泣かない天使と花の帽子
文月瑞姫
第1話 天使のいる街
*** 風の上月――エデル
「君は、僕の天使だった」
あの日のことを、忘れもしません。初めて虹というものを見た日です。この国では『天使の橋』とも呼ばれるその鮮やかなアーチが、彼の最期を見送るように架かっていました。
「嫌だ、死なないで……死んじゃ嫌だよ……」
包帯でその半分を覆われた彼の顔からは、逃げ出さんばかりにどす黒い瘴気が上がっています。
「頭を、下げてはくれないか」
その頼みに、私は膝を付いて答えました。
彼は力の入らない腕を私の頭に伸ばし、私の着けるプリムラの帽子を外します。女性から帽子を外すこと。それは
「残念だ。もう、何も見えていないんだ。ああ、君はきっと、僕の天使だった」
「……そうだよ。私が、あなたの天使なんだよ。だから大丈夫だよ。私……きっとあなたを導くからね……」
その言葉が聞こえたか聞こえていないか、彼は天使の元へ旅立ちました。私の目には今更になって大粒の涙が浮かぶのです。泣いてしまえばきっと、彼の姿が滲んで映ってしまう。その想いで耐えていた雫が、彼の顔にぽたりぽたりと落ちていきました。
私たちの間には、筆舌に尽くしがたい葛藤が幾つも重なっていたように思います。その果てに誤った選択をしたとは思いませんが、正しい選択をしたとも思えません。あるいは、どれも間違いだったのかもしれません。あるいは、彼を死なせずに済む道もあったのでしょう。
兎にも角にも以後の私は、この日の後悔を胸に、天使についての風説を追い求めるようになります。
*** 土の下月――ジャスミン
小さい頃、剣を振るうのが好きだった。いつか国を、誰かを守れる日が来ると信じて剣を振り続けた。気づけば国内有数の剣士となり、アルメリアの傭兵団長さえ任された。隣国まで戦火が広がる中、来たる日に備えて鍛錬を欠かさなかった。
だが、何事もなく戦争は終わった。この街アルメリアの傭兵団は一度も戦場に赴くことなく解散した。おれは唖然とした。そして、怒りを燻ぶらせた。ぶつける先が見つからない怒りを、ただ剣に込めて振り続けた。
それから二年が経ち、世界は益々平和になった。終戦に際して国王が言った『ペンは剣よりも強し』なんて言葉に感化される者は多く、元傭兵団の面々も多くは剣を捨てた。未だに剣を振るうのは、もはや娯楽の部類だ。
それでも、俺は……
「団長! 今日も精が出ますね」
「……デルフィか」
こいつは元傭兵団のデルフィ。剣士としては落ちこぼれだったが、今や街区開発の中核。アルメリアの未来を任されていると言っても過言ではない。大した出世だろう。
デルフィから投げ渡された薪を空中で斬ると、剣を仕舞った。もうじき日が暮れる時間だ。
「衰えないっスね。団長はホントに剣が好きなんだから」
「団長呼びはよしてくれ、もう世界は平和なんだ」
「……そうだと良いんですけどね。帽子狩りの件、まだ続いてるんスよ」
帽子狩り。
「難しいものだな、平和ってやつは」
デルフィと別れてから剣の手入れをし、酒場に向かう。中は行商一行でごった返していた。聞こえる限り王都での大きな取引が成功したらしく、有頂天になって騒いでいる。その喧騒から逃げるように空いているテーブルを探し、酒場の角まで移った。
しかし、そこには先客がいた。隅のテーブルの更に隅の席で、人を待つように座っている。遠目で気が付かなかったのも仕方がないだろう。少女は小柄で、酒場内の色に溶け込むような薄茶色のローブを纏い、鹿撃ち帽を浅く被っていた。
「珍しい帽子だな、旅人か?」
隣に腰掛けると、少女は俺を一瞥し、軽い会釈をした。
「はい、聖国から。とは言っても育ちはライティアですし、しばらくは
「聖国か。見たところ
ライティアのほとんどの人間は
曰く、その天使は花の名を冠し、光輪を隠すために帽子を身に付けていた。それに倣い、
「確かに聖国は異教の国です。しかし、天使が降り立ったのはライティアだけとは限りません。私は各国に残る伝承を辿り、記録することを生業にしています」
「――っ!」
天使の記録。その言葉に俺は強い反応を示してしまった。
「どうか、されましたか?」
「……いや、熱心な信徒だな。興味深い。酒は飲めるか」
「嗜む程度であれば」
マスターに二人分のコインを渡し、鹿肉のシチューとバゲット、葡萄酒を注文した。
「紳士なんですね」
「何が紳士だ。紳士ならとうに名乗っているだろう」
「ふふ、そうかもしれません」
「それに、俺は紳士ではなく剣士だ」
二本の剣を下げた腰を見せると、少女は物珍しそうに眺めている。
「平和だと、剣を見る機会もないか」
「いえ、そんなことはありませんよ。ただ、珍しい装飾だと思いまして」
「王国からの授かり物だ。滅多に使うものではない」
「もう一本の剣は何ですか?」
「ああ、鍛錬用だ。王剣を傷付けるわけにはいかないからな」
運ばれた料理を味わいながら、少女は聖国での旅の話をした。入国時に異教を咎められ、危うく実刑に及び掛けた話。宿を求めてカジノなる賭博に身を投じた話。住まいを世話になった老夫婦と、そこから聞いた文化の話。
「聖国には天使の伝承こそないものの、花言葉という文化があるんです。聞いたことはありますか」
「いや、初めてだ」
「それぞれの花に割り当てられる言葉です。単純なものが多いですが、中にはよく考えられた花もあります」
贈花の定番であるバラは『愛』、薬草に使われるアロエは『万能』。尖った葉を持つヒイラギは『先見性』だと、少女は語る。
「キンセンカは何だと思いますか、単純です」
「単純ならば、『太陽』か」
「聡い方ですね、正解です。もっとも、向こうでは主教をなぞらえてマリーゴールドと呼びますが」
そんな話を続けている内に酒が回り、少女はやや上気していた。酒場内を占めていた商人も、気づけば大半が店を出ており、静まり返っていた。少女はうつらうつらと船を漕ぎ、俺の肩を頼りに頭を預ける。
「……出よう。近くに知り合いの宿がある。最近は物騒だ、そこに泊まると良い」
少女の腰を支え、俺達は夜の街へと出た。冷たい夜風が足元を這うように流れ、土の月が終わる日も近いと思わされる。街区の中心を避けて通り、大通りから一本逸れた道を歩く。
「むにゃ……どこに、いくんですかぁ」
「宿だ。少し歩くぞ」
月明かりが道々を照らす。街区を外れる頃には月も雲に隠れ、街灯の薄ら明かりだけを頼りに歩く。
「……どうして、れすかぁ」
少女は呂律の回らない口で尋ねる。
「何がだ。まだ酔っているのか」
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
「ただ、どうして私を殺そうとしているのかと思いまして」
「――っ!!」
ぞくり、と背筋に冷たいものを感じた。慌てて少女を突き飛ばすと、少女はしりもちを突いて倒れる。少女を再度見ると、微塵も酔ってなどいなかった。
「いつから気付いていた」
「いつからと言われると難しいです。ただ、最初から違和感はありました。私が天使の伝承を集めていると言ったとき、貴方は目の色を変えて詳細を聞こうとしました」
「それは、俺が
「いいえ、違います。あなたは私を『熱心な教徒』と評しました。ただの
「…………仮にそうだとして、俺が君を殺す? 冗談じゃない。何の根拠があってそんな――」
「根拠ならあります。その剣です。」
少女は俺の腰に下げられた王剣を指していた。
「これがどうしたんだ。ただの飾りだよ」
「いいえ、違います。私が街に着いたとき、貴方は剣の鍛錬をしていました。他でもない、その剣で。むしろ、もう一本の剣を使っている姿こそ見れませんでした」
「そりゃそうさ。たまには使わないと剣も悪くなる。今日はたまたまそういう日だっただけだ」
俺の釈明も、少女には通用していなかった。そして、その底知れない迫力に気圧されて、俺は一歩も動けずにいた。
そんな俺を軽蔑するように鼻を押さえ、彼女は
「――臭うんですよ。女性の、死の臭いです。それも一人や二人ではない、十を超える数の死が臭います。根拠なんてそれで十分です。貴方の目的は天使を探し出し、殺すことですね。帽子狩りさん」
暗転する意識の中で俺は見た。少女の頭上に浮かぶ、月よりも眩しい光輪を。
泣かない天使と花の帽子 文月瑞姫 @HumidukiMiduki
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