化生の子(1)
夜の闇に沈んだ道端に、玄月は立っていた。あちら側に繋がる門を引きずり出し、くぐり抜けたのと同じ場所。
だが、もう雨は止んでいた。
雨上がりのじんわり湿った夜風が、不快に頬を撫でる。しかし、空を見れば、雲間にかすか月明かりが透けている。臥し待ちの月がだいぶ高くなっているということは、夜も深まりきって久しい時分となっているようだ。
「――尻尾だけで済んだね」
振り返り、春明に手にしていた勾玉を渡す。春明に狐の耳はなく、乱れて結ぶものをなくした髪もまた、黒いままだ。ただ腰元に六本の尻尾だけが、ゆったりと揺れていた。
「……無事祓えたというのに、これほど虚しいのだな……」
勾玉へと落とした無表情が、いつになく翳って沈む。
「――無逸は戻らない」
絞り出すような一言。当たり前だと理解している
同じほどのはずなのに、どこか少年のように小さく見えた春明の顔を、玄月はそっと覗き込んだ。
「戻らないけど……共に過ごした時間も消えない。それに、無逸の繋いでくれたものは、確かに守れたよ」」
「ああ……分かっては、いる」
いつになく穏やかな友の眼差しに、春明は哀切を携えたまま微か口角を緩めた。
「
定められたもの、偶発的なもの――いつかは悲しみを添わせて、認めなければならない永久の別れ。それは、そこらじゅうにありふれた顔で転がっている。だから、せめてそれを抱きしめて――
「……前を、向こう」
向かねばならない。向きたいと、願う。
「共に歩めるよ。君が望むなら。明日が来る限り、ずっと、ね」
まだ痛みの残る、けれど確かな決意に、玄月は射干玉の瞳を細めた。
「君を悲しませるために、共に過ごしたわけじゃない。共に得難く楽しい時を過ごしたことが……すぐには無理でも、いつか、君の糧となればいい。――俺は、そう思う」
変わらぬ笑みを湛えながら、けれど、どこか常より切実に、玄月の言葉は、祈る響きを隠し切れていなかった。
それがひっかかり、春明はふっと眉を寄せる。訝るような、見定めるような鋭さが、一瞬視線にのり――不自然に解けて消えた。
「玄月……その言い方ではまるで――お前が死んでしまうようだ」
「……――お前、誰?」
わずか、知らぬ様で引き上がった口角。声音に交じる、耳になじまぬ響きに、玄月は親愛の笑みを一瞬で警戒と敵意の微笑に塗り替えた。
と、同時に、ぬかるむ地面を蹴って、距離をとる。その一瞬が功を奏した。
振り上げられた春明の指先から走った白銀の光の渦。それが刃となって玄月の胸元を切り裂いた。あと一歩、近くにいたままであったなら、闇夜を舞ったのは狩衣の切れ端ではなく、血飛沫であったろう。
「『なるほど、さすがに勘がよい。いや、やはり目がよい、と言ったほうが相応しいか? よぉすぐさま見抜いたのぉ』」
「別にたいしたことじゃない。どこのナニだか知らないが、身体を借りてなお、俺の友とは似ても似つかぬ有様だよ。目が潰れていたって気づけるさ」
楽しげに唇を引き上げる春明ではないモノに、玄月も挑発的に返した。
だがしかし、内心に否応なく込み上げるのは、間違いなく焦燥だ。春明の力は、陰陽師としても、そして――化生としても、他の追随を容易く許しはしない。その肉体を一瞬で乗っ取るなど、対峙してなお、そんな相手がこの世にいるとは思い難かった。
「『強気に出るのぅ。その生意気なところ、嫌いではないが――』」
春明の声で、彼ではない言葉を紡ぐ。その姿が一瞬、瑠璃色の光に包まれて、塗り替わった。背にたなびくは白銀の長い髪。瞳の色は金色の月。獣の耳を携え、複数の尾を背に揺らめかせている。
(――七つある……!)
尾の数が、先に見た時よりさらにひとつ増えていた。そも、六つあったのも多かったのだ。玄月が最後に化生となった春明を見たのは、あの春先の内裏。その時彼の尾の数は、五つであったはずだ。
(ああ、くそっ……! そういうことか!)
空に切られた五芒の星から降り注ぐ、光の矢の間をかいくぐりながら、玄月は忌々しげに舌打ちした。
こうもまざまざと見せつけられては、目を背けようなく気づけてしまう。
(勾玉……! あの勾玉だ!)
清浄な勾玉。強大な化生の内から現れ出ながら、穢れのひとつもなかった瑠璃の玉。
勾玉は結び目だろうとは思っていた。それ自体は清廉だが、何かしらのからくりで、化生と力を結びつけている。ゆえに、化生は勾玉を核に、より強く、まがまがしく力を帯びる。
しかしなぜ、そんな勾玉が存在するのか。その清らかさの裏に、どういった術が潜められているのか。それは皆目、分からないでいた。
勾玉が作られた目的が、強い化生を生み出すことだと思っていたせいだ。
(ああ、だけどそれは――)
本来の目的ではなかったのだ。あくまで強い化生が現れ出るのは前段階。本当にあの勾玉が結びつけようとしていたものは――
(何と誰だった?)
ぬかるむ闇夜の道を速度を上げて走りゆくも、注ぐ矢の雨は避けきれない。造作もなく、指のひと弾きで、星の瞬きのごとく数を生み出されては逃げようがあるはずもなかった。
浮かびあがる籠目の印に息を吹きかけ、壁と為す。振りくる白銀の矢をそれは音高く弾き返すが、早くも、罅が入り出している。
(裏目に出た……! ああ、そうさ、裏目に出た!)
ほうき星がごとく落ち来る矢の嵐の向こう、陶然と笑みを携える、友を乗っ取るモノを玄月は睨みつけた。
穢れはなくとも危険なものと判断して、勾玉を春明に預けた。万一の場合、一番適切に対処できる力があるからだ。
その安全策が裏目に出た。
集めさせられていたのだ。何モノかが化生に与えた勾玉を、その化生が大きな力を蓄え終わった後に、集めさせられていた。
勾玉は、化生と大きな力を結びつける核となっていた。だがそれは、裏を返せば、化生を介して、大きな力と勾玉が結びついていたということにもなる。
化生はあくまで、勾玉へ力を集めるための使い捨て。化生が己がためと思い集めた強大な《澱み》の力と、勾玉が十分に結びき、機が熟したのち、玄月たちに祓わせ、処分して、残った勾玉を春明に集めさせていた。いまとなっては、そうとしか思えない。
(見ようとしていなかったのは、俺もだな)
強い化生を生み出し、世の安寧を乱して、混沌からさらなる《澱み》を生み出す――勾玉の得体が知れないながらも、所詮は化生絡み。そんな単純な目的だろうと、安易に思考を止めてしまっていた。
もっと慎重に。見ようと思って事を見定めていれば、早くに悟れたかもしれないのに。
薄々感じていながら、ずっと見ないふりをしていたのは――
(春明は化生の血を引く)
母親は銀の狐の化生。それは知らされている。分かっている。
(ああ、けれど――)
それでは、父親は誰なのだ?
壁が砕かれ、矢がぬかるむ大地を抉り、跳ね上がる泥に視界が濁る。
頭上を振り仰げば、幾千の星の如くに瞬いて、光の矢じりが空から落ち来る。
たった一人、病に侵されたただの人間へ、過ぎたる殺意だ。穿ち抜き、砕き尽くし、その身の欠片も残さぬつもりだろうか。
玄月は両掌を握りしめた。彼の力は、こんなつまらぬ人殺しに揮われるべきものではない。それに――
(君に、そういう顔で、笑っていてはほしくない)
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