飛車が成り、心が躍った。
藤原くう
第1話
人間がAIに敗北したあの日から、機王戦は変わってしまった。
原因は、棋士たちのプライドであった。長い歴史を背負っていた彼らは、機械に負けたという事実が呑みこめなかった。機械に負けるのは至極当然のことだが、AI黎明期の人々にあってはそうではなかったのだ。
それでどうしたのか。通常棋戦のルールを、AIにも適用したのだ。
テレビ対局を視聴したことがあるだろうか。二人の棋士が盤を挟んで座り、その横には記録係がいる。そのほかに、人はいない。一部の状況を除いて、余計な人間は入れない。AIの製作者もまた入れない。
それはつまり、AIの手伝いができないということ。
それまでは、対局者が指した手をAIの製作者が入力し、それに対する応手をAIが答え、それを製作者が指していた。それが禁止となった。次に、ロボットアームで指すAIが生まれた際は、自分で歩いてくるように命じた。ロボット型のAIが出た時なんかは沖ノ鳥島で対局を行ったという記録があるほど。
そうして、あの手この手で人間に有利な条件で対局した結果、機王という栄冠は人間とともにあった。
だが――五世紀後。偽りのタイトルは揺らごうとしていた。
その挑戦者は、人間にしか見えなかった。
AIの名前はフェン。依然の将棋AIは過酷な環境にも耐えられるよう、機械然としていた。少なくとも人間らしくはなかったが、金田の目の前にちょこんと座るフェンはどこからどう見ても人間である。
「人間じゃないんだよな……?」
金田は、和装のフェンへと問いかける。アンドロイドだとは聞いていたが、どうにも信じられない。
「そ、そうですけど、何かおかしいところでも?」
「いいや。それならいいんだ」
機械だろうと人間だろうと、やることは変わらない。
相手に勝って、永世機王になる。
対局場――富士山にある山小屋の一部屋――に何人か入ってきた。報道機関の人間だ。
バッグからお茶を取り出していていると、対局場――富士山にある山小屋の一部屋――に何人か入ってきた。報道機関の人間だ。その中の一人が金田へと近づいてくる。
「調子はいかがですか」
「一週間前からここにいたからか、体調はいい」
「なるほど。相手の印象はいかがですか」
そうだな、と金田は記者の質問を受けているフェンを見た。若干挙動不審になりながら受け答えをする彼女は、やはり人間らしい。ここまで対戦してきたAIたちは皆しゃべることはできても、その感情は吹きすさぶ吹雪のように凍てついていた。
「まるで人間みたいだ」
「ですねえ。ここだけの話ですが、個人が造ったものらしいですよ」
「個人がねえ」
個人製の将棋AIは珍しい。将棋AIを作り出すのは個人でもできたが、それを機王戦に出すとなれば、頑丈で器用な体とそれを動かすためのプログラムをつくらなければならない。面倒だし少なくない資金が必要となるから参戦するのは大企業くらいなのだ。そもそも、棋士の参加人数だって少ない。予選の段階で二人しかいない有様である。それだけ機王戦は、過酷といえた。
「もちろん、組み立てとかは大手に委託しているみたいですが、基本的な部分は自分で設計したとか」
「暇な人もいるもんだ」
「全くです。して、自信のほどは?」
「ある」
「どのような戦法を発掘してくるのか、今回も楽しみにしています」
そう言って記者は離れていく。その背中を見送りながら、金田はため息をついた。人と話すのは苦手だった。そんなことをするくらいなら昔の棋譜を眺めていた方がいい。
棋譜とは一つの対局の歴史だ。誰と誰がどこで対局し、どんな手を指したのか、その手を打つまでの時間とともに記されている。それを見れば、対局者の二人が何を考えていたのかが手に取るようにわかるのだ。その時の熱量、焦り、油断……などなど。
棋士は多かれ少なかれ、棋譜に目を通す。だが、金田ほどではない。金田は過去の棋譜に目を通し、歴史の中に埋没してしまった戦法を掘り起こし、現代風にアレンジして採用する。
そういう意味で、金田はプロフェッサーという愛称で呼ばれていた。
機王戦は三局勝負の短期決戦。様子見というものはなく最初から全力だ。
挨拶をしたのちに、先行のフェンがおずおずと歩を取る。7六歩。対して金田は3四歩。パチパチと手が進み、戦形は横歩取りに決まった。金田にとっては通いなれた道だ。
手番はフェン。次の一手で戦略が決まってくるという場面で、正面から視線を感じた。
震える指が、自らの玉をつまみ上げる。そっと玉が置かれたのは、真上ではなくその隣。金の隣だった。
▲6八玉と棋譜に記されることになるその手が、フェンの指した手。
同時に、先手を持った金田の得意戦法の最初の一手でもあった。
――コイツ。
金田は盤上から顔を上げ、フェンを見る。その表情は俯きがちで、何を考えているかわからない。それは、対局を通じてわかるだろう。将棋は相手との会話に例えられる。「棋は対話なり」と昔の棋士も言っていた。
自信があるのか、挑発してきているのか。
どちらにせよ、金田にとって得意な戦法には変わらないのだ。受けて立とうじゃないか。
金田は自らの陣地の玉を突き動かす。
タイトル戦というのは一局を二日間で行うことが多い。機王戦も持ち時間九時間の二日制だ。たいていはゆっくり進行するのに、今対局は序盤と変わらないペースで手が進む。記録された着手はすでに三十を超えている。まだ始まって一時間も経っていなかった。ハイペースだ。
横歩取りという戦法は、数多ある将棋の戦法の中でも激しいぶつかり合いとなる。囲いは王様が上がるだけの簡素なもの。なのに、飛車角は空中を飛び回り、盤上と互いの駒台とを行き来する。さらには、格ゲーでいうところのハメ技のような一瞬で敗勢に陥る手順まであり、研究の深さが求められる綱渡りのような作戦だ。
日没前に決着がつくのではないかと思われた矢先、フェンの手が止まる。顎に手を当てて考え込んでいた。小考。盤上は様々な手が考えられる局面だった。ここからの方針を考えているのだろう。ここまでノータイムで着手してきたAIが先の手順を知らないとは考えにくい。
金田は記録係に頼んで、今までの棋譜を見せてもらう。渡された紙にはこれまでの着手が殴り書きされている。一目して、すぐに返却した。
デジタルなチェスクロックが、音もなくフェンの持ち時間を減らしていく。
一分ほどして、金田は立ち上がり、気分転換に外へ出ることにした。
部屋の外は談話室のような空間となっている。平時であれば歓談の声が飛び交っていただろうが、そのような雰囲気は一切ない。対局者がやってくるこの部屋では、集中を妨げないよう私語厳禁なのだ。解説やら立会人やら記者は別の部屋で、局面を見定めている。
金田はスマホを見ようとして、ないことを思い出した。不正行為が行われないよう没収されたのだ。さらには、対局場には金属探知機まで用意されている。登録されたフェン以外がスマホを持って入れば、けたたましい警報音が鳴り響いて、不正行為を白日の下に晒す。
窓の外を見れば外は猛吹雪。昨日までは快晴だったのに、今朝から急に吹雪き始めた。山の天候は変わりやすいとはいうがこれでは外へ出られない。棋士の誰よりもタフな金田だったが、吹雪いている中を歩いて行けるほど登山をやっていない。
玄関へと向かうと、靴などの登山用品が並べられているのが見えた。ピンクの小さな登山靴はフェンのもの。彼女は、金田とともに歩いてここまでやってきた。それまでのAIたちとは違い、二本しかない己の脚を動かして。歩行のサポートとなるストックは傷つき、塗装が剥げている。一日二日でついた傷には見えなかった。
「あいつも練習してたのか……」
AIは練習する必要がないと言われている。反復して得られたデータをコピーしてペーストすればいいからだ。それだけで、F1レーサーになれるしフレンチのシェフにも、それこそ棋士にだってなれたし、どんな職業にだってつくことができた。……過去の棋士が虚勢を張ろうとしたのもわからなくもない。
そんなのズルいではないか。
金田がタバコを取り出そうとした時、背後で扉が開いた。振りかえれば、袖を揺らしながら、フェンが出てくるところであった。
目と目が合い、金田とフェンの視線は、人体に害がある葉っぱへと向いた。
「お、お気になさらず。わたしは機械ですから」
「そうか」
お気に入りのシガーケースから一本抜き取り、火をつける。焦げ臭い香りとともに、独特の香りが巻き上がった。肺一杯に吸い込むと、ニコチンと酸欠で軽い酩酊感に襲われる。それがたまらなく心地よい。
鼻から紫煙を吐き出し多幸感を得ていた金田は、フェンの視線に気が付いた。
「なんだ?」
「な、なんでも。おいしいのかなーって思ったりはしてませんっ」
「…………」
金田はタバコを差し出す。不健康だと責め立てる人間とAIばかりで、好奇心を持ってくれるのは珍しかった。それに、フェンの欲しそうな顔を見ていると、差し出してあげたくなってきたのだ。
白とキャメルのタバコをつまんだフェンは、口元へと運んだところで、残念そうな声を出す。
「わたし機械だから吸えませんね……」
「そこまで精巧なのに?」
「これは外見だけなんです。お、お父さんの趣味で、そのぅ」
「お父さん」
「はい。えっと、お父さんっていうのはわたしを創ってくれた人で」
「ああ。製作者ってこと」
遠慮がちにフェンが頷く。そういえば、過去に戦ったAIの製作者がそんなことを語っていたような。
だが、製作者の趣味に容姿が左右されるというのは、なんというか。
「大変だな」
「どうしてですか?」
「いや……大した理由じゃない」
気が付けば、タバコは根元の方まで灰になっていた。持つ指が、熱に侵され焼けるように熱い。慌てて携帯灰皿を取り出し、そこへ紫煙くすぶるタバコを押し付けた。焦げたフィルターの臭いがなんともいえない。
そういえば、フェンが対局場を出たなら何らかの手が指されたのではないか?
「じゃあ俺は戻る」
気分転換を終えた金田は、部屋へと戻っていく。背後から、戸惑いと残念がるようなため息が聞こえた。立ち止まった金田は、振りかえろうかとして止めた。対局中は敵だ。敵と話して一体何になる?
気合を入れなおした金田は盤の前に腰を下ろす。相手が指した手はすぐに分かった。
金田が予想していたものと同じだった。変化が多く激しい金田好みの手順。
心臓が飛び上がった。――怖いからではなく、楽しくて。
この局面自体は過去に存在していたが、それを現代にもってきた棋士はいなかった。またAIは、横歩取りという戦法を取らなくなって久しい。これほど先手が有利になりやすくその優位が崩れやすい戦法もないからだ。使わなくなった戦法はなくなったも同義。使われなくなるまでに蓄積された定跡はなかったものとなり、人間もAIも暗中模索することになる。だからこそ、金田は勝利する。棋譜という松明を手にしているから、暗闇の中を歩いて行けるのだ。
その手に対する応手自体は簡単だ。現在、敵の飛車が龍への進化を遂げたところ。桂馬で取る一手だ。そこから先は駒を取ったり取られたり、打ったり打ち返したりする複雑な曲面へと入っていく。
「だが恐らく――」
相手はノンストップで手を差してくる。一手一手その都度考えているのではなく、事前に練ってきたものをぶつけてきているのだから。恐らくは――金田と同じように――過去の棋譜を参考にして。
これは手ごわいかもしれない。
そんなつぶやきが、口の中で転がった。舌にまとわりつく焦げた匂いを、歓喜にも似た感情が吹き飛ばす。
同桂としたところで、扉が開いた。フェンが戻ってきた。自分の息抜きの時間よりもずっと早い。時間を使いたくないのだろうか。いそいそと正座をするフェンをちらと見て、金田はそう思ったが、それ以上は考えなかった。彼の注意は、フェンの指が向かう先へ傾けられている。
右銀が桂馬を支えるように上へ。駒が連結して、簡易ながらも堅牢な囲いが生まれた。金田は我知らずため息をこぼす。やはり予想通り。
それからも、ハイペースな応手が続いた。持ち時間は互いに六時間以上余っている。それなのに、盤面は中盤もなかばだ。
戦況は混沌としていた。この対局を外部で評価していた将棋AIの評価値は、右へ行ったり左へ行ったりゼロで止まったりした。つまりは互角ということだが、実際に対局している金田からすれば、
――苦しい。
額の汗をぬぐい、ぬめった手で袴をきつく握りしめる。局面はぐつぐつと煮詰まっていた。互いの大駒が敵陣を食い荒らそうとしている。攻めるべきなのか、あるいは受けるべきなのか。判断を間違えば、形勢は相手へと傾いてしまう。
金田が読みを入れて慎重な着手を行うようになった。フェンもまた慎重になる。それは、両者の考慮時間の減り具合を見れば一目瞭然であった。
五分十分と、両者の思考時間が増えていく。とはいえ、従来の進行からは桁外れに速いのだが。
――もっとゆっくり考えてもいいのではないか。
そう思う自分自身に、金田は気が付いていた。だが、手は止まらなかった。思考が、本能が、フェンの次なる一手を目にしたいと叫んでいた。
棋士として――ひとりの人間として、こんな気持ちになったのは初めてだ。いつもならば、ここまで熱くはならないのに。
何が自分をそうさせているのか、まったくわからない。
対局という、うだるような熱狂の中に身を置きたいのか、それとも――。
金田は軽く頭を振った。そんなことを考えている場合ではないだろう。集中しなければ。
金田は過去の局面から、知識を得ている。だが将棋というのものは、得てして定跡どおりには進まない。定跡というのはどちらかが有利な結果で終わることが多く、プロが使用しているのであれば先手がわずかに有利なことが多い。そういう定跡でないと誰も使おうとしないのだ。それは、失われた戦法を用いる金田だってそうだ。
定跡から外れたら、負ける。金田はフェンが定跡という道から足を踏み外すのを待っていた。だが、フェンは定跡通りの手を指し続ける。そのあどけない顔には苦悶の表情が浮かんでいたものの、駒を取る手つきは見た目ほど弱っていない。
すっと、駒が打たれる。二枚目の飛車が、満を持しての登場。中央の角と遊んでいる金田の右桂を狙った一撃。両取り。先手の狙い筋だ。
ここが分水嶺だった。
角をどこまで下がらせるか。斜め一つか斜め二つ。
ここで、金田は時間を使った。時間にして、一時間ほどだろうか。この日初めての長考だった。
その間、フェンはじっとしていた。――じっとしていたのは体だけで、首から上は所在なさげにきょろきょろと動いていた。何をどうしてそん
なにおどおどとしているのか。もう少し落ち着いてほしい。
「落ち着いてくれないか」
気が付けば、口に出してしまっていた。言葉にしてしまったことにすら、金田はすぐに気が付かなかった。
フェンが目を見開いて、金田を見る。
「す、すみません……」
しゅんとなってしまったフェンを見ていると、なんだか申し訳なくなってくる。とはいえ、盤外戦術かもしれず、謝罪の言葉までは口にすることはできない。真冬の富士山の山小屋というふざけた場所でやっているとはいえ、タイトル戦の第一局には違いないのだから。
かぶりを振った金田は、盤上へと身を乗り出す。
指すべき手はわかっていた。だが、その手を差しても難解な形勢が続いていく。気の遠くなるようなせめぎあい。いつまでも綱渡りをできるほど、人間の精神はタフではない。そういうのはAIが得意だ。
先に足を踏み外すのは自分かもしれない。
それでも。
袴から手を放す。金田は意を決して、マス一つ分だけ角を動かした。
気の抜けた音が、部屋に響く。その音に、フェンがぴょんと跳ねた。まじまじと盤上を見つめ、いくぶん元気を取り戻したように角を打つ。
その手もまた想定の範疇だが、その想定は続かない。実戦では、もう一つ分だけ角を動かし、その結果、後手が負けた。代わりに、一つ分動かせば難解だったという結論で終わっている。一つ分しか動かさない変化は実戦で行われていない。
つまり、ここから先は未知の将棋。金田だって多少なりとも研究していたが、深くは掘り下げていない。ここまで完璧に応じられることの方が少ないのだ。たいていは相手の方から勝手に自滅してくれる。
だが、フェンは違う。
彼女はどこまで研究しているのかわからない。それでも、やるしかない。悲願の永世機王になるためには、勝たなければならないのだ。
気が付けば、シガーケースは空だった。
時刻は午後六時。日はすでに地平線の彼方へ姿を隠している。あたりは真っ暗。しんと静まり返った部屋はどこか不気味だ。
本来、登山中に吸うべきではないのは金田だってわかっていた。ここは平地よりも酸素濃度が薄い高地。ただでさえ酸欠になりやすいのに、煙を吸引すればますます酸素はなくなる。だが、吸いたいのだ。吸わないとやっていけない。――それだけ追い込まれていた。
「あまり吸わない方が……」眉を下げながら、フェンが言う。
「それはわかってるよ」
といいつつも、金田の手には最後のタバコが挟まれていて、今まさに火がつけられる。肺いっぱいに有害な煙を吸い込む。
「不健康ですよっ」
「君には関係ないだろ。俺が酸欠になろうと、脳卒中になろうと」
「関係あります!」
あまりの大声に、金田は目をぱちくりとした。
フェンの小さな手はぎゅっと握りしめられていた。その目は、金田をまっすぐ見つめている。そんな目で見つめられるとは思っておらず、金田はくわえていたタバコを落としてしまった。タバコが床を跳ねる前にフェンがキャッチ。
「だってわたしはっ!」
その先の言葉を、フェンは口にしなかった。口を一文字に結んで、続く言葉を我慢しているかのよう。
いくぶんか落ち着きを取り戻した金田は、フェンの言葉を待つ。だが、続きはやってこなかった。
フェンはそっぽを向く。その背中は悲しげに震えていて、話しかけづらい。金田も、話しかけられるような気分ではなかった。
タバコを吸うこともできないし、居心地も悪い。フェンの機嫌が悪くなったのは自分の責任だから何も言えなくて、金田は黙って部屋へと戻る。
部屋の中へ戻った金田はため息とともに、腰を下ろす。
盤面は終盤に差し掛かっている。すでに定跡からは外れ、どちらが先に相手の王様を詰めるかという段階へと移っていた。ここからは陣形とか戦形とかはどうでもいい。駒はいくらだってプレゼントしてもいい。相手よりも先に、王様を詰めることができたら、その瞬間勝利なのだ。
正直なところ、勝っている気はしない。相変わらず、どちらが勝っているのかよくわからない混沌とした局面。プロの間でも、答えが分かれるだろう。金田にもわからなかったが、何となく、そんな負けているような気がしてしまう。
「何も負けたわけじゃないのに」
気迫で負けている。金田は眉間を押さえる。目を開けて、将棋盤へと視線を戻す。
「あ……」
気が付いた。
負けていると感じているのは、無意識下で、それに気が付いていたから。
実際、金田は負けていたのだ。正確には、負けかけていたといったところか。金田の王様は十七手で積む。雷に打たれたような気持ちになると同時に愕然とした。
その詰み筋は、数手前から存在していたのだ。
フェンは気が付いていたのだろうか。――気が付いていたに違いない。読みの選択肢が少なくなりがちな終盤戦は、計算能力に長けるAIが得意とするところだ。もし仮に気付いてたとしたら。
わざと詰み筋を見逃していた。
金田の頭が、急に熱を持ち始めた。灼熱のような怒りが噴き出してくる。
だが、と冷静な部分が怒りを押しとどめる。人を煽るようなAIではないから、おちょくるためとは思えない。何かしらの理由があって、とどめを刺さなかったのだろうが、それはそれで不満がこみあげてくる。
棋士として、手加減などしてもらいたくない。
――そこまで考えて、気が付かれていないという可能性を考えていない自分に、金田は笑ってしまった。
ちょっとして、フェンが戻ってくる。
きょろきょろしたフェンは、金田と目が合うと目を輝かせてから、定位置につく。
そんな彼女に言葉をかけるのはどうかと思った。対局中というのもある。だが、今対局は中継を行わない。ちょうどいいことに、記録係はトイレに行っている。
小さく咳払い。妙に緊張した。
「わざとやってるのか」
問いかけには主語がなく、ぼんやりとしていた。だが、それだけでフェンには伝わった。
やや躊躇いがちに、首が縦に動く。
金田は息を吸う。考えに考え抜いた勝負手を指すときのように、心を落ち着かせて。
「どうして」
すぐに答えはやってこなかった。AIにしては珍しい考えているような素振りは、AIを人間らしくするための遅延回路によるディレイでは決してない。
話すか話さないか、本気で悩んでいる。
「わたしは――あ、あなたのことを尊敬してるの」
「尊敬って」
「そう、うん……」そう言うフェンは苦し気で。「棋士として尊敬してる。ほら、みんなと違う戦法を使うから」
「あれは、そうした方が勝てるんだ」
「それでも、みんなと違うやり方で勝ってるから、すごいです」
「運がよかったんだろ」
もしくは自分の調子がよかったのだろうと思っていた金田を、フェンは否定した。
「あなたの武器は戦略を立てることだと思うの」
「それはAIとしての分析か」
「尊敬してるから、わかるの。あなたの研究ばっかりしてたから」
それきりフェンは俯いてしまった。
あなたの研究ばかりしていた。
その言葉がどうにも引っかかった。
過去の棋譜からアイデアを得ていると思っていたが、先ほどの言葉をそのまま受け取るのであれば、そうではない。
フェンは金田がつくりだした棋譜から勉強した。
「道理で、予想と一致するわけだ」
過去の遺物となった横歩取りを研究していたわけではなく、金田そのものが研究されていたのだ。彼がどう考えどんな作戦を持ってきてどんな手を差してくるのか、フェンは予測する。後はそれに対応する手を指せばいい。最善手ばかりが飛んできたことも説明がつく。フェンは金田の最善手に合わせていただけで、それが、戦法の最善手でもあった。
つまり、この子は――。
「俺だけを倒すために生まれた」
「別にそんな大仰なことは」
フェンは照れたように頭を掻く。その姿は年頃の少女のように純粋そのもの。
心の中に芽生えるものがあった。
彼女の行動の意味。――どうして王様を詰ませなかったのか、わかった気がした。
金田は手を差し出す。降参したわけではなく、むしろ逆だ。言葉は発しない。八百長を疑われるのは嫌だった。それに、フェンならそれだけわかるだろう。
少女がごくりと唾を飲み込む。金田が頷くと、その顔に弱弱しい笑みが浮かぶ。
震えの収まった手がよどみなく駒を取り、王手をかける。パチパチと手が進む。駒音は半日前と違い、木枯らし吹く夕暮れのような哀愁があった。
「そういえば」
「なんですか?」
「どうして歩いて来たんだ? ほら、機械があるだろ。登山用の」
「ありますけど、好きな人と同じことがしたいじゃないですか」
飛車が赤い龍へと変貌し、龍に詰め寄られた王様は身動きが取れなくなった。
――九十九手を持って、挑戦者の勝利。
棋譜はそう締めくくられている。
飛車が成り、心が躍った。 藤原くう @erevestakiba
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