった。このような理由から、住民の日常生活における物品の購入・就労・進学など当町における生活圏は、利根川を隔てて隣接する茨城県古河市、猿島郡境町より、埼玉県幸手市や久喜市(旧栗橋町)との結びつきが強い。そのため、茨城県・県西地域の自治体では唯一、東京都市圏(都市雇用圏)に属する。最新の2015年(平成27年)の統計では、同じ県西地域の古河市、県南地域のつくば市・土浦市よりも東京都へ通勤・通学する就業者・通学者の割合が高い。


 東京都市圏には属するものの、隣接する古河市とともに昭和30年代から工業立地が進み、埼玉県方面からの労働力流入も多く、 昼間人口比率が124%(平成17年国勢調査)と高いことも特徴である。最新の平成27年の国勢調査では昼夜間比率が県内1位である。


 また、当町の指定金融機関は、さいたま市に本店を有し埼玉県を拠点としている武蔵野銀行である。一方で、茨城県の指定金融機関であり、県庁所在地である水戸市に本店のある常陽銀行は、茨城県内の自治体では唯一、店舗・ATMともに当町には存在しない。


 わずかではあるが、夏には冬木地区などで蛍が飛ぶ。


 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)五霞インターチェンジの供用に伴い、圏央道・新4号国道・県道西関宿栗橋線等の高次な広域交通体系が確立された立地を生かし、商業・工業・流通業務等を中心とした「五霞インターチェンジ周辺地区土地区画整理事業」を進めている。圏央道供用に伴い、当町における工業地の地価上昇率が全国1位となった(平成29年都道府県地価調査)。

 

 海抜は14m(土与部・江川などの猿島台地)から7m(山王)であり、町内全域がほぼ平坦である。かつての利根川本流の権現堂川より東側に位置し、猿島台地上のため、1947年(昭和22年)のカスリーン台風では浸水を免れている。


 2022年3月18日

 飛鳥海斗あすかかいとはアクアマリン五霞工場を派遣切りされ、暇な日々を送っていた。

 マウンテンバイクて五霞町を巡る旅をしていた。

 

 3月18日のニュースはこんな感じだ。

 全日本柔道連盟が、今年より全国小学生学年別柔道大会を廃止すると発表。


 航空自衛隊府中基地内に「宇宙作戦群」が発足。

 海斗も入りたいと思った。まだ25歳、チャンスはある。アクアマリンってのはゴロツキばかりで、ブラックな工場だった。

 

 幸主名馬尊にやってきた。鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季、2人の陣屋の跡として伝えられている。


 白馬の「池月」は佐々木高綱の、黒馬の「磨墨」は梶原景時の嫡子梶原景季の愛馬で、ともに名馬として知られた。1184年(寿永3年)、木曾義仲と鎌倉方の源義経、源範頼との間で繰り広げられた宇治川の戦いにおいて、両者がそれぞれの馬に乗って先陣を競った事は、史上「宇治川の先陣争い」として知られる。後に村人は、それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている。

 

 それから海斗は寺にやってきた。

 東昌寺は曹洞宗の寺院。山号は六国山。本尊は釈迦如来。

 15世紀中頃に関宿城を築いたという簗田氏の菩提寺であり、楼門形式の大きな山門がある。


 豊臣秀吉による小田原征伐の際には、徳川家康がこの寺に泊まったという。城郭として使用された形跡もあり、堀跡が残存している。


 寛文16年(1666年)6月30日、十八世・鶴山淳亀のときに火災があり、伽藍を失ったが、関宿藩主・松平康元により復興。その後も、元禄7年(1694年)、関宿藩主・牧野成貞により大鐘が寄進される。引き続き、簗田氏に代わって歴代の関宿藩主から庇護を受ける。

 

 腹が減ったが無職なので節約しないといけない。

 朝はおふくろがナスの煮浸しを作ってくれた。

 昼は我慢しないと。夕飯はなんだろうな〜。  

 海斗は次に古墳にやってきた。

 穴薬師古墳という川妻にある古墳だ。

 茨城県西部、利根川・権現堂川に挟まれた沖積地に築造された古墳である。石室内にはかつて金銅製の薬師像が安置されていたという。『利根川図志』では「隠れ膳椀」の伝説が紹介されているほか、1966年(昭和41年)には発掘調査が実施されている。


 墳形は円形で、直径30メートル・高さ4メートルを測る。墳丘周囲には幅5メートルの周濠が巡らされる。埋葬施設は複室構造の横穴式石室で、南東方向に開口する。磚状(レンガ状)の軽石を積み上げて構築され、奥壁には五輪塔を思わせる板状の石をあてるなど特異な石室として注目される。築造時期は古墳時代後期または終末期頃と推定される。


 埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南東方向に開口する。玄室・前室・羨道からなる複室構造の石室である。石室の規模は次の通り。


 石室全長:約7メートル

 玄室(奥室):長さ約6メートル、幅約2メートル、高さ約2メートル、前室:長さ約1メートル、石室は、下段に約30センチメートルの自然石を並べ、その上に磚状に整形した軽石をレンガ積みすることで構築される。玄室と前室の間では両側に幅約30センチメートル・厚さ約10センチメートル・高さ1.5メートルの石柱を立て、前室と羨道の間でも両側に同様の障壁を立てる。石室の平面形は胴張りで、側壁は内側に湾曲する。また奥壁には五輪塔を思わせる板状の石があてられる。


 石室内からは弘安4年(1281年)銘の板碑が発見されているほか、かつては金銅製の薬師像が安置されていたという。


 次にやってきたのは冬木A・B貝塚だ。原宿台地内の権現堂川東岸にある縄文時代後期の貝塚。

 古東京湾最深部に位置していたと考えられ、1979年(昭和54年)に周辺の宅地造成が行われる際、茨城県教育財団本部に調査の委託をして発掘調査が行われた。このときの出土品の一部は五霞町中央公民館に展示されている。貝塚公園には住居が復元されている。

 

 ふくらはぎの辺りが痛い。バンテリンを持ってくるんだった。

 馬の仮面をかぶった怪しげな奴が海斗の背後から近づいてきて、棍棒で思い切り頭を殴った。

 気絶した海斗が目を覚ますと別の時代に来ていた。


 海斗が今いる場所は栗橋城だ。

 室町時代あるいは戦国時代に古河公方家重臣・野田氏の居城になって、古河城の支城網を形成した。野田氏は鎌倉公方奉公衆かつ古河城の城主だったが、享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が古河城に移座した後、自身は栗橋城に移って、古河公方となった成氏を支え続けた。しかし永禄年間(1558-1570年)、城主が野田景範のときに後北条氏により城は接収され、永禄4年、北条氏照が栗橋城に入城した可能性が高いとされる。その後は氏照の北関東攻略の拠点となっている。このとき野田氏は北条氏の傘下に組み入れられたと考えられる。


 栗橋城は古河公方の古河城、および公方重臣・簗田氏の関宿城・水海城と同様に河川沿いに立地しており、奥大道(鎌倉街道中道)とも接続した水陸交通の要衝だった。さらに、この城の位置は中世関東の「二大河川水系」連結点でもあった。二大河川とは、常陸川水系、および、旧利根川・渡良瀬川(太日川)水系で、当時の常陸川は現在の利根川下流域・霞ヶ浦・北浦・太平洋につながり、旧利根川・渡良瀬川は現在の東京湾につながって、両水系は独立していた。この二大河川水系の連結のため、旧利根川・渡良瀬川に接する古河と元栗橋(栗橋城)、および、常陸川に接する水海(水海城)と関宿(関宿城)にて荷物を積み替えて、両方の港津間を陸送するルートが用いられたと考えられており、栗橋城はこの水陸交通網の一端を担っていた。


 天正18年 (1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐後に徳川家康の家臣・小笠原秀政が古河藩に入部した際には、古河城修復の間、秀政は本城を居城としたが、修復が終わり古河城に移った後は廃城となった。


 海斗は野田景範に仕えた。

 天文18年(1549年)生まれの簗田持助より多少年長程度の同世代。天文23年(1554年)、前古河公方の足利晴氏・藤氏父子が古河城奪還を図った際には、兄・野田弘朝と共に5代公方・足利義氏とその後ろ盾となった後北条氏の側に立ち、晴氏らに対抗した。永禄3年(1560年)、上杉謙信(長尾景虎)が関東に入り関宿城の足利義氏を包囲すると、兄・弘朝と共に籠城したが、翌永禄4年(1561年)に義氏が城を出る頃には、義氏に随行した弘朝とは行動を別にしていたと考えられる。


 永禄8年(1565年)頃、関東野田氏の家督を継ぎ、上杉謙信(長尾景虎)の偏諱を受け景範を名乗ったと考えられる(ただし、景虎は永禄4年(1561年)閏3月に政虎と改名している。)。翌永禄9年(1566年)、景範は上杉方として行動していた。上杉謙信が下総小金城・臼井城攻撃のため動員すべきとした関東衆の中に「野田 五十騎」が含まれている。しかし、臼井城攻撃の失敗後、他の関東衆と同様に景範も離反する。


 永禄10年(1567年)5月には、北条氏照から起請文を与えられており、後北条氏に従属したことが確認できる。本起請文の中で栗橋城明け渡しを要求され、景範は栗橋城主としての地位を失う。永禄11年(1568年)10月には既に古河城に移っており、氏照より古河・鴻巣への在宿を指示されているので、この頃には栗橋城を明け渡していた。


 景範は後北条氏従属後、同じ古河公方家臣との所領争いにも苦しんだ。永禄10年12月には幸手一色氏と「河辺十六郷半」を巡り争っている。続いて豊島氏景とも、下野・寒川郡網代氏一跡について争論となる。しかし永禄11年(1568年)7月、公方・足利義氏により、一色氏・豊島氏どちらの争論についても景範の訴えは却下されている。


 これらの所領争いにより公方・義氏の不興を被ったこと、さらに栗橋城を失った影響により、累代の公方家重臣であった野田氏は失墜し、以後、公方側近の中に名前が見られなくなる。同じ公方家重臣だった簗田氏や一色氏が、義氏死後も「御連判衆」として側近であり続けたことと対照的である。


 永禄12年(1569年)、北条氏政と上杉謙信との間に越相同盟が成立し、古河城・栗橋城の帰属を巡る交渉が行われた際には、北条氏照から景範に対して、「栗橋城は景範の本地であることを理由に後北条氏が確保すること、栗橋城を景範に返還する意向であること」が示された。実際に同年7月、景範は栗橋在城を命じられる。


 元亀3年(1572年)12月までに景範は再度離反する。所領争いや後北条氏家臣との闘乱事件により、後北条氏の許では不満が募っていたと考えられる。元亀3年12月、栗橋城は後北条氏の攻撃を受け落城した。その後は、再び公方・義氏の許に帰参し、子・三郎に家督を譲ったと考えられている。以後、栗橋城は北条氏照の北関東攻略の拠点となる。


 その後、三郎が没すると、景範は自ら家督を引き継いだ。文禄元年(1592年)、野田家伝来の宝刀「菖蒲丸」を献上することで、本多正信を通じて徳川家康より召抱えられ、下総・大塚戸(茨城県常総市)に50石を与えられる。景範は幕臣としての近世野田氏の祖となった。

 

 海斗は臼井城の戦いに参戦した。

 戦国時代の永禄9年(1566年)に北条氏与力の千葉氏・原氏と上杉氏の間で起きた戦闘。 房総を支配しようとした後北条氏と上杉氏の関東争覇から起こったもので、これがために関東の所々で衝突が起こるが臼井城の戦いもその一つである。

 

 9年(1566年)の正月末に、越後国の戦国大名・上杉謙信(当時は輝虎)は、下野国佐野に向けて軍を進めたのち、常陸国へ出兵。先の上杉軍が攻略していた小田城を奪取した小田氏治を攻め、2月16日にこれを開城させると城内の人々の売買の許可を出す。2月中に下総国西北部へ侵入し、関越軍による乱暴狼藉の禁止の制札を松戸市の本土寺に出した。3月には船橋大神宮にも同様の制札を発給した。船橋は江戸湾の重要な湊で、物資の集積地として繁栄しており、船橋を掌握して、兵糧等の物資を調達して軍事行動を展開しようとしていた。


 そして3月20日、北条氏に与する千葉胤富の家臣・原胤貞の治める下総臼井城へ進攻、上杉勢が有利に戦闘を進め、実城の際まで迫ったが、胤貞より指揮を託された軍師・白井入道浄三の知謀や、この戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる北条軍・松田康郷の武勇によって、情勢が変化(『北条記(相州兵乱記)』、『関八州古戦録』)。3月23日には上杉勢は数千人の死傷者を出したうえ(『戦国遺文』)、上杉方の里見氏・酒井氏の陣ががら空きとなってしまい、23日の晩に上杉勢がそこに移った(このことから攻撃方の主力は上杉勢や北関東の諸将ではなく、里見氏・酒井氏の軍勢であったことが判明する。24日には上杉勢の敗北が決定的となった。撃退された要因は籠城方の健闘にあったといえる。上杉勢は4月半ばに退去した。


 海斗は航空自衛官だったのでその辺の人間よりは体力があると自負してるが、戦争経験はないのでメチャクチャハードだ。

 


 

 

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