あなたのくれた明日(2)
黄昏時。夕陽の名残が山の西から長い影を伴い、庭先で朱色にうずくまる。その端々に、宵の闇がひたりと忍び寄り出した頃だった。散り際の山桜の花びらを足元に連れて、赤子の父親が
『あれ? 早く片付いたんですね。帰り、明日じゃありませんでした?』
とと様が来たぞ~と、抱いた赤子に笑いかけながら、玄月が庭に面した
赤子の声に、父が顔を上げた。暗い朱色の影が、社を見上げる微笑みをぼんやりと照らし出す。
瞬間。見上げる瞳の虚ろさに、ぞわりと玄月は総毛だった。赤子の声が、空気をつんざく泣き声に変わる。
『下がれ! 秀!』
切迫した松玄の声が吠えるとともに、玄月の身体をからめた白銀の糸が、彼を
転がり倒れ込んだ玄月が、赤子を無意識に守り抱きながら、振り上げた視界の先。――赤子の父の身体がぐしゃりと歪んで割れた。
赤黒い裏側を惨たらしく晒しながら、纏っていた皮のうちから、ずるりと無数の肢を蠢かせて、巨大な
『
苦々しげに松玄がこぼした。
赤子の父――真辺はもうこの世に亡く、この社に出入りのあったその肉体を纏うことで、松玄の結界を突破しやすくしたらしい。
カチカチと、化生の口の前で重ね合わされる牙から不穏な音が響き、身体をうねらせるとともにそこから吐き出された黒い液体が、またいくつもの強大な刃へと成り代わって、社のうちに降り注いだ。
松玄の印がそれを弾き、糸が刃を絡めて薙ぎ払うも、防ぎきれなかった斬撃が、柱を切り放ち屋根を崩す。
『秀! 赤子を守れ!』
叫ぶ、その指先が籠目を空に描き、呪言を結ぶ。とたん生れ出た無数の白銀の杭が、切っ先を光らせて虫の化生の長い身体を穿ち貫いた。
苦悶に揺すられる身体から、黒く澱んだ体液が飛沫をあげて庭先に注ぎ落ち、草木が腐臭とともに枯れていく。
喘ぐように空を向いた口から、化生は手当たり次第に天へといく筋もの刃を放って蠢めき、やがて倒れ伏した。
尾の端から灰となって消えゆく化生を、鋭い眼差しで松玄が
カチカチと力なく牙を鳴らす化生から、しわがれた、聞き取りづらい声が漏れ出でた。
『狐ノ化生ガ言ウテイタ。外ハ堅イ……内ハ脆イ……入リ込メバ、崩スモ可能……。射干玉ノ夜空ノ目。我ガ喰エヌハ口惜シイガ……
はっと松玄が空を仰ぐのと、なにか硬質なものがひび割れた音が、甲高くあたりを震わせたのは同時だった。
藍色の滲みだした空から、星の瞬きが叩き落されるように、破れた結界の残滓が降り落ちる。先に空に放たれた刃は、最期の悪あがきではなく、結界を破壊する――それが目的だったのだ。
遮るものをなくした空から、雲霞のごとくあまたの化生がなだれを打って入り込んできた。魑魅魍魎が寄り集まって、まるでひとつの生き物ように、迫る夜の闇とともに押し寄せてくる。
あふれかえる化生の群れに、玄月は青褪め、火のついたように泣き暴れる赤子を抱きしめた。守ろうと思ったのか、逆に縋ってしまったのかは分からない。
倒れた化生と同じ虫のようなもの、歪に繋ぎ合わせた獣に似たもの、人の形を象ったおどろおどろしく膿爛れたナニカ――それのどれもが、修行途中の陰陽師など、ねじり伏せられる力を持っていた。渦巻く《澱み》の禍々しさは決して、弱い化生の群れ集まったものではない。
終わったと思った。たったふたり――それも片方は半人前の陰陽師。よくて半分祓えれば上出来だ。ここで喰われて終わるのだ――そう、覚悟ではなく諦観で、玄月はすべてを手放した。
あっけなく、なんてつまらぬ最期だろう。
『……お前も、俺たちに巻き込まれて、運がなかったね……』
真っ赤な顔をしわくちゃにゆがめて泣き続ける、汗に濡れた赤子の薄い前髪を撫でてやる。それぐらいしか、もうやることなどなく思えた。
だが――
『〈玉の緒よ 絶ゆとも紡げ
空気を震わせ響く、凛然とした高らかな声。
松玄が
けれど松玄の射干玉の双眸は、常と変わらぬにこやかさで、赤子を抱きしめたまま腰を抜かして座り込む、彼の愛弟子を振り返った。
『よもや、化生どもがこれほどの数で結託するとは、さすがのわしも思いもよらなかったわ』
してやられたと、景気のいい笑い声をたてる。だがその笑顔にはどうしても、隠し切れぬ苦しさが滲んでいた。この数の化生をたったひとりで抑えきるのは、どれほど優れた陰陽師だろうと、あまりに身に余る。
『……松玄師匠……手、手が……』
涙の混じりかけた声が、震える唇からこぼれた。玄月が見つめる先。光の糸を繰り出す松玄の拳は、じわじわと引き裂かれ、血が伝い、溶け崩れるように肉がはがれ、骨が見え始めていた。
『うむ! さすがになかなか、こやつらすべてを止めるには、わしの力も簡単には及ばぬようだ。だがな、秀。ここでわしが踏ん張れば、お主とその赤子は必ずや助けられよう。わしの力でも、そこには及べる。それはわしにとっては、なによりも僥倖だ。お主は間違いなく、わしよりずっと優れた陰陽師となる。より多くの者を救える、天下の陰陽師にな。それにその赤子、まだ生まれてわずか――すべての季節すら知らずにおる。我らのせいで父を奪われ、己が行く末まで摘まれては、哀れに過ぎよう。我がすべてを惜しまず捧ぐことで、そなたらふたりが明日を見られるなら、今日まで陰陽師として研鑽してきた甲斐もあったというものよ』
明るく、常と変わらず快活に、松玄の明朗な声は告げる。しかしそれは――まがうことなく、別れの言葉だった。
『まっこと、よき人生だった。特にここ数年は、お主がそばにおったしの! わしは運に恵まれた! 惜しむらくは、お主の名を決め損ねたことだがな。あと一日あればのぉ。これぞという名案が浮かんだ気もするが、そこは致し方ない!』
笑う。その声が、その瞳が、そこに息づく温かさが――初めて会った時と寸分も変わらぬまま、玄月をいとおしげに見やる。その拳はもはや、半ば腕まで砕け――光の糸がうねり渦巻き、形を成しているだけだというのに。
玄月は嗚咽を飲み込み、唇を噛みしめるのに精いっぱいで、頷く言葉のひとつも返せないでいた。でも、それでもいいとばかりに松玄はにかりと破顔する。
『感謝する、秀。実に、楽しき日々だった!』
光の糸が折り重なって羽衣のように翻り、閃光と爆音が宵の闇を切り裂いた。
すべてが――術の残滓も、化生のざわめきも、《澱み》の名残も――すべてが静まれば、そこはただ、壊れ果てた社と玄月と赤子が残されているだけだった。
禍々しく空を覆い尽くしていた化生の影はかけらもなく消え果て、空は澄んで清浄な黒を柔らかにたたえている。そのうちに、瞬く星と、これから満ちる上弦の月が抱かれていた。
それを、呆然と玄月は見上げる。
夜風が、まるで何事もなかったかのように頬を撫でる。泣きつかれたのかしゃくりあげていた赤子は、気づけば玄月の腕の中で、どこかまどろむような眼で静かに瞼を閉じかけていた。
ここに、彼らを脅かすモノは、なにもない。すべてが一瞬にして、祓われていた。
その平穏と引き換えにされたものの重さに、玄月は込み上げてきた涙を力いっぱい拭い捨てた。俯きかけた顔を奮い立たせて、再び天を仰ぐ。
『ここで腐ってどうする……』
呟き、そして口端を師のように引き上げる。
教えられてきたはずだ。楽しく生きろと。明日を望めと。その――天命の果ての果てまで。
そう在れるように、共に過ごしてもらった。
(それを無下にするな)
楽しいを知った。悲しいを知った。嬉しいを知った。寂しいを知った。ぬくもりを、きらめきを、鮮やかな生き方を――。
小さく柔らかな、けれど、けして軽くない重みが両の腕にかかる。安堵が確かにあると感じ取っている、穏やかな寝息が耳をくすぐった。
(……のん気に、寝てるなぁ……)
泣きたいようなやるせなさに、それでも込み上げる愛おしさが混じり合って、玄月は赤子の泣きぬれた頬を撫でた。
いまは閉じたこの桜貝のような瞼の向こう。幼い瞳は、明日、どんな世界を見つめるのだろう。
(とりあえず、天下の陰陽師……目指してみるかな)
優しく赤子を抱きしめ直して、ひとり、玄月は星空を見上げた。
+
それから玄月は赤子を母親の手へと無事に引き渡し、父親の訃報を伝えた。そしてしばらく成り行きで、その母子の元でずいぶんと世話になることになったのだ。赤子がまだ手がかかるから、人手があった方がいいと言っていたが、ひとりになった玄月を心配してくれたのは明らかだった。
その母子のほかにも、松玄の友人だという陰陽師たちが入れ替わり立ち代わり、彼の忘れ形見だといって面倒を見ていってくれた。
松玄亡きあとですら、その縁に溢れるほど助けられて、玄月は陰陽師として研鑽を積み、その実力を磨いていったのだ。
そして、十八になった年、玄月は京へと足を踏み入れた。安倍春明――天下にとどろきだしたその陰陽師の名を耳にしたからだ。
(いったい、いかほどの奴なのかと……)
己が力に自負があった。そこそこの陰陽師ならば、己が術でその名声のうちから引きずり落とし、代わりに天下一の名を手中にしようと、功名心にかられていたのは認めざるを得ない。
けれど、その時出会った男は――
(とても及ぶべくもない力を秘めていて、そのくせひどく――)
ひどくつまらなそうに、世を睥睨していた。
それが少し、幼い頃の己に似て見えた。
半分化生の陰陽師。ずいぶん危うい存在に見えたのは、その人ならざる血ではなく、その顔つきのせいだったのかもしれない。
見張る気持ちを潜めて友になろうとしたのは間違いないが、どこかで、どうしても――放っておけなかったのだ。
昔日の、幼い己がそこにいた。
(まあ、ちょっと触れて突けば、しっかりと情動のある、面白い奴だったんだけどさ)
その出自ゆえの負い目か、沈めこんでいてしまっただけで、魂が色づき、
桂木という師に恵まれていたのもあったのだろう。だから――
(君となら、ずっと明日も楽しいだろうと――)
いつしか自然と、彼とともにある今日を愛し、明日を望むようになっていた。
(君の孤独の良き友に、か……。それは、どっちだったのかな)
まどろみのうちから、ふつふつと。蘇り、過り、溶けてゆく遠い昔からの記憶。それが、なぜいまさらに辿られるのだろうかと、玄月は限られた己が時間にかすか笑んだ。
(君と出会えて、よかったな)
この瞳で生まれつかなければ、きっと出会いすら出来なかった、得難き友。
師匠の言に、間違いはなかった。あの七つの日、鳥居をくぐったその時から、玄月は、『代わりのいいこと』を、己が運命のうちにたくさん与えられてきた。
(俺は、天運に恵まれたよ。ね? 春明)
夢うつつの思い出の最後に現れ出でた友の顔。その慕わしい面影に玄月は微笑み、ゆるやかに、瞼を持ち上げた。
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