マリオネットが見た夢は
望月 葉琉
prologue 例外
魔道術式研究室。ここでは魔法を研究する施設のことをそう呼称する。
その三つ目、略式名称魔研所第三室、最奥。そこに、少女は存在していた。多くの管に繋がれて、ただただそこに、〝存在〟していた。
もうすぐそれに、変化が訪れることを、男は知っていた。そして静かに、喜んでいた。
「クレア、もうすぐだよ……」
男は言う。目の前の少女にではなく、どこか遠く、別の幻影に笑みを向けて。少女の前に立ち止まり、男は再度呟いた。
「もうすぐミレアが、元に戻るんだ。お前も喜んでくれるだろう? 私たちの娘はまた、幸せを運んできてくれる。蘇生法成功という、何ものにも代え難い素晴らしい栄誉と共に」
恍惚とした表情で少女の顔を見つめる。
少女の右目は、何か白い布のような物で覆われていた。残された片目は床を見ているようで、その実瞳には何も映してはいなかった。端から見ると、呼吸をしているかどうかもわからない。それでも男は、酷く嬉しそうに顔を歪めていた。呪文のように、同じ言葉を繰り返す。
「もうすぐ、もうすぐだ……」
と、そこへ部下の一人が慌しく駆け込んできた。男の記憶が正しければ、逃げ足だけは速いのが自慢の、下っ端の下っ端だ。また実験爆発でもあったのかと、悦に浸っていた時間を邪魔されたことによる不愉快さも露わに、男は部下に向き直る。途端に、怪訝に思い目を細めた。
部下は左肩口から袈裟懸けに、何か鋭利な刃で斬り捨てられたかのような傷を負っていたのだ。この第三室で、あのような被害を受け得る爆発が起こる実験があっただろうか……訝しんだ男はだが、すぐに気が付いた。
否、爆発の音さえ響かなかったではないか。
「一体どうし……」
不審に感じ、目線を部下の顔まで上げたところで詰問した。尋ねきる前に彼の部下が口を開く。
「しっ、室長! 大変です、『魔荒し』がもうそこまで侵にゅ……」
だが、全てを言い終える前に、部下は血飛沫を上げながら床へ倒れ込んでしまった。その返り血を受けながら、この部屋の入口に佇む影。部下に代わって男の目に飛び込んできたのは、一人の青年の姿だった。たった今床に倒れる男の部下を、絶命に至らしめた刀。それをその手に握るのは……。
「『魔荒し』……」
眉を寄せ、憎々しげに男は呻いた。
数ある魔研所の諸関連機関を悉く壊滅して回る、狂気の存在。その軌跡は、魔道に関係している人や物・場所を辿っているという点を除いて、後は無差別で全く法則性がない。故に、研究者たちをより震撼させていた。いつ、自分たちの番が来るのか、予測不可能だ、と。姿が見えない、だが確実に実在する『魔荒し』は、近頃何かと彼らの話題を独占していた名だ。
男は妙に冷静な頭の隅で、まさかこれほど若いとは、と、どこか状況にそぐわない感想を抱いていた。『魔荒し』の姿は誰も知らない。もちろん、男が彼を見たのもこれが初めてだった。無理もない、『魔荒し』を見た者は、何人たりとも例外なく生きてはいられないのだ。よって、その身体的特徴を伝えられる者はどこにも存在しない。
突然、視界が暗転した。男は何が起こったのかわからなかった。気付けば先の部下同様、自身も床に倒れ臥していたのだ。脈動が厭に体に響く。赤き生の源が、全身から流れ出してゆくのを感じる。このような事態になってなお、やけに冷めていた脳はだが、次の瞬間焦燥の色に支配された。
青年の足が奥へ向かったのだ。倒れる男の体を越え、数多の管の下に居る、ただ存在しているその少女へ近づく。ここに来て初めて恐怖に染まった感情をして、男は青年の足を渾身の力で掴んで引いた。
「駄目だ……その、娘、だけは」
掠れる喉に鞭打って、懸命に荒く息を継ぐ。
「やっと、ここまで……あと少し、な…」
青年が冷淡な目で見下してくるも、怯まず続けた。
「クレアは、間に、合わなかっ……だが、今度こ、そ、せめてあの娘、だけで、も…」
最早青年に向けてと言うより、朦朧とした頭で独白しているに過ぎなくなっていた男に、『魔荒し』は非情にも最後の一撃を加えた。無言で踵を返し、再び少女に対峙する。
「……」
虚ろな顔は、ピクリとも動かなかった。この部屋で今、何がどう起こったかなど、全く感知していない様子だ。
生きている、とは言い難い。だが、死んでいるともまた言い切れない。それが、青年の抱いた印象だった。
ピッと刀を一閃し、血を払ってから鞘に納める。それから徐に少女の脇へと腕を伸ばし、ゆっくりと彼女を持ち上げた。動きに合わせ、少女に伸びた無数の管が、ブチブチと無機質な音をたてて小気味良く切れてゆく。
「お前もまた、人形か」
青年はそのまま少女を横に抱き抱え、惨状と化した研究室を後にした。
ここに、一つの例外が生じた。『魔荒し』の貌を瞳に映してなお、その刃の下に倒れなかったという、例外が。
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