化生の王



 春明の視界を染めかけた青い光を一掃して、紫の糸は夜明けの閃光のごとく大地を穿った。

 その淡く煌めく残照とともに、黒髪をなびかせて、薄紅の直衣がふわりと春明の隣に降り立つ。


「お前、本当に憚りがないな」

「憚ってる余裕がないもので。ほら、また邪魔されてる」


 彼が指さした土煙の向こう。白銀のきらめきが鈍く見えた。鏡だ。大樹帝を守って、大きな鏡の盾とともに、銀の妖狐が傍らにたたずんでいた。


「いやぁ、やっぱ強いね。一瞬なんとか足止めしたかと思ってこっちに来たんだけど、ぜんぜん止められてなかったわ」

 悔しげに頭を抱える。その玄月の息は苦しげで荒い。指先に血がにじみぼろぼろなのは、負わされた傷ではなく、術の行使で生まれたものだ。以前までの彼ならば耳にしなかった呼吸、なかった傷。――これ以上の病身の酷使は、そんな指先の切り傷程度では済まなくなるかもしれない。

 だが、春明が下がれと玄月に言う前に、高らかに笑い声が響いた。


吾子あこはともかく、本当に小賢しくも上手く立ち振る舞うものじゃ。妾と相対して、いまだこの手で傷を負わせられぬとは。じゃが……」

 風が一陣空へと吹き荒れた、土煙が一瞬で払われる。妖艶な金色が、うっそりと細められた。

「もう戯れも飽いた。終わらせよう」


 とたん、あたりを漂っていた黒い《澱み》の気配が、濁流のごとく渦を巻いた。帝の手にある勾玉へ吸い寄せられて、唸りをあげて空気を裂く。

 と、同時に、びりりと鋭い痺れが春明の全身を走り抜けた。動けない。指先ひとつ、思うままにならない。視線はかろうじて、というところだ。

 そのかすか動いた目の先で、玄月が咳きこみ、膝から頽れた。嘔吐するように噎せたそばから、黒い羽根交じりの血がこぼれ、押さえた手のひらを赤黒く染める。


「玄月……!」

 声は響いた。口は縛られていない。だが、駆け寄りも、助け起こしも出来ないままならさなさに、春明は母を名乗る化生を睨み据えた。


「そう怖い顔をするものではない。しょせん残りわずかな命。苦しみを長引かせるよりはよう摘み取ってやった方が、優しさというものなのであろう? 大樹の帝に託したは、病の勾玉。疫病を広め、罹患した者の身体を内から貪り喰って糧とする。その病の進行具合をな、いささか深めてやったのよ。見よ、吾子。そこの死にぞこないだけでなく、この世にあふれたあまたの病人どもから、嘆きの《澱み》と、その身を象る陰陽の力が集まってきている」


 うっとりと、白露の金色の瞳は勾玉へと注がれた。

 重たい黒に濁った力の渦巻きは、勾玉に吸い込まれると淡く清廉な瑠璃に輝いていく。まるで、清められているようだ。だが、その実は深く分厚く、その醜悪さを覆っているだけ。大樹の帝が持つことで、その血の神性が、《澱み》の気配を隠したに過ぎないのだ。

 清らかに見えたのは見た目だけ。その内には、重く暗い《澱み》を溜めこんでいた。


「上手く、騙されたものだな……」

 化生と並ぶ聖帝せいていへ呟きながら、平静を装うおもての裏で、春明はその身を動かすすべを必死で探った。咳きこんだ玄月は、それがおさまった後も苦しげに蹲ったまま、動けずにいる。纏う直衣さえ重たげに上下する肩を、広いわりにほっそりと薄く見える背を――せめてここから遠ざけたい。

 そんな春明の焦りが分かるのか、白露しらつゆは母の顔をして優しく諭した。


「吾子、いくらそなたの力があろうと、そう容易くは動けぬよ。いまはあの夜と違い、妾が斯様にもそばにある。力もよぉく、そなたに及ぶ。そなたは妾の息子。その器の半分は妾。そんな身で、妾にあらがえきれるものか」


 薄青の花薄はなすすきたもとが、ゆったりと動く九つの尾とともに、ふわりと揺れた。勾玉が、その細い指先につられるように、帝の手の内から浮かび上がる。


 光の残照を残して、ゆるやかに、勾玉は春明の前へと空を舞い降りた。


「さあ、吾子。母の願いを叶えてたもれ」

 瑠璃色の眩い光が目を射るとともに、母の笑う声がした。





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