哀悼の雨


 ◇



 雨が、降っていた。

 陰鬱な鈍色の雲の向こうから、絶え間なく。あらゆる音をかき消して、雨音が耳を打ち、ぬかるむ地面を濁った水が行くあてもなく流れてゆく。


 洛中から、宇治の里へと続く道の傍ら。春明が立ち尽くしていた。縹色の直衣が、墨染と紛うほど暗く染まり変わり、重く濡れそぼっている。

 その隣で、同じくすっかり濡れた髪先から雨だれをしたたらせ、玄月が膝を折った。泥に汚れるのも厭わず、いとおしむように伸びた掌が、そっと――無逸の首を拾い上げる。


「……――ねぇ、無逸。刀の礼がまだだってのに、受け取りもせず逝かないでよ……。謙虚が過ぎる」

 辛うじて笑みを象った口端を、頬を伝う雨があとからあとから濡らしていった。

「せめて梨、ちゃんと食べてくれたのかな……?」


 目線を合わせて、けれど、何も映してはくれない、かつては猫のように輝いていた瞳に、玄月は黙って柔らかに瞼を落とした。ゆるりと手を離せば、その青白い顔でなお、口元が淡く弧を描いている。そのせいか微笑んで見えて――玄月は堪らず、彼と額を突き合わせた。


 駆けつけるのが、あまりに遅すぎた。間に合うことが、できなかった。

 無逸のおかげで無事に逃げ延びた少女が、肩と足の傷をおして洛中まで走り抜け、鍛冶の師の家へ急を告げてくれた。そこから血相を変えた師が――無逸から話を聞いたことがあったからだろう――玄月の元へ飛び込んできたのが、ついさきほど。


 報せを受けるが早いか、玄月は式を春明へ放ち、術を行使して、ここまで飛ぶより早くやってきた。春明も同じだ。だが、それでも――見つけたのは、道端に置き去りにされた、愛しい友の首だった。

 まだ歪な首の断ち痕からは血がしたたり、触った頬がほのかに温かい。本当にあと少し。あと少し早かったなら――違う結末を手に出来ていたかもしれないのに――。


「……かの少女が、助かったのは喜ばしい」

 押し黙っていた春明が、雨音に紛れそうなほど、低く、静かにもらした。

「無事でよかったと、心から思う。彼女に、死んでほしかったわけじゃない。だが一方で、私は――」

 淡々と、紡がれていた言葉が詰まる。ぎゅっと拳が握り込まれた気配に、玄月が春明を仰いだ瞬間。いつも冷たく整った顔が、くしゃりと悲痛に歪んだ。


「無逸に生き残って欲しかった……!」

 頑是ない子どものように。堪えきれずこぼれた言の葉には、涙が滲んでいた。

 思わず呆然と目を瞬かせた玄月に、恥じ入るように、春明は冠からこぼれた前髪を乱雑に掴みやり顔を隠した。

「すまない……。ひどいことを、口にした。これでは怨嗟の呪詛だな……」


「いや――純粋な、哀悼だよ」

 陰陽師たる己が言うべきではなかったと憚った春明を見上げ、玄月は静かに微笑んだ。

「そんなに簡単に、綺麗ごとで割り切れるものか。それは人として当然のじょうだ。抱いたとて、咎められるべきものじゃない」

 ただ――と、黒い切れ長な瞳は優しく春明を見つめたあと、両手の上に収まるほどになってしまった無逸へ、柔らかに視線を注いだ。

「そこで止まってはいけない」

 微笑んで見える、その死に顔。苦痛があったろうに、それを伺わせないほど、穏やかにすら映る。


「無逸が守ったものは、まだ、守れるから」

 無逸は春明の符を持ったままだったという。それをしてなお、こんな形でまみえることになってしまったというのなら――それはきっと、無逸がなにかを決め、なにかを為したということなのだろう。

 その、無逸が為した事の先を――


「繋ぐしかない。無駄にはしない」

 誓うように、無逸とひたと見つめ合って、玄月は言った。

 少女が逃げ延びられたことで、判然としなかった化生の在り様を、よく知ることができた。無逸が春明の符を化生の元へと持ち込み、そして――そのままとなったことで、化生の元へとつながる道筋が作られた。


「前を向いて、春明」

 立ち上がり、まだ降りしきる雨に濡れたままの頬の春明を、玄月は覗き込んだ。

「――君は、それが出来る男だから」

 どこか願うように――射干玉の瞳は春明を穏やかに射すくめた。


「今夜にも、追える。奴らを祓おう」

「ああ……そうだな」

 玄月の手の中の無逸へ視線を落とす。ぐっとまた、喉元に込み上げる苦しく切ないものを飲み込んで、無逸に約すように春明は言った。

「今宵のうちに、片をつけてやる」



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