第20話 ブリスベン空中戦
「敵編隊、貴隊に向かう。液冷戦闘機と空冷戦闘機が混在、機数約一〇〇。液冷はP40、空冷はP35もしくはP36と思われる。現在、高度四〇〇〇から四五〇〇メートルの間に展開。各隊はただちに高度五〇〇〇メートルまで上昇せよ」
先行する指揮管制機からの指示に従い、八四機の零戦がわずかに機首を上げ上昇に転じる。
(ブリスベンを守る戦闘機は想像していたほどには多くなかった)
第二航空艦隊の空母「瑞鳳」から出撃した第二中隊長の笹井中尉はそのことで少しばかり安堵した。
「瑞鳳」が所属する二航艦は小型空母の寄せ集めだ。
しかも、そのうちで最初から空母として建造されたのは「龍驤」ただ一隻のみで、他は水上機母艦や潜水母艦それに高速給油艦を改造したものだ。
それら艦は第一航空艦隊の正規空母に比べて飛行甲板は短く幅も狭い。
それゆえに搭乗員は高い離着艦技量を要求される。
だから、二航艦に配属される者はその誰もが腕利きばかりだ。
そういった優秀な搭乗員の草刈り場となったのが台南空やあるいは三空といったエース部隊だった。
笹井中尉もまた二航艦の基幹要員として引き抜かれ、「瑞鳳」第二中隊長という、身に余る重責を拝命したのだ。
しかし、そのことに対して笹井中尉はさほど不安は無かった。
僚機の西沢二飛曹をはじめ、第二中隊の部下の多くが台南空以来の顔なじみであり、しかもそのいずれもが自分よりも実力が上だったからだ。
立ち向かってきたのは液冷のP40それに空冷のP36の混成部隊だった。
その数は報告通り一〇〇機ほどしかない。
実のところ、笹井中尉は豪本土に殴り込みをかけるのであれば、数百機の大群による迎撃を覚悟していた。
しかし、それは杞憂だった。
笹井中尉は知らなかったが、豪軍それに米軍はその戦力配置あるいは戦力配分に大きな問題を抱えていた。
豪州の航空戦力は南下してくる日本の圧力に対抗するために豪州北部の要衝やポートモレスビーにその戦力の過半を投入していた。
一方の米国のほうはルーズベルト大統領の意向からドイツ打倒を最優先としており、持てる戦争資源の八割以上を欧州方面に送り込んでいた。
陸軍航空隊もまたその例に漏れず、ブリスベンに送り込まれた戦闘機は欧州向けのそれに比べてあまりにも数が少なかった。
また、開戦劈頭にオアフ島が一航艦に、フィリピンが二航艦によって大打撃を被ったが、そのいずれもがP40だけでもそれぞれ一〇〇機以上を失っている。
これに、旧式のP35やP36を加えれば開戦以降に喪失した陸軍戦闘機は四〇〇機近くにまで達する。
さすがに、これだけ短期間に多数の戦闘機を消耗してしまえば、いくら米国といえどもその補充はさすがに簡単にはいかない。
それと、豪軍それに米軍の上層部が土壇場まで日本のブリスベン攻撃予告を信じることが出来なかったことも大きかった。
宣戦布告の前にオアフ島にだまし討ちを仕掛けた日本軍の言うことを信用する将兵などほとんどおらず、米豪の情報部員たちもまた同様だった。
むしろ、ブリスベン攻撃予告はポートモレスビー攻略をカムフラージュするためのでっち上げではないかとの疑念を抱く者が圧倒的多数であり、米豪情報部員の多くもまたその見解に与している。
逆に日本軍にとっては、過去の悪しき実績が奏功した形だった。
敵機の数が予想よりも少なかったとはいえ、しかし笹井中尉をはじめとした零戦搭乗員に油断は無い。
二航艦の零戦隊は開戦以来おもに在比米航空軍と干戈を交えてきたが、この間、敵戦闘機を一〇〇機以上撃墜しながら一方で味方の損害は一〇機に満たなかった。
しかし、未帰還となった者の中には誰もがその腕を認める熟練が少ないながらも含まれていた。
いくら凄腕であっても、しかし戦場では一瞬の弛緩、わずかな隙が死を招く。
戦死した熟練搭乗員は、自身の身をもって他の搭乗員に空の戦いの厳しさをその魂に刻み込んでいた。
指揮管制機のおかげで、零戦隊は相手を視認した時点において完全に高度の優位を確保していた。
空の戦いにおいて高度の優劣は決定的だ。
機体性能がほぼ同じで技量も互角であれば、よほどのことが無い限り逆転はまず不可能だ。
零戦が次々に翼を翻し、上方からかぶるようにして機銃を撃ちかける。
両翼にそれぞれ二丁装備する長銃身の二号機銃から放たれる二〇ミリ弾の威力は破格だ。
驟雨のような二〇ミリ弾の奔流がP40やP36のエンジンやコクピットに次々に突き刺さっていく。
一方のP40やP36も咄嗟に機首を上に向けて一二・七ミリ弾や七・六二ミリ弾で反撃する。
しかし、命中精度も破壊力も、撃ち降ろしの二〇ミリ弾にはとうてい及ばない。
互いに被弾機を出したものの、しかし墜ちていくのはそのほとんどがP40かあるいはP36ばかりであり、零戦のほうはほんのわずかでしかない。
笹井中尉は降下で得た速度エネルギーを極力殺さない機動を心掛けつつ旋回をかける。
P40を狙った初撃は命中弾こそ得たものの、しかし撃墜には至らなかった。
P40の頑丈さはフィリピンでの戦いでげんなりするほどに身に染みて理解しているから、そのことに対してさほど落胆は無い。
(だが、今度はしくじらない)
被弾したことで空気抵抗が増え、速度が上がらないP40の後方に機体をもっていく。
九六艦戦に比べて切れ味が悪くなったといわれる旋回格闘性能も、しかしP40が相手であれば十分に通用する。
照準環に傷ついたP40を捉えると同時に笹井中尉は周囲を見回す。
相手を仕留めようとするときこそが最も危険な瞬間であるというのは耳にタコが出来るくらいに何度も聞かされている。
自身を狙える位置に敵機がいないことを確認した笹井中尉は静かに発射釦を押下する。
四条の太い火箭がP40の尾部に吸い込まれると同時に水平尾翼と垂直尾翼が同時に吹き飛ぶ。
「西沢、代われ!」
無線に向かって笹井中尉が言うが早いか、西沢機が加速する。
笹井中尉がわずかに一機を墜としただけで西沢機とポジションチェンジしたのは残弾の偏りを無くすのがその理由の一つだった。
ベルト給弾機構の開発成功によって一丁あたりの二〇ミリ機銃の装弾数は一〇〇発から二〇〇発へと倍増したが、それでもやはり心もとないことに変わりはない。
それになにより、西沢二飛曹ほどの実力者であれば、一番機のバックアップで終わらせるのはあまりにももったいない。
西沢二飛曹はおそらくは笹井中尉がP40にとどめを刺すときにはすでに自身が狙うべき敵機はどれなのか目星をつけていたのだろう。
一切の迷いも無く、単機で飛行するP40の背後に一気に肉薄する。
西沢機に気づいたP40が慌てたように機首を下げ、急降下で逃げをうつ。
しかし、一瞬早く西沢機の両翼から四条の火箭が吹き伸びる。
それは、単射かと見紛うような短い射撃だったが、しかしそれで十分だったのだろう。
コクピットを撃砕されたP40はそのまま機首を下に向け、ブリスベン沖の海へと真っ逆さまに墜ちていった。
ブリスベン上空の戦場は、日本側が圧倒的に優勢だった。
機体の性能や搭乗員の技量もさりながら、しかし最大の要因は指揮管制機からの情報支援にあることは間違いの無いところだった。
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