門の守り人(1)

 

 ◇


 夜半よわまで降り続けるかと思えた雨は、宵を迎えた頃には小雨程度に変わっていた。


 あれから、無逸を家族の元へ連れて戻った。あまりにも小さな姿になってしまっていたから、引き合わせるのを躊躇いもしたが、最期にひと目と願うのを、こちらの苦しさだけで無下にも出来ない。

 惜別の嗚咽を霞ませようとするかのように、雨音が激しく大地を打っていた。だから、あの時に天も涙を流し過ぎて、泣き涸れてしまったのかもしれない。


 か細い雨が湿らせた前髪を乱雑に払って、玄月は闇の向こうを射るように見つめた。


「ここだ」


 玄月と春明が立つは、無逸と少女が辿った道。ちょうど彼らが、辻狼に出くわしてしまった場所だ。

 行き交う人の足で踏み固めた土の道が雨にぬかるんで続くだけで、その先は夜と雨雲の闇に溶け、なにもない。だが、確実に、その闇の虚空ではないものを玄月は見定めていた。


「ここに門がある。相変わらず《澱み》のかけらも感じさせないけど……符の気配がわずかする。間違いなく、まだ繋がってる」

 ふわりと己が掌の中で戯れる、淡い紫の光の糸を、玄月は長い指で手繰って握りしめた。


「こういった門を、いくつ繋げ、隠しおいているのだろうな」

 玄月をして、手掛かりがなければ見出せない隠形おんぎょうというのが忌々しい。春明は舌打ち交じりに言い捨てた。


「それも今日までだよ。隠され閉じているけれど、君なら開けられるでしょう?」

「無論だ」

 静かに掲げた指先から、瞬時に蒼銀の光が闇間を閃き、中空に五芒の星を象った。瞬間。


 大樹の軋むような音があたりに響き渡り、ぐらぐらと地面が揺れたかと思うと、暗闇から大きな門が引きずり出されて現れた。

 大内裏を守る門にも似て、重厚なその木製の門扉が、春明の背後から駆け抜けた突風によって、音高く押し開けられる。

 その風に乗るように地を蹴ったふたりが門のうちへと飛び込めば、そこはやはり、黄昏時の不穏な朱色が天を覆って広がっていた。


 ばたん、と荒々しく怒るようにふたりの背後で門が閉じられ、掻き消える。同時にあたりに狼の遠吠えがこだましだした。

「うっわぁ……悪趣味な場所」

 足元の白い砂地に視線を落として、玄月が乾いた笑みを薄く口端に載せる。

「どれだけ、喰ってきたんだろうね……」


 それは、骨だったものだった。地の果てまで埋め尽くすほどの不気味な白い真砂まさご。この化生に取り込められた者たちの成れの果てだ。


「この有様では、宇治で喰らうより前にも、別の場所で散々に人を狩っていたようだな」

 冷めた声音で、しかし抑えきれぬ憤りを揺らめかせて、春明は眼前を睨みつけた。

「――来るぞ」


 囁くように春明が告げる。彼方より雷抱く黒雲のごとく、駆け抜けてくるものがあった。瞬く間に迫り来たその黒雲が、瞬時に形を成して躍りかかる。

 振り上げるは太い前脚。血を求めて鈍くぎらつくは真っ赤な瞳。巨大な灰色の狼が、折り重なる群れとなって牙剥く。


 刹那、春明の背後から閃いた無数の白刃が、狼たちを千々に斬り捨てた。宙へと飛び散る肉片ごと、黒い血潮が降り注ぐ。それを、逆巻いた風の渦が払い飛ばし、あとから続いてきた群れを穿ちぬいて吹き荒れた。

 それでもなお湧いて出で来る狼たちが、風の間隙を抜け、高く地を蹴り、爪を光らせた。


 そこへ、舞うように紫の糸が黄昏の空を滑る。それは獣の四肢を、首を、しなやかに絡めとり、蜘蛛が糸に囚われた羽虫がごとく、もがいた狼たちを引き裂いた。


「雑魚を相手にしていても埒があかない。この化生の本体を叩かないと」

「探せるな?」

「もちろん」


 不敵に笑んだ射干玉の瞳が、透徹と、射竦めるように周囲を見渡す。

 預けた背の方は互いに相手に任せきり、振り向きもせずに狼たちを払い伏せる。


「空気が血の香りで澱んでて、見通しが悪いったらない。少し――清めさせてもらうよ」

 指先から外した糸が、飛び来る狼の頸筋と胴を刎ね飛ばすと同時に、玄月は懐から白木の誂えの小刀を抜きはなった。凛と艶やかな刀身を、柄を握る手に込める愛おしさもやるせなさもひとしお、力いっぱい、白い躯の大地に突き立てる。

 明け空を思わせる薄紫の輝きが、果て無き地平の向こうまで伸び、格子の形に迸った。


 空間全体揺すらせて、怒り猛る唸り声が風となり、ふたりを煽り飛ばさんと逆巻き荒れる。

 だが、突き立てた小刀とともに、地にしがみつくように歯を食いしばった玄月の眼差し。それが、舞い上がる骨の砂塵にも怯まず、素早く周囲を廻ったのち、瞬時に一点で定まった。


「春明、あそこだ!」

 叫ぶと同時に、玄月は小刀を抜き放った。瞬間、格子に走った光が切っ先に導かれるように束となり、玄月が見定めた点で空に向かって迸る。


「隠れてる! 引きずり出せ!」

「心得た!」

 とたん苛烈さを増した狼たちの攻撃を薙ぎ払ないながら、玄月が駆ける。それに並んで、春明の指先が呪語とともに五芒をきった。


 紫の光が天を突き示した場所。そこに、星を描いた蒼銀が目を射抜かんばかりに、あたりを焼いて閃いた。

 吹きすさぶ風の唸りが悲鳴のように吠え、大地が揺れ、空が震える。

 蒼い光が貫いた場所に、どす黒く霧のような血飛沫が上った。ずるりと何もない場所から這い出て現れたのは、蠢く樹木が絡み合って象られた、巨大な門と垣根だった。

 春明たちがいる側と、その向こうとをまっすぐに、どこまでも際限なく、蠢く樹の根や太い枝が、壁となって隔てている。


「なんだ……? あれは」

「さあ? 門のお化けかね」


 暗い陰りのあるごつごつとした樹皮のところどころに、じとりと苔むす暗緑色が陰鬱にうずくまっている。

 嫌な感覚に、春明は顔をしかめた。普段、いかに禍々しい化生を前にした時も、感じたことのないものだ。

 忌避に近しい焦り。はらわたの底を冷えた指先でなぞられるような不快感。

 玄月はと視線をやれば、彼に春明と同じものを感じ取った様子は見られない。

 己が内に生じた違和感を、春明は得心いかぬまま持て余した。

 そのせい――ではないと思うが、一歩、反応が遅れた。


 向かう先、たったひとつだけある大きな門の前で、三筋、灰色の煙がくすぶり立ち昇った。

 太刀たちを刷いた人影がゆらりと姿を見せる。胴を守る簡易な鎧を身に着けた、まばらな体躯の人影だ。下級の武官の装いに近しかったが、背に矢を携えたえびらはなく、冠の代わりに目深に笠を被っていた。そして何より、人ならざる証のように、揺れる狼の太い尾が背に見えた。


 そのうちで一番小柄な人影が、太刀を抜き放つと同時に地を蹴り、ふたりとの間合いを瞬時に詰めた。

 落雷のごとき一閃。貫き突かんとする切っ先を止める余裕はなく、春明と玄月はかろうじて左右に身を翻してそれを避けた。


 開いた距離。それをさらに隔てて、残ったふたつの影がそれぞれに太刀を唸らせ、斬りかかる。

 危うく避けた切っ先が玄月の袖を切り放ち、かすか紐を掠めた一刀に、春明の冠が転がり落ちた。

 突きを放った人影は身を翻し春明を追い、群れた狼たちもそれぞれに、三つの影に付き従うように分かれ、襲い来る。

 先よりもより統率のとれた動きに、春明は小さく舌打ちした。


(あの三体が頭の役割か)

 まるで門を守る衛士えじのように、春明たちを門から遠ざけ、攻めかかってくる。

 攻撃は太刀を振るっての斬撃のみ。そこになにか不可思議な術が乗るわけではないが、動きが目視に及ばぬほど速く、加えて配下の狼の数があまりに多い。


 切り上げる一刀から飛びのき、それを見越したように迫る牙と、鋼のような尾の一撃を続けざまにくるりと身を翻して避ける。

 そこに狙いすまして閃いたひと突きを、滑り出た符が光の壁を築いて防ぎとめた。

 が、怯むということを知らぬ赤い目が、笠の下からぎりぎりと、さらに足の踏み込みを強めてくる。


『――安寧脅かす咎人とがびとどもめ。報いを受けろ』

「どんな安寧を求めているかは知らんが、こんな骨と血に浸りきりながら、安寧とは恐れ入る」

 ひび割れた声で睨み上げてきた化生を冷ややかに一瞥して、春明は言い捨てた。


 それが怒りに火をつけたかは分からないが、さらに力を込められた切っ先に、光の防壁が割れて砕けた。符が細切れに裂けて宙を舞う。刃ごときに破れぬ壁のはずだが、攻撃として特殊な技がない代わりに、こちらの陰陽の術を弱める力があるのかもしれない。

 そのまま過たず喉元を狙ってきた切っ先を、春明は懐より出した扇で受け止め弾き返した。と同時に、空いている方の指先で描いた五芒星が、影の胴を穿たんと光を放つ。


 しかし、それが化生の衛士に届く前に、数頭の狼の巨躯が飛び込み盾となり、衛士の身体を光の軌道から弾き飛ばした。

(庇った……?)

 断末魔の吠え声も上がらぬうちに焼き滅ぼされ、灰と消えた狼たちの姿に、明らかに残された群れの空気が怒りに変わった。笠からのぞき見える衛士の目の赤い輝きも、より苛烈に燃えた。

 手足の分裂体が本体を守るのは珍しくはないが、それに哀悼に似た憤怒が乗るのは見たことがない。だが、しかし――

(友を奪われた無念ならば、こちらが上だ)


 再び扇で突きを払い落とし、牙や爪を息のひと吹きで生み出した刃の渦で切り飛ばす。背後から襲い来た、もうひとりの体躯の大きな衛士の重い太刀筋を器用に扇で受けて捌きながら、春明の足はくすんだ白い大地の上に星の形を刻んでいた。


「消し飛べ」

 冷たい瞳が低く囁く。と同時に、彼を囲んでいた衛士や狼を呑んで、青白い炎が燃え上がった。

 爆ぜるような勢いをもって、一息に、滾る瞋恚しんいとともに焼き尽くす。灰も残らぬ凍えた業火。それを見つめる春明の瞳の中、塵と消えかけた影が揺らめいた。瞬間――

 顔すら識別できぬその影が、嘲笑ったように見えた。



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