第7話 食用油に火はつかない

 マントの女性が、ライターの火を油鍋に近づける。

「つ、つけるわよ、火! 今度こそタケルくんが現れるかもしれないし!」


 隣で動揺するターシャさんに「大丈夫だよ」と目で合図をしてから、僕は言った。


「つきませんよ、火」


 へ? とマントの女性がぽかんとした顔になる。鳩が豆鉄砲を食ったような顔って、きっとこんな表情だ。


「ときどきサラダ油で放火しようとする人がいるんですけど、無理なんですよね。たぶんガソリンに引火するのと同じようになると思っているんだろうけど」

 マントの女性が極限まで火を油に近づけてみたが、やはり火はつかない。


「な、なんでよ。天ぷら油火災とか、しょっちゅう起こっているのに」

「あれは、着火による火災ではなく、油自体が高温になったために起きる自然発火なんですよ。その油鍋の油は、もうじゅうぶん冷ましてありますから」


 そもそも危険物には引火点と発火点がある。

 引火点とは、平たく言えば、油などから揮発した一定濃度の蒸気に火を近づけると引火する、そのときの最低温度のことだ。サラダ油の引火点は300℃以上、この世界の食用油も似たようなものだろうから、ライターで引火は無理。ガソリンがすぐ引火するのは、引火点が-40℃だからだ(液体そのものではなく、揮発した蒸気に引火する)。


 対して発火点は、「物質が着火源なしで自然発火する最低温度」だ。引火には着火源が必要だけれども、発火は液温上昇のみで起こる。サラダ油の発火点は350℃以上、加熱を続けると発火点を超え、火が出てしまうのだ。


「とりあえず、前の三件の放火は自首しましょう、ね」

 僕が一歩前に踏み出すと、彼女は怯えた表情になった。

「この世界にまともな刑法がなかったらどうするのよ! 手足を切られたり鼻を削がれたり火あぶりになったり……。お願い、同じ転移者のよしみで見逃して!」

 そう言われると、僕には勝手口へと走り出す彼女を追うことができなかった。こちらの世界の刑罰が残虐刑だったら、処されるのは忍びない。

 が、扉を開けたところに肉の壁――マッチョ店長が立ち塞がっていた。

「お客さん。食堂の入り口はあちら、ここは厨房ですよ」


 へなへなと座り込んで泣き出したマントの女性を、僕とターシャさんで椅子に座らせる。威圧的にならないよう、ミニテーブルをはさんだ向こう側に、店長、ターシャさん、僕の三人で座る。

「あの、僕はマミヤ・ユウって言います。こちらは食堂の店長さんと、コックのターシャさん。……あなたのお名前を訊いてもいいですか」

 しばらくの沈黙のあと、彼女はうつむいたまま「ナナミ」と名乗った。たぶん僕と同じ二十代前半のはずだけれど、疲れ切った生気のない顔をしている。


「待ち伏せてたってことは、あたしがここに来ると分かってたのよね。なんで?」

 ナナミさんの質問に、僕は答えた。

「この食堂で消火器が使われたから、ナナミさんはタケルさんの手がかりを探して、毎日ここをチェックしに来ていたでしょう。蓋つきのゴミ捨て場に置いた廃棄食品がなくなっているってターシャさんが言ってたから、食べものにも困っているんだろうなって思ってました」

 ナナミさんが少し顔をあげる。

「もしかして、まともな食べものを箱詰めしてゴミのいちばん上に置いていたのは……」

 ターシャさんが片手をあげる。

「私です。……マレビトは村をあげて保護されるんだから、困っているなら言ってくれればよかったのに」


 ナナミさんはしばらく黙り込んだあと、涙声で言った。

「こっちの世界に来てすぐ、男の人に声をかけられたの。お困りなら助けてあげますよ、って。身なりもきれいでまともそうな人だからついて行ったら、『この世界では黒髪のマレビトは軟禁されて、向こうの世界の知識や技術を搾取される。でも特別に、俺の屋敷でかくまってあげてもいいいよぉ』って。でも、あたしの持っているスキルを聞き出して、あんまり役に立たないと思ったのか、『まあ若い女の子ならスキル以外にも貢献できることはあるしねぇ』って、その、おしりを触られて……」

 

 テオだな、その男。あんの最低野郎め!

 ターシャさんも思わず眉間に皺が寄っている。店長に至っては、怒りの形相に加えて髪の毛が逆立っているんですけど!?


「だからあたし、怖くなって逃げ出して……。ほら、転移者は危険分子として処刑されるラノベとかあったし、他の人に話しかける勇気もなくて。……せめて一緒に交通事故に遭ったタケルくんがいてくれればと思って、つい火を……。ごめんなさい、本当にごめんなさい!」


 テーブルに額をぶつけるくらい頭を下げて泣くナナミさんに、僕も思わず涙が出てきた。僕はたまたま、ターシャさんや店長のような善良な人に巡り会えたから、異世界でも生活していけた。でもナナミさんは、誰も信用できず、食べものも住むところもろくに無かったのだ。僕だって同じ状況に置かれたら、一縷の望みをかけて火をつけたかもしれない。


「店長。こっちの世界で放火はどのくらいの罪になるんですか?」

 小声で僕が訊ねると、店長は大胸筋を強調するように腕組みをして唸った。

「裁判人ってのがいて、罪の重さや減刑の嘆願やいろんなものを考慮して最終決定されるんだが、ナナミさんが言ったような残虐刑はこの地域では無いから安心していい。被害者が復讐権を主張することもあるが、殺人以外なら被害者への贖罪金の支払いがほとんどだ」


 江戸時代みたいに火あぶり刑ではないと聞いて僕は安心した。ナナミさんが顔をあげて、まっすぐに僕たちを見た。

「自首して罪を償います。火をつけてしまったお店の人たちには直接謝罪して、何年かかってもお金を払います。……明日、一緒に行っていただけますでしょうか」


「もちろんです!」

「減刑の嘆願集めもしておきますね」

「被害者へは先にわしから状況説明をしておく。だいたいテオのせいだってな」


 ありがとうございます、と頭をさげるナナミさんの前に、客席から音もなくやってきた親方がお皿を置く。三角のおにぎりと、卵焼き、それにウインナー。日本人にとってはどこか懐かしいお弁当メニューだ。


「ん」

 相変わらず無口な親方の通訳を、ターシャさんがしてくれる。

「『食べなさい』って。あと、『今までろくなものを食べてなかっただろうから、あったかい鍋焼きうろんも作る』って」

 無言で厨房に立つ親方の背中に、ナナミさんがまた「ありがとうございます!」と頭をさげた。

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