第37話 戦力移動

 英国が戦争から退場してなお、米国が戦争から手を引くことはない。

 平沼の分析を聞かされた山本長官は、その表情に失望あるいは落胆の色を浮かべる。


 「米国の強大さの影に隠れて目立ちませんが、しかし英国が戦争から脱落するのは枢軸側にとって何より大きなことですよ。それに、今次大戦の趨勢を決めるのは欧州の戦いです。

 軍人である山本さんにこのようなことを申し上げるのは少しばかり心苦しいのですが、しかし太平洋の戦いなどは地球規模で見ればちっぽけな局地戦にしか過ぎません。消費される物量、それに失われる命は欧州に比べて桁違いに少ない」


 目の前の平沼はかつて、米国の戦争資源の八割以上は欧州に向けられていると話していた。

 もちろん、山本長官も米国が欧州第一主義を標榜していることは知っている。

 これまでのルーズベルト大統領の発言を調べればすぐに分かることだ。

 しかし、それでもさすがに八割は言い過ぎだろうと思った彼は部下にその点について調べさせた。

 しかし、結果は平沼の言った通りかあるいはそれ以上だった。

 そして、その彼は日本の利にとどまらず、枢軸側の利を見据えている。

 これでは、どちらが戦略の専門家か分かったものではない。


 「枢軸側の利はイコール日本の利。それゆえに平沼さんはヒトラー総統の要請を受けろとおっしゃるのですか」


 気を取り直した山本長官が直截に平沼に問いかける。


 「山本さんは息を突かせぬ猛攻によって米側に大損害を与え、そのことによって相手の戦意をくじこうとした。そして、日本に有利な条件で早期講和を目指しておられたことも承知しています。実際、オアフ島への奇襲攻撃で太平洋艦隊の戦艦群を葬り、真珠湾を文字通りの火の海へと変えた。また、ブリスベン沖海戦では米機動部隊を見事に撃滅しています。

 他にもフィリピンを占領し、豪州を戦争から退場させた。しかし、それでも米国は戦争から降りようとはしない。

 確かに、これまでの帝国海軍の乾坤一擲の刃は米国の皮を破り肉を切り裂いたかもしれません。米国もそれなりの痛痒は感じたことでしょう。しかし、残念ながらそれらは相手の骨を断つ、つまりは継戦意志を断つまでには至らなかった。そもそもとして、山本さんの信念ともいえる早期決戦短期和平は米国相手には最初から無理な話だったのです。

 そうなれば、残る手段は持久戦のみです。そして、米国という強大な国家を相手どるのであれば、ドイツからの物資それに技術援助は欠かすことの出来ないファクターです。ヒトラー総統の要請を蹴ることは、今の日本には自殺行為と言っても大げさではありません」


 すでに、戦争が始まってから四カ月あまりが経っている。

 日本軍は各地で勝利を重ねているが、しかしそれらは局地戦ばかりであり、米本土に直接の打撃を与えるには至っていない。

 そして、それは今後も不可能なことは誰よりも山本長官自身が理解している。

 まともな帝国海軍士官の中で、米本土上陸を夢想するような者は誰一人としていないはずだ。


 「以前、平沼さんは米国に勝つためには空母や戦艦をいくら沈めても無駄だ。やるなら米将兵の命こそを刈り取っていくべきだとおっしゃっていた。それゆえに、我々は持久戦において米軍という組織が立ちいかなくなるまで、それこそ粘り強く米将兵を狩り続ける必要がある。つまりはそういうことですな」


 そう話しつつ、一方で山本長官は平沼が小さく笑ったように見えた。

 しかし、一瞬のことだったのでそれは錯覚だろうと己を納得させる。

 敵将兵とはいえ、それでも人間を殺す話の最中に笑みを見せるような人間がいるとは思えない。


 「戦争ですから、敵将兵を殺すことを避けることは出来ません。それでも英国を戦争から退場させれば、その分だけ確実に日本の将兵の死を減らすことが出来ます。実際、圧勝したはずのマレー沖海戦やそれにインド洋海戦にしたところで搭乗員を中心に少なくない戦死者を出しているでしょう。そして、そのような犠牲は英国が戦い続ける限り続きます。だから、日本の将兵の犠牲を減らす意味においても、英国打倒のための艦隊派遣は意義のあることだと思います」


 確かに、敵が減ればその分だけ味方の犠牲を減らすことが出来る。

 早期決戦短期和平がかなわないというのであれば、可能な限り友軍将兵の損耗を抑えるようにしなければならない。

 だから、山本長官は短期決戦早期和平への思いは一時棚上げし、連合艦隊の欧州派遣について平沼の見解を尋ねる。


 「連合艦隊の空母と戦艦のすべてを投入しなければ、敵の艦隊を撃破することはかなり困難でしょうね」


 平沼から返ってきた言葉に、山本長官はいささかばかりの疑問を抱く。

 英海軍はマレー沖海戦とそれにインド洋海戦で多数の主力艦を失った。

 それ以前にも欧州の戦場で少なくない戦艦や空母を失っている。

 そのような相手に、連合艦隊が全力でぶつからなければならない理由が分からなかった。


 「英艦隊だけであれば機動部隊だけでどうにかなったかもしれません。しかし、こちらが英国を直接叩こうとすれば、必ず米艦隊が助っ人として駆けつけるはずです。英米連合艦隊の戦力を考えれば、連合艦隊はその全力をもって立ち向かわない限り勝利は覚束ないでしょう」


 平沼の指摘に、山本長官は脳内でそろばんを弾く。

 英国には現在、「イラストリアス」と「ビクトリアス」の二隻の装甲空母、それに「フューリアス」ならびに「イーグル」の同じく二隻の旧式空母がある。

 一方、米国には「ホーネット」それに「ワスプ」と「レンジャー」の三隻の空母があるが、しかしそのうち「ホーネット」と「ワスプ」については太平洋艦隊に配備されていることが分かっている。


 「こちらが大小合わせて十数隻の空母を擁しているのに対し、大西洋側にある英米のそれは五隻でしかありません。こちらの有利は動くことは無いと思うのですが。それと、連合艦隊が保有しているすべての空母を欧州に派遣した場合、その留守を狙って米空母が太平洋で遊撃戦を仕掛けてくる恐れがあります。そうした場合の対抗手段はあるのですか」


 「仮に米空母が遊撃戦に打って出たとしても、せいぜいマーシャルかラバウルあたりにちょっかいをかけるのがせいぜいでしょう。英国が危機的状況の時に、そんなアホな真似をするような相手でしたら、それこそもろ手を挙げて歓迎すべきです。

 それと、現在のところ太平洋艦隊は使用不能となった真珠湾からサンディエゴにその本拠を後退させています。つまりはその分だけ太平洋と大西洋の戦力移動が楽になったということです。もし、連合艦隊が欧州に向かった場合、『ホーネット』と『ワスプ』は間違いなく大西洋に移動、英国を守るべく連合艦隊の前に立ちはだかるはずです」

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