第34話 隔てるモノ、それを越える者(一)

「確かにまた来るとは言っていたけれど、それにしてもちょっと早すぎるんじゃないか? 家がそこまで近いわけじゃないなら、結構大変だろうに」

 数馬は、困惑の表情を見せながらそう言った。その視線の先には、伊奈がいる。前回彼女が数馬の家を訪れてから、まだ一週間も経っていなかった。

「まあ、別にいいじゃないか。机の中のプリントはまだ一杯にはなってないけど、一杯になるまでに来ちゃいけないなんてルールはどこにもないはずだよ」

「確かにそうだけど……」

「最近どう? 元気にしてる? こっちでもうまくやってる?」

「二回目の帰省か」

「ははは、なかなかキレのあるツッコミだね。前よりも元気そうでよかったよ。でもこれは帰省じゃあないね。私は『こっちでも』って言ったんだ。むしろ親が子供の家に来てるって感じ。こういうのってどう言えばいいんだろう? 逆帰省?」

 安直すぎるだろ、というか保護者ヅラで何を言ってるんだ、「最近どう?」ってほど時間経ってないだろ、というツッコミをそのまま口にするのは、きっと無粋極まりないというものだろう。

「……他にも色々とツッコミを入れたいところだけど、とりあえず置いておくことにするよ。それで、今日はどんな用件でうちに?」

「そう、それを話さなきゃね」

 そう言うと、伊奈は数馬の方に向き直って、なぜか正座をし、やけに恭しい口調で「用件」について話し始めた。

「ご提案がございます」

「なにさ、そんな急に改まって」

 彼女は座ったまま、ゆっくりと、丁寧に礼をして、顔を少しだけ上げたところで、こう言った。

「ご一緒に、お山にお登りさせて頂き奉られますことは可能で御座いましょうで候ふか」

「めちゃくちゃな敬語は良いから、もう一回普通に言って」

「山に登ろう!」

「……なんで⁉」

 伊奈の方がふざけ倒していたとはいえ、数馬が二度も同じことを言わせたのは、彼が文字通り自分の耳を疑ったからだ。「山に登る」? もう一か月近く家に籠っていて、もはや運動能力なんて衰えに衰えているこんな自分が? そんなのはできっこない。もしそんなことを本気で提案しているのだとしたら、この女は本当に根っからの大馬鹿なんだろう。数馬はそう思った。

「おお、そんな大声出せたんだねえ~。なんでかっていったら、そりゃあまあ、運動不足解消のため?」

「運動不足の人間にいきなり山を登らせる馬鹿があるか!」

「まあまあ、そう怒らないで……もちろん、いきなりとは言わないよ。リハビリの一環というか、ゴールとして、ね?」

「リハビリ、って……」

「うん、リハビリ。今のあなたにとってはあんまり現実的に思えない話かもしれないけれど、あなたが今後どうするつもりにしても、少なくとも外に出てちゃんと動けるくらいの身体にしておかないと、本当にどうしようもないことになっちゃうと思うからね。さっきの反応とかを見るに、陰鬱な気持ちに襲われることが減って、幾分かは元気になったんじゃない? 私のおかげかな? ね? ね!」

「まあ、確かに……前に比べたら、随分と調子は良くなったような気がするよ。それが君のおかげかどうかは怪しいけれどもね」

 口先では「怪しい」などと言っているが、先日の彼女の訪問が数馬にとっていい方向に作用していたのは彼自身にとっても明らかであった。彼女が、善意からか、はたまた単なる好奇心からか、高い壁を乗り越えてまで敷いてくれたこのレールに、見てみぬふりして乗らないわけにはいかない。

「相変わらず当たりが強いんだねえ。ちょっと悲しくなっちゃうなあ。まあとにかく、ここから二週間、身体の感覚をどんどん取り戻していこう。それで、最低限動き回れるくらいになったら、最後に山に登るの。それで、浅間嶺からの景色を眺める。二人でね!」

「ちょっと待った。二人でってのはつまり、大人を誰もつれていかないってことかい?」

「そう。大人がいたんじゃあ、達成感がないってもんでしょ」

 どうやら、破天荒というか、向こう見ずというか、ガサツというか、極度に楽観的というか……こういうところは、本当にどうしようもないようだ。時には、レールを飛び越える必要もあるらしい。鉄道だったら大事故待ったなしだ。

「いや、流石に危険すぎるよ。山では何が起こるか分からないんだ。突然天気が変わるかもしれないし、崩落に巻き込まれでもしたら……それに第一、電波も届かない場所で、道を踏み外したり、間違えたりしたときには——」

「心配しすぎだって。ギリギリ電話ができるくらいには電波が届くらしいし、予定してる登山道はちゃんと整備されてるんだよ。山には悪路もあるけど、そういうところはもちろん通らない」

「ならまだ良かったけど、だとしても——」

「いいや、とにかく行くよ」

「でも、それは……」

「……はあ。そこまで嫌なんだったら、大人に相談すればいいよ。あなたには頼りになるおじさんおばさんがいるんでしょ。なんだかとってもロマンに欠ける話だけどね!」

「まあ、それだったら……駄目ってこともないか……」

「そう? じゃあそういうことで、決定~! とりあえず小母さんには『こんど外への復帰目指して一緒にハイキングに行こうと思うので、リハビリも兼ねてここから二週間くらい運動をさせてあげてください』みたいなことだけ言っておくから。を伝えておきたいのであれば、任せるよ。それじゃ!」

「ちょっ、もう行くの⁉ 本当に、ただそれを伝えるためだけに、わざわざここまで……?」

「ん? そうだよ! とにかく、小母さんには伝えておくから、『トレーニング』、頑張ってね!」

 そう言うと、伊奈は勢いよく階段を下りて一回に向かい、叔母のいる部屋に飛び込んでいった。数馬は、心からの呆れと、明日から始まるであろう「リハビリ」への抵抗感から、久しぶりに、大きなため息を吐いた。

 部屋の窓からは、この村を東西方向に貫いている——そして、村の南北方向の移動を阻んでいる——山々が良く見えた。その頂上の、さらに上に見える空は、これ以上ないほど美しく晴れ渡っていた。

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