10 トロール洞
ダンジョンは、この世界と重なり合った異次元に広がる空間だと言われている。
すくなくとも、シルヴィアが教団の学校で習った知識ではそうだ。
(何度やっても、渦に飛び込む瞬間だけは怖いです)
入り口は決まって闇色の渦になっていて、その奥には広大な内部空間が広がっている。
この広大な内部空間は、どう考えても、外部から推測される広さを超えている。
煌めきの教団の学者たちは、もろもろの傍証と考え合わせ、ダンジョンの内部は異次元空間であると結論づけた。
(そんな得体の知れない場所に飛び込んで、もし帰り道がなかったら……)
シルヴィアは今でも、そんな根拠のない不安に襲われる。
教団が把握している限りでは、入ったダンジョンに出口がなかった例はないはずだ。
だいたい、中から魔物が溢れ出してくるのがダンジョンなのだから、中から外に出られないダンジョンなどあるはずがない。
(いっそ、出口なんてなければよかったんです。そうすれば、魔物が外に出てくることもありません)
ダンジョンの中は魔物の巣だ。
異次元空間であればこそ、その内部では、魔物があっという間に数を増やしていく。
だが、異次元空間とはいえ、ダンジョンの内部空間には限りがある。
やがて、内部に縄張りを持てなくなった魔物の一部が、ダンジョンから溢れ出すことになる。
(溢れてくる魔物が、ダンジョンに棲み着いた魔物より弱いのは救いですが……)
溢れるのは、ダンジョン内での縄張り争いに敗れた魔物たちだ。
ダンジョン内に生存圏を確保した魔物に比べて、外に溢れた魔物が数段弱いことは知られている。
しかし、弱くても魔物は魔物だ。
戦うすべを持たない者たちにとっては、戦うことも逃げることも難しい、十分以上の脅威である。
したがって、外に出た魔物を狩ることも必要だ。
だが、それだけでは、当座しのぎにしかなっていない。
人々を魔物の害から守ろうとすれば、大元であるダンジョンの攻略が不可欠だ。
(だからこそ、勇者が必要になるんです)
ダンジョンに大軍を突入させることができない以上、どうしても「突出した個」の力が必要となる。
六人以下という少人数でダンジョンに乗り込む彼ら「突出した個」のことを、人々はいつしか勇者と呼ぶようになった。
今回教団から攻略依頼のあったトロール洞からは、トロールが大量に溢れ出しているという話だった。
実際、ここに至るまでの道中でも、トロールの群れと幾度も戦闘になっている。
トロール。
赤い子鬼の魔物・ゴブリンと並んでメジャーな下級の小人型をした魔物である。
身長は、シルヴィアより頭一つ小さいくらいだろう。
その特徴は、全身を覆う灰白色のぶよぶよとした肉質だ。
肉は体液で
灰白色の肉は、顔面にもたっぷりとついている。垂れた肉によって、首は頭や肩と境目がわからない。
それどころか、黒目しかない小さな目すら、顔についた肉に埋もれている。その目はあまり見えないと言われており、そのせいもあってか、動作は全体に緩慢だ。
魔法は効きにくいかもしれないが、まったく効かないわけではないし、近づけば斬り合いで負けるようなことはない。
Aランクである「暁の星」が苦戦するような相手ではなかった。
(今のところは、うまくいってます。以前より、魔物の殲滅速度は間違いなく上がりました)
中衛に攻撃型の賢者を二枚置くという勇者の戦術は、トロールの群れ相手にはとても効率のいいものだった。
ディーネは優れた弓師だが、弓では面を制圧するような範囲攻撃は不可能だ。
サードリックとアン、二人の賢者が広範囲の魔法を代わる代わる撃ち続けることで、「暁の星」はかなりの速度でトロールの群れを駆逐することができていた。
トロールの魔法への耐性も、高レベル賢者のINTの前には、さして意味をなしていない。
そのことに手応えを得たルシアスは、勢いのままにダンジョンへと飛び込んだ。
入り口からすぐのところにいた数体のトロールがぎょっとした。
トロールたちが戦闘態勢を整える前に、賢者二人の魔法が、トロールたちを呑み込んだ。
「ひゅう! 気持ちいいね!」
最初はアンのことを冷ややかに見ていたエイダも、快進撃の続く現在の状況に興奮していた。
「俺とアンちゃんの息がぴったりだね!」
サードリックが馴れ馴れしく言って、アンの肩に手を回そうとする。
アンはそれをするりとかわしながら、
「勇者様の計略があればこそ、です」
ルシアスにさっそくおべっかを使う。
「ありがとう、アン。俺もそろそろ活躍したいところだけど、アンとサードリックだけでも十分そうだな」
「そんなことはありません。常に先頭を行く勇者様があってこそ、わたしも力をふるえるのです」
「そう言われては、がんばらないわけにはいかないな」
すっかり気を良くしたルシアスが、おだてに乗って先頭を行く。
そのルシアスの足が、暗くて湿った岩場に張られた、細い紐のようなものを引きちぎる。
ゅん!
と
「むっ!」
ルシアスは身を仰け反らせながら、飛んできた矢を斬りはらう。
その反射速度と技の冴えは、Aランク勇者にふさわしい。
「だ、だいじょうぶですか、勇者様!?」
アンがルシアスに駆け寄った。
「あ、ああ。このくらいの罠、どうってことはないよ。ちょっと驚いたけどな」
ルシアスの言葉に、アンがわずかに首を傾げた。
「その……このパーティには斥候役は置かれていないのですか?」
アンの素朴な、だがかなり今さらな疑問に、ルシアスはじめ、パーティメンバーが虚を突かれた顔をする。
「サードリックは罠の探知もできるし、宝箱の開錠もできるからな」
「えっと……それではどうして今は罠の探知をしていなかったのでしょう?」
さすがに擁護もできなかったようで、アンが率直にルシアスに聞いた。
「い、いや……ちょっとうっかりしてたよ。パーティの編成を変えたからかな……。
サードリック、頼むぜ」
「おうよ。ったく、おまえが調子に乗って飛び出すから……。どうせアンちゃんにいいとこ見せようとでも思ったんだろ?」
「う、うるさいな! さっさとやってくれ! これはサードリックの役割だろ?」
「へいへい」
サードリックは、ルシアスの失態を笑いに紛らわせつつ、罠探知の魔法を使った。
魔力に反応して、薄暗くじめじめした陰気な洞穴に、いくつもの赤い光が浮かび上がる。
赤い光はそれぞれ、さっきのような紐だったり、トラバサミの形だったり、落とし穴らしき丸い円だったりした。
「うへえ。トロールども、結構な数を仕掛けてやがるな」
サードリックが嫌そうにつぶやいた。
その言葉を、アンが聞きとがめて言った。
「……えっ? 手先の器用なトロールが罠を多用するのは常識では……」
「えっ?」
「えっ?」
アンとルシアス、サードリックが互いの顔を見合わせた。
「そ、そうだったな! トロールみたいな低級の魔物の相手はひさしぶりだから忘れてたぜ!」
から笑いして誤魔化そうとするサードリックに、アンが不審そうな目を向ける。
「その……気をつけてくださいね? 勇者様たちはともかく、わたしはパーティに入ったばかりで、まだ動きがわかってません。急なアクシデントがあると、とっさに動けないかもしれませんから」
おずおずと言ったアンに、ルシアスの頬を冷や汗がつたう。
「う、うん。わかってる」
ルシアスは、そう返すのが精一杯だった。
その代わりに声を上げたのは、シルヴィアの隣にいたディーネである。
「ちょっと、アン! あなたは新入りなんだから、ルシアスの指示に従ってればいいのよ! よく知りもしないでわたしたちのやり方に口を出さないでくれないかしら?」
「……すみません、出過ぎた真似を」
アンは、そういえばそんな人もいましたね、といった顔でディーネを見て、口先だけで謝った。
「ところで、探知した罠はどなたが解除されるのでしょうか? ディーネさんですか?」
アンが、再び首を傾げて聞いた。
ルシアスは、目に見えてギクリとしていた。
その表情を見て、シルヴィアは思わず息を呑む。
(まさか……罠の
ない、と思いたかった。
仮にもAランク勇者であるルシアスが、そんな基礎中の基礎を忘れていたなんて。
ルシアスが、助けを求めるようにディーネを見る。
ディーネは、その視線に一瞬喜びの色を浮かべたが、すぐに氷の無表情を取り戻し、ルシアスの視線を撥ね付けた。
ルシアスは、ディーネにしかたなく言った。
「ディーネ。すまないが頼めるか?」
「
ディーネはつけつけと言って、アンを押しのけ、ルシアスたちの前に出る。
ディーネは弓師だが、DEXが高く、簡単な罠の解除くらいなら問題ない。
ちょうどトロールたちがいないこともあって、ディーネは落ち着いていくつかの罠を解除した。
四つ辻になった箇所を二つ過ぎ、「暁の星」はダンジョンをまっすぐ奥へと進んでいく。
このダンジョンは、全体に下り坂になっていた。
要所に仕掛けられた罠を、ディーネが得意げに解除する。
「器用ですね、ディーネさん」
アンまでもが、感心した声を漏らしていた。
「いつも助かるよ、ディーネ」
ルシアスの言葉に、ディーネはますます気をよくする。
「いつも」は罠の解除などしていなかったディーネであるが、ルシアスの嘘に加担できたことで、アンに対して優越感を覚えているらしい。
賢者が増えたことで火力としての存在価値が薄くなったディーネは、新しい役割を見出して、やや安堵した様子を見せていた。
その役割は、かつてディーネ自身が蔑んでいた男が果たしていた「賤業」だったはずだが、そんなことはもう、ディーネの頭の中からは消えている。
一方、後ろで見守るシルヴィアは、不安を抑えきれないでいた。
(ディーネさんは本職のシーフではありません)
キリクがいともたやすく罠を解除していたので、みんな誤解しているのだ。
ダンジョンの罠なんて、ちょっと手先が器用ならなんとでもなるものなのだと。
「これは……こうよね?」
ディーネがつぶやきながら、いくつめかの罠に取りかかる。
最初にルシアスが引っかかったのと同じ、紐が切れると矢が飛ぶ罠……に見えた。
ディーネは、紐をまたぎ、矢を飛ばす仕掛けを解除しようとする。
よく見ると、その仕掛けからは、紐より細い糸のようなものが、地面に向かって伸びている。
その地面は、サードリックの魔法で、落とし穴だと判定された箇所だった。
(この種の罠は、必ずそばに……あ、あれですね)
シルヴィアが落とし穴の真上の天井を見ると、そこには小さな穴が空いていた。
握りこぶしが入らないくらいの丸い穴だ。
天井の穴は、サードリックの魔法では、罠とは判定されていなかった。
その状況を見て、シルヴィアはキリクがやっていた解除の手順を思い出す。
(まず、天井の穴を塞いでから、落とし穴に見えるあの罠を……)
ところが、ディーネはいきなり、矢を飛ばす仕掛けへと手を伸ばす。
「だ、ダメです!」
シルヴィアは思わず叫んでいた。
「えっ……」
驚いた弾みで、ディーネが矢から伸びる糸を切ってしまう。
落とし穴だと思われていた地中から、いきなり槍が飛んできた。
槍は、シルヴィアの声に動きを止めていたディーネの鼻先をかすめ、天井にぶつかって地面に落ちる。
「ひっ……!」
ディーネが青ざめた顔で、槍の飛んできた方に目をやった。
落とし穴だと思われていた部分に大穴が開いている。
その中には、槍を射出するための大きなボウガンのような仕掛けがあった。
罠探知の魔法は、サードリックの視界の範囲内でしか反応しない。
落とし穴の表面には反応したものの、その奥にあるものまでは、地中にあるために探知の範囲外になっていた。
「なっ……なんだよこの罠!?」
サードリックが、近くに落ちた槍を見て、やはり青い顔でそう叫ぶ。
「まだです! 今ので完全に気づかれました!」
シルヴィアの叫びに、全員の顔に疑問符が浮かんだ。
自分の焦りが伝わらないことに、シルヴィアはいっそう焦って言う。
「伝声管です! 今の槍の音でトロールたちが集まってきます!」
天井を指さして叫ぶシルヴィアに、他のメンバーがあぜんとし、その意味するところを悟って顔色をなくす。
シルヴィアは、これまでの道中を思い出そうとする。
(いくつかの四つ辻を越えてきました……えっと、合計で四つのはず。曲がり角は五回。進んでいる方角は、入り口から見てやや右に逸れた奥)
――マッピングをしねえやつでも、通った四つ辻と曲がり角の数くらいは把握しておけ。
シルヴィアにそう教えてくれたのはキリクだった。
それ以来シルヴィアは、ダンジョンでは四つ辻と曲がり角の数を必ず数えることにしていた。
実際には、キリクという優れたシーフがいたことで、シルヴィアの努力が報われる機会はなかったのだが……。
(えっ……ちょっと、待ってください。
キリクさんがいないということは……)
シルヴィアは、衝撃的な事実に気づいて愕然とした。
「まさか……誰もマッピングをしていない!?」
シルヴィアの叫びに答えるように、洞穴の前後から、トロールたちの雄叫びがこだました。
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