ロンサム・ウィングス

柚塔睡仙

LONESOME WINGS






『ロンサム・ウィングス』







 0


 もしも自分という存在が、取り返しのつかない過ちを犯してしまっていたとして……その事実に気付いたとき、自分が、この世界に存在していることを容認できるだろうか?

 それでも、生きることを許されるのだろうか?

 不可逆的なこの世界においては、やり直せないことが多くあって――たとえそのことを忘れてしまっていたとしても、責任から逃れられるわけではない。


 忘れることは出来ても、

 罪を消すことなど、誰にも出来ないのだろう……


 きっと……







 1


 カーテンから射し込む柔らかな日光。

 それは場合によっては居心地の良いものなのだろうけど、あいにく僕は朝が嫌いなので、それは憂鬱な気分を励起れいきさせるのみだ。

 太陽が東の空へと昇るのは、誰かに強制されたわけではないし、ましてや太陽自身が望んだわけでもない。

 身体を起こす。

 時計を見ると、アラームが鳴るまで三十分ほど残されていることが確認できた。

 やや早い時間に目覚めてしまったらしい。二度寝したいところだが――半端な時間だ。それは難しい。

 僕はベッドから降りて、洗面所へと向かった。顔を洗ってから、くしで髪をすく。

 もうだいぶ長くなっているのがわかる。髪の先端は、肩甲骨の位置より低い。そろそろ美容院にでも行くべきだ、とは思うけれど、誰かに髪を触られるのが嫌なので、なかなか踏み切れないのであった。

 今日は平日だ。別に不登校というわけでもない。僕は学校……比較的近郊にある、D中学校に行かなければならないのだ。

 洋服を着替え、軽く朝食を取ったあと、嫌々ながら玄関へ向かった。

 ここはマンションの最上階であるからして、早めに降りないと、スクールバスに間に合わなくなってしまう。

 D中学校は私立であり、望んだ生徒は代金を支払い、バスを利用することができるのだ。オプションサービスといったところかな。

 洋服にこだわりは無いが、マリンキャップだけは忘れずにかぶることにしている。

 この帽子をかぶるたびに、自分が過去の幻影に囚われていることを、客観的に自覚することができるのだけれど、だからといって、それをやめることも出来そうになかった。

 もしかしたら、こうした私服の自由が容認されているという点から、僕はあの中学を選んだのかもしれない。

 エレベーターで一階へと降り、エントランスから外に出た。既にバスは止まっていた。

 僕はそちらへ近づき、学生証を見せてから乗り込んだ。

 学校は退屈だ。

 好き好んで登校する人間がいたとすれば、それは奇天烈な精神構造をしているか、統制や調和への奴隷根性を働かせているかのどちらかだと推測できる。

 一種の従順さ……。

 そうでなくとも、とにかく僕はあのシステムが好きになれない。

 たとえある程度の自由が与えられているとしても、それが不完全なものである限り、そこには欺瞞ぎまんの匂いがただよう。

 たぶん、感性の鋭敏さ……それを見抜ける者と見抜けない者がいて、僕は前者に属し、なおかつ忌み嫌っている……それだけのことなのだろう。そこに明確な理由がないにせよ……。

 バスが停車した。風景を眺めているうちに到着したのだ。

 車から降り、外の空気を吸う。冷涼で、やや乾燥した空気。

 秋ももう終わりだ。

 冬の兆しが知らぬ間に、大気を支配し始めているようだ。







 2


 授業が終わったので、僕は屋上のベンチまで来ていた。いつもここで昼食を取ることにしているのだ。

 しかし、まだ食べ始めはしない。ある人物を待っているのである。

「ごめんなさい、待たせてしまいました?」

 後ろから声が掛かった。

 僕は振り向く。「ううん、大丈夫」

「授業が長引いちゃって……。社会の先生、怖くてですね」彼女はこちらへと歩いてきて、僕の隣へと座った。「そちらは順調ですか? テスト勉強とか」

「うーん、ボチボチかな。嫌いな教科は、赤点取らないくらいには勉強するつもりだよ」

「そうですか……」

「そういえば寒くない? ここ、結構風も強いし」

「だいじょうぶです。厚着をしているので」

「じゃ、食べようか……。ああ、その前に」僕はカバンから漫画を取り出した。「これ、ありがとう。面白かったよ」

 彼女は顔をほころばせた。「本当ですか……! もしもつまらなかったら、どうしようかと思っていました」

「あんまりこういうジャンルは読んだことなかったから、初めは展開に付いていくのが大変だったけど……。うん、感動したよ。特に、丘の上から街を見下ろす回想シーン、あれは凄い迫力だった」

「漫画家さん、あの場面だけを描くのに、二カ月は掛かったらしいんです。それで……」

 僕たちはそうして、ひとしきり、その漫画の内容について語り合った。以前彼女に貸してもらい、昨晩最終巻を読み終えたところだったのである。


 ☆

 

 彼女の名前は早乙女時雨さおとめ・しぐれと言った。

 彼女と出逢ったのは、中学校に入ってすぐのときだった。

 僕はその頃、まだ自覚はしていなかったが、精神的な傷……欠落を抱えていた。

 だからこそ、人との関わりをできるだけ減らそうと試みていて、学校の誰とも交友を持たずにいたのだけれど……それは成り行きというべきか、彼女と関わりを持ってしまったのである。

 この街の外縁部に、とあるプラネタリウムがある。僕はそこを好んで、休日は頻繁に訪れていた。

 プラネタリウム。

 偽りの星々が偽りの光を放ち、束の間の安らぎを与えてくれる場所。

 それは幻想を……美しい夢を閲覧しているようであり、真実より鮮明な残像を、誰に対しても等しく再現してくれている。

 僕は、自分という存在の不確かさだったり、あるいは軽さだったり、洗えばすぐに流れ落ちてしまいそうな、染みのようなものを持て余していたのか……。とにかく、一時的な逃避場所を求めていた。

 何回目に訪れたときだろうか。彼女は斜め前の席に座っていた。

 初めて彼女を見たのはその時だった。D中学のカバンを持っていたから、少し気になって眺めたのである。

 僕と同じように長髪をしていて、物静かな雰囲気だった。

 それは自分と同様に、逃避場所を求めているような瞳だった。だからきっと、関わっても良い、と考えたのだろう。

「滝鐘さん」

 ある時彼女はこういった。

「心の傷を治してくれるものって、なんだと思います?」

「心の傷?」

 僕はうまく意味を摑めなかったため、少し考えてから応えた。「睡眠とか、かな」

「ふふ、睡眠ですか。面白い答えですね」彼女は静かに笑った。「私は思うんです。きっと、心の傷を癒やしてくれるものは、家族でも友人でも……あるいは薬や魔法なんかじゃなくて、時間なんだと……。みんな、即時的なものを求めているんです。でも、本当は……本当に必要なものは、時間が癒やしてくれるんです」

「そうかな……」僕は曖昧に頷いた。「たとえそうだとしても、僕は、少しでも早く癒やされたいと思う。心の痛みは、時々、自分が生きていることを、間違ってるって思わせるような気がするんだ」

「滝鐘さんは、生きる意味を探しているんですね」

「うん……、まあそんなところかな」

「私と同じです」

 彼女はそう言って、悲しそうに微笑んだ。


 どんな流れで、こんな会話になったか……あまり記憶にない。

 だけど、僕も彼女も、お互い大切なものを失っていて、だからこそ分かり合えたのは、確かだった。







 3


 僕たちは昼食を食べ終え、そろそろ授業が始まる時間になったので、階段を下り始めた。

 そして廊下での別れ際、

「今日、放課後いいですか?」

 と時雨は言った。

 それは珍しいことであった。

 僕たちは「休日、プラネタリウムで」とか、昼休みの間に付き合うことは多かったけど、学校での何の変哲もない放課後に、彼女から誘われるだなんてことは、初めてだったのだ。

「別にいいけど……どうしたの?」

「いえ、たまにはこういうのも良いかな、と思いまして……あの、迷惑ならいいんです。本当に」

「いや、僕は問題ないよ。それじゃ、校門で落ち合おうか」

 軽く予定を決めてから、僕はその場を離れ、自分の教室まで戻った。

 五限目の授業は全く頭に入ってこなかった。

 窓の外には空が広がっている。

 僕の席は窓辺にあって、絶えず、色彩豊かな光が射し込んでくる。その色合いがいつもよりも濃いように感じられた。ブルー・ハワイを思わせる空だ。

 でも、一体どうしてなのだろう?

 特に彼女はおかしなことを口にした訳ではなかった。しかし、なんとなく不自然というか……しっくりこない。誘って貰ったことはとても嬉しいし、疑問なんて抱きようもないのに……。

 考えすぎか……。僕は軽く頭を振り、それから机に伏せた。

 横目でクラスメートたちを覗き見る。

 ほとんどの生徒が意欲的に授業を受けている。

 私立の中学だし、当然といえば当然……。でもなんというか、みんなあまり悩みがないという顔をしている。真面目に勉強して良い成績を残せば、未来に対する展望が開かれる、ということを疑いもしない感じ……。

 僕もきっと、そうでありたかったのだろう。真面目に過ごして、着実に努力を重ねれば、報われるときが来るって、そう信じたかった。そう願いたかった。

 でも現実は違う。

 そんな上手くはいかない。

 そもそものスタートラインが人によって全く異なっていて、血のにじむような努力に励んでも、結局は見捨てられることだって――差別されることだってある。一匹狼は、いつまでも羊たちから、忌み嫌われてしまうのだ。

 鐘が鳴った。授業終わりのチャイムである。僕は荷物をまとめて校門へと向かった。

 彼女は既にそこに居て、こちらに気づくと小さく手を振った。

「それで、どこに行くの?」僕は疑問を口にした。

「どこ……えっと」

「もしかして、決めてないのかい?」

「はい、実はそうなんです。今から決めることにしませんか?」

「街をうろつくってこと? ちょっと危ないと思うな」

「六時くらいまでです。日が暮れるまでで、あ、あの……」

「あー、わかったわかった。理由は聞かないよ。でも今日はお金を持ってきていなくて……」

「それなら平気です。私がおごりますよ」

「いや――、じゃあ今度逢ったとき、その分は返すよ」

「そうですね……」

 フワフワとした会話である。

 このようなことは初めてではなかったが、そのフワフワ度はいつになく増しているように思えた。何となく、うわの空、という感じ。

 僕たちはそうして、街の賑やかな方へと歩き始めた。

 まだ明るい時間帯である。陽もまだ高い場所に位置していて、車の往来もそこそこ有り、人気ひとけもまだ充二分じゅうにぶんにあった。

 夜は危険である。最近では警備が強化されているとはいえ、まだ諸々の事件は尾を引いて残っている。

 もちろん監視カメラは作動しているが、それが有効なのは事件が起こったあとである。監視カメラがスーパーマンのように、悪者をやっつけてくれるわけではないのだ。

 警備の巡回している場所から離れないようにして、僕たちは中央ストリートまでやってきた。この街では一番大きな通りであり、まっすぐ進むと駅へと突き当たる。

「ここら辺で食事でもする?」僕は提案した。

「そうですね……。じゃあ、あそこなんてどうでしょう?」と、彼女はとある店を指さした。

「パスタか。悪くないね、最近そういうのまったく食べてないし」

「じゃ、決まりですね」

 ガラス戸を開け、中へと入った。

 木製の机や椅子が並べられていて、落ち着いた感じの雰囲気である。火事になったら大変そうだ、などと余計なことも考えてしまう。

 店員に導かれ、僕たちは奥の席へと座った。

 二人で入ったが、他に客がいなかったため、テーブル席へと案内された。

 曇りガラスが取り付いていて、テーブルにぼんやりと光を投げ掛けている。

 料理を頼み、僕はソファーへと体重を預けた。「こうして一緒に外食するのは、いつ振りかな」

「ええ、久し振りですね。学校の外では、プラネタリウムなどでしか逢えませんでしたし」

「ごめん。僕も何度か、君の誘いを断ったことがあったね。だからこうして、また誘ってくれて、嬉しい」

「そうですか、それは良かったです」

 店内にはジャズが流れていた。大きすぎず小さすぎず、適切な音量で音色が奏でられている。

 僕は端末をいじりながら、料理が運ばれてくるのを待った。少し彼女に不親切な気もしたが、やはり、こちらも緊張してしまうのである。

 彼女は優しい人間で、それが僕を落ち着かせなくする。

 その瞳に映る景色は、世界は、きっと僕よりも美しいのだろう。

 僕の中にある、氷のような感情を溶かしてしまいそうな……。

「ねえ、滝鐘さん」と彼女は言った。「滝鐘さんは、どこか遠くへ行きたい、と思った事はありますか?」

「遠く?」

「はい」

「うーん、つまり、今の境遇から逃げたいって思うということ?」

「そうですね、そうした色々の……」

「しょっちゅうかな」僕は言った。「それは、その、なんていうのかな……。それが不可能だと分かっていて、だからこそここに留まることしかできなくて……その境遇に、甘んじている……受け入れているというか」

「私はそういうこと、ないんです」彼女は言った。「私多分、これで良かったんだ、って思えてしまうんです。たとえば、どうしようもない未来が、こちらにやって来ていたとしても……。きっとそれを恨んだり、憎んだりすることなんか、ないと思います」

「それは、どういうこと?」

「たとえば」と彼女は言った。「私のことを、あの囲われた場所で見付けてくれた人、本当の両親代わりに育ててくれた人、小学校のときの友達、そして今の……そう、滝鐘さん」

「……………」

「もしも自分の人生を否定してしまえば、それはその出逢いをも、否定することになると思いませんか?」

「えっと……それは……」

 彼女の、珍しく強い感情の発露に、僕は驚きを隠せないでいた。戸惑っていた。少し威圧されていたかもしれない。

「ですから、滝鐘さん。貴女は何も、責任を感じることなんてないんです。きっとそれは誰に対しても……。選択は、確かにやり直せないけれど、でも、その選択を乗り越えていくことは、誰にだって出来ることなんです。私はそれを、それだけを信じているんです」

「時雨……きみ、どうかしたのかい?」

「どうにもなんかしてないです。大丈夫です、大丈夫ですから……」

 彼女はそう応えながらも、涙を瞳に貯めていた。

 きっと、強く問いただせば、彼女はわけを話してくれるのかもしれない。だけど僕たちは、お互い〈それ〉をしないことを、以前から決めていたのだ。

 言いたくないことを相手に言わせないからこそ、今まで信頼が築き上げられてきたのである。

「ごめんなさい。本当はもっと、別のことを話すつもりだったんです。弱いんですね、私」

「…………具合が悪いの?」

「いいえ……。すいません、ちょっと感傷的になってしまいました。でも、どう思われようと構いません。これはとても大切なことですから」彼女はテーブルに置いてあったグラスを取り、水を少し飲んだ。「話を変えましょうか」

「うん、そうだね」僕は頷いた。

 僕たちはそうして、別の会話に移った。


 他愛のない会話がどういうものなのか、僕にはわからない。

 最近のファッションとか流行りの髪型だとか洋服だとか、そうしたものに興味が持てず――そうした話題を中心に据えた会話こそが、まさにそうであるのか……確信が持てない。

 僕はただ、相手の話を聞き、それに対して反応することで、会話のようなコミュニケーションを成り立たせている、ような気がする。本当のところでは……誰に対しても……。

 自分の主張がないのかもしれない。物静かな時雨を相手にしていても、彼女の導く話の方向へ流されているだけだ。

 若干の申し訳なさがそこにある。

 まがい物のコミュニケーション。

 反射的につづられた言葉の羅列。

 僕はそれしかできない。彼女の内面に踏み込むことすらできない。その領域に触れたら、きっと溶けてしまうのだろう。僕は、自分自身が、氷のような人格のよろいまとっているだけに過ぎないと知っているから……。

 恐怖?

 それは違う……、単に臆病なだけだ。傷を言い訳にして、避けているだけ。逃げているだけ。向き合うことを拒絶しているのだ。


 ――何から? / 過去から……。


 彼女は僕を思いやって、その領域に踏み込まないようにしてくれている。それが可能なのにもかかわらず、それをしないように努めてくれている。

 だから、本当に必要なときは、その領域のギリギリまで近づいて、寄り添うように、自然な形で僕を励ましてくれるのだ。それが抽象的な言葉の断片、欠片かけらであったとしても……。

 だが、僕は違う。彼女が何かしらの問題を抱えているのだ、という直感を、活かすことができない……。近づくことができない。

 それはきっと友人として相応しくない、愚鈍な逃避なのかもしれない。

 そう思うと、僕は自分が嫌になってくる。淡い自己嫌悪……だ。蒼い気持ちがひそかに、心の奥底からにじみ出てくる。

 想起されるのは、自らの、その内側の冷涼さだ。潰してしまいたい残酷さ。

 だから僕は、暖かさを持った彼女に惹かれ、そして癒やされているのだ。端的に言えば、甘え、である。もしくは依存かな……?

 それは一方的なワガママだ。早乙女さんの方は、決して僕に依存しているわけではない。彼女は善良であるがゆえ、その友愛を、博愛を、ことさら僕に対して浴びせてくれているのだ。

 もし状況が違えば、ここにいるのは、どこかの別の、見知らぬ誰かさん、だっただろう。

「ねえ」僕は声を掛けた。「時雨は夢を見たりする?」

「夢……?」

「そう、寝ている時のほうの」

「そうですね……割と見るほうだと思います」

「へぇ、そうなんだ。僕はときどきしか見ないな……。どんな夢を見るの?」

「うーん、なんて言ったらいいでしょうか……。こう、ファンタジーなんです」

「ファンタジー?」

「はい。空に二つ、お月様が浮かんでいて、大きなお城があるんです。中世ヨーロッパのような街並みで、それでもってどこか、ノスタルジアを感じてしまうような場所……」

「そんな夢を何度も見るのかい?」

「はい。漠然とした雰囲気は、かろうじて覚えているんですが……。どうしてそのような質問を?」

「ああ、いや。なんだか最近、悪い夢を立て続けにみてね」

「悪夢ですか」

「うん。すごいシュールなんだけど、こう、帰宅途中に、走ってきたポストに叩き潰される夢とか、自分の部屋からたくさんのニワトリがあふれてくる夢とか……もう、参っちゃって」

「きっと疲れてるんですよ。このところ、冷え込んできましたし……」

「疲れ、ね。僕には君のほうが、疲れ切っているように見えるな」と、さり気なく探りを入れてみる。

「……私はもう、疲れなんて関係ないですから」

「え、関係ないって?」

「あ、いえ、その……。とにかく大丈夫だということです……。それにしても、その走ってきたポスト、面白いですね。『走る取的』って小説、知っていますか?」

「走るトリステーキ?」

 彼女は少し笑った。「ふふ。いいえ、違いますよ。取的とりてきというのは、お相撲さんのことです。知らないのでしたら、今度調べて、読んでみてください。私からの宿題ということで」

「なんか嫌な予感がするな」僕は苦笑いした。「ホラー小説の気配がするぞ」

「大丈夫ですよ、そう警戒しなくても。短編ですし……。あら、もうこんな時間」

 僕は時計を見た。もうそろそろ七時である。夜のとばりに包まれつつある時刻であった。

「本当だ。じゃあ、そろそろお開きにしようか」

「はい、そうですね……」

 僕たちは会計を済ませ、店の外に出た。

 街灯が明るく、ストリートを照らしていた。

 流石にここは、この時間帯であっても警戒レベルが高いのだろう(街の中心部で事件などが起こってしまえば、警備局の威信に関わってしまうのは必至だからだ)。帰宅途中と思われる、サラリーマンのような人々も、まだ比較的多く見られた。

 いったい彼らは、どのような仕事に就いているのだろう。具体的にどんな業務をしているのか考えようと思っても、イマイチ想像できないし、自分が将来、あのような〈仕事〉に就けるのかどうかすら定かではない。

 ホワイトノイズに戻って働くのが、一番良い(適している)のかもしれないけれど、それはすなわち、当たり前の平凡さや幸せを踏み台にする……犠牲にするようなものだ。いくら給料が良くたって、ためらってしまうたぐいの職業……。

 果たして僕は、他の確かな道を見つけられるのか……。

 そもそも、僕に選択する余地なんて、残されているのだろうか……。

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃないな。

「どうする、途中まで送っていこうか?」隣で歩く彼女に、僕は呼び掛けた。

「え、でも、それなりに遠いですし……あまり迷惑は」

「時雨もバスを使うんだろう? だから、その停留所までさ。僕は別の路線のバスを使わないといけないから、そこまでしか送れないけど」

「そうですね、では、お言葉に甘えて」


 この辺りは夜景が綺麗で、ビルの展望台はこの時間帯になると、それなりに混雑するとのことだ。

 でも、別に高いところにのぼらずとも、それなりに景色を楽しむことはできる。

 街には少し傾斜があって、場所によっては、遠くのほうまで眺められるからだ。

「電灯って、遠くから見るとお星様ですね」

「え?」僕は思わず訊き返した。

「ほら、遠くの……地平線のほうは、夜空に浮かぶ星々と、あまり見分けがつかないです」

「ああ、そういうことか……。確かにそうだね」

「昔は、こんな景色なんて見られなかったんでしょうね。長い歴史を掛けて――それは意図したわけでもないのに――こんな景色を、人々は作り出せるようになったんです」

「うん……」

「きっと確からしいものなんて、どこにも無いのでしょう。遠くから見れば、夢も現実も一緒になって、混ざり合ってしまうんです。存在するものも、しないものも、境界線が不明瞭になって、最後は溶けて……」

 彼女はぼうっと、その景色を見つめている。

 その横顔は、儚げで、そして寂しそうに感じられた。

 まるで、いまにも消えてしまいそうな……。

「まあ、でも、なかなか美しいと思うよ。そんなマイナスのイメージを、僕は感じなかったな」

「いえ、別にそんなわけではないです。思ったことを口にしてみただけなので」

「確かに見分けは付きにくいけれど……例えば空に浮かぶ星は、何十年後も何百年後も、永遠に近い時間、この空で輝き続けるだろうけど、そこら辺の電灯は、多分、百年もしたら無くなってるんじゃないかな」

「ああ、確かにそうかもしれません……」

「そう思うと、そんなに悪くないかなってさ。ほら、あれだよ、刹那せつなのきらめきってやつ」

「なるほど……」

「そもそも人類自体が、わりと早い段階で滅亡しちゃうかも、みたいな……」

「縁起が悪いですよ」彼女は苦笑した。

「冗談だよ……。でもまあ、景色というか昔の記憶も、遠ざかるほど忘れてしまって、見えなくなって、曖昧模糊あいまいもこな概念に変わってしまうというのは、なんとなく悲しいかな……。大切だった人の、蒼く透明な、残像のような面影とかね……」

「でも、滝鐘さん。その中で、わずかでも残っているものこそが、きっと大切なんだと思います。すべてをおぼえておくことはできませんが、その欠片を、心の中に留めておくことさえできれば、いつか、別の形で芽を出すことができると信じていますから」

「そうであって欲しいものだね……本当に」

 きっと僕がそうなのだろう。

 彼女は非意図的に、僕の抱える問題へ、慰めの手を差し伸べている。魂を射抜かれるとは、まさにこのことだ。

 だから、それを肯定してくれる存在が、どれほど心の支えになっているか、なんてことは、きっと自分以外の誰にも分からないだろう。

 …………。

 駄目だな。

 これでは僕のほうが泣きそうになってしまう。

 精神をつかさどる様々な構成要素が、音を立てて崩れ去ってしまう前に、自らの心を閉じないといけない。それが現実から逃避するための、最も簡単で優良な手段である。

 心の脆弱ぜいじゃくさは、今の自分にとって邪魔なだけだ。

「あ、そろそろですね」

 時雨の声で、僕は顔を上げた。もう停留所の近くまで来ていた。考えながら歩いていたので、あっという間に感じた。

 近くには誰も居なかったが、停留所の傍には監視カメラがあり、なおかつ見通しの良い場所だったので――これ以上、彼女の身を案ずる必要はなさそうだった。

「じゃ、ここで。多分すぐにバスが来ると思うよ」

「はい…………」

「どうかした?」僕は訊いた。彼女がなんとなく、うわの空であるように感じたのだ。

「い、いえ、大丈夫です。すこし、眠たくてですね」

 幾ばくかの沈黙が流れる。

「それでは滝鐘さん……また……さようなら……」

「ああ、じゃあね」

 僕は軽く手を上げて、その場を離れた。

 たくさんの星々が、夜道を照らしていた。







 4


 翌日、午前中で授業が終わったため、僕はスクールバスを使わず、徒歩で帰ることにした。

 自宅のマンションまではそれなりに距離がある。ちょうど良い運動になると思ったのだ。それに、家での食料品も切らしていたから、帰りがけにスーパーへよるのも悪くないだろう。

 時雨と少し会話をしたかったが、彼女は今日欠席しているらしいので、僕は荷物を片付け、さっさと帰路につくことにした。

 秋空は高く、細い雲が幾つも、遠くの方で伸びている。

 この季節は特に好きだ。暑すぎず寒すぎず、自分の気性に合っている。

 それにしても、今日はなにをして過ごそうか……。

 特に残っている課題もないし、至急の用事が入っている訳でもない。誰かと一緒に遊ぶだなんてことは、時雨が居ない以上、僕には出来そうもないし……。

 うーん、そうだな、早く帰ってゲームでもするかな。

 色々思考を巡らせたり、景色を眺めながら歩いていると、いつの間にかスーパーに着いていた。

 僕は中に入り、いつものコーナーへと移動する。

 野菜ジュース、ゼロカロリーのコーラ、ポテトチップスなどのスナック菓子、それから雑多な種類のインスタントラーメンを詰め込んだ、あふれんばかりのかごを持ってレジへ向かう。

 以前は真面目に料理もしていたのだけれど、最近、というか数年前から、ほとんどこうした食事ばっかり取るようになってしまった。栄養バランスを調節するために、野菜ジュースも買っているというわけだ。

 脆弱ぜいじゃく均衡きんこうの上で成立するバランス調整……。身体を壊しそうなもんだが、僕は基本的に一日二食なので、あまり問題はないと思っている。そうであってくれ。

 会計を済ませ、荷物の整理をしていると、

「あれ、もしかして瑠理ちゃん?」

 という声が掛かった。

 誰だ? 

 僕は振り返る前、一瞬考えた。自分を下の名前で呼ぶ人間は限られているからだ。

 そして〈もしかして〉というワードから推察するに、この人物とはしばらく会っていないことが把握できる。そして、声色からして女性であり、僕と同じくらいの年齢だと即座に認識。

 僕は振り向く。「君は……」

「あ、やっぱり瑠理ちゃんだ! うわーっ、スッゴい懐かしい! こんな所で逢えるだなんて奇跡だよ! 奇遇だよ! びっくりした……」彼女は声を弾ませている。やけに表情が明るい。「久し振り! 元気だった?」

「あ、えーっと」

 顔は憶えていた。

 確か小学校低学年のときに、クラスにいた女の子である。映像として物事を記憶しているため、その固有名詞が思い出せない。

「わたしだよ、あかね、仲町茜なかまち・あかね

「ああ……」確かにそんな名前だった。「うん、思い出したよ。ごめん、名前をすぐに思い出せなくて」精神のモードを切り替えつつ、回想しながら言葉を継ぐ。「えっと……確か……海外へと転校しちゃったんだよね……。もしかして、ここへ……この街へと帰ってきたってこと?」

「そうそう、ビンゴ、大正解! 良かった、てっきり完全に忘れられているかと思ったよ。もう、えっと、五年ぶりぐらいだし」

「ああ、もうそんなに経つのか。ずっと昔のことに思えるよ」五年ぶり、ということは、小四に上がるときだったか。「それにしても、よく私のことを思えていたね。こちらのほうが驚いたよ」

「ああ、えっとね、クラス写真を撮ったでしょ。みんなそろってるやつ。それを向こうに持ってって、何度も眺めてたから」

「なるほどね………」

 僕は彼女の持っているビニール袋を見た。中には野菜とか米とかが入っていた。

 帰って、カレーでも作るのだろうか。「そっちも買い物?」

「そう、お母さんに頼まれてね。ホントは面倒なんだけど、今、お母さん妊娠中だから、手伝わないといけなくて……」

「ふーん」

「あ、そうだ瑠理ちゃん! このあと時間空いてる?」

「え?」

「あ、無理なら良いんだけど、こんな場所で長話もなんだし……近くの喫茶店で、少しお喋りでもしようかな、なんて……。実はこっちに戻ってきてから二ヶ月しか経ってなくて、街とか、色々訊きたいこともあるし……あと――」

「ああ、構わないよ」僕は応えた。「ちょうど暇で、やることなかったし」

「ホント? ありがとう!」







 5


 僕たちは歩いて、近くにあった洒落しゃれている喫茶店へと入った。

 窓ガラスから夕陽が射し込み、オレンジ色の輝きが室内で散乱している。壁の色が白であるため、外光の影響を存分に受けやすいのであろう。

 注文したアイスコーヒーはなかなか美味しかった。ドーナツなどを一緒に食べられたら、更に良かっただろう。

「そんでねー、大変だったんだよ。何よりも一番大変だったのは、語学。これはもう仕方ないのは分かってたけどね、やっぱり周りがペラペラと喋ってるのに、自分だけ喋れない……というか、内容が理解できないとさ、結構つらくて……。もちろん、翻訳機とかいろいろ使ってたけどさ」

「確かに大変そうだね」僕は相槌あいづちを打った。「私なんか、普通のコミュニケーションでさえ、十全とはいえないかな」

「えっと、もしかして……クラスに馴染めない、とか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もっと観念的とか思想的なことで、心理的なみぞっていうかへだたりが……」

「カンネン?」

「あ、いや、何でもない」僕は頭を振った。「でも、それなりに長く住んでいたわけだし、一応ペラペラなの? 外国語」

「まあ、日常生活で支障が出ない範囲でなら何とかね……。でも、こっち来てから日本語とか大変だよ。漢字とかもう、全然読めなくって泣きそう……」

「あれ、そういえばどこの中学に?」

「ここからちょっと離れたところにあるS中学。瑠理ちゃんのとこは私立だから、風紀が良いかもしれないけど、こっちはそうでもなくて、この前なんかタバコ吸ってる生徒が居てね……」

「ああ……それは大変そう」

「早く馴染まなきゃなー、って思うんだけど、そう簡単にはいかないね、うん……」

「何かあったら相談に乗るけど」

「ありがとう! でも大丈夫、このぐらいの向かい風なんか、海外にくらべたらマシってもんだよ。あっちはドラッグだよドラッグ! しかも小学校で……」

「ふーむ、世も末だね」

「あ、生徒じゃなくて先生が、だけど」

「…………」それはそれで危なそうだけど……。

「でもやっぱり、こっちは治安がいいみたいだね。向こうに比べて警備の人も少ないし」

「そうでもないよ」僕は言った。「ここ数年、夜間は結構危険になってるんだ。だから監視カメラをたくさん付けて、それで補ってるんだけど……」

「監視カメラ、そんなに見当たらなかったけど」

「目立つ奴と目立たない奴が混在していてね……。まあ、とにかく夜は気をつけた方が良いよ。この付近の犯罪情報は、端末ですぐに確認できるから」

「そうなんだ……。確かにお母さんも、絶対に7時までには帰ってきなさいって言ってたし……」

「人気のない場所を避ければ、そんなに危険でもないけどね。特に大通りでは監視体制が強化されているし」

「なるほど……忠告ありがとう。そうだね、とりあえずお母さんに、そろそろ帰るってメール送っとく」彼女は端末を取り出して、しばらくそれをいじくっていた。

 どうやら機械音痴らしい。メールの送信すら手間取っているようだ。

 僕はその間、店内をぼんやり眺めてみた。

 それなりに客はいるが、皆静かに会話しているため、騒々しくは感じられない。スピーカーからはカーペンターズの曲が流れていて、この空間における哀愁、あるいは落ち着きを、倍加させているようだった。

 イエスタデイ・ワンスモア。

 昨日をもう一度、か。

 レコードじゃないのがちょっと残念だけど、普通の喫茶店にそこまで望むのは贅沢というものだろう。

「ところで」彼女は端末を片付けてから言った。「瑠理ちゃん、なんとなく雰囲気変わったよね」

「雰囲気って?」

「うーん、こう、昔とは全然違うというか、たたずまいとか口調とか、なんて言ったらいいのかな……。随分ずいぶんと落ち着いてるね、っていうか」

「そりゃそうだよ。それだけの月日が経ったんだから」

「ううん、そうじゃなくて……」彼女は頭を掻いた。「難しいな……。とにかく、何ていうか、テンションが低いというか、落ち込んでいそうというか」

「別に落ち込んでないけど」

「そう……それなら良いんだけどね」彼女はため息をついた。「こうやって、周りもどんどん大人になっていくんだろうな、って。あーあ」

「?」

「あ、ごめん、何でもないよ。こっちの話だから」そう言い、彼女はふぅとため息をついた。「それにしてもその帽子、似合ってるね。横のところにピンバッジでもつけたら、良いアクセントになるんじゃないかな」

「バッジね……でも別に、ファッションとかで被ってるわけじゃないからさ」

「ふうん……そうなんだ。でも瑠理ちゃん、せっかく可愛いんだから、もっと服装に気を配らないともったいないよ、みたいな」

「うーむ」

 僕は曖昧に返事した。


 ☆


 会計を済ませ、僕たちは外に出た。

 秋風が通りの向こうから吹いてきて、木の葉を吹き飛ばしていく。紙飛行機を飛ばしたら、どこまでも飛んでいきそうな勢いで。

「じゃ、ここらで別れようか」

「そういえば茜は、この辺りに?」

「そう。あんまり遠くないよ。一戸建てに住んでるんだ。そうだ、瑠理ちゃんも今度遊びにおいでよ! お菓子もあるし、いつでも歓迎するから!」

「うん、機会があったら……」







 6

 

 メールアドレスを交換してから、僕たちは別れた。アドレス帳の数少ないリストの中に、『仲町茜』という名前が追加されたというわけだ。

 多分こちらからメールすることはないだろうけど……そこまで悪い気はしない。

 さて、歩いて帰るのも面倒になってきたし、巡回バスでも使うことにするか。

 僕はストリートを歩きつつ、バス停を探した。

 バスが来るのを待っている間、僕は端末をいじっていた。これといってすべき事も無いのだけど、取り敢えずニュースでも眺めることに決め、ぼんやりと、流動的な情報を閲覧した。

 よくも本当、毎日話題が尽きないものだ。きっとそれほど、この世は事件性に満ち満ちているということなのだろう。もしくは、作為的に創り出された虚像が、幻灯のように顕現けんげんしたものか。まあ実質的な差異なんて、存在しないに等しいのかもしれないけれどね。

 僕は端末を片付け、大きく伸びをした。目が疲れたので空を見上げる。

「――――――!」

 そして、「音」が聞こえた。

 それは唐突な出来事であった。

 鉄琴の音色を思わせるような「音」が、突然、僕の耳へと響いてきたのである。

 一瞬の混乱。

 それを打ち消し、辺りを見回した。

 他にも数人の人間が近くにいたが、彼らは全く、その「音」に反応していなかった。まるで、聞こえたのは僕だけだ、と言わんばかりに……。

 何かがおかしい。

 自分の第六感がそう告げている。

 僕は停留所を離れ、近くを探索することにした。

 夕暮れの街、異常な様子などどこにも見当たらない。しかし、なぜか僕は、足を止めることが出来なかった。

 人の数が多くなってきた。駅から帰宅途中の人々が、その大半なのだろう。

 もし、その「音」が本当に存在したものならば、他の人間も何らかの混乱を起こしているはずだ。心を酷く掻き乱すような響きだったからだ。

 しかし、皆秩序だって歩いていて、そうした「音」を聞いた様子は全く見受けられなかった。

 耳鳴り……?

 しかし、僕にとってあれは現実のものであった。耳鳴りにしては音が大き過ぎる……。

 頭を振り、眼をこする。

 きっと疲れているのだろう……。そうに違いない。周りを疑うよりも自分を疑った方が遥かに楽だし、このほうが確実なのだから……。

 腕時計を見る。余計な時間を費やしてしまったようだ。道を引き返すことにしよう。

 その時、視界に、とある人物が映った。

 人混みの中……

〈そいつ〉は数十メートル離れた位置にいた。

 ジーンズにフード付きのパーカー、長い髪…………そして、特徴的なマリンキャップ。

 あれは……。

 ?

 どういう事だ?

 あり得ない……。

 顔を覗き込もうと、僕は近づいて……。

 向こうもこちらに気付いたのだろうか。からだひるがえし、人混みの奥へと入り込んでいく。

 どうする?

 考えている暇はない……。

 歩きつつ、後を追う。

 あれは確かに……、でもそんなはずは……。

 自分が一体何を見たのか、自分でも把握しきれないまま、僕は〈そいつ〉の後を追いかけた。

 おかしい。

 これはどういう訳だ。

 そんなことがあっていいのだろうか。

 あれは僕の……、たったひとつの、兄さんのマリンキャップだ。現在進行形で僕が被っている……。

 それをどうして〈そいつ〉が持っている?

 わからない。全く判然としない。釈然としない。

 既に自分のキャパシティを超えた事態が生じてしまっている。

 今はただ、〈そいつ〉を見失わないように追いかけるしかない。目を離せば一瞬で消えてしまいそうな、それぐらいの虚ろさを〈そいつ〉は持っていた。

 一体どこへ誘導する気だ。

 僕が走り始めようと思った時、そいつは立ち止まった。

 ここは、街外れにある大橋ビッグ・ブリッジの上である。いつの間にかその橋の、中央付近にまでやって来ていたようだった。

〈そいつ〉がこちらを向く。

 そう……、それは僕と全く同じ容貌をしていた。

 輪郭、眼光、唇の色から鼻の形まで、それは僕と同一であった。

 顔だけでなく、体格や服装もまったく同じ。

 ドッペルゲンガー。

 たとえるなら、きっとそれが相応ふさわしいだろう。

 僕は身構えた。

 一体何をするつもりだ?

 誰かの差し金で動く、能力者ロマンサーなのだろうか。

 心当たりは思いつかないが――ホワイトノイズを憎む連中の間に、そうした人物が存在しないとは断言できない。

 僕は脱隊している身だ。

 しかし、私怨しえんを晴らそうとする人間にとっては、現在所属しているかどうかの違いなど、重要ではないのかもしれない。僕がどのような立ち位置でも、同じようなものだ、と考えているのか。

 しかし、〈そいつ〉はこちらに近づこうとはしなかった。

 橋自体に細工でも仕掛けているのか? 

 周囲を警戒する。

 敵が一人だとも限らない……『ルーム』から拳銃を引き抜く用意は整ってある。

 そうしてしばらく、僕たちは橋の上で対峙たいじしていたが……。

 先に動いたのは向こうだった。

〈そいつ〉は欄干らんかんの上にのぼり、地平線に沈む夕陽をひとしきり眺めたあと……こちらを向いた。そして、

「□□□□□□□□」

 と、寂しそうな表情で、何かしらの言葉を呟いたかと思うと、そこから川へ飛び降りたのだ。

 僕は慌てて欄干へと駆け寄り、下方を眺めたが……そこには何も……誰もいなかった。

 水しぶきが上がる訳でもなく、ただ、夕焼けの赤色を反射した水面が、揺れ動いているだけであった。

 消失である。

 跡形もなく、僕の前から消え去ってしまった。

 一体何なのだ、これは。

 何かを伝えようとしていた?

 しかし、その声は風の音でかき消されてしまっていたし……意図を、理解できない。

 僕の身体に危害を加えたわけでもなさそうだ。別に痛みや傷もなく、通常通り問題なく肉体は動いてくれている。

 ますます謎は深まるばかり……。

 しかし、幾ら考えてもどうしようもなかった。

 僕は呆然と、その場で立ち尽くす。

 雨が降り始め、その冷たさで、ようやく脚を動かし始めることができた。

 とにかく早く帰りたい。眠って、何もかも一旦忘れたい……。

 憂鬱な感情で、胸が満たされていく。特に激しい運動をしたわけでもないのに、疲労感が体を締め付けていくようだ。

 僕は頭を振り、再び帰路へ就く。

 ここから家までそう遠くない。


 そして、捉えようもない恐怖と喪失感が、再び僕をさいなみ始めたのも、それからであった……。







 7



 早乙女時雨の死について知ったのは、その六日後のことである。







 8


「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」


       ―――ヘルマン・ヘッセ『デミアン』




 天国では総てがうまくいく

 天国には悩みなど存在しない


       ―――デヴィッド・リンチ『イレイザー・ヘッド』







 9



 僕がこの、あまり長くもない人生で、確かに得られた教訓の一つを挙げるのならば、それは、決して人間は、真のところでわかり合うことなどできない、ということだろう。

 どんなに相手のことを思っていようと、それが報われるとは限らない。相手をおもんばかって行動していても、それがあだとなり、逆に嫌われてしまうことだってあるかもしれない。他者の善行を理不尽な解釈でねじ曲げ、攻撃されたと誤認し、誹謗中傷、あるいは暴行や殺傷を行う人間が、この世から絶えないように……。

 それぞれが頭に、複雑で、時には不合理な働きをするコンピュータを抱えていて、だからこそ利益に反することや、はなはだしく危険なことに、えて挑もうとする性質を持ってしまったりもする。

 そしてその複雑さが原因で、正常ではない働きを時々行ってしまうし……つまり、他者の思考を理解することは、本質的に、かなりの困難さを伴うのだ。

 だから人間は言語を媒介とすることで、他者という名のエイリアン……価値観の異なる「他者」と共存していく道を選んだ。選ばざるを得なかった。単純な動物であれば、きっと言葉なんて必要なかっただろう。

 しかしその言葉は、全てを伝えられるわけではない。

 ここに問題がある。

 思考の解像度こそが言語だ、というフレーズを、どこであったか耳にしたことがあるが、その核となる思考はもっと複雑で、だからこそ、言語化するときに失われてしまうエッセンスがたくさんある。

 何かを「変換」しようと思う際に、どうしても生じてしまうことだ。外国語の文章を翻訳したときに、微妙なニュアンスががれてしまうように……。

 そしてその失われてしまったものは、元が消えれば、二度と拾い集めることなど出来ないのだ。

 何かとても大切なことを相手が伝えようとしているのに、それを受け止めることが出来ないときが、きっとあって……。

 だから……、僕はその手掛かりが消えない内に、行動を起こす必要があるのだろう。

 だから今、ここに居るのだ。

 僕は待合室で、古代遺跡の発掘に関するニュースをテレビで見ながら、そんなことをつらつら考えていた。

「やあ、ルリくん。待たせてしまったね」

 声がしたので、僕はそちらを振り返った。

 落ち着いた色の服を着た、ひとりの男性がいた。彼は車椅子に座っている。声は低く、どこかのんびりとした口調だ。

「お久しぶりです。所長」

「うーむ、やはり実際に逢わないとわからんものだ……」彼はゆっくりまばたきをした。「二年ぶりかな」

「二年六ヶ月です」

「そうか……。もうそんなに経つのだな、長かったような、短かったような……」

 所長は灰色の顎髭あごひげをさすった。

 以前に顔を合わせたときよりも、老け込んでいるように見えた。数多あまたの気苦労が、しわへと転化してしまったのかもしれない。

「ちょっと業務が立て込んでいてね……待たせてすまなかった。とにかく、君の方から来てくれて助かったよ」

「それで、あの、鑑識の結果は?」

「ふむ、ここで話すのはやめておこう……。まずは移動しよう。わしが先導する……あまり離れないように。ここは迷宮のようなものだからのぅ、ははは……」







 10


 ホワイトノイズ。

 これは固有名詞であり、僕がかつて所属していた……そしてまさに今、戻ってきた組織の名前だ。

 世間にはその存在自体が知られていないが、国際保安機関(International Safety Agency)、通称ISAとの繋がりがあり、その金銭的支援を元にして、秘密裏に活動を行っている(あたかもスパイ映画のように)。

 その多岐にわたる活動の全容を把握している人物は、この世に数人いるかどうか、というところであろう。

 ホワイトノイズの行っている活動の多くは、基本的に〝グレーゾーン〟であり、独自性の高い諸地域特有の法律だけでなく、国際法まで――平穏な時期を除き――ほとんど破っていると断言しても過言ではない。

 一つの国ではなく、国際機関に雇われた「特務組織」あるいは「公安」のようなものだ……と思って貰えれば、理解は容易になると思う。

 そしてこの国(旧国家体制での、形骸化した範囲内のことを現在では『国』と呼んでいる)には、ホワイトノイズ極東支部の拠点があり、そこを母体基地ベースとして、周辺地域を監視している。

 しかし、ここはあくまで支部であり、そこまで大きな力を保持している訳ではない。

 西洋諸国の内戦が多発する地域と比較すれば、この付近は確かに平穏・安全なほうだと言えるし、いざという時には向こうから、補強としての人員を送ってくれる手筈が整っている。

 ホワイトノイズは、働いている人間の数が極端に少ない。極東支部だけを見ても、きっと百人にも満たないだろう。

 少数精鋭というか、才能や適性を厳格に審査され、過酷な試験を幾度となく受けなければならないため、そもそものところで志望者が少ないのである。一部の例外的な存在を除いて、だが……。

 まず、組織の存在を知ることでさえ、天文学的な確率だと言える。

 ホワイトノイズが「見込みあり」と判断した人間だけ、そこへの扉を見出すことが出来るのだから……。

 さて、それらの試験を介することなく入団できる、一部の例外というのが……僕のような、「能力」を持った人間だ。

 能力者ロマンサーは、一生を監視下に置かれた制約つきの生活を送るか、ホワイトノイズへの加入を余儀なくされる。

 これは強制的なものであり、拒否することは許されない……。


 僕の首の内部……脊髄せきずいの近くに、遠隔操作で起爆することが可能な〈爆弾〉が埋め込まれている。

 それはつまり、そのことを意味しているのだ。


 ☆


 因みにこれは、有名なラテン語の法格言であり、【ホワイトノイズ】の理念ともなっている。

  

     ↓


  《Fiat justitia ruat caelum》


  (天が崩壊しようとも正義を追い求めよ)



 確かに、気概を持てそうなモットーである。

 正義とは何なのか、考えれば考えるほど分からなくなるけどね……。







 11


 所長は初老の男性であり、髪の色はグレーだ。顔の彫りは深く、元々この土地に住んでいた人間ではない。正確な年齢を僕は知らないけれど、少なくとも五十歳以上であることは確実だろう。

 彼はむかしから脚が悪く、自力で歩くことができない。そのため、いつも電動の車椅子に乗っている。

 この基地から外に出ることはほとんどない――この支部で実質上トップに位置する人物である。

 貫禄かんろくがあり、近くにいるだけで、なんとなく空気が変わる――場を支配するというのか、独特の雰囲気がある。古風な喋り方をするのが特徴的だった。

 所長は僕に紅茶を持ってきてくれた。

 湯気がカップからゆらゆらとダンスしながら立ち昇っていて、白いもやが空間で拡散している。美味しそう……。

 彼はソファーに座ると、こちらを向いた。

「さて、どう話したら良いものかな……。うーむ」

「他殺、なんですか、やはり?」

「待ってくれ。順をおって話をさせてくれ。こちらもやや混乱しているというか……」彼は眉間に皺を寄せた。「結論から言おう。君の友人である、早乙女時雨の死因は不明だ。なぜ、どうして亡くなったのか、死に繋がるような直接的な手掛かりは、まだ摑めていない。不思議なことに、死亡推定時刻もはっきりと識別できん。外傷は無いが、毒殺というわけでもない。心臓発作ということで、鑑識は一応の結論を出したが、別に持病があったわけでもなく……」

「本当に、分からないんですか?」

「もちろん、これは暫定的な結論だ。より綿密に遺体を検査するには、あと数週間は時間が必要になる。とにかく、今の我々にはこのくらいしか判明しておらん」

「そうですか……。それで、時雨……早乙女さんはどのような形で、亡くなっていたんですか?」

 僕は色々尋ねることを決めていた。間接的に伝わってきた情報は、あまり信頼できないからである。

 ホワイトノイズという組織との繋がりがなければ、僕はどこにでもいる無力な中学生であり、そうした深い真実に触れることは叶わないのだ。

「警備の情報によれば、ベッドの中で、眠るように亡くなっていたらしい。特に部屋が乱されていたわけでもなく、誰かに侵入された形跡もない」

「あの、確か早乙女さんは一人暮らしをしていたはずですが……いったい誰が遺体を?」

「発見者は彼女の里親だ。調査によれば、彼女はほぼ毎日、遠方にいる義理の両親と連絡を取っていたらしい。メールでな。だから数日連絡が途絶えていたことを不審に思い、彼らが彼女のアパートを訪れたというわけだ」

「それは……」

 きっと辛いことだろう。

 彼女は確か、その義理の両親と仲が良かったはずだ。時々、小学生の頃の両親とのエピソードを、幸せそうに語っていたっけ……。

「それで」と所長が言った。「実はその、死因以外のことに関しても、色々と不審な点が上がっているのだ」

「不審な点?」

「むしろ、謎、と言うべきかな。そもそも、どうして彼女が一人暮らしをしていたのか、君は本人から訊いたことがあるかね?」

「いえ、それは……。僕も同じく一人で暮らしているので、あまりそうしたことは……」

「ふむ……、なるほど」彼は頷いた。「少し話題を変えよう。こちらも大切な話だ……。実はだね、君は知らないだろうが、我々は今、それなりの脅威に晒されているのだ」

「それは……?」

「そしてその脅威の存在が、もしかしたらこの、早乙女時雨という少女の死にも関わっているのではないか、と我々は睨んでいる。その可能性が高い」

「脅威? ホワイトノイズに何かあったのですか?」

「約半年ほど前から、我々はある組織を追っていてな……。詳しいことはその冊子に書かれているが」彼はテーブルを指し示した。「アポトーシス、と呼ばれる麻薬密売組織カルテル。聞いたことは?」

「いや、ありませんが」僕は首を振った。

「そうだろうな……。それで良い。君は本当は、もうこんな世界に関わらなくても良いのだから……。そうそう、連絡を貰った時には、わしも驚いたよ」

「彼女は僕の親友なんです。その、突然の死を、受け入れることができなかったというか……。こちらの要望に応えてくれて、僕のほうこそ感謝してます」

「はは、このくらいのことで、君が感謝する必要などない。わし……というより、我々には借りがある。そもそも、君はまだ十四だろう? ロマンサーとはいえ、こちらから任務を強制することなど、前提として考えられん」

「…………。それで、話の続きを」

「警察も手に負えん相手、という事で、我々ホワイトノイズが、その捜査に乗り出すことになった。それで、途中までは順調にいっていたはずなのだがな……三人ほど、調査中に部下が殺されてしまってのぅ……」

「それは……」

 ホワイトノイズの人員が、三人も殺された、だって……。

 まるで、あの時と同じ……。

「ああ、君の気持ちはわかっておる。だから私も言いづらかったのだ」

「………………」

「だが一応、君と親しい面々メンツは亡くなってはおらん。それは安心してくれ」

「それで、そのことは早乙女さんとどのような関係が」

「彼女の自室から、シュレッダーに掛けられた一枚の契約書が見つかった」所長は一枚の紙を、懐から取り出した。「もちろん、この程度のものなら、我々の力で復元することが可能だ。試しに読んでみてくれ」

 紙を受け取り、そこに書かれている文字列を読んだ。堅い文章であり、なおかつ漠然としていて、何についての取引がなされていたのか全く分からない。もしかしたら、第三者に閲覧される可能性を考慮に入れていたのかもしれない。

「これが……何か?」

「取引相手の項目を見てくれ」

 僕は視線を動かし、その項目を見た。「バイナリー・コーポレーション? あの食品メーカーの?」

「そうだ。表向きにはそういうことになっておる。数年前には広告も結構出していたのぅ……。しかし、それも以前の話だ。偽装問題が発覚して、一気に収益を落ち込むことになったのは、君も既知のことだろう」

「はい」

 有名な話だ。消費期限を改竄しただけでなく、〝汚染〟された食材を使用していたことでも話題になった。

「それで、そのバイナリー・コーポレーションは、問題発覚後から、不審な動きを見せていてな……」彼は顎髭をさすった。「ルリくん、食品メーカーである筈のバイナリー・コーポレーションが、どうして、早乙女時雨という少女と契約を交わしたのか……想像できるかな?」

「……いえ、想像もできません」

「ふむ……。よし、ルリくん、そこにある冊子の十五ページを開けてみてくれ」

 僕は指示されたとおり、そのページを開いた。

 そこには大きな白黒の写真が載っていて、剥き出しになった誰かの背中が写っていた。

 首から下しか写っていないが――痩せてはいるが、輪郭は曲線的であり、性別は女だと思われる。身長はそんなに高くなさそうであり、まだ若い……。

 誰かの背中……?

 なんとなくだけど……この体形、どこかで見覚えがある。

 まさか。

「ああ、そういうことだ」と所長は言った。「その、肩甲骨の辺りを見てくれるか? そこに左右対称の、二つの切れ込みが入っているのが分かるかな?」

「ええ、右と左に、それぞれ一つずつ……。手術痕ですか?」

「おそらくはな……。傷はふさがってはいたが、早乙女時雨はこの数ヶ月の間に、何らかの手術を受けていた。多分、時期的に見て、夏休みの間であると推測される。この事について、何か彼女から聞いたことは?」

「いや、ないです」僕は首を振った。「そんな……一体、どうして?」

「我々はバイナリー・コーポレーションが、アポトーシスと連関があることを、微少ではあるが摑んでいる。つまり、現在我々が捜査している麻薬カルテル、そして君の友人の死、もしかしたらこの二つには、繋がりがあるかもしれんと思っている。やや回りくどかったが、説明する義務があると考えたのだよ」

「しかし……、それでも訳が解りません。彼女はほぼ毎日登校していましたし、特に身体的な不調があるようにも見えませんでした。それは夏休みに入る前も同じです。彼女は一体、〈何を〉手術されたのでしょうか? そもそも、契約とは何に対しての?」

「現時点では不明だ……。調査を進めていくつもりだが……多分、治療ではなかったのだろう、とわしは思っている。下手に結論は出せん。その辺りは検死が進んでから、また報告する。何か心当たりがないか、良ければ、君も考えてくれ」

「はい……」

 僕はうつむいた。考えるべきことは多岐に渡っているように思えたが、そのどれもが酷く見当違いな気がして、深く考察することができない。

 手術……?

 それは何を意味しているのだろう……。

「ところでルリくん、君に一つ聞いておきたいことがあるのだが」

「はい、何でしょう?」

「わしは君のことを止めはしないし、捜査に協力しろ、などとは強制せん。一連の事件が、その友人と関わりを持っていたのは、恐らくは偶然のはずだろう。しかし……」彼はグラスの水を飲んだ。「もしも、〈犯人〉が見つかったら、君はどうするつもりかな?」

 質問の意図がよく分からない。「何の事です?」

「……いや、それは君が結論を出してからの話かな。とにかく、よく考えてから決めてくれ。わしから忠告できるのはそれだけだ」彼は立ち上がって、扉の方まで歩いていった。「何かあったらまた伝える。もしも用事がある際は、内線を使って呼び出してくれ。なかなかに仕事が立て込んでるんでな……では」

「あの」

「なんだね?」

「カードを渡してくれないと……」

「あ、すまぬすまぬ」所長は僕に、紫色のカードを渡してくれた。「使い方は覚えておるな?」

「はい、大丈夫です」

「セキュリティは強化されておる。紛失しないように気をつけてくれ。あ、あと人員の件なんだが、現在ウォルトと入れ替わりで、本部の方から、ラブドライブ家のロマンサーが来ておる。もしも会ったら……まあ、適宜対応してくれ」

「ラブドライブ家?」

 聞き覚えのない名前だ。

「ファイアスターターの一家じゃよ。あれ、ルリくんと面識はなかったかな?」

「もしかしたら、兄があったのかもしれませんが……」

「なるほど……だとしたらわしの記憶違いだな……。とにかく、向こうは君を知っている。くれぐれも波風は立てないでくれ」

「は、はあ」







 12


 所長が部屋から出て行ったあと、僕は頭の中で情報を整理することにした。

 時雨が犯罪組織に巻き込まれていた……?

 ちょっと信じられないことだ。夏休みの前と後で、彼女の様子が変わってしまったようには思えないし……。

 いや、でも最後に会ったときの彼女は確かに様子が変だった。

 あれは一体、何を伝えようとしていたのだ。助けを求めていたのか?

 でも、だとしたら具体的な事情を教えてくれていたはずだ。僕は秘密を口外するような性格では無い、ということを、時雨は理解していたはずだからだ。

 もしかして、言えない事情があったのだろうか? 何らかの理由で脅されていた?

 契約?

 その契約が原因で彼女は亡くなったのか?

 例えばである。ロマンサーには様々なタイプの者がいて、口から火を噴くような単純な能力者もいれば、複雑な条件の元で能力を行使/発動できる者も存在する。

 早乙女時雨の死因が不明なのは、ロマンサーによる取り引きの結果だからなのかもしれない。そうすれば説明がつく。

 でも、だとすれば……? 時雨は何を目的に契約をしたのか、背中の手術痕は何か、という疑問が生じる。

 ダメだな、考えてもらちがあかない。

 時雨は戸締まりのされている自宅で亡くなっていた……つまりは「密室」の中で死んでいたわけであり、死因も不明で……。

 まるで推理小説のようだけど、頭を捻って解けるような代物ではないだろう。

 ………………。

 時雨が亡くなってから、しばらく経つ。

 こんな風に、淡々と考えてしまう自分が、なんだか憎らしい。

 でも、いまだに実感が湧かないのだ。

 それとも感情を遮断しているだけ……?

 ……………。

 僕は部屋の外へと出た。長い廊下が向こうまで続いている。

 この基地アジトは地下に建造されているため、陽光を浴びることはできないが、照明は明るく見通しは良い。全体的に消毒されているような白さがある。

 僕は廊下を歩き、気分を切り替えることにした。基本的な構造は以前と同じであるが、それなりに増築されているようだ。見たこともないような部屋が、ちらほらと確認できる。

 前に使っていた部屋はどうなっているだろうか? 少し迷いながらも、マップを見つつ、階段を上ったり下ったりしながら移動し、目的の場所まで着いた。スリットにカードを通し、扉を開ける。

 中は薄暗く、正面にはたくさんのコンピューターが並べられていて、モニターが点灯していた。エアコンもついていて、とても涼しい。機械を冷やしているのだろうか?

 僕は灯りをつけようと、スイッチを探そうとすると、斜め後ろから声が掛かった。

「あ、やっぱりルリちーか。ノックもせず入ってくるモノだから警戒しちゃったよ。やれやれだよ」

「君は……」僕は声のした方を振り向いた。そこには白衣を着た女性が座っている。「マーマレードさん?」

「おひさーおひさー」軽い口調で彼女は言った。「まったく、所長かと思ってビックリしたよ。この部屋のロックを解除できるのは、それなりの権限をもった人物だからね」彼女は胸ポケットから眼鏡を取り出して、それを掛けた。「やっぱり大きくなったね。うーん、あたしの若い頃を思い出すぜ」

「思い出すって……マーマレードさんも、そんなに歳は行ってないはずでは?」

「まあそうなんだけどさ……」彼女はこちらをジロジロと見てきた。何だか標本でも眺めているような目付きだ。「うーん良いね。これから青春が始まるぞ、って感じだ。アオハルアオハル」

「何ですかそれ……」

「なんでもないよ。軽いたわごとさ」

 かすみのような記憶を元に推測しても、彼女はまだ二十代半ばかそこらのはずだ。遠い昔を懐かしむような含蓄があるようには見えないが、そこには何か、秘密でもあるのだろうか?

 まあ、秘密しかないような人物だけど……。

「それで、この部屋で一体何を?」

「あ、そっか。ここって前はルリちーの部屋だったんだよね……うんうんなるほど。あたし、この部屋に引っ越ししたの」

「前の部屋は? あっちの方にはスパコンがあったはずじゃ?  あなたみたいなハッカーには……」僕は部屋を見回した。「この程度のコンピュータじゃ役不足じゃないですか」

「あたしね、今フリーランスなの」

「え?」

「フリーランス。つまりはホワイトノイズを抜けちゃったの。ルリちーも完全ではないとはいえ、脱退していたでしょ。その間にあたしも辞めたの。それで今は契約社員として、ここで暮らしているってわけ。おわかり?」

「あ、あの、えーっと」

「危険な賭けだったんだけどねえ。やっぱり完全な従属状態あやつりにんぎょうだと、やりたくない仕事までやんなきゃなんないし、四六時中監視されるしねぇ……。まあ今でも、完全に自由って訳じゃないけども」

「そうだったんですか……」彼女にはハッカーとしての才覚があるが、別に能力者ではない。だから脱退するのも、そこまで難しくはなかったのだろう。「今は何の仕事を?」

「このアジトのファイアーウォールを再構築している最中だよ。セキュリティ上の脆弱な部分を補強するだけでは不安だってことで、一からプログラムを組み直すことになったのさ。でも、既存のソフトウェアを使用してしまうと、弱点が露見する恐れが蓋然的に高まってしまうから、ホワイトノイズ専用の独自システムを作り上げようってことで、あたしがお呼ばれしたってわけ。独立自律、スタンドアロンの防御壁」

「一人でそんなもの、作れるんですか?」

「まあね。それほどの才能があったから、この組織に入れたんだし……。ああ、枝葉末節の部分については、専用の下請けをホワイトノイズが用意してくれたから――それでデバッグだとか、人海戦術で対応できるものは依頼しているけど、核の部分は一人でやんないと、トロイの木馬を埋め込まれる危険性があるからね……。で、実はこの仕事を条件に、フリーランスにさせて貰えたってわけ。ナッツ&ミルク……あ、違うな、ギブ&テイクってこと」

「へえ、そうなんですか……」

 随分と凄い話だ。

 確か現在のファイアーウォールは、二十年ほど前に導入し、それをアップデートしてきたはずだから、それ以来、初めての全面刷新って事になるのか……。

 彼女の言うとおり、きっと単純なコードに関しては、組織内のどっかの部署に下請けさせるんだろうけど、そんな難題を任されているとは……。

「まあ、それは置いといて……折角だし。現状について話し合おうぞ。何だかそっちも、厄介事があったみたいだしね」







 13


「なるほどねえ……そのお友達さん、死んじゃったんだ」

「ええ……。それでホワイトノイズに頼んで調べて貰ったんですが、所長によると、時雨の背中には手術痕があったらしくて……」

「手術痕……?」

「マーマレードさんはどう思います? もしかして彼女は、臓器提供でもしていたんでしょうか?」

「臓器提供、と言っても、そのお友達、元気そうだったんでしょ? しかも鑑識によれば、臓器を取られた形跡もない。目的がどうであれ、手術自体が死ぬ原因に繋がったとは思えないな」

「そう……ですよね。うーん」

「一つ訊くけどさあ、その早乙女時雨って子とルリちー、そんなに仲が良かったわけ?」

「はい……。中学校ではほぼ毎日、会話をしていて……支えられていたというか」

「それにしてもルリちー、友達居たんだね。良かった良かった。てっきり友達を作らないで、一人寂しく学校生活を送っているんじゃないかって、本当に心配だったよ」

「あのですね、僕も流石にそのくらいは……」

 と反論しかけて口をつぐむ。

 確かに学校で、友達だと断言できるような存在は、彼女しか居なかったのは事実だ。

「いや、それより、何か知っている事とかありませんか?」僕は訊いた。「僕はその、こうしたことに関してはさっぱりで」

「まあ、ブランクも長いし仕方ないっしょ。それに君は、どっちかっていうと現場で動くタイプだもんね。うーん、知ってること、ねえ……」

「そういえば所長が、アポトーシスやバイナリー・コーポレーションが、最近の事件、そして僕の友人の事件に関わってる、って言ってましたが」

「そうそう、困ったものね。背後に企業がついているとなると、話がややこしくなって大変でさあ、資金援助とかの問題もあるし、その元を探っていくと、WW3以前の旧国家との連関が見え隠れするしね。まあ、ホワイトノイズの成員が亡くなったことで、やっと本部も重い腰を上げようとしているみたいだけど、もう、後手後手ッスね。派遣されたラブドライブ家のお嬢さんがどんな手腕を発揮してくれるか、期待して待つしかないって感じよねぇ」

「その、ラブドライブ家のロマンサーには、既にお会いを?」

「いや、会うわけないでしょ。きっと今頃調査に出掛けてるんじゃない? なんか真っ赤なロールスロイスに乗っているって噂よ」

「そんなもの、あるんですか?」

「さあ、噂は噂。まあ特注品ならあり得るんじゃない」

「そうですか……」

「で、話を戻すけど」彼女はテーブルに肘をついた。「どうすんのこれから? また調査とか、ルリちー始めちゃうの?」

「…………まだ、決めかねているところです」

「そう。じゃあ、あたしからアドバイスしておくけど、今回はやめておいた方が良いよ。多分、かなり危険だぜ。おそらく、ルリちーの兄さんが亡くなった、ブラッドレインの時よりもずっとね……」

「それは………どうしてそんなことが言えるんです……?」

「あくまで推測に過ぎないんだけど、多分、この組織に、ホワイトノイズの中に、アポトーシスとの内通者がいるわ」

「内通者? それは、裏切り者ってことですか?」

「そう。はっきり誰であるかは、あたしはまだ分かっていないけど、そうとしか考えられないもの。肝要なところでは、常に安全牌あんぜんぱいを選択するはずのホワイトノイズが、そう易々と犠牲者を出すわけはない。確かにメリーとかルリちーのように、結構フリーに行動できる存在もいるっちゃいるけど、基本は命令通りにしか動けないし、所長や、そのまた上の司令官も馬鹿じゃないからね。こっちの動き方を知ってないと出来ないような芸当を使って、組織の人間を殺したって事よ。それが出来るのって、ロマンサーか、元々ここに所属していた人間、あるいは今も所属している人間、くらいではないかな? 見当のつく予想は」

「しかし、ロマンサーならもちろんのこと、ホワイトノイズの成員は、大なり小なり監視されてるんですよ。そんなこと出来るわけ――」

「監視、ねえ。でもさ、抜け道が無いわけではないぜ。それが作為的な帰結じゃない可能性だってある。故障して探知機が働かなくなっていたりとか、何らかの事情でリストから漏れていたりとか――絶対的な監視体制を実現するのは極めて難しいよ。例えば……」

「例えば……?」

「存在するはずのない人間、とか」

「どういうことですか?」

「どうもこうもないさ。適当に気紛れで言っただけさね」マーマレードさんは首をかしげた。「ん、もしかして、何か引っ掛かるポイントでもあったかな?」

「……………」

 存在するはずのない人間。

 本来そこに、居てはならない筈の存在……。

 その言葉で、あの出来事を思い出した。

 そう、僕は心当たりがある。仲町さんと別れたあと、僕は自分のドッペルゲンガーを見たのだ。

 突然現れ、突然消えた。不思議な幻影。あまり考えないようにしていたが、確かに、それは重要なことであろう。

 マーマレードさんに話すべきか?

 しかし……彼女の発言が本当なら、僕はホワイトノイズを辞めた人間に対して、自分の弱点を話す、ということになる。

 彼女のことは昔から知っているから、きっと、絶対とまではいえないが、信頼できる人物であることは間違いない。しかし、リスクを伴うのもまた事実なのだ。

 うーむ。

 そうやって考え込んでいると、

「どうしたね。怖い顔をして? せっかくのカワイイ顔が台無しだぜ」

 と声が掛かった。

「いや、別に、ちょっと脳内を整理していて……」

「それにしてもその帽子、まだかぶってるのね」

「ええ、兄の形見ですから」

「まあ良いけどさ。それって同時に、過去に縛られ続けているようで、なんだかいたたまれないっていうか……。もっとこう、ブラッドレインの事件前みたいにさ、パーッとやれる日が来ると良いよね。ぱーっと。また、ルリちーのコスプレを見たいよ、お姉さんとしては」

「あれは貴女が無理矢理着せたんでしょ! 絶対に、二度とやりませんよ」

「うーん、めちゃくちゃ良かったんだけどナ。ほら、前はさくらちゃんだったでしょ? 今ならユイちゃんのコスプレ姿が似合うと思うんだよ。同じ放送局繋がりってことでサ。どうよ、お金あげるからまたやってくれない? ね? ね?」

「嫌ですよ……。他の人にやらせてくださいよ。確か僕のあとに、双子の姉妹がホワイトノイズに入っていませんでしたっけ? 彼女たちにやらせれば良いじゃないですか?」

「ああ、マロンとミルンね。もう先月の誕生日に、写真撮らせて貰ったよ。えっと、片方がブラックウィドウで、もう片方がワンダーウーマン、出版社は違うけどアメコミつながりってことで……」

「やめてあげてくださいよ! 可哀想に!」

「え、けっこう楽しんでたわよ。ほら、写真見せてあげる」マーマレードは端末を取り出し、こちらに画面を見せた。「どうどう、なかなか良いでしょう」

 確かに、そこにはコスプレをしたマロンとミルンの姿が映っていた。

 片方はピースしていて、もう片方はあくびしている……。

 楽しそうではないが、嫌そうでもない。二人とも真顔で、どうでも良いって感じだ。きっと元ネタを知らずにやらされてるんだろう、そんな気がする。

「へえ、なるほど……。彼女たちもだいぶ大きくなったんだね」

「まあ、図体はね。でも相変わらず、思考が高度すぎて、あたしも理解するのが大変よ。悪童日記のリュカとクラウスも顔負けって感じ。まだ二人とも十二歳だからいいけど、大人になってもあのままだったら、ちょっと困るわね」

「今でもあの喋り方を?」

「ええ、そうそう。交互に話すやつね。まあ、慣れたっちゃ慣れたけど……」彼女は溜息をついた。「あの子たちはもう、ルリちーと違って、完全に〈こっちの世界〉の人間になっちゃったわ。それが良いかどうかはともかく、もう、普通の暮らしには戻れないでしょうね……。彼女たちが望んだことだし、あたしがどうこう言うつもりはないけど……」

「……………」

「で、ルリちーはさ、本当にどうすんの? 本当のホントにホワイトノイズに戻るの? そのお友達のため?」

「ええ、そうです。とりあえず、一時的には」

「あのね、忠告しておくけど、ルリちーはもう、こっちの世界に関わらない方がイイよ。あたしはそう思うね。そのお友達のことは本当に気の毒だと思う。原因も分からないんじゃ、君が不安になる気持ちも分かるし、その子のために動きたい、と考えるのは、正義感の強いルリちーなら、当然かもしれない。でも――」彼女はテーブルから棒付きキャンディを取り、包装を破いた。「向き不向きは別にしろ、個々が行動できる範囲には限度がある。それに、大人がやるべき事と、子供がやって良いことの間には、一応隔たりがある、とあたしは思っている。君はまだ、年端もいかない中学生だ。別に何もしなくたって良いし、わたしも含めたココの大人は、君を危険にさらしたくない。あたしたちは、君の兄さんのことだって責任を感じてるんだぜ。監視付きとはいえ、ホワイトノイズを抜けさせて貰ったルリちーは、普通に生き、普通の幸せを手に入れる権利を持っているんだよ。束の間だってその権利を手放すのは、賢明とは言えないと思うぜ。しかも、こんな時期にさ……。うん、はっきり言おう。多分迷惑になる、と思う」

「それは、分かっているつもり……です」

「君が何を隠しているかとか、何を悩んでいるかとか、きっと深いところでは全然分からないけど、まあどちらにしろ、あたしは、遠い存在ならともかく、身近な知り合いが死んじゃうのは嫌だね。特に、成長してきた姿を知っている奴を亡くすのは……」

「……………」

「君の兄は確かに、自業自得な側面もあった。彼は博愛と正義感が強すぎたんだよ……。止めることが出来なかったから、ああなっちゃった、とも言える」彼女は飴を舐めながら、モニターを眺めている。画面の青い光が、眼鏡のレンズに反射している。「な、ルリちー。本当に今でも、その兄さんのことを大切だっていうならさ、だからこそ、ここは手を引いておくべきだと思うぜ。こっから先は、他の成員に任せるのさ。やらないでおいたほうが良いことは、おうおうにして世の中に存在する。一度失われたものは、二度と戻ってこないんだからね……」







 14


 他者の精神を覗き見るという行為は、相手の仮面を引き剥がし、その裏側に棲む形容しきれない「何か」に直面するという行為と同義である。テレパス……相手の心を覗くような読心術を、僕は使うことができないのだけれど、そんな能力を保持していなくて良かったな、とつくづく思う。だって、他人の心……精神を覗いたところで、そこに存在するのは、ほとんどが卑小で醜い欲望の塊、あるいはそれに準ずるもの、に違いないからだ。いや、これは決めつけかもしれない。みんな、割とまともな事を考えていたりして……?

 しかし、どちらにせよ、そうした能力を活用できる機会なんて限られているし、有用性も少ないし、もしもそれを仕事で使うだなんてことになったりしたら、殺人鬼とか、ちょっとアブナイヒトの内面をも閲覧するハメになっていたに違いない。

 何が言いたいかというと、能力を持っていても幸せになれるとは限らないし、それがマイナスに作用することだって、充分あり得るということだ。

 そもそも、僕はそのせいで、大切なモノを失っている……。兄さんや時雨だけではなく、とても……とても多くを……。

 時々、自分が普通の人間だったらどんな人生を歩んでいただろうか、と考えてしまう。

 普通の生活。普通の夢。普通の希望。普通の願い。

 それは何だったのだろう。

 わからない。

 普通という、どこにもない概念を求めているだけか。

 現実を受け入れたくないから、逃避を欲しているだけ……?

 とある哲学者が、「世界は別の有り様では存在することができなかった」と言っていたけれども、もしも、他の世界が存在して、別の自分がそこで暮らしているならば……君は、幸せに暮らしているだろうか?


 瞑想のような問答にも飽きたので、僕は目を開けた。

 立方体をした、それなりに大きさの有る空間。

 ライトがある訳ではないのに、まるで壁自体が光っているかのように明るい。

 影が存在せず、空間に置かれた様々な物体は、どの面から見ても、一様な色合いを呈している。

 その、白い部屋の中に、僕は居る。

 

   『ルーム』


 これが僕の能力の呼び名だ。自分で名づけたものであり、奇をてらわずシンプルにした。

 ……………。

 自分の能力を説明するのは難しい。

 脳内に仮想的な一つの「空間」を持っていて、そこにモノを入れたり、モノを引き出したりする……という能力である。

 自分が触れている物体すべてを、この『ルーム』へと出し入れすることが可能なのだ。もちろん、この空間以上の大きさのモノは入らないけれど……。

 簡単に言えば、ドラえもんの四次元ポケット、のようなものだろうか。

 だから、例えば重火器のたぐいを置いておけば、戦闘の際、瞬時に手もとへと現出させることができるのである。まるで魔法で呼び寄せたかのように……。

 いや、魔法そのものだ。

 僕はこの能力を、物心ついたときには出来るようになっていた。

 初めは戸惑っていたけど、兄さんが使い方を丁寧に教えてくれたため、不安になることはなかった。兄さんの能力は、僕とは違っていたけれども。

 ああ、兄さんのことを考えるのはやめよう。

 とにかく、いま僕はその部屋で休んでいるのである。ここは静寂で、外部の音から遮断されており、心を落ち着かせることが出来る。

 ただ、この『ルーム』の中に、僕自身の肉体は〈存在〉することはできない。他の物体や生物は、この部屋に貯蔵できるが、その器となっているのは自分なので、肉体は外部に残さなければならないのだ。

 だから、肉体を外の世界へ、精神を『ルーム』へと乖離させることで、操作する権限を得ているのである。

 ここでの僕は、亡霊みたいな精神体。

 だから、この『ルーム』の中に入っているときは、外界の僕は無防備になっているのだ(メリー曰く、外の僕――肉体は、居眠りしているような虚ろな感じになっているらしい)。

 だから戦闘中、物体を引き寄せることは出来ても、この『ルーム』へと逃げ込むことはできない。

 しかし、この『ルーム』内では、僕は絶対的な力を持っている。

 つまり、ここに相手を引きずり込んでしまえば、あとはもう、お茶の子さいさいというわけだ。

 部屋の中では、僕は無敵だ。

 どんなモノも壊せるし、どんな痛みでも与えられる。まあ、外界の生命体を引きずり込むためには、いろいろな条件を満たす必要があるから難しいのだけれどね。

 さて……、

 今日はここにある荷物を整理しようと思ったのだ。捜査のメドが立ったところだし、今のうちに、置き場所の確認と整理をしておいて損はない。置き場所を覚えておかないと、モノを引き出すのに掛かる時間が長くなってしまうからだ。

 僕はそうして、面倒くささをこらえつつ、荷物の整理に励んでいると……、

 部屋の隅、段ボールと壁の間に、不思議な生き物を見つけた。

 燕尾服を着ている、白い毛むくじゃらの生き物……。近くにはステッキらしき物も落ちている。

 白いウサギだ。

 しかもこの衣装から察するに……、

 もしかして、また、〈あの世界〉からやって来たのだろうか?

 無意識とか超自我とかの影響だろうか、ときどきこうして、〈異物〉がまぎれ混んでくるのだ。もしかしたら、この能力を使える代償なのかもしれない。

 僕は手を伸ばし、軽く頭を叩いてみた。「おい、起きてくれ。ここは僕の領域だぞ」

「ムニャムニャ、もうちょっと寝させておくれ。私は低血圧なのだ。邪魔しないでおくれ」

 僕はそのウサギの腰の部分を両手で挟み、上へと持ち上げた。小さいから持ち上げるのは簡単だ。

「わ、やめてくれ。高いところが嫌いなのだ!」

「どうだい? 目が覚めたかい?」

「ああ、覚めた覚めた! 私が悪かった! だから早く降ろしてくれぇ!」

 このまま放り投げるのも一興かな、と思ったけど、さすがに良心が許さなかったため、その場へゆっくりと降ろした。「きみ、ひとの部屋に入ってきて勝手に寝るなんて、不作法にもほどがあるよ。反省してる?」

「す、すまない。長旅で疲れてしまったのだ。グランドール城までの道のりは遠くてな……………。って、ここはどこなんだ! 私は今、どこにおるのだ!!」

「ここは夢の中だよ」

「ゆ、夢の中? な、なんだと、それは?」

「君は夢を見ているんだ。だからここへと入り込んでしまったんだよ……。ねえウサギくん、寝る前のことを覚えているかい?」

「えーっと、森の中で迷ってしまって……。切り株の近くで野宿することになって……」

「眠る前に、何か本を読まなかったかい?」

「本………? ああ、もしかしてアレのことか! ルーシー・ムーンライナー作『多世界冒険譚(The Multi-World Adventure Story)』。ホント面白いファンタジー作品でな……。ちょうど古書店に置いてあったのを見かけて、購入後、旅の合間に読んでいたのだ。もう数百年以上も前のプレミア品でな……私のような好事家こうずかには、もう、たまらない逸品なのであるよ。生きている間には、巡り会えないと思っていたからなぁ」

「何ページ辺りを読んでいたか覚えてる?」

「えっと、七十七ページだったかなぁ……。地球、という星について書いてあって」

「ふむ……」僕は質問を続けた。「それで、月は昇ってたかい?」

「え?」

「その日、寝る前に月は?」

「ああ、そういえば満月が昇っておったような……」とウサギくんは頷いた。「ところでお前さん、いったい何者なのだ? ずいぶんと奇怪な服を着ているようだが……」

 ああ、やっぱりそうだ。この〈ヒト〉もまた、例の条件が重なって、この場所に迷い込んでしまったらしい。本当勘弁して欲しい。やれやれだぜ、って感じだね。

「あのね、ウサギくん。悪いけど、君には早く目覚めてもらって、ここから出て行って欲しいんだよ」

「出て行く? えっ、いやちょっと待ってくれ。イマイチ状況が摑めないんだが……」

「そこに扉があるだろう」僕は壁の一辺を指さした。そこには緑色のドアが取り付けられている。「とにかく、そこから出て行ってくれないかな? 何が何だか分からなくても良いから、そうしてくれると助かる」

「ま、待ってくれ。ここはどこだ? そしてお前さんはいったい誰なんだ?」

「さっき言ったでしょ? その長い耳は飾りなのかい? 僕は君を、無理やり連れて行くこともできるけど……どうなっても知らないよ。とにかく、元の世界に帰っておくれ。早くしないと、鍋で煮て喰っちゃうよ、ペロリとね」

「は、はいっ!」

 そのウサギくんが、扉から外へと出て行ったのを見届けてから、僕は作業を再開することにした。


 ☆


 物を整理するという行為は、心を落ち着かせる作用をもたらしてくれるようだ。

 この『ルーム』はある意味では僕の精神状態を表しているのかもしれない。いつもは壁は白色をしているが、時々赤になったり青になったり黄色になったりする。どんな理由でカメレオンのように色を変化させるのか分からないけれど、きっとそれは必要なことなのだろう。

 使わないものを部屋の隅っこの方に寄せて、使えそうなもの、武器とか食料とか電子機器とかを中央の方に置いた。

 これで、素早くモノを取り出すことも可能だろう。素早さは重要だ。一瞬の判断と反応が、生死に関わってくることだってあるのだ。準備段階から油断は出来ない。

 僕はしばらく、『ルーム』の端に置いてあるベッドの上で休憩してから、現実世界へと戻った。







 15


 ゆめみるカカシは

 さがしてた

 めぐりめぐって

 ほしのよを

 とおくにのびる

 すいせいを

 きっといまでは

 わすれているよ

 せかいのはてで

 ただひとり


 ☆


 ゆめみるカカシは

 かんがえた

 どこかとおくへ

 いけないか

 だれもみしらぬ

 あすへのこたえ

 すでにきおくは

 ないけれど

 ずっとしずかに

 かんがえた


 ☆


 ゆめみるカカシは

 きえさった

 だれもみしらぬ

 せかいへと

 いのちをすてて

 たびだった

 かれのきぼうは

 いつのひか

 だれかのこころに

 とどくだろう







 16


 本当は地下鉄で基地から帰るつもりだったのだけれど、線路が〈反統制派連立組合(Dissident Faction Coalition)〉によって破壊されてしまった。

 復旧まで、それなりの時間が掛かってしまう、とのことだ。

 そのため僕は、途中まで……〈廃棄都市〉を抜けるまで、ホワイトノイズの人間によって、送ってもらうことになった。


 ☆


「ちっくしょう、休暇中だったのに! 何でよりによって俺を選ぶんだよ。せっかくのオフが台無しじゃねえか」メリーはハンドルを乱暴に操作しながら、悪態をついた。「俺以外で、他に頼める野郎はいたんじゃねえか? ほら、えーっと、ロイドとかバーミリアスとか……。こういう雑用は、下っ端どもにやらせるのが筋ってもんよ」

「まあ、別に大したことじゃないし、だからこそメリーを選んだんだよ。仕事の楽ちんさの割には、報酬だってそれなりにいいんじゃない? それに、ここら辺の地域は最近危険だって聞くし、サイボーグである君に送ってもらうのが、いちばん安全かなって思って」

 彼は舌打ちをした。「け、俺は万能じゃねえし、便利屋でもねえよ。悪いが今回だけだからな、こういうのは。もしもお前さんが、俺と同じ〈階級〉じゃなかったら、依頼が来た時点で怒鳴り返していただろうよ」

「はいはい……」

 なかなか機嫌が悪いらしい。僕は適当にうなずいて、窓の外を眺めた。灰色にくすみ、使われなくなったビル群が、鬱々と建ち並んでいる。

 メリーはサイボーグだ。

 ロマンサーではないので、僕のように能力を使うことはできないけれど、身体を改造しているためそれなりに頼もしい。

 年齢は僕よりもはるかに年上だけれど、ホワイトノイズ内での階級は一緒だ。そのため、無礼かもしれないが、ついついタメ口になってしまう。

 この護衛に彼を選んだのは、それなりに付き合いが長く、(たぶん)親しいからである。たしか僕が、兄と一緒に、初めてホワイトノイズに送られたときから面識がある。

 メリーはその頃から、容姿や体格に変化がないように見える。

 性格も、前からずっと粗野なままで、今も粗野だ。そういう訳で、性格の面で単純だから、扱いやすいし、からかいやすい。一緒に居て退屈することはないだろう。

 ちなみに彼は、首に真っ赤なスカーフをつけていて、それがトレードマークになっている。

 カウボーイハットでもかぶったら、もっとコスプレっぽくなるだろう、とつくづく思う。

「線路の破壊活動は、けっこう頻繁なの?」僕は訊いた。

「さあ、どうだろう。俺は地下鉄とかはあんまり使わねえからな。でも、ああ……そういえば二ヶ月前も、あの組合はなんかやらかしてたな。たしか、廃棄都市の遺物を勝手に持ち去ったりとか、役所の職員を人質に、管理者にコンタクトを取ろうとしたとか……。まあ、不満のはけ口を、どっかに見つけようとしているんだろうな。いくら居住区と食糧を与えられたとは言え、もとの土地を追い出されるっつうのは、それなりに苛立たしいってことよ」

「でも除染作業はもう充分なんだろう? どうして民間人を廃棄都市へ入らせないのか、うまく理解できないよ」

「一番問題なのは、感染症とか汚染じゃなくてな、旧世代の残した〈情報〉なんだよ。いまのシステムはそうした〈情報〉を統制することによって、成立しているとも言える。情報は思想を生み、思想は暴力を生む。だからこそ、その芽が生えないようにすることが、秩序を守るための第一歩ってわけよ。お前も勉強したとは思うが」

「理屈ではわかってるさ。でも、なんだか厳し過ぎるような……」

「厳しいか? 食糧も十二分に配給されて、エアコンも暖房も備わっている住処も提供されてるのに、反乱を起こそうとするほうが、俺には異常に見えるぜ。だってよ、俺が子供の頃なんか、そんな普通の生活ですら高嶺の花だったんだぜ。特にWW3の直後なんて、もう、悲惨よ。路上で寝ている人間をかっ攫って、そいつをさばいて喰っちまうようなやつも居たんだぜ。地獄だろ? あんとき俺は二十歳過ぎだったし、身を守るすべを持っていたから良かったけど……お前のようなガキはすぐにくたばっていたぜ。まあ、俺はそうした『か弱き子羊ちゃんたち』を守るため、自警団を作ってかくまってやったがな。ああ、懐かしくなってきたぜ」

「なんか前にも聞いた気がするな……。まあでも、人がどれほど不幸かなんて、比べたってどうしようもないというか……」

「そうだ、どうしようもない。幸福か不幸かなんて、主観的に決まることだからな。でも、人間の欲望なんて無限大だ。上を見ればキリがないし、望んでも望んでも満たされない……【意志と表象としての世界】に住んでいる俺達はな。それは宿命であり、だからこそ人類は進歩を続けてきたといえる。だが、〈望みすぎた人間〉に、俺はまったく共感できないね。俺はね」

 まあ、メリーの言っていることは正しい。正しいからこそ、反論ができない。

 でも、そうした問題を一義的に解釈することに、僕は恐怖を感じる。

 たとえ、暴力の起因となる理由が〈自分は不幸だという思い込み〉であっても、それが必要以上に抑圧され、歪んだかたちで増幅されたら、更に危険な思想になってしまうのではないか? という危惧だ……懸念かな。

「お前さんの考えていることはわかる」とメリーはいった。「いくらそれなりに恵まれているとはいえ、人間同士で差異があることに、納得がいかないんだろう? 生まれながらにして、才能には違いがあり、財産には違いがあり、名誉にも違いがある。生まれてから死ぬまで、〈楽園エデン〉で優雅に暮らすような人間もいれば、いくら食事と家はあるとはいえ、退屈で孤独な毎日を送らなくてはならない人間もいる。それに、俺とかお前みたいに、仕方のない・どうしようもない・逃れられない運命の下、こうして奇怪な組織に入って、うさんくさい正義のために、命懸けで働いている人間が居る。でも、これでもあの旧時代に比べたら、全然マシなほうなんだぜ」

「ああ、それも分かってるよ」

「てか、なんでこんなに辛気くさい話になってるかなぁ……。そうだ、ラジオでも掛けるか?」

「ラジオ? 別にどっちでもいいよ……。それより、ここを抜けるまで、あとどれくらい掛かる?」

「えっと……」彼はカーナビをチラッと見た。「セクター5を避けて通らなくちゃならねえから、あと四十分ってとこかな。旧ナミゴエ地区から臨時用指定道路に入って、そっから一般ハイウェイに乗り換えるまでが一時間。一番近くのパーキングエリアまでだいたい二十分かかるから、まあ、それまでの辛抱さ。そこからはバスでもタクシーでも使って、勝手に帰ってくれ」

「どうせならもっと近くまで送ってよ。そっから僕の街まで遠いじゃないか」

「わがまま言うなっつうの。俺だってね、早く本部に帰って、刑事コロンボの続きを見なきゃいけないんだから……。ホント手に入れるの大変だったんだぜ。なにせ今や、オークションくらいでしかディスクが手に入らないし……。俺の最近の報酬なんか、それでスッパリ消えちまったよ」

「そんなの、いつだって見られるだろう? 僕とその、刑事コロイドだかコロラドだかの、どっちが大事なのさ」

「コロンボに決まってるだろう。お前みたいな、ませたガキと話していたって楽しくないね。前から言っているが、俺は身体が機械になっちまったからな、たとえ絶世の美女から口説かれようと、俺は――」

 その時である。突然フロントガラスが割れ、それから車体が激しく揺れた。

 メリーは即座にブレーキを踏んだようで――甲高い音を鳴らしつつ、車は止まった。

 お互い、話すまでもなく、すぐに屈んで頭を隠した。

「これはまずいことになったな」とメリーはいった。「突然撃ってきやがった」

「拳銃?」

「いや、スナイパーだろう。どっかの廃ビルから狙っていたらしい」彼は腕を見せた。「ほら、やられちまってる。危なかったぜ」

 メリーの左腕、その上腕に当たる部分が、まるでえぐられたかのようになっていた。肉にあたる部分が削れ、内側にある金属骨格が、まるで戦闘後のターミネーターみたいに露出している。

「だいじょうぶ?」

「ああ、ぜんぜん平気だ。対戦車ライフルじゃなくて良かったな。というか、狙われたのが俺のほうで良かったぜ。お前が怪我してたらと思うと、冷や汗もんだな」

「敵は?」僕は訊いた。「これも組合の連中?」

「いや、違うだろう。奴らはこんなことしないさ。たぶんこれは……」彼は辺りを確認しようと、顔をちょっと上げた。

 すると近くで、バチンッ、と弾ける音がした。

 どうやら、車の側面についているサイドミラーが、破壊されたらしい。

「やれやれ」と彼は言った。「奴ら、本気だろうな」

「それで、誰なんだい?」

「おそらく〈アポトーシス〉の連中さ。所長から話は?」

「ああ、聞いたよ。概略を……いちおう」

「そうか、じゃあ話が早い。それと……ルリ、緊急時にどうすればいいか覚えてるか?」

「えっと、『プロトコル9』だっけ?」僕は記憶をまさぐって言った。

「そうだ。俺たちは別に撃滅を任されているわけじゃないからな……。さてと」メリーは足元のプレートを外して、そこから金属の塊のようなものを取り出した。「もしも車ごと破壊されたらヤバいからな。とりあえず、近くの廃ビルに逃げ込むとしよう。そこでプロトコル9を発動すれば、いちおう急場はしのげるだろう」

「それは?」

「煙幕だよ。スモークグレネード。合図したらその中を走って……そうだな、斜め後ろにあるビル、見えるか」

「ああ」

「先にその中に逃げ込んでいてくれ、俺はその間、念のため注意を逸らしているから……。じゃ、準備しとけよ。そうだルリ、武器は『ルーム』に入ってるか?」

「いちおう一式そろってる」

「防弾チョッキを着ておけ。準備が終わったらコイツを投げるからさ」

 僕はメリーに言われたとおり、防弾チョッキを着て、それから自動小銃を取り出した。しばらく触ってなかったが、使い方は覚えている。

 彼がグレネードを投げ、数秒後煙幕があがった。肩をタップされ、僕はそのまま走り出す。

 背後ではメリーが「空砲」をおこなっているようで、パパパ、とタイヤがパンクするような音が連続して響いていた。もしも敵が音響レーダーを使っている場合は、それでごまかせるのだ。

 建物の中へ侵入する。

 そこはロビーみたいな広い部屋であった。

 天井には、ほこりのかぶったシャンデリアがつるされていて、床には絨毯がひかれている。おそらく元々は、高級ホテルかなんかだったのだろう。

 僕は受付であったと思われるテーブルの陰に隠れ、そこでメリーがやってくるのを待った。まだ空砲はつづいている。きっと煙幕が切れるまえに来てくれると思うけど……。

 僕は端末を取り出して、プロトコル9を発令する準備をした。

 プロトコル9とは暗号名であり、その内容は、ドローンによるロボット兵の投下である。識別番号(ID)を登録されていない人間が武器を持っていた場合、そのロボット兵が人間の代わりに、危険人物を制圧してくれるのだ。また、近くに民間人やIDを所持した人間が居る場合、彼らはその人間たちを〝脅威〟から守ってくれる。

 もちろん、プロトコル9を発令すれば、自動的にしらせがホワイトノイズまで届くため、そこから救援が来てくれるのだけれども、やはりロボット兵に比べると駆け付けるのが遅い(そのタイムラグが生死を分かつ場合もある。万能な方策などないのだ)。

 僕が暗証番号を打ち込み、発令の手続きをしている最中――突然、電波が途切れた。

 警告、という文字が画面に表示される。

 説明を読む。どうやら妨害電波が、近くで発生していることが分かった。

 …………。

 妨害電波だって?

 ちょっとやそっとの干渉だったら、この端末には効かないはずだ。

 つまり妨害電波は、この近くで発せられている、ということになる。

 この近く……。

 つまりそれは……、

 ガラスの割れる音がした。顔を上げると、メリーがちょうど駆け込んできたところだった。

「メリー!」僕は呼びかけた。「ダメだ! 妨害電波で端末が使えない!」

 彼は僕の声が聞こえていないかのように、あちこちを見回す。「ルリ、俺についてこい! 1階はマズい。早く階段を上がらないと……」

「階段?」

「そうだ。やつら、『地雷虫インセクト・マインズ』をたくさん放っていやがった。向こうから大群がウヨウヨとな……。早く行くぞ!」

 僕は彼のもとへ駆け寄り、それから階段を見つけ、五階辺りまで駆け上った。本当はもっと上までのぼりたかったのだが、破壊されていて、それ以上は無理だった。

 地雷虫が来たときのために、廊下のところどころに│センサー付き爆弾クレイモアを設置し、階段から離れたところにある部屋へと僕たちは入った。

「参ったな。端末も使えねえとなると、俺達自身で身を守らなくちゃなんねえな。はあ、運が悪いぜ」

「アポトーシスって、そんなに大きな集団なの?」

「いや、規模はわからん。だが一連の事件をみていると、どうやらホワイトノイズに対して私怨を持っているやつが、ヘッドにいるのは間違いねえな。さっきのスナイパーが奴自身だかは分からんが、まあ、その気になれば兵士なんて雇えるからな」

「僕たちがあそこを通ると、どこからか漏れていた?」

「いや……多分敵さんは、俺達のアジトの場所を知っていて、それで、やや離れたこの位置で、いつホワイトノイズの人間が通っても気づくよう、待ち構えていたんだと思う。アジトの近くだと監視カメラや警備ロボの数は多いし、うかつに近付けないからな。この廃棄都市は、格好の場所だったんだろうよ」

「アジトの場所を知っている? アポトーシスはそんな有能な連中なの?」

「あれ、お前、マーマレードから聞かなかったか?」

「何が」

「裏切り者がいるかもって話だよ」

「ああ……それは……。メリーも知っていたの?」

「そりゃそうよ。俺もそれ以外の可能性は考えられねえし、あいつがその結論に至るのも、当然の帰結と言えるわな」

「でも……。組織を裏切った人間は、存在できないはずじゃないか。もしも反逆しようと思ったら、遅かれ速かれ処理されるよ」

「ああ……お前に具体的な容疑者を挙げてなかったのか……。なるほどな、そりゃそうか」

「具体的な容疑者? 裏切り者の目星はついてるってこと?」

「まあな……多分この、じわじわとなぶっていくような攻め方を見ても、あいつしかいないだろう……最近、生存してたっつう噂も流れてたしな。おっと、俺はお前に言う気はないぜ。いちおう機密情報シークレットなんでな」

「知ってるなら教えてくれたって……」どうして僕に隠す必要があるのか、さっぱり分からない。「…………」

「まあいい。じゃあヒントをやろう。ホワイトノイズの人員であっても、監視対象から外れる……外すことのできる人間ってのはいる。一つ目は――当然だが、死んだと確定された人間だ。死んだ人間を監視しても、どうしようもないからな……。そしてもう一つは、その監視システムに詳しい人間、あるいは、そもそもが監視する側だった人間だよ」

「ジオール博士が生きてるってこと?」

 ジオール博士。彼はもともとホワイトノイズに所属していた研究者だったが、組織:ブラッドレイン(BRAD-REIN)の思想に共鳴を受け、ホワイトノイズを裏切ったのである。

 人間工学、サイバネティクス、ナノマシン……人体と機械の有機的な接合を研究していた。サイボーグ化の促進を進めたのも彼であったし、インプラント技術の発展も目指していた。

 ――能力者ロマンサーの首に埋込爆弾を取り付けていた責任者でもある。

「おっと、なかなか勘は鋭いが、ちょっと違う」メリーは頭を振った。「ジオール博士はちゃーんと死んでるぜ。遺体はきちんと墓で眠ってるさ。しかしだ、問題は、やつがとあるホワイトノイズの人員を監視システムから外した、っていうことなんだ。ジオール博士……というかブラッドレインは、そのホワイトノイズの人員が、遠隔操作で勝手に殺されないようにするため、多分手術かなんかして、爆弾とか追跡チップとかを取り除いたんだろうな。あの博士なら、安全に取り外せる方法を知っていたはずだから」

「でも、あの事件……ブラッドレインが武装蜂起をしたとき、ホワイトノイズ出身の人間は、奴らの中でジオール博士しかいなかったはずだよ。それに、ブラッドレインに所属していた能力者については、みんな処分されたはずだ。いったい、誰のチップを解除して……」

「まだ気づかないか……。まあ、お前はそのとき、兄の安否のことで頭がいっぱいだったからな。忘れていても仕方ない。でも、冷静に考えればすぐに分かるはずだ。そして、その裏切り者がどうしてホワイトノイズを恨んでいるのか、とかもな……」

「そういわれても……」

「まあ、今は考えるな。とにかくここを切り抜けないと、先がないしな」

「でも、これからどうする?」

「ちょっと端末を見せてみろ」

「自分のは?」僕はメリーにそれを渡した。

「車に置いてきちまったよ。焦ってたからな……って、これは」彼は待ち受け画面を見て、ニヤリと笑った。「ふーん、ちょっと意外かも。いや、やっぱりというべきか」

「いいじゃないか、他人ひとの趣味くらい」僕は反論した。「カービィ、可愛いでしょ」

 僕はカービィの画像を端末の待ち受けにしていたのである。ウルトラスーパーデラックス。

「ずいぶんファンシーなモノ好んでるんだな、ルリちゃんは」

「喧嘩売ってるの?」僕は彼をにらんだ。

「はいはい、わーったわーった。ちょっとからかっただけだよ」彼は端末を、高速で操作している。指が瞬間移動しているようだ。「やっぱりな……。これを見てみろ」

「なんだよ」僕は端末をのぞき込んだ。

 画面にはレーダーのようなものが映し出されていて、中心から少し離れた場所で、光点が点滅している。

「やっぱりこのビルの中に、妨害電波を飛ばしている装置があるみたいだな。まあ、これだけ強力なモノだし、当然と言えば当然か」

「そんな機能あったっけ?」

「おいおい、知らなかったのかよ。逆探知くらいパパパとできるようにしておけ。もしもの時に大変だぞ。まあ、今がその『もしもの時』っていえるかもしれねーがな」彼は端末をこっちへほうった。「あ、でもお前、ホワイトノイズ抜けてるのか。まあ、民間人なら仕方ないか」

「…………」そう言われてしまうと、反論ができない。「つまりその、妨害電波を発している何らかの装置を叩けば、この状況は切り抜けられるってことだね」

「そうだ、その通り……。それでだ、おそらく敵さんはこの建物にもいるはずだ。さっきのスナイパーとは別にな。俺と一緒についてくれば、確実にそいつと相対することになるだろう。戦闘は避けられん……。だが、お前を戦闘に巻き込むのは、正直気が引ける。というか俺は、お前に怪我をさせるわけにはいかない。おっと、これはお前が心配だとかそういうのじゃなくて」彼は頭を掻いた。「これが任務だからだ。厳密に言えば、お前は今は、民間人に分類されるからな……。そこでだ、お前に選んで欲しい。ここで俺が帰ってくるのを待つか、それとも一緒についてくるかだ。俺はどちらにしろ責任を取りたくない。だからお前が決めてくれ。ここに残っていても、絶対に安全とは言えないが……。さあ、どうするルリ。時間は有限だ。迅速に決めてくれ」

 彼はまくし立てるかのごとく、早口でそういった。まるで興が乗った落語家みたいだ。

「自分の身くらい、自分で守れるさ」僕は近くにあった椅子に座り、テーブルに頬杖をつく。「じゃ、行ってきて。僕はここで待ってるから……。まあ、メリーが上手くやってくれることを期待してるよ」







 17


 映画『第三の男』のメインテーマを口ずさみながら待っていると、天井のほうから爆発音が聞こえ、振動がこの部屋にも伝わってきた。

 僕は窓際まどぎわまで寄り、ビルの上のほうを眺めた。

 窓を開けられないため、ここからだとうまく見えなかったが――どうやら彼は〝ヘマ〟をやらかしたらしい。そうとしか考えられない。彼が戦闘で爆弾を使用する、なんてことは殆どないからだ。

 さて、どうしよう。

 ここから動くべきか、動かざるべきか。

 …………。

 でもやはりメリーが心配だ。様子を窺いに行くとしよう。

 階段ではこれ以上登れなかったはず。エレベーターはもちろん動いていないだろうし……。

 僕は『ルーム』から、瞬間吸着把手ペタリクライムを取り出した。

 これはカタカナの「ワ」のような形をした道具であり、二つの把手とってを壁面に順番にくっつけることによって、梯子のようにして登ることができるのだ。凄く便利。ミッション・インポッシブルとかで出てきそうなやつ。

 こういう時、『ルーム』のありがたみを特に感じる。きっとメリーはワイヤーかなんかを使って移動したのだろう、と僕は推測した。







 18


 二つ上の階へとのぼった。ここからは階段が使えた。僕は周囲を警戒しつつ、一段一段足を動かしていく。

 不思議と……

 不思議と、こうしたことにあまり恐怖を感じない。

 たぶんそれは、自分自身の命を、あまり重要視していないからなのだろう。

 僕はこの世において、やりたいことがない。趣味もない。

 暇潰しに映画観たりゲームしたりするけれども、別に無くなっても困らないし構わない。現世に未練がないのだと思う。

 何で生きてるのだろう。

 その問い掛けは、何度も何度も、自分に対して行使した。

 でも、適当な答えはいつも見つからない。

 もしかしたら僕は、もう死んだも同然の人間なのかもしれない。生きたまま死んだリビングデッド。兄さんを失い、時雨も失ったいま、心から、何かのために行動なんて出来るのだろうか?

 生きる意味。理由。本当、何なのだろうね。

 時雨はそれを、死ぬ前に、見つけられていたのだろうか……。







 19

 

 数階上がり、再び廊下に移動する。

 この辺りから爆発音が聞こえたはずだ。しかし、別に物が散乱したり、破片が散らばっている様子はない。階を間違えたか?

 すると向こうのほうから、何やらうめき声のような音が聞こえた。

 声?

 いったい何の声だって言うんだ?

 自動小銃を構えつつ前進し、角からそっと、声のしたほうを覗き込んだ。

 そこには奇っ怪な姿の生き物がいた。

 不思議なシルエット。

 まず、首から上が人間のものではない。虎のような動物の頭部がそこにはついていた。牙が長く、獰猛どうもうそうな瞳が輝いている。洋服は着ておらず……腰から下には四本の脚があった。プラス筋骨隆々の両腕。まるで虎頭のケンタウロスだ。

 これはキメラだ。間違いない。以前資料で見たことがある。

 遺伝子操作によって生み出された哀れな生命体。胎児の間は培養液で育てられ、成長したら洗脳され、生物兵器としてその短い寿命を謳歌おうかする、存在してはならない被造物クリーチャー……。

 そいつは鼻を引くつかせている。嗅覚が鋭いのか。

 多分、僕がここにいることも、間もなくバレるだろう。

 こいつはメリーと遭遇しただろうか。

 おそらく僕達がこのビルにいることは知っているだろうが、もしもメリーが会敵していたのなら、何らかのダメージをこのキメラは負っているはず……。

 つまり敵は、この、目の前の奴だけではないということか?

 まあいい。とにかく今は、ここを切り抜けなくては……。

 先手必勝だ。

 照準を敵に向け、迷わずトリガーを引く。

 銃口は火を吹き、硝煙が空間に舞う。

 薬莢やっきょうが次々と床に落下して、カラカラと音を立てる。

 マガジンの半分ほどが無くなったと思われた頃、僕はトリガーから指を離した。敵は弾丸をモロに喰らっており、そのまま血を流して倒れた。体中が蜂の巣状態。

 案外チョロかったな。

 もしかしたら銃撃をかわされるかも、と思っていたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 しかし、サプレッサーを付けているとはいえ、それなりに物音はした。もし仲間がいるならば、いまので居場所を把握されてしまっただろう。

 僕はそのキメラが何か持ち物を所持していないか、近づいて確かめることにした。角から出つつ、マガジンに弾薬を装填し直す。

 その時であった。絶命したはずのそのキメラが飛び上がり、こちらへと跳ねた。

(死んだフリか!?)

 僕はかわすこともできず、そいつによってふっ飛ばされる。

 血と硝煙と獣臭が匂った。

 壁へと叩きつけられる。

 視界が反転、白黒する。

 痛みはアドレナリンによって緩和されているようだが、それでも痛いものは痛い。

 僕は痛みをこらえつつ、髪を払って顔を上げた。敵を見る。

 どうやら再生能力を持っていたらしい。超高速の新陳代謝機能を保持しているのだろうか。喰らわせたはずの弾丸が、そいつの腿肉ももにくのあたりから、ポタリポタリと排出されていた。傷口からは煙が昇っていて、煮えるような音と共に治癒が始まっている。

 参ったな。ちょっと舐めていたようだ。久々の戦闘ということで、無意識に油断していたらしい。

 僕は立ち上がりつつ、洋服についたほこりを払った。

 あー……、兄さんの帽子、汚れちゃっただろうか?

 すぐにでも確認したいけれど、隙を見せたら、すぐさま目の前のキメラは飛びかかってくるだろう。奴は跳躍の姿勢に入っており、鋭い眼光をたたえつつ、こちらを睨んでいる。

 改めて、正面からそいつの顔を見た。

 なかなか牙が長い。奴は口を開く。うなり声。歯の全体が見える。

 どれもこれも、まるでがれたかのようにとがっていた。あんなので噛みつかれたら、スパッと肉を裂かれてしまうだろう。

 さて、再生能力を持っているとなると、こいつはもう役に立たないな。僕は自動小銃を『ルーム』に戻した。

 チマチマとした攻撃では、決定的な損傷を与えられない。

 そうだな。やっぱりいつもの、僕が愛用している武器を使おう。近接戦になるため危険だけど、こうした場合には、それが有効なはずだ。

 敵は痺れを切らしたのか、こっちに向かって突進してきた。口を大きく開けたまま……剥き出しの長い牙。僕の喉元を食いちぎるつもりらしい。

 け、単純なやつめ。

 僕はそいつをギリギリまで引きつけて、

 『ルーム』から、槍を取り出した。

 いつでも使えるように、取り出しやすい位置に置いてある、愛用の武器。

 敵は速い。避けきる自信はない。

 だが――

 身体をそらし、そいつが僕の二の腕に噛み付いたのを確認してから――僕は槍の先端を、そいつの首元へと突き刺した。

 そのまま斜めに切り落とし、

 肉体を分離させた。

 一刀両断である。

 敵は上半身と下半身に分かれ、それぞれが狂ったように暴れていた。どうやら癒着するほどの再生能力は持っていないらしい。

 僕は未だに二の腕に噛みつき続けているその頭部に何度も刃を突き立てた。なかなかしぶとかったが、八回目くらいで生気を失ったようで、そのままあごの力を失い、ボトリと足元に落ちて転がった。

 凄い力だ。噛みつかれたのは左腕であったが、肉はもちろん、骨も完全に断たれていて、そこから血液が、あふれるように流れ出ていた。

 僕は座り込む。

 あまり痛みは感じない。

 きっと痛みの度合いが激し過ぎて、脳が誤信号を発しているのだろう……。自分の肉体が血を流している様子を、俯瞰して眺めている僕がどこかにいる。

 わざわざ自分で自分を傷つけることはしないけれど、誰かに傷つけられるのは、もしかしたら愉悦なのかもしれない。

 こうして度を超えた痛みと、敵の臓物が混じった、尋常じゃない量の血液の海に腰を降ろしていると、それが逆に、生きてることを再確認させてくれる。

 やっぱり自分は、普通の人間になれそうにないな。きっと心のどこかで、いつもこういう、破滅的で自己破壊的な衝動を抱えているのだから……。

 さて、早く止血をしないと――。

 僕は『ルーム』から止血パックを取り出して、そこから大きな絆創膏のようなものを取り出した。ホワイトノイズが開発した医療キットの一つであり、これを貼り付ければ、かなりの失血を防げるのだ。

 僕はそれを貼ったあと、輸血袋を取り出して、点滴のようにして自分につないだ。これで死ぬ可能性はほとんどゼロである。呑気なものだね、ルリくん。

 それから僕は自分の左腕を、『ルーム』の中にある、水槽へと入れた。緑色の特殊な溶液で満たされており、欠損してちぎれた肉体を入れておくことで、腐らせずに保管することができるのだ。あとは仲間のロマンサーに頼めば、この左腕を元通りくっつけて貰えるだろう。

 ああ、なんだか処置をしているうちに、本格的に痛み出してきた……。

 たしかモルヒネなどの強力な痛み止めは『ルーム』に置いてなかったはず。これは困ったぞ。

 気を失ってしまえば楽だが、そういうわけにもいかない。まだ、メリーと落ち合っていないのだ。ある程度めまいが治ってきたら、立って探しに行かねばなるまい。







 20


 先程の変な高揚感も、だいぶ減退してきた。さっきは戦闘を終えたばかりで興奮状態にあったらしい。ハイになっていた、というわけだ。

 なんでこんなことやってんだろう……。

 気分が悪いせいか、卑屈な考えがポンポン脳内に浮かんでくる。服についた血液が気持ち悪い。

 まあ、帽子はそんなに汚れていなかったので安心だ。あとでホワイトノイズの職員にでも頼んで、念入りにクリーニングしてもらおう。

 帽子を『ルーム』にしまい、壁に手をつきながら立ち上がった。それから、『ルーム』の保冷庫に入れてあった、2リットルの飲料水を取り出して、シャワーのようにして頭からかぶり、身体の汚れを簡単に落とした。

 片腕では自動小銃を扱いづらいので、代わりに小型の拳銃を取り出した。さっきのようなキメラが出てきたら厄介だが、何も装備していないよりは安心だろう。


 壁沿いに、階段へと続く廊下を歩いていると、向こうのほうに人影が見えた。

 メリー、ではなさそうだ。

 全身を覆うスーツのようなものを着ていて、なおかつ武装をしている。

 キメラではないが――おそらく敵だろう。先程のスナイパーだろうか? それとも?

 向こうもこちらに気づいたらしい。銃身の長い武器を両手で持っており、それを構えようとしていた。

 隠れることのできる遮蔽物は近くになかった。

 僕は急いで『ルーム』から金属製のテーブルを取り出して、それを前に倒した。敵の攻撃を防ぐためだけに作ったものであり、金属の板を厚くしているため、完全に銃弾を弾くことができる。

 僕はそこに隠れながら、数発射撃した。

 相手も近くの柱に隠れ、こちらへと射撃してくる。

 弾丸をはじく甲高い音……。

 なかなか警戒心の強いやつだ。それなりの武装をしているにもかかわらず、こちらに飛び込んでくるような無茶な真似をしてこない。

 敵を殺すことよりも、自分の身を守るほうが大切であり、あくまで仕事で行っている……ような、そんな態度。

 もしかすると『傭兵』だろうか。

 敵が本当にアポトーシスっていう奴らなのか、僕にはわからないけれど、ヤツの動きは傭兵のそれだ。お金のために動いているなら、堅実な戦法も理解できる。

 さっきのキメラも、あらかじめどこかから調達しておいたものなのだろうか?

 ……………。

 わからない。うまく見えてこない。というか、気分が悪くてあまり頭が働いていないのだろう。

 だが、膠着こうちゃく状態はこちらの得意分野だ。『ルーム』にはたくさんの弾薬もあるし、食料もある。相手が弾切れになるまで撃ち合えば、必ず勝機は向いてくるはず……。

 と、思っていたが。

 背後の廊下、先程まで僕がいた場所……その角に、人影がちらりと見えた。

 僕はすかさず発砲する。

 その人影の頭は、角の向こうに引っ込む。

「誰だ!」

 呼びかけるも返事がない。

 メリーであるなら、返答するはずだが……。

 挟み撃ちか? 通路の両側から。

 ワイヤーでも使って、別の階から移動してきたのだろうか? 相手がトランシーバーなどで連絡を取り合い、後ろに回り込んできていたとしてもおかしくはない。

 倒したテーブルの金属板に背中をつけて座り、その角に向かって、威嚇いかくを込めた発砲を途切れなく続ける。

 さて、どうする。前後を意識しながら戦わなければならない。

 本格的な戦闘になるとは思っていなかったため、敵を遠距離から木っ端微塵にできるような、ロケットランチャーとかは持ってきていないし……。

 手榴弾は持っているが、投げる力も残ってない。

 むしろ今この状況で、相手が手榴弾を投げてきたらかなりマズい。

 ピンチ。

 『ルーム』にある雑多なものを、くまなく高速で探す。

 何か使えるものはないか。この状況を切り抜けられるものは?

 焦り。焦燥。冷や汗が頬を伝うのを感じる。動悸。目眩目眩目眩。

 現実世界で、弾丸が頬をかすめる。痛みと寂しさ。こんなくだらない場所で死ぬのは嫌だ。捜索を再開。思考を加速させ視点を移動する。

 そして僕は『ルーム』にあるたくさんの玩具の中に、ラジコンカーを見つけた。それなりに大きく、操縦席にあたる部分に、野球ボール一個分くらい入りそうな空間がある。

 これだ。これを使おう。

 電池が切れてないことを確認すると、現実へとそれを引っ張り出し、ピンを抜いた手榴弾をつめて、敵へと走らせた。

 後ろの敵は角の近くにいる。僕は片手でコントローラーを操作し、角の近くまで走らせる。

 爆発まであと四秒くらい。

 敵の姿が見える。

 ラジコンカーを加速させ、そいつへと突っ込ませた。

 刹那。

 小規模な爆発。

 破裂。

 鈍い衝撃波。

 血を噴き出しながら仰向けに倒れる敵。まるでスローモーションで。

 一体は片付いた。

 あと、もう一体を……。

 僕はテーブル越しに正面を見ようとしたが、

 もう一人は、既にこちらへ駆けていた。

 だいぶ近くまで……

 僕が弱りかけだということを悟ったのか、それとも、弾が尽きたのか。

 避ける間もない。頭を蹴り飛ばされ、そのまま壁へと叩きつけられる。痛みが。

 目の前が一瞬白くなる。

 またかよ。

 この野郎。

 視力が回復してきた頃、銀色に光るものが見えた。

 ナイフだ。

 僕は急いで槍を現出させ、白刃を弾いて、なんとか攻撃を防御する。

 でも、片腕がもがれているせいだろうか……

 槍で受け止めた衝撃が体へと伝わり、そのまま再び倒れ込んでしまった。

 後ずさり、そのまま壁に背をつける。

 その傭兵――戦闘用のパワード・スーツとマスクをかぶっている――は、ナイフを構え直した。

 相手が子供だろうと全く容赦がない。これがプロフェッショナルな兵士というものか。戦場に倫理など存在しない。

 僕はうなだれ、目をつぶった。

 もうどうでもいい。早く終わらせてくれ。別に未練も何もない。

 いや、未練ならあるか。

 時雨……、僕は彼女が……。

 あの微笑みを思い出す。

 なぜか、兄さんではなく……。

 どうして…………………

 ……………………………

 ……………………………

 待つ。

 しかし様子が変だ。何もしてこない。やはり殺すのではなく、生け捕りにすることにしたのだろうか?

 目を開ける。

 その傭兵は、別の方向……階段のほうを向いていた。

 そこには、

 人がいた。

 …………。

 人?

 あれば人なのか?

 人というより、人の形をした炎だ。

 全身が燃えており、両目だけが殊更明るく輝いている。かろうじてシルエットは『人』を保っているが……それが本当に人間なのかすら分からない。まるでゲームに出てくる敵のようであった。

「その子を殺せば、あんたも殺す」と、その人は言った。「今すぐ手を上げて、その子から離れなさい」

 女性の声である。

 流石に傭兵も驚いたようだったが、馬鹿ではない。そいつは僕を持ち上げ、動きを封じるように体を締め付け、それから首元にナイフを添えた。チクチクする。どうやら僕を人質にして、この場を立ち去ろうとしているようだ。

「仕方ないわね」彼女は舌打ちをすると……、その場から消失した。

 いや、消失ではない。一瞬、炎の帯のようなものが、流星のように頭上を走ったからだ。

 そして、驚く間もなく、後ろから熱が伝わってきた。

 どうやら、僕を締め上げている傭兵の後ろで、再び〝形〟を成したらしい。

 男の叫び声。

 腕の力が緩む。

 僕は、敵から慌てて離れ、背後を振り返った。

 その助っ人は、炎の体を使い、傭兵を〝かして〟いた。

 敵はそのまま、手から足からどんどん消えていき、まるで蒸発するかのように燃え尽きてしまった。

 灰だけがその場に残る。初めから存在しなかったかのように――。

「大丈夫? あんた怪我はない? って、めっちゃ怪我しているわね」と、その燃える存在は言った。

「あ、あの……」

「あ、ごめんごめん」

 その人は、身に纏っている炎を消した。

 そこに現れたのは、十代後半と思われる女性だった。

 赤と黒でコーディネートされた洋服を着ていて、髪はポニーテール。異国の地の人間なのであろう……顔の彫りが深く、それから身長も高かった。その容姿や姿勢、そして態度のすみずみから、底知れない自信を感じさせるようであった。

 僕は問い掛ける。「もしかして貴女が、起炎者ファイアスターター……ラブドライブ家の?」

「そうよ。あたしがアシュリー・ラブドライブ……この近くで爆発が聞こえてね、慌ててすっ飛んで来たのよ。そしたらまさか、こんなことになっているとはね……運が良かったわ。妨害電波については、対策しないといけないかしら。あんたは、例の空間作成者ルームメイカーね?」

「そうです。でも、どうして……こんなところに」

「調査から帰ってくるところだったのよ。あたしは地下鉄を使わないしね……、ってそんなこと言ってる場合じゃないわ! アンタ、痛くないの、それ?」

「ものすごく痛いです。半端なく」僕は安堵のせいか、意識を失いかけながらそういった。「ですが、まだ、僕の仲間がこのビルに……」

「ああ、メリーってやつね。名簿にも載っていたかしら……。まあ、大丈夫。あとは何とかするから、安心して眠ってて。まったく、アンタみたいな子供に無理させたヤツの顔を、早く拝んでみたいわね」彼女はイライラしているらしく、近くに落ちてあった薬莢を蹴り飛ばした。「そこで待ってなさい。あ、あと」彼女はポケットからケースを取り出し、こちらに投げた。「痛み止めと睡眠剤の合成薬よ。それ、飲んどきなさい。だいぶ楽になるから」

 彼女はそう言うと、再び体を炎へと変化させた。そしてガラス窓を突き破り、そのまま上昇して見えなくなった。

 あっという間の出来事だったので、僕は束の間呆然としていたが、頭を振って我に返った。

 あれが例の【助っ人】か……なるほど。

 僕はケースをあけ、中の薬を口に入れた。錠剤が口内で溶けていく。不思議な味だ、ココナッツのような……不思議と美味しく感じて……。

 そして、まどろみに似た心地良さが体を包み込み、僕は気を失った。







 21


 僕はベッドに寝たまま、イヤホンをつけて音楽を聞いていた。

 どうやら、しばらくはここで休まないといけないらしい。

 腕はしっかりと元通りにくっつけて貰えたし、その他の怪我も完全に治っているのだけど、精神的な面も考慮して安静にしておきなさい、とのことだった。

 あっという間に一週間が経っていた。

 僕はいま、街の病院の一室にいる。(一応)ホワイトノイズのメンバーなので、その働きかけのおかげか、それなりに良い部屋をあてがわれていた。四階で、窓の外からは海が見える。綺麗だけど眩しいので、今はカーテンを締め切っているけれども。

 扉がノックされた。色白で、Tシャツを着た短髪の青年が入ってくる。

 それはウォルトであった。彼もまた、組織における能力者の一人であり、今回その能力を使って治療をしてくれたらしいのだが、こうして、直接顔を合わせるのは久々だ。なつかしい。

「久しぶりだね、ウォルト」

「こちらこそ……。それより、体調はどうです?」

「もう大丈夫。気分も悪くないよ。治療ありがとう」

「いや、礼には及びませんよ。ただの仕事ですから。それに、大変だったのはルリさんのほうだと思いますよ。話をざっくりと聞きましたが、どうやらぼくのいない間、また事件があったのですね。二人とも、死なずに済んで良かったです。」

「良かった、ね……」僕は天井を見た。「あのアシュリーって人が駆けつけていなかったら、って思うと、ゾッとしないな。本当だったら、自分の力で対処しなければならない案件だった……。空白期間ブランクがあるとはいえ、自らの力量不足が露呈したことは、厳然たる事実だよ……。そういえば、メリーはどうしてるの?」

「ああ、彼なら隣の部屋にいますよ。サイボーグなので、修理をするのは簡単ですが、色々と整備が大変なので」

「会いに来てくれないんだね、彼は」

「まあ責任を感じているのでしょう。一応護衛を任されていたわけなので」

「勝手に動いたのは僕だから、別に気にしなくてもいいんだけどね」僕はため息をついた。「それで、いつ退院できそう?」

「そうですね、その様子だと、明後日にはおこなえると思いますよ。諸所の手続きはこちらが全部することになっていますが、それなりに規定も存在しているので」彼は、眼鏡の位置を指で調節した。「それで、われわれも会議をおこなったのですが、やはりルリさんは、この、アポトーシス関連の出来事には関わらせないほうが良いだろう、ということになりましてね。もちろん、以前に頼まれたと聞く、その早乙女時雨という少女については、引き続きこちらで調査をつづけていくわけですが」

「まあ、仕方ないさ。あくまで僕は、半分脱退したような身だしね、異議を申し立てるつもりはサラサラないよ。それで、あのあと手掛かりはつかめたの? それから戦闘前に、メリーが車の中で、何かを匂わせるようなことを言ってたけど」

「匂わせる? それについては分かりませんが……そうですね」彼は端末に視線を向けた。「戦闘の場にいた、キメラや傭兵たちのデータはすでに収集済みです。彼らがどのようにして雇われたのか、調達されたのか、その辺りについてはおおよそを把握しましたし、部分的ではありますが、手掛かりを――尻尾を摑めたと言っても良いでしょう。まだしばらく時間が掛かると思いますが、必ず解決させるつもりで、われわれも取り組んでいますよ」

「あの、もしかしたらその中に、ブラッドレインの生き残りは……」

 僕がそう聞くと、彼は驚いたような表情を見せた。

 しかし、すぐさまその表情をかき消す。不自然な動作であった。

「残念ですが、これ以上伝えることはできません。これは守秘義務なので……。あの、ルリさんにお訊きしたいのですが、このあいだ、所長とどれくらい話しましたか?」

「所長?」どうしてここで所長が出てくるのだろう。「いえ、別に大したことは話してないけど……その、僕の友人について調査をして欲しいとは頼んだけど、それ以外にめぼしいことは……」

「そうですか。いちおう聞いただけです」彼は椅子から立ち上がった。「あと、もう一つ伝えておきたいことがあるのですが」

「なんだい?」

「退院と同時に、ルリさんにボディーガードがつきます」

「へ、ボディーガード?」

「そうです。ボディーガード――それも二人もですよ」

「な、なんでそんなことを? 別に必要ないじゃないか! もう、事件には関わらせないってことなんだろう? そこまでしなくても」

 過剰な対応ではないか、と僕は思った。

「いえ、だからこそです。狙われているのはホワイトノイズの人員ですし、だからこそ、組織から離れているルリさんは無防備で、放ってはおけないのです。たしかに敵は、我々の基地のほうに目が向いており、なおかつ、ルリさんの住む地域は警備が厳しいため、狙われる危険性は少ないかもしれませんが……ゼロではありません。念には念を入れた措置ということですよ」

「ふーん、そこまでしてくれるだなんて、なんだか手厚いサービスだね」

「まあ、事件が解決するまでの期間限定なので」

「でも」僕は彼に尋ねた。「その、二人のボディーガードって誰なんだい? まったく知らない人に来られても、扱いに困るというか……それに、ロイドやバーミリアスが来ても、逆に足手まといに……」

「マロンさんとミルンさんです」

「えっ、あの双子?」僕は驚いた。

「貴女のボディーガードは、あのお二人がやってくれるとの事です。向こうが進み出て、申し入れてくれたんですよ。良かったですね、快いお仲間に恵まれて……」

 彼はそう言うと、爽やかな微笑を浮かべた。







 22


「お久しぶりですルリさん」「お怪我は治りましたか」「人づてに話を聞きましたが、」「だいぶ損傷が激しかったと」「精神的な苦痛は尾を引くものですからね」「ルリさんはもっと、自分を大切にするべきです」「本当に心配していました」


「あー、大丈夫。前と違って、そんな大したことなかったし」


「こうして護衛をさせて頂くわけですが、」「必要な事があったら何でも言いつけてください」「仰せのままに」「もちろん内容にもよりますが」「ルリさんは賢明で聡明で優しいお方なので」「無理な注文はおこなわないはずだ」「と、私たちは推察します」


「………。えっと、とにかくよろしく」


「よろしくです」「よろしくお願いします」「ところで」「ルリさんまた髪の毛がお伸びになりましたね」「腰に届きそうですよ」「ルリさんの御自宅に到着した後、」「私たちが散髪しましょうか?」「私たち、」「お互いの毛髪を切り合っているので、」「だいぶ手慣れているかと」


「ああ、いや大丈夫。切るつもりはないから。今の所は」


「そうですか」「わかりました」「残念です」「また今度」







 23


 …………。

 この双子と話すのはかなり疲れる。

 彼女たちは、一つの文章を交互に順番に喋っているため、右から左から声が出て……会話をしているだけで頭痛がしてくる。

 そもそも、彼女たちは見た目が同一であり、どちらがどちらであるかも判別しづらい(個々の名前で呼べば、分かるっちゃ分かるけど)。

 また彼女たちは、いつでも二人で行動している。お互いが十メートル以上の距離を開けることは、まずあり得ないのでは、と思えるほどに親密だ。

 親密。この表現が適切かは分からない。依存してあってる、と呼ぶこともできるだろうし、支え合っている、と美化することも可能だろう。

 とにかく彼女たちは、切り離せないほどの仲であることは確かである。

 だから僕は彼女たちを区別せず、二人で一人の存在だとして認識している。

 しかし、一つだけ明確に異なる点がある。

 マロンとミルン。

 彼女たちもまたロマンサーなのだが、それぞれ保有している能力が異なるのだ。

 姉であるマロンは、変幻能力を保持しており、自分の姿を自由に変えることができる。

 一方、妹であるミルンは念動力を使うことができ、バス一台ほどの重さの物質でも、無生物であれば、持ち上げたり投げたりすることができるのだ。

 …………。

 正直僕よりもよっぽど優秀な能力だ。特に戦闘においては、間違いなくそうであろう。それゆえに、このようなボディーガードを任されているのだ。

 しかし、どうして彼女たちが僕に対して好意を持ってくれているのか、イマイチ分からない。僕は別に、彼女たちに対して、特別な施しをした覚えはないし、あまり会話をした記憶もない。


 初めてあったとき、彼女たちは何も喋ろうとしなかった。

 正しい言語を発話できなかった、という理由もそこには加えられる。

 彼女たちが組織に連れてこられたときのことを覚えている。

 二人共衰弱しきっていて、瞳に生気が宿っていなかった。限界まで痩せており、彼女たちは皮と骨のみで肉体を構成されているようだった。

 双子の出身は廃棄都市である。

 まるで捨て猫のように親族に捨てられた彼女たちは、生きるために、そこで戦わざるを得ない状態へと追い込まれた。

 教育を施す教師はおらず、彼女たちを守ってくれる親や組織もない。彼女たちはかろうじて、自らの能力を使うことにより、生存し続けられたのだろう。

 時には敵の姿に化けて食料を盗み、時には敵を自動車の下敷きにして圧殺した。

 缶詰の食料を調達できないときは、〈人〉を食べざるを得ないときもあったそうだ。

 人肉。僕はそう聞いている。

 たとえどんなに罪悪を覚えたとしても、嫌悪感を抱いたとしても、立ち止まれない……立ち止まってはいけない状態……。

 しかし、廃棄都市には汚染箇所も残っているし、食料なんて限りなくゼロに等しいのだ。

 もしも彼女たちを、ホワイトノイズの成員が見つけていなかったら……あと一週間でも遅かったら、きっと助かってはいなかっただろう。

 ホワイトノイズが保護したときには、すでに激しい脱水症状を引き起こしており、なおかつ二人とも栄養失調で、体中の至るところを骨折していたし、清潔ではない環境のせいで、数々の深刻な病気・合併症もわずらっていたからだ。

 ウォルトのように治癒能力を使えるロマンサーは希少だ。

 彼はその頃、重要な別件の仕事を抱えており、身動きの取れない状況だった(また、彼の能力は怪我の治癒のみであり、病気を回復させることはできない)。

 そのため、当時の先鋭の医者たちにより、通常の手術・治療がおこなわれることになったのだが、それは、途轍とてつもなく過酷なものだったと聞く。

 メリーと違って、彼女たちは年端もいかない子供であったため、サイボーグ化することは難しかった。

 それに、サイボーグ化してしまったら、能力は鈍くなってしまうし、子供も産めなくなる。

 能力の発現は、特定の血筋に流れる遺伝的な要素が大きく絡んでいるため、ホワイトノイズとしては、彼女たちをそのままの状態で治し、強化したいという、別の理由もあったのだ(と思われる)。

 強化。

 そこには微弱ではあるが、洗脳のような行為も含まれていたと、僕はマーマレードに聞いたことがある。

 ホワイトノイズは正義の団体であるが、善良な組織ではない。正義のためなら何でもするが、それは裏を返せば、どんな手段を使っても、目的を貫き通すことの表れでもある。

 正義と倫理は、必ずしも同居するとは限らないのだ。

 もちろんそれは理念であるため、表層的には優しい一面も多い。組織には、血の通った人間が働いているからだ。

 現在進行形で、僕も助けられている。しかしそれは、緊急時になれば崩れ去ってしまう、甘い砂上の楼閣ろうかくなのだ。


 彼女たちは助かった。

 いま、元気な姿でここにいるし、以前の消え入りそうな面影は、なんとか払拭している……影を潜めている。

 だけど僕は、彼女たちの裏側に、どれだけの闇があるのか判断できない。治療による苦痛と疲労……それだけでも、かなり酷だというのに……。

 そうだな。多分僕は、だからこそ苦手なのだ。

 自分が不幸なのは構わない。

 いくら怒鳴られようと殴られようと刺されようと腕をもがれようと拷問されようと目玉をえぐり出されようと、それが〈自分〉であるならば、きっと耐えきれるだろうし、その前に自害することだって容易い。

 でも、痛みを共有できない……どう考えても自分よりも不幸だと思える、僕よりも幼い彼女たちだからこそ……。

 ただ、唯一救いなのは、彼女たちは「二人」であるということだ。

 僕は彼女たちと違って、立ち直れていない。

 振り切れてもいない。

 いまだに兄の面影を追い掛けているのだ。

 壊れた心の残滓ざんし

 もう逢えないとわかりつつ、それがどこかで実現しないかと願っている。

 そして、兄を失ったことでできた傷は、時雨の死によって、より大きく広がってしまった……。

 心にできた空白を埋めるすべを、僕は知らない。







 24


 僕は自宅に帰った。

 マンションの最上階はすべて僕の敷地であり、専用のカードを認識させ、網膜スキャンをおこなわないと、たどり着けないようになっている。

 エレベーター自体に細工がしてあって、認証していないと、最上階には到着できないようになっているのだ(階段で上ることもできるが、そちらはもっとセキュリティが厳重だ)。

 双子がおらずとも、万全のセキュリティ対策が施されていると言える。

 僕は双子に部屋を与え、家の間取りについて説明した。

「ところでルリさん」と双子が言った。「なにか食事はありませんか?」

「あるよ。棚にカップ麺が置いてあるだろ、山ほど」

「お湯を注ぐという、あの?」

 彼女たちは、カップのひとつを手に取り、成分表や原材料の項目をじっと眺めた。

「もっと美味しいものが食べたいです。大量生産された簡易製造物を口にするのははばかられます。ルリさんはお金を充分保持しているため、節約する必要はないはずだ、と私たちは記憶していますが。それに、健康面でも問題があるかと思われます」

「いや、食事にそこまで執着が無いだけだよ。栄養はビタミン剤とかで、簡単に補えるしね。それに、僕は胃腸がそこまで強くないから、必然的に量を食べられないし」僕はソファーに座ってあくびをした。「君たちで買ってきたらどうだい? 別に四六時中一緒にいろ、という命令でもないんだろう? この辺りは警備も厳しいし、日暮れまでに戻れば問題ないと思うよ」

「そうですか。ルリさんは行かないのですか?」

「僕はいいよ。なんだかまだ本調子じゃないし……。一応休学の届けは出してくれたようだけど、それなりに勉強もしないとマズいしさ」

「嘘ですね。ルリさんは既に、高校卒業程度の学力なら保持しているはずですが」

「課題が出てるんだよ、レポートとか色々。まあ、ネットで代行屋を雇えば、すぐに終わるっちゃ終わるけれども……。そうだ、君たちがやったらどうかな? 良い作文練習になると思うよ」

「私たちは召使いではありません。主旨を忘れないでください」

「あ、はい……」

 とがめられてしまった。別に、からかったつもりはなかったんだけど……。







 25


 僕は彼女たちを玄関まで見送ったあと、端末で調べものをした。

 ホワイトノイズの情報局にアクセスしたり、電脳図書館でWW3に関する歴史を学んだりである。

 でも、めぼしい記事や情報は見つけられなかった。機密とされる情報を閲覧するのには、それなりの手続きを踏まえた許可が要る。そのため、背後に隠された情報については、基本的には推察するしかないのである。

 ホワイトノイズの簡易人工知能を使って生成した文章(様々な記事を繋ぎ合わせつつ、文体を変更したもの)を、丸写しコピーアンドペーストしてレポートを完成させたあと、僕はふと思い立って、例の短編小説を読むことにした。

 時雨の言っていた、『走る取的』という作品である。

 著作権が既に切れていたが、電脳図書館では現在貸し出されていなかったため、電脳書店で一定料金を払い、その作品が収録されている短編集を購入した。

 僕はそのデータを、目が疲れない読書専用の電子インク端末に移し、ベッドで寝転びながら読むことにした(モニターで見るより電子インク越しに文章を読んだほうが目が疲れない。二十一世紀における有用な発明の一つだと個人的には思っている)。

 ……………。

 確かにそれは僕の見た夢に似ていた。

 しかし虚構なのにもかかわらず、なぜかリアリティが醸し出されていて、得体の知れない恐怖が背筋を上ってくる。不条理を端的に表しており、明確な理由付けがなされていないからこそ、かえって完成度が高まっていた。

 筒井康隆という作者らしい。この方の小説を読むのは初めてだが……なかなか切れ味のある文章を書く。百年ほど前に書かれた作品であるというのが驚きだ。いや、だからこそ、こんな巧みな文を綴れるのか。

 その作家が気に入った僕は、その本に収録されている残りの短編もすべて読んだ。

 それから『虚航船団』『虚人たち』『夢の木坂分岐点』を、タイトルの格好良さから購入した。説明書き(あらすじ)を読んだら、どれも長編であることに気づいた。

 内容を知らないため、逆にワクワクする。この休みの間にゆっくりと読むことにしよう……。

 それにしても、時雨はこんな古い作品まで、普段から読んでいたのか。

 それなりに本を読んでいたのは知っていたけれど、かなりの博覧強記はくらんきょうきだったのかも。いろいろと勧められて、自分の読む漫画の幅も広がったし……。

 時雨。

 そういえば、僕はいまだに、彼女のお墓を訪ねていない。

 どこにあるのだろう……。せめて、少しくらいは、悼むというか……祈祷する時間を与えてほしいのだけれど。

 行動するなと言われているし、それに逆らうつもりはない。アポトーシスの事件については関与しないのは当然だ。

 だけど、それ以外については禁止されてる訳ではない。

 彼女の過去が知りたい。

 事件と関係なく、ただの好奇心でもなく、それが時雨の感情を、本当の意味で理解することにつながると思えるのだ。

 言葉によって交わせなかった想いの欠片かけら、その意味を……。







 26


 双子が帰ってくる。

「ルリさん、街に繰り出したのは良いですが、どこに行けばいいのか分かりませんでした。この街の構造は複雑です。途中で迷いそうになり、戻らざるを得ないことになりました」

「結局食事しなかったの?」

「「はい」」と彼女たちは同時に言った。「それに、バスの使い方も分かりませんでした」

「うーむ、仕方ない。それじゃあ外食でもしようか。僕もついていくことにするよ。あと、帰りはスーパーによるから、野菜でも穀物でも香辛料でもお菓子でも、自由に買って良いよ。でも、僕は勝手に食すから、何か食べたいときは、君たち自身で自由に作ってくれ。いいね?」


 ☆


 そして、外食をした。僕はエビのパエリアを食べた。彼女たちはピザ……丸いそれを、ナイフで二人で切っていた。

 ファミリーレストラン。

 彼女たちは料理が美味しいと言ってくれたし、僕もお財布的に美味しかった。みんな嬉しいみんな幸せ。







 27


 何日も家の中で、ダラダラと徒然つれづれなるままに過ごす。

 ――以下がその内実である。


 ☆


 メリーからお詫びとして(?)貸してもらった『刑事コロンボ』を見ることにする。なかなか面白い。オチのしっかりしている上質な推理ドラマだ。役者の演技も優れている。


 それから、いろいろ悩んだ末、双子に髪の毛を切ってもらうことにした。腰下まで伸びていると危ない、という彼女たちの説得に屈してしまったのである。でも、僕は短髪が嫌いだ。だから肩甲骨の位置までの長さ、ということで妥協して、散髪をしたのである。久し振りの散髪。切ったあとは爽快感があった。僕はお風呂が好きで、時には一時間以上入浴することもあるのだが、洗髪時間を短縮できるようになったのは、思いのほか大きい要素であった。これは革命であった。せっせと髪の毛を折り畳んだり、巻いたり、ほどいたりを繰り返してシャンプーしていたのだが、もう、それをする必要も無くなった。しかも、一回の洗髪につかうシャンプーの量も、だいぶ減った。よくも今まで我慢できていたものだ。自分で自分にあきれてしまう。習慣の恐ろしさたるや……。


 D中学は相変わらず休んでいる。どうやら規定によれば、課題をこなしている限り、留年することはないらしい。このまま不登校……休学を続けるのも悪くないかもしれない。高校生になるかどうかは分からないけれど、もしも進学するとしたら、通信高校とかそういうところにしようかな。


 数回、仲町茜とメールのやり取りをした。勉強会を開きたい、との提案だった。僕は自分の状況をかんがみて、それを断った。その代わり、彼女が勉強でつまずいている箇所を、メールを使って教えてあげた。高校入試に向けて勉強しているらしい。普通の女の子、って感じだ。微笑ましい。うらやましいが妬みはしない。そのうち会えないかな、とメールで訊かれたが、曖昧に返しておいた。嫌なわけではないけれど、自分にとっての重要度が高くないのである。それに、小学校のときは確かに一緒だったけれど、僕は、基本的に人見知りなのだ。それも、同期の人間……年齢の近い人に対しては、ことさら苦手意識を持っている。どう振る舞えばいいのか、定かではないし、会話がうまく成り立たないのだ。僕の能力不足なのだろうか。それとも……。


 ゲームをした。もちろん星のカービィである。エアライド。物置からゲーム機とソフトを引っ張り出した。双子と一緒に遊んだ。ハンデはなし。真剣勝負というやつである。結果は……一位がマロンで二位がミルン、そして三位が僕だった。弱い。雑魚である。カービィファン失格だ。もっと頑張れ。







 28


 僕は時雨の住んでいたマンションを訪れることにした。


 ☆


 運転手にお金を渡し、タクシーを降りる。電子通貨でも決済できるが、念のため足跡が残らないようにした。

 歩道を歩き、彼女……早乙女時雨のマンションを探した。

 ずっと前のことだけど、近くのデパートへ、彼女と一緒に洋服を買いに来たことがあったのである。

 看板が多いため、目的の場所はすぐに見つかった。

 僕はそのマンションの内部に入り、エレベーターに乗って十一階へと上がった。

 防犯上、エントランスでカードを差し込まなければ進入できないのだけれど、マーマレードさんにお願いし、ハッキングしておいて貰ったため、問題なく通過することができた。

 エレベーターが開き、僕は外へと出た。

 廊下を挟んで右と左に扉が並んでいた。僕は一番奥にある1108号室の前まで来て、教えて貰った暗証番号を入力してからノブを回した。

 ……………。

 緊張する。

 もう現場は片付いているとはいえ、人が……時雨が亡くなった場所だ。幽霊とかは信じていないけど、やはり怖い。

 扉を開ける。

 玄関。

 思ったよりは小さいが、靴などが見当たらないため、空虚で広々として見えた。

 中へと入り、一つ一つの部屋を調べていった。

 既にここの調査は済んではいるが、何か残されたもの――自分だからこそわかるものがないか、確かめに来たのである。

 家具ももう取り払われていて、めぼしいモノは何もない。

 どの部屋も消毒されたように綺麗に片付けられていた。押し入れの中や、台所の収納スペースも確認してみたが、跡形もなく片付けられている。

 まるで、初めから誰も住んでいなかったかのように……。

 一応訊いてはいたが、何となく、確かめずにはいられなかったのである。

 僕はベランダに出て、風を浴びることにした。

 窓を開け、外に出る。

 見晴らしがよく、遠くの景色まで眺められて……向こうの方には海がかすかに見えている。

 海が見えるというのは、それだけでも気持ちが良いものだ。多分、夜景も綺麗なんだろう。

 空には鳥が数羽飛んでいる。白い鳥だ。海の方からカモメがやってきているのだろうか……? あまり鳥には詳しくないため分からないけど……。

 僕はそのまま風景をぼんやり眺めていた。

 時雨はここで、どんな想いを抱き、暮らしていたのだろう。

 人が死ぬということは、一つの世界が終わりを迎えるということだ。

 毎日どこかで誰かが生まれ、誰かが死んでいて、それは本当に当たり前のことだからこそ、あまり意識することはない。

 でも、一人ひとり見えている世界は異なるはずだし……それは即ち、たくさんの世界が毎日生まれ、消えている、ということになるのだろう。

 みんな同じ世界で生きているように思えて、本当のところはバラバラなのだ。

 バラバラの、そのたくさんの世界を、五感や言葉で繋ぎ止めているに過ぎないのだ。

 人ひとりが知り得る範囲なんて、本当に微小なものだ。ちっぽけだ。砂粒のように。

 ……………。

 だからこそ、僕は彼女が何を思っていたのか知りたい。

 どうして亡くなったのか。

 どうして死ななければならなかったのか。

 どうして相談してくれなかったのか。

 僕にはわからない。何かを見落としているのだろうか?

 もちろん、疑問に思っていることはある。

 時雨の涙、ドッペルゲンガー、ブラッドレインの生き残り、アポトーシスに……背中の傷。

 事態は混み合っている。混線している。

 やはり、大人達に任せるべきなのだろうか。普通に考えればそれで良い。

 しかし、数少ない大事な友人の死を――死の真相を、誰かに任せるなんて……。

 生と死の間に横たわる距離とはどのくらいだろう。死という概念は遥か遠くに位置しているように見えて、それは隣り合わせで自分という存在をむしばんでいるように思えるし、生きるということは死に続けることと同義であり、例えば確実に、生きていることを事実として実感したいのならば、戦場のような場所に身を投ずることで逆説的にそれを噛み締めることが出来るのかもしれないし、以前の僕――いや、いまも全然変わっていないのかもしれない――は、まさしく〈それ〉なのだろう。

 他人に任せられない、なんてのは口実で、兄さんも時雨もいないこの世界の空虚さからなんとかして逃れようとするための手段と理由を探しているのだ。所長が止めようとする理由も分かる。ドッペルゲンガーのような突飛な幻覚を見る精神状態は普通じゃない。異常だ。能力者という時点で僕の存在は壊れているのだ。壊れている存在がこれ以上壊れたところで何も問題はない。失うモノは何も無い。家族も親友も帰る場所も何も何も無い。偽りの時間だけが悠然ゆうぜんと頭上を通過して、鬱屈とした感情を倍加させるのだ。韜晦とうかいした想いだけが自らを侵食し行動を促進させるのだ。過去からの解脱を許さぬ励起れいきの連続。虚無と死と暴力の匂いだけが一面に立ち込める深淵が、向こうから音もなくあの時のようにやってくるのだ。底知れぬ悪意が道端から立ち現れるように。

 僕は下界を見遣った。

 高い、とはいえ、僕の住んでいる部屋よりは低い位置だ。

 充分潮風を浴び、気分も晴れてきたころ、僕はベランダの片隅に不思議なものを見つけた。

 羽根である。

 白い羽根。

 それが一本だけ、床の近くに挟まっていたのである。

 あのカモメがここまで来たのだろうか?

 僕は手を伸ばしてそれを取った。

 綺麗で汚れはついていない。出来たての綿飴のように純白をしている。

 鳥の羽根というより、天使の羽根のようだ。おもちゃか何かだろうか? うーむ。

 取り敢えずそれをポケットに入れて、僕は時雨の部屋から立ち去った。エレベーターを使って一階に降りる。

 やはり、高いところは空気が違う気がした。







 29


 それは眠れない夜であった。

 無為な時間を過ごさないように、僕は例の小説を読みつつ、眠気がまぶたにのし掛かるのを待っていた。

 双子は既に眠っている。風の音だけが静かに聞こえ、それがかえって、静寂の度合いを高めているようであった。

 しかし、長く読書をしているうち、少しずつ頭痛が増してきていることに気がついた。砂糖の入っていないレモンティーを飲み、あくびをする。

 そのときである。

 僕は不思議なモノを感じた。

 違和感、というべきだろうか。

 自分がそこに……その場所に居るにもかかわらず、その自分という存在が、何者によって増幅させられているような――自分の意識が膨張するような、奇妙な感覚に包み込まれた。

「ここ」という場所に存在しながら、同時に「向こう」にも自分が存在しているような感覚。

 分裂ではなく、追加されたような感じだ。

 その気配は、外から感じた。

 僕は窓のほうを見る。

 窓はカーテンで覆われているが……その布は薄く、月光が透き通って部屋まで届いている。

 そして、その光のヴェールの中に、人影があった。

 人らしきモノ、のシルエットだ。

 そこだけが影になって、床に形を現していた。カーテンが揺れると、その影も揺れる。

 ベランダに、誰かがいる。 

 誰かが――

 そんなはずはない。ここはマンションの最上階であり、壁を伝ってのぼるのは不可能だ。

 それに、たとえ内部から侵入したとしても、僕以外は必ず、センサーに引っ掛かるように出来ている。

 あり得ない。あり得ない現象が目の前で起こっている。

 マロンとミルンを起こすべきか……?

 この人物はロマンサーである可能性が高い。能力者であれば、不可能を可能にしてもおかしくはない。

 しかし、目的が分からない。

 そいつはそこで、一体何をしているのだ。

 もしも僕を襲うのであれば、迅速に行動するはずだし、そこで――ベランダでボーッと突っ立っている、なんてことはあり得ないだろう。

 僕に用か? それならどうして、ノックの一つもしないのだ。

 意味が分からない。

 残された可能性は、僕が今、現在進行形で夢を見ているということであるが、残念ながら頬をつねっても、充分なほど痛みを感じた。夢ではない。

 痺れを切らす。

 僕は窓を開けて、ベランダに出た。

 冷たい風が吹くなか、その人物は月夜を背景にして、落下防止の作の上に立っていた。

 柵の……平均台のように細い棒の上に、である。命綱も無しに……。かなり危険な場所だ。

 また、その人物は、とても不思議な格好をしていた。

 つばの長い三角帽子をかぶり、その隙間からは、金色の、長く美しい髪が垂れている。

 身体全体を覆う、濃紺色のうこんいろのローブを着ていて、それがマントのようになり、風で静かになびいている。

 片手で杖を持っており、その先端には握りこぶしほどの大きさもある、赤い宝石が埋め込まれていた。

 ローブのすそからわずかに見える足には、革でできた、つま先の尖った靴がはまっている。

 まるで……コスプレだ。

 明らかにおかしい。狂っている。

 その人物は向こうの方を……顔を下界に向けていて、僕のほうを振り返ろうともしない。まるで人々を、天界から見守っているようだった。

 帽子を深くかぶり、えりの部分が長く直立しているので、顔がよく見えない。

 肌がとても白い。透き通るようだ。

 女性だとは思うが、それすらもまだ摑めない。判別できない。人間かどうかすらも、自信が無くなってきた。

 身長は僕と同じか、それよりも少し高いくらいであった。人間だとしたら、まだ子供だろうか。

 幽霊のようであった。

 月夜に現れる、美しい幽霊ゴースト

 いや、亡霊レヴェナントというべきか。

 そこに居てはならない存在……。

「あの」僕は呼びかけた。「あなたは……」

「綺麗ね」

「えっ」

「夜景が。それに見晴らしもいい」

「…………」

 それは女性の声だった。

 しかも、僕とまったく同じ声をしている。

 自分が勝手にしゃべり出したのか、と錯覚しそうになるほど……。

「あなたは、いったい……」

 彼女はこちらを向いた。

 顔が現れる。

 …………。

 金髪碧眼。

 まるで人形のような端麗な容貌。

 雪のような肌。

 顔の形はとても似ていたが、まったく同じではない。

 でも……、

 瞳が合う。

 曇りなき群青が……。

 傷一つなく、完全性をその双眸に宿してしまったような……。

 そして僕は気づく。

 同じ、であった。

 それ以上の次元で、何から何まで同一であった。

 形の問題ではない。

 寸分違わず、紛れもない自分がそこで僕を見ていた。

 その完全性がたたえている、面影のような精神の形が、僕とまったく同じなのだ。

 これは、以前のドッペルゲンガーとか、そんなレベルではない。

 その、青い瞳の中にある魂は、僕と完全に一致していた。

 混乱。

 絶句。

 沈黙を破るかのように、彼女は言った。

「やはり、この世界での〈私〉は〈貴女〉なのね。やっと確信したわ」

「どうして……?」

「それについて返答するのは、とても簡単よ。私は別の世界から来た。だから、私と貴女は同じなの。私にとっての別の可能性が貴女であり、貴女にとっての別の可能性が私。自分と同じ気配を感じたものだから、試しに様子を見に来たわけだけど、自分とここまでかけ離れた可能性の私を見るのは、かなり新鮮ね。そもそもこの世界自体が、かなり特異な場所に位置している、と言えるのかもしれないけれど」

「訳が……分からないのですが」

「怯えているの?」

「…………」

「大丈夫よ。私は何もしない。自分と同じ存在を殺めるだなんて、そんな馬鹿なことはしないわよ。まあ、貴女にとってはショックが大きいかもしれないわね。自分の、完全だった可能性を見ることになっているんですもの。いえ、精確には私も、それに至る途上の存在だけれども」

「…………意味が、わか……」

 僕はそこまで言い掛けて、口をつぐんだ。

 僕はもう理解していた。

 理屈ではまったく認められないけれど、それはもう、魂のレベルで受け入れざるを得ないことであった。

 もしも目の前の存在を否定すれば、それは自分の存在をも否定することになる。

 彼女の意識を、まるで自分のように感じることができた。

 きっと彼女も、僕の意識を感じているのだろう。

 彼女に触れなくとも、彼女の形が分かる。彼女の見ている僕の映像が、僕の中に流れ込んでくる。

 彼女の精神には、やはり傷がなかった。

 一つの花がそこにあり、僕はそれに魅入られていた。

 それは永遠に願っても、僕が手に入れられないものであり……

 一つの、完璧な精神。

 無垢の器。

 光が溢れている。

 光が。

 時空がそこで収束している。

 始まりと終わりが。

 流れが遮断され、

 星が弾けている。

 曼荼羅模様と幾何学模様。

 精神が宇宙を内包しているのだ。

 すべてがそこに存在した。

 ――――――

 それから、炎が。

 瞳と同じ色の、青い炎。

 灼ける。

 湮滅。

 砕け散って……

 ――――――

 駄目だ。

 このままでは消えてしまう。

 僕が壊れてしまう。

 こんな存在がいるのでは、僕には生きている価値が皆無ではないか。

 意識が、薄らいで……。

 僕は誰だ……

 私は……

 ………







 30


 目が覚める。

 そこにはまだ彼女が居た。

 どうやら僕を、ベランダの段差に座らせてくれたようであった。

 いつの間にか、意識を無くしていたらしい。

「ごめんなさい。初めから気付いておくべきだったわ」と彼女は言った。「貴女を苦しめるつもりはなかったの。許してくれる?」

「あ、あの……」

「私も、こういう形で『自分』に会うのは初めてなの。あなたと同じで、私も自分をぞんざいに扱ってしまうところがあってね、さっきは本当に悪かったわ」

「貴女は、他の世界から来た『僕』なんですね」僕は息を整えながらいった。「何しに来たんです? 僕をからかおうと?」

「そうだ、と言ったら怒るかしら?」

「……………」

 冗談のつもりだろうか?

 飄々としていやがる……。

「もちろん違うわよ。目的が先にあって行動しているわ、今回はね」

「目的ってなんです?」

「私はネクスタリア領域を使って、こちらの世界にやって来た。ネクスタリア領域、分かる?」

「いや、さっぱり」

「ええ、そうでしょうね。さっき寝ているとき、あなたの記憶を全部覗かせてもらったもの」

 何なんだコイツ。

 ショックが消えつつある今、それに代わり、だんだんと怒りが湧いてきていた(それは自己嫌悪に近い感情だけれども)。

「勝手に見たんですか? さっきから、何だか酷くないですか、僕だって……」

「いえ、一応訊いたはずだけど……。記憶を視ても良いか、って。うまく伝わっていなかったのかしら」

「嘘つけ。そんなはずは」

「ちょっと待って」彼女はそう言うと、懐から何かを取り出した。

 黒い塊…?

 よく見ると、それはボイスレコーダーだった。

 え、なんでボイスレコーダーが?

 それはその、旧態依然とした魔法使いの格好に全然似合っていなかった。

 彼女は再生ボタンを押す。

『…………かりました。僕の記憶のすべてを、貴女に提供いたします……ルーシーさん、貴女のお役に立てて、誠に光栄です。僕はきっとこのために、この世に馳せ参じて……』

 そこで彼女は停止ボタンを押した。「ほらね。証拠があるでしょ」

「あの、お言葉ですが」僕は反論した。「その声は、貴女が吹き込んだんじゃ……」

「ふーん、察しが良いのね。って、ユーモアのかけらもないじゃない! そこはさりげなく、ノリ突っ込みを入れて欲しかったわ。漫才のセンスをもっと磨きなさい。目指せマイケルジョーダン。笑いで世界を救うのよ」

「…………」

 何だろうこのヒト。

 僕を笑わせようとしているのだろうか……見ているこっちが恥ずかしい。

 でもそれも、あり得たかもしれない僕の姿だと思うと、凄く、なんていうか……いろいろな意味で鳥肌が立ちますね。

「貴女はルーシーっていうんですか? 名前も似ていますね」

「そうね。記憶を覗いてビックリしたわ。お母さんが付けてくれたのね。私もそうよ、母が付けてくれたわ。もう遠い昔の出来事だけどね……」

「まだ若く見えますが……十六歳かそこらにしか」

 もしかしたら、もっと幼いかもしれないし、あるいはその反対かもしれない。全然年齢が分からなかった。

「こちらの単位に当てはめれば、二千年以上は生きていることになるわよ。イエス様よりも年上ってわけ」

「はい?」僕は思わず訊き返した。「今なんと?」

「不老不死ってやつ。血脈がいろいろ複雑でね、生まれたときから宿命づけられていた。まあ、魔法を使えば、どんな肉体年齢にでもなれるけれど。まあ、この肉体が、大きさ的にはちょうど良いわね」

「はあ、それは……良かったですね」

 僕は半ば投げやりでそういった。

 もうここまで来れば、何でもアリだろう。これはもう、能力がどうとか、そんな問題から乖離している……。突然目の前に現れた、〈バグ〉のようなものである。

 それにしても、彼女の名前には聞き覚えがある。

 その仮定が正しければ、彼女が別世界の住人であることを、客観的にも判断できる。

 僕は尋ねた。「もしかして、貴女が例の『多世界冒険譚』の?」

「あ、やっと気付いたのね。その通り。あれは私が遥か昔に書いた著作の一つ。でも、そこまで完成度は高くないわ。その頃の私はまだ未熟で、物事に対する洞察の程度が浅かったから。それに、その欠点を自覚しても、自らを変革するのは難しい作業よ。自己変革。その難しさは、どのような存在に対しても当てはまるのかもしれないけれど」

「僕はその本を直接見たわけではありませんが、それでは、以前もこの世界を訪れたことが?」

「まあ、いちおうね。でもその時はまだジュラ紀で、恐竜は見かけたけど、ヒトは存在していなかったわ。ああ、でも、この世界における〈星の分身〉はもちろん居たわよ。既にね」

「星の、分身?」聞き慣れない言葉だった。

「つまりはあなたたち魔法使いの先祖にあたる、純粋な生き物たちね。この世界では『失われた種族ロストスピーシーズ』と呼ばれている生命のこと……記憶にあるでしょ? どうやらこの様子だと、純粋な個体は外来種によって、駆逐されてしまったようだけど……。オリジナル――純血な〈星の分身〉も、もしかしたらどこかに居るかもしれないわ」

「能力は遺伝が大きく関わり、特定の血筋にしか発現しないとは知っていますが、その、〈星の分身〉っていう名前は……?」

「星自体には魂が宿っている。星の上に棲む、雑多な動物たちのものとは別に……。星はその魂を、基本的には遍在させているわけだけど、水に流れに渦ができるように、その、魂の流れが集中する場所がある。その場所において生まれた、特別な生命体たち……天使――翼が生えた人間だったり、寿命を延ばす効力を持った果樹――『生命の果実』を作り出す……。【旧約聖書】はその名残なごりかしらね。あるいは、伝説上の動物だとされている生き物――えっと、ペガサスだったり竜だったりの」

 彼女はそういうと、指で、目の前の空間に光の〝文字〟を書き始めた。

 何も無い空間に、直接……。どうやらお絵描きをしているようだった。

「私は、その生命体を〈星の分身〉と呼んでいるの。彼らは他の動物たちとは違って、生まれながらにして役割を与えられており、それと同時に『能力』を行使する権利を、星によって与えられている。そうね、使命、とも表現できるかしら。星の初期に生み出される、白血球のような存在たちの……。世界がかろうじて均衡を保っているのは、星の意思によるもの、と捉えても良いかもしれない。混沌へと秩序をもたらし、安寧と平穏を確固たるものにし、星の寿命を永らえようとするために必要な……。まあ、私の場合は起源ルーツが違うんだけどね」

「星の意思……?」僕は疑問を抱く。「僕のようなロマンサーの先祖は、星が生み出した特殊な生命体ということで……?」

「そう。普通に考えれば、物理法則を無視した力を、魔法使い――貴女の世界でいうロマンサー――が、自由に使えるのはおかしいでしょう? それは星のエネルギーを借りているからなのよ。だからその分の代償を、この星自体が支払っている。地殻変動や気候変化に現れることもあるわね」彼女はそう言い、光の文字を消した。

 確かにそうだ。僕はずっと疑問に思っていた。

 しかしあまりにも当たり前すぎて、考えないようにしていたのである。

 能力者は遺伝によって決まっている。また、その血筋のルーツについては、研究もそれなりに進んでいるし、ペガサスらしき動物の化石が見つかったことを以前に聞いたことがある。

 確かに、〝失われた種族/ロストスピーシーズ〟という名前で、その始祖たちを表すこともあった。

 単なる絶滅種ではなく、数々の、魔法のような力を持っていたとされる伝説上の存在。それは知っていた。

 だが、遺伝すると能力が使えるからって、根源的な……〝どうして能力なるものが存在するのか〟は説明できなかったのだ。

 それを彼女は、ルーシーは、簡単な言葉で説明してくれた。

 この世界の秘密のようなものを、アッサリと……。

「だからまあ、自分は特別だ、なんて思わないほうが良いってことよ」彼女は柵に凭れ掛かった。「これは魔法だけじゃなくて、あらゆる才能や運命にも言えることだけど……。何かを成し遂げるということは、同時に、それ相応の責任を負わされるってことでもあるしね。有名になったり、歴史に名を残すことなんて……たいして誇れたモノじゃないわ。権威に従属している人間なんて、特に苦手ね……。むしろ私は世界の片隅で、コツコツと、誰かのために貢献しているような、そんな平和的で些細な存在こそが大好きよ。農家のおじさんとか、漁師とか、工芸職人とか、研究者とか、同人漫画家とか……」

「…………」

「少し話が過ぎたわ。まあ、今夜のこと、忘れても構わないよ。知っていたってどうしようもないことばかりだし」

「いや、忘れられようがないですよ。たとえ嘘だとしても、それらの話には説得力がありますし……」僕は溜息をついた。「でも、あの……全然話が変わるのですが、貴女はどうしてこの世界に来たのですか? 何か目的でも?」

「ええ、私以外にも、この世界に移動してきた存在が居てね。そいつを捕まえるのが、いまの私の目的。敵は気配を消しているようで、かなり難航しそうだけど」

「その人物も、能力者で?」

「そう。死んだと思っていたら、別の世界に――この世界に移動していたとは……。迂闊うかつだったわ。しかも十年前くらいにね。それだけの期間潜伏しているということは、きっともう、何人も犠牲者が出ているでしょう。私の落ち度だわ」

「そんなに危険な相手が……? もしかして、僕の組織……ホワイトノイズと関係していたり?」

「うーん、まだ分からないわね。まあ、おいおい調べていくつもり」彼女はそういうと、再び柵の上にのぼった。「そろそろおいとまするわ。なんだか話が長くなっちゃったわね。まあ、良い退屈しのぎになったけど」

「あの、僕の関わっている事件について、何かアドバイスをくれませんか? 早乙女時雨、という友人についての」

「そうね……。幾通りかは見当がつくけれど、どれも決定打には欠けるのよね。大事なピースが抜け落ちていて……」彼女は頬をさすった。「でもまあ、彼女はおそらく、貴女のことを大切に思っていて、だからこそ何も話さなかったんでしょうね。きっと記憶の一部が欠落しているのは、まさにそれを意味していて……」

「何のことです?」

「貴女、記憶に空白があるの、自分で気づいていない?」

「僕に、ですか?」

「そう。短期的な記憶喪失……でもそれは事故じゃない。丁寧に切り取られている――まるで貴女のことを、いたわるかのように……」

 何のことだ……?

 僕が記憶喪失だって?

「とても短い時間だけど、記憶に連続していない部分がある。それがきっと、この事件の真相の鍵を握っていると思うわ。そのくらいしか助言できない……。というか、さっきの会話の中に、かなりのヒントがあるような気もするけれど」

「……………」

 そんなこと言われたって、ますます謎が……。

「ま、あまり深入りしないほうがいいわ」彼女はそう言い、小さくあくびをした。「ふわぁ、ねむいわね……。気が向いたらまた来るよ、それじゃ」

 彼女はそういうと、柵の上から空へと飛翔し、そのまま星と混ざり合い、消えてしまった。

 月が一層輝きを増していた。







 31


「ねえ」僕は双子に話しかけた。「もしも別の姿をした自分が、目の前に現れたらどうする?」

 彼女たちは顔を見合わせた。

「それは、どういう意味ですか?」「別の姿をしているなら、自分とは言えないのでは?」

「うーん。なんというか、魂や精神がまったく同じなんだけど、姿形が異なっている存在。否定ができないほど、それが感覚的には厳然たる真実で……。そんな存在と出会ってしまったら、どうやって受け入れれば良いのかなって……」

「受け入れなくても良いのでは?」

「えっ」

「精神が同じだとしても、他人は他人です。魂の〈入れ物〉が違うわけですし」「記憶だって異なります」「ですから、気にする必要はありません」

「でも君たちは、お互いを受容した経験があるだろう?」

「?」「?」

 二人は首をかしげた。

「私たちはそんなこと、一度もしたことないですよ」「生まれたときから一緒にいますし」「記憶も完全に共有しています」「遺伝子レベルで〈入れ物〉だって同じです」「それに、受容も何も、初めから相手を否定していません」


 ☆


 このことから僕が得た教訓は、相談する相手はよく考えよう、ということであった。

 忍びないね……。







 32


 村。

 時雨が幼い頃を過ごしていたとされる村を、僕は訪れていた。

 僕の街からはそれなりに遠く、地下鉄と電車を乗り継いでここまで来たのである。

 双子には、買い物へ行くと嘘をつき、そのまま出かけてしまった。心配しているかホワイトノイズに連絡をしているかのどちらかだと思うが、そんなに離れるつもりはない。日帰りか、一泊二日で帰るつもりであった。

 そこは山の周辺地域であった。盆地のような場所で、四方が山に囲まれている。高度が高く、空気は薄いが澄んでいる。雲も低く感じられた。普段なら、あまり来ない場所であった。

 あの大戦以前の面影を残しているのは、人口の少ない土地においてがほとんどである。

 そのためこうした場所に来ると、一種の文化的隔絶を感じてしまうのは、気のせいではない。

 

 駅からはバスが出ていたため、それに乗る。

 振動が躰に伝わる。乗客はほとんどいない。

 僕の他には杖を持った老人が、ぽつんと、前のほうの席に座っているだけである。

 景色は流れていく。

 途中で滝が見えたが、すぐに過ぎ去ってしまった。そのため、じっくりとは見られなかった。

 ひとり旅をしているような錯覚を起こしそうになる。

 宛もなく目的もなく旅をすることができたら、どんなに楽しいだろうか。

 色々なしがらみから解放されて、ただ、気の向くままに、期待と不安を抱えつつも自分の意思で歩く……。その先に何が待っているか分からないからこそ、楽しみも増えるのだろう。

 いまの、管理され境界線を決められ、行動には監視がつきまとう世の中と、どちらが幸せだろうか。

 たしかに安全にはなったし、自ら進んで危険な行動をとらなければ、不安を感じることもそうそうない。しかしそれは、まるで、鳥籠の中のようではないか?

 僕はあまり長生きしたいと思わない。目的が無い。やりたいことなんてない。大切なものはみんな消えてしまったし、それらはもう、取り戻せないものばかり……。

 なぜだろう。自分よりも不幸な人間はいるって分かっているのに、それでもときどき、自分がこの世界でいちばん不幸なんじゃないか、って思えてくる。この苦しみや痛みは他人と共有できないし、そもそも条件が特殊すぎて、同情も得られない。

 いや、同情なんて得たくはない。誰も分かってくれないだろう。

 僕はただ、もう休みたいのだ。ずっと眠っていたい。何もかもを忘れて……。あるいは、何もかもを捨てて、どこかへ旅立ってしまいたい。

 弱音だ。

 でも、こめかみに弾丸をぶっ放せば、それですべてが終わるってことを、重々承知している。

 だけどそれは、兄や、僕を大切にしてくれる人を裏切ることになる。そのあたりのジレンマか。

 でも、だからこそ、自分のことを大切に思っている人に……その大切な人の手によって殺されることが、仮に、できたとすれば、僕は率先してそれをして受け入れたい……そうして欲しい、と思う。願っている。

 あの金髪の魔法使いに頼めば良かったのか? でも、やっぱりそれは違う。

 きっと僕は、兄や時雨のような、大切な存在によって殺してもらいたいのだろう。特別な存在、ではなく……。







 33


 前のモニターに目的地が映った。

 僕はボタンを押し、停車場で降りた。

 バスはそのまま向こうへと走っていき、そこに僕は取り残される。

 白い階段をのぼると、小道があった。

 民家がぽつぽつと点在していて、それ以外は田んぼしかない。山に囲まれた、田園風景……それがただ茫漠と広がっていた。

 時雨は小学校を卒業するまで、ずっとここで暮らしていた。そして中学に上がると同時に、ひとり暮らしを始めることにしたらしい。

 この村には小学校しかないため、通学するには不便、ということで、街のマンションに住んでいたのである。


 えっと、彼女の里親の家は……。

 僕は端末の地図を眺めながら、その場所へと向かうことにした。

 地面は舗装されておらず、街のアスファルトになれた僕にとっては、それなりに歩きづらい道であった。

 早乙女家。

 僕はその民家の前へとついた。呼び鈴はない。門は閉ざされていて、来るものを拒んでいるようであった。

 どうしよう……。

 僕が訪れることを、あらかじめ里親の方たちに伝えていたわけではない。それに、まだ彼女が亡くなってから、数ヶ月しか経っていない。

 あまり刺激してはいけない、ということを、僕も常識的に理解していた。哀しみを増幅させてはいけないのだ。

 門が閉まっているのは、外出中ということか……?

 先にお墓を訪れたほうがいいかな、と思って、そこを離れようときびすを返したとき、後ろから声が掛かった。

「どちら様……でしょうか?」

 門の横にある小さな扉から、灰色の髪をした女性が現れた。

 歳は六十歳くらいだろうか? しわが濃く、その表情はやはり、悲しみをどこかにたたえていた。

「あの、もしかして、早乙女時雨さんの……」

「お友達の方ですか?」

「そうです」僕は応えた。「滝鐘と言います。時雨さんと同じD中学に通っていて、あの、まだ線香もあげられていないので……お邪魔ではないでしょうか?」

「ええ、だいじょうぶ……。あがってらっしゃい。遠くから疲れたでしょう? お茶、入れるわね」







 34


 僕は家の中へと入れてもらい、そのあと彼女によって、時雨の幼い時代についてのエピソードを断続的に教えてもらった。

 彼女は明るい思い出を選んでいるようだった。

 時雨を引き取ったときのような、重い話ではなく、小学校への入学や、授業参観や運動会、それに家族旅行などの、他愛ない出来事について語ってくれた。

 僕はときどきうなずきながら、静かに話を聞いていた。

 ありきたりの内容だったが、だからこそ僕は安心した。この里親が、時雨を大切に育てていたらしい、ということを再確認する。

「時雨は優しい子でした」と彼女は言った。「あの子はまるで、他人の気持ちが見通せるようでした。私たちに見えないものを、きっと彼女は見ていたのでしょう……。思いやりを伴って……」彼女は外を眺めた。「以前私が肺炎にかかったときでした。私は街の病院に移って、集中的な治療を受けたのですが、その、入院している間、あの子はほとんど食事が食べられなかったと、私は夫に聞きました。夫は一昨年、亡くなったのですが……。とにかくあの子は、人の痛みを、自分のもののように感じてしまえるようなんです。そしてあの子がそばにいると、それだけで、痛みが消えていく気がしました……。肉体的にも、精神的にも……不思議と、安らぐような感じがして……」

「そうですね。わたしもだいぶ、いろいろな面から、彼女には支えられました」と僕は言った。「昔から、そうした性格だったのですね」

「ええ……。でも、どちらかというと人見知りな子でしたから、中学で友達ができたとあの子から聞き、私も嬉しかったです。滝鐘さんのこと、よく話題にあげていましたよ。一緒に居ると楽しいって……。ご迷惑、お掛けしませんでしたか?」

「いえ、とんでもないです。むしろわたしのほうが、どこかで、彼女の負担になっていたのかもしれないと思うと……」

「そんなことはないと思いますよ。あの子が帰省していたときに見せた笑顔は――貴女について話していたときに浮かべていた表情は、言葉よりも多くのことを、私たちに教えてくれていた気がします」

「そう、ですか……」

 本当にそうだろうか? うまく実感できない。

 僕は時雨に何かをしてあげられただろうか?

 僕を幸せな気持ちにしてくれたのは、いつも彼女だった。

 僕は……与えられていた側だ。そのお返しをできなくて……。

「でも、どうしてでしょうね」と彼女は言った。「どうして神様は、優しい人間に対して冷たいのでしょうね。いつも犠牲になるのは、あの子のような善良な人たちです。私はあの大戦のときから、ずっと考えていますが、いまだに答えが出ていません……」

「…………」

「ごめんなさい、お気になさらないで。私のひとりごとのようなものです……。ただ、ふと思ってしまって……。私のような大人が生きていて、それで良いのかと……もしもあの子が、事件に巻き込まれていたのなら、私は気づくべきでした。でも、それができず……こんなことになるなんて、全く予想だにしていなかったのです。親失格ですね……。もしも、あの子を死に追いやった人間がいるならば、私はその方に訊きたいんです……。どうしてあの子が死ななければならなかったのか……。それだけが、私の心残りなんです」







 35


 ひととおり話が終わったあと、僕は仏壇の前で線香をあげてから、彼女に、時雨の墓の場所をきいた。

 場所を地図上にマーキングし、端末をしまう。

「ところで、あの羽根飾りは何でしょうか?」僕はそれを指差し、彼女に訊いた。

 仏壇のそばに、白色の羽根飾りが置かれていたのである。

 それを見て、僕は、時雨のベランダで見つけたあの羽根を思い出してしまったのだ。もしかしたら同じ種類のものなのかもしれない。

 彼女は何かを考え込むようにしばらく間を置いて、それから口を開いた。

「あれは、御守りなんです」

「御守り?」

「はい。ずっと前に買ったもので――いまは潰れてしまった、遠くの神社で手に入れたんです。それで……あの子が気に入っていたので、一緒に供えておこうかな、と」

「そうですか……。実はわたしも、時雨さんのマンションへ遊びに行ったとき、同じような羽根を見つけてですね」僕は少し嘘をついた。

 仕方あるまい……亡くなったあとにお邪魔したとは、さすがに言えない。

 鞄から例の羽根を取り出し、彼女へと差し出す。「あの、これ、お返しいたします」

「あ、……これは」

 彼女は僕の羽根を取り、しばらく眺めた。

 まるで光にかざすような仕草で……その柔らかな物質の中に、僕の知らない別の意義を見出しているようでもあった。

 彼女はそれを、懐かしむように一通り愛でたあと、こちらへと返した。

「たしかにこれは時雨のものです。間違いありません……ほら、少し虹色に光っているでしょう? それが証です」彼女は悲しげに微笑んだ。「それはともかく……ええ、その羽根はあなたが持っていてください。そうするべきです」

「いいのですか……?」

「ええ、かまいません。きっとあの子も、お友達に持っていてもらったほうが、天国で喜ぶと思います。それに、私の家にはもう、その飾り物がありますからね。引け目を感じなくて大丈夫です」

「そうですか……。ありがとうございます」僕は頭を下げる。

「その羽根は、本当に幸運を呼ぶのですよ」彼女は言った。「はっきりとした形ではありませんが、辛いときには、それを見ると、だいぶ心が安らぐと思います。羽根を見るたびあの子を思いだしてしまうので、確かに寂しさは伴いますが――その寂しさは、羽根自身の持つ〝ぬくもり〟によって、ゆっくり溶けていくんです……本当に。きっとその羽根は、あの子の魂を宿しているんですよ。私にはそうとしか思えません。どうか無くさず、大切に持っていてくださいね」

「わかりました。約束します」

 僕はその羽根をしばらく見つめてから、鞄へとしまった。

 たしかに改めて触れてみると、時雨のぬくもりが、そこに包まれているように知覚された。







 36


 墓地は山のふもとにあるとのことだった。

 あまり遠くないため、僕は歩いていくことにした。

 林からは虫の声が聞こえ、それが逆に静けさを強調していた。

 まるで世の中から忘れ去れたかのような、ボロボロの看板がいくつもたたずんでいた。

 風が山の斜面を駆け下りるようにして、僕の元へと届く。

 途中には池があり、数匹の鯉が泳いでいた。波紋が水面に生まれ、それからゆっくり溶ける。

 歌が聞こえてきた。どこからだろう?

 周囲を見渡す。

 僕は山の方角に教会を見つけた。

 そうか、お墓を管理しているのはあの教会なんだな。

 しかし、何の曲だろう……。賛美歌というやつかな?

 歌詞を聴き取ることはできなかったが、今の僕の想いを反映しているように思えた。

 試しに立ち寄ってみるのも悪くないが……。先にお参りを済ましてしまおう。

 僕は墓に到着する。

 その盆地において更に高い場所にあり、この地域一帯を見渡すことができた。

 もし、幽霊がいるとするならば、ここから毎日景色を楽しんでいることだろう。

 僕は時雨の墓を探し、階段を上がる。

 すると、離れたところにある、一つの墓の前に、ひとりの男を発見した。

 誰だろう? いや、もちろん知りようがない。

 しかし、その男の立っている場所は、どうやら時雨のお墓……のようだ。

 全身を黒い服で覆っており、身長がとても高い。

 二メートルくらいはあるのではないだろうか? 恰幅かっぷくがよく、全身をかなり鍛えているようであり――それでもって、同時に威厳のようなものをたたえていた。

 怪しい。只者ではない。

 僕は陰に隠れ、様子をうかがった。

 墓を見下ろしているだけ……なのだろうか?

 じっと墓石をにらんだまま、動こうとしない。考えごとをしているようでもあった。

 目付きは鋭く、しかも黄色い瞳をしていて――それは猛獣を思わせた。血色の良いフランケンシュタインと言ったところか?

 僕は息を殺して待った。

 時雨の知り合いだろうか?

 しかし、あんな不可解な男と交流があったとは考えられない。とすると、この墓地の監理者の方だろうか。近くに教会があるし、その可能性は否定できない。

 でも……もしも聖職者であるならば、もっと質素な洋服か、祭服を着ているはずだ。

 もう一つの可能性も頭に浮かぶ……あの男が加害者だという線だ。

 時雨を殺したのであれば、お墓を訪れるのも不思議ではない……?

 いや、やっぱりそれは考えにくい。もしも悼むくらいの良心があるならば、そもそも殺害なんてするはずがない。

 直接訊きに行けば良い、のだが、なぜかそれができなかった。

 脚が震えているのが分かる。手も覚束おぼつかない。僕はいつの間にか、恐怖によって囚われていた。

 恐怖。

 どうしてこんなにも怖いのだろう……。

 自分が死ぬことについては、前から覚悟していたはずなのに、いまは、それ以上の恐怖を感じてしまっている。

 動悸が止まらない。頭痛が思考をかき乱す。冷や汗が頬を伝い、目眩めまいが視界を覆っていく。

 暗闇が自分を包み込んでいくようだった。

 僕はあの男を知らない。記憶にない。

 それなのにもかかわらず……なぜか、危険を感じるのだ。

 もしかしたら、会ったことがあるのだろうか。記憶にはない……でも、魂には刷り込まれている……。

 歯を食いしばる。そして『ルーム』からナイフを取り出し、僕はそれを自分の腿肉ももにくへと突き刺した。

 痛みが弾け、意識が朦朧もうろうとする……。

 近くの塀に寄りかかりつつナイフを抜く。気を失いそうになったが、なんとかこらえられた。これも訓練の成果か。

 すぐに止血テープを貼り、飛び散った血液をハンカチで拭く。

 こうでもしないと、恐怖で、壊れてしまいそうだったのだ。もしも自制が緩んでいたら、叫びだしていたかもしれない。それだけは嫌だったのだ。

 気付かれるとか、そういう問題ではなく、自分の脆弱さを他人に露呈することが、どうしても耐えられなくて……。

 このショック療法のお陰か、だいぶ恐怖心はやわらいだ。

 僕は姿勢を立て直し、陰から再び墓を見た。

 そこにはもう、男の姿は無くなっていた。僕がひとりでアタフタしている間に、帰ってしまったらしい。

 いったい何をやっているんだろう、と客観的に思う。

 いま、僕は別に何かをされたわけではない。勝手に恐怖を感じて震えていただけだ。滑稽こっけいなことこの上なかったが、全然笑える気がしなかった。

 男を端末で撮影しておけば良かったが……もう遅い、諦めよう……。

 というか、今のことについては忘れてしまいたい。

 もちろんホワイトノイズには伝えておくが、あの男を追うだなんて馬鹿なことは、絶対にしたくないし、出来ない。敵対組織の人間かどうかはわからないが、関わってはいけない存在であるということは間違いない。本能がそう告げている。

 しばらく呼吸を整えてから、その場を動く。

 カラスの鳴き声が、どこかから聞こえていた。







 37


 彼女の墓は真っ白で、どうしようもないくらい美しかった。

 僕は献花をし……それから立ったまま、その小さな十字架を見下ろした。

 十字架の作る影は、横から射し込む夕焼けの光によって、長い尾を伸ばしている。その影法師は、まるで切り絵のように、地面にシルエットを生み出している。

 きちんと掃除がされていて、そして洗われていて、染みひとつ存在しない。それがかえって、彼女の死を明確に告げているようで、僕は悲しくなった。

 でも、僕は泣くことが出来なかった。

 死が実感として自分を覆っていくようであり、押し潰されるほど悲しいのにもかかわらず、涙が出て来ないのだ。

 なぜだろう……。

 兄さんが亡くなってから、ずっとそうだ。

 小さい頃は泣いてばかりいた。それは覚えている。

 ちょっとしたことで、すぐに涙をこぼしていたあの頃……。僕は兄さんに甘えていたのだ。涙を見せることで、兄さんが慰めてくれる。だから僕は、気の済むまで哀しさを表出させることができた。

 あのころはひとりで生きられるだなんて思ってもいなかったし、兄さんのいない世界なんて想像できなかった。

 あまりにも、その特別な存在が大きすぎると、失ってからの感覚がおかしくなってしまうのだ。

 きっとそれで、僕は壊れてしまったのだろう。心のひずみが許容値を超えてしまい、正常な働きができなくなってしまっているのだ。

 砕け散ったガラスが二度とくっつかないように、僕のそれも手遅れなのだろう。

 きっと、どこにも繋がることのできない想いが、夢幻の闇の中で静かに朽ちていき、最後には元来の輝きを忘れてしまうのだ。磁力を失った方位磁針は捨てられる運命にあり、二度と価値を与えられはしない。

 兄のいなくなったあと、かろうじて生きて来られたのは、きっと……いや間違いなく、時雨のおかげだった。

 自分が大切だと思うヒトによって、愛されることで――そこに幾らかの価値を見出すことができる。

 兄さんが――そして時雨が、僕を大切に思ってくれていたから、僕は、自分が生きていても良いのかもしれない――自分がここに居ても良いんだ、と錯覚することができた。

 自己承認アイデンティティ

 それが無くなった今は、もう、絶対的な拘束力はなくなっている。

 儚い残滓ざんしとしがらみだけが、僕を縛り付け……でもそれは、〝死という魅力的な自由〟への希求を遮断するような、〈絶対的な防波堤〉とはなり得ないのだ。

 彼らがもう、この世にいなくなってしまった、今となっては……。







 38


 用事を済ませた僕は、教会でしばらく讃美歌に耳を澄ませ、心の調子を回復させてから、夕食を取ることにした。

 この近くに個人経営と思われる和食店があり、ちょうどお腹もすいたことだし、何かを胃に入れておこうと思ったのだ。

 駅の周囲にもレストランはあったが、バスで移動するとはいえ、それなりに時間が掛かるため、先に済ませておこうという狙いもあった。

 僕はその店で久々の和食を食べた。そこそこ美味しかったが、特に言及するほどのものではなかった。

 そのお店でゆっくりと時間を過ごし、脚の痛みも引いてきた頃、僕はバス停へと向かうことにした。

 止血シートには特別な酵素を持つジェル薬が塗られていて、この程度の刺し傷なら自然に治癒させることができるのである。

 別にあのとき、狂って刺したわけではないのだ。

 後先考えず行動する危険性・深刻さについては、ホワイトノイズから直々に刷り込まれている。

 それで……

 僕はバス停を見て気づいた。

 もう、運行していない。どうやら午後7時の便が最終だったようだ。僕があと、五分早く着いていれば……。

 ああ、不覚……。無念。

 街のバスは深夜遅くまで運行しているため、田舎特有のこのトラップに気づかなかった。

 えっと、こっから駅までどのくらいだろう……。

 それなりにあるな。歩いて二時間くらいだろうか。

 まだ、そこまで夜は深くないため、黙々と歩けば問題はない。しかし、やはり徒歩は躊躇ためらわれる……。

 僕は少し考えたあと、あることをひらめいた。

『ルーム』からセグウェイを取り出して、それに乗る。

 何かに使うかもしれないな、と思い、たまたま入れておいたのが功を奏した。これなら早く着きそうだ……。

 でも、こんな事になるって予期できていたとしたら、自転車のほうを『ルーム』に仕舞っておくべきだった……。

 僕は道路を下っていく。

 百メートルかそこらの感覚で、バス停がおかれていた。

 バス停には屋根のついたベンチがあり、それは小さな〝ほこら〟のように、風景に溶け込んでいた。

 何の気なしに、それらバス停を通過するたび、その方向を見ていた。

 そして、とあるバス停を通り掛かったとき――僕はそこに人がいるのを目撃した。

 何よりも興味をひいたのは、その人物が、僕と同じくらいの年齢に見える、子供であったということだ。

 向こうはこちらに気付いていないようで、所在なさそうに、ぼんやりとそこに座っていた。

 僕はいったんその前を通り過ぎたあと、セグウェイをしまい、歩いて道を引き返した。

 一体何をやっているのだろう……。

 こんな時間帯だ。危険であることは、その子も充分承知しているはずだが……何らかの事情で、そうせざるを得ない状態に追い込まれているのだろうか?

 好奇心も少しあった。

 僕は木立に隠れつつ、少し離れた場所から、その彼女のことを観察することにした。

 彼女はあくびをしていた……。

 何かを待っている、というわけでもなさそうであった。大きな鞄を脇に置いていて、それがはち切れそうに膨らんでいる。

 また、洋服は厚着であり、それはいささか過剰なのではないか、と思えるほどだった。旅でもしている……のだろうか?

 僕はなおも観察を続ける。

 まるで不審者のようだが、仕方あるまい。もしもこのまま彼女が動かないようなら、近づいて声を掛け、家に帰るよう注意を促すつもりだった。

 市民の安全を守るのは、せめてもの――元ホワイトノイズの成員としての、義務感のようなもの……だ。

 彼女はウトウトとし始め、大きく伸びをすると、その鞄からタオルケットのようなものを取り出した。

 タオルケット……?

 そしてそれを布団のようにして身体に掛け、ベンチに横になって、眠り始めようとしていた。

 あっ、これはいけません。どうやらその場所で一晩明かすつもりらしい。

 僕は怪しまれないように、足音を立てつつ、そちらへと近づいた。

 彼女は上半身を起こし、こちらを見た。

「どうしたんだい、そこで?」僕は声を掛けた。「もうバスは来ないらしいよ」

「…………」

「もしかして道に迷ってしまったとか? 僕、端末持ってるから、駅までなら送って……」

「結構よ」

 彼女はそういうと、再び横になってしまった。

 そして目を閉じ、僕と反対側へと寝返りを打った。

「あの……」

「…………」

 彼女はまったく口を利こうとしなかった。沈黙が辺りを満たし、風の音だけが間に横たえられている。

 うーん。

 どうしよう……。

 このまま放っておくのがいいのかもしれないけど、それもなんか、気が引ける。

 もしもここを去ったあと、何か事件でも起こったりしたら、きっと後悔するだろうということが、目に見えるように分かるからだ。

 まあ、もうちょっと付き合ってみようか。

 僕は黙ってもう一つのベンチに座り続けた。

 そしてそのうち、段々と眠くなってくる。

 僕はそのうち、ここから歩いて駅まで向かうのが億劫になってきた。

 潔癖症なので、お風呂に入れないのは苦しいけれど、一晩くらいは入浴しないでも構わないだろう。

 『ルーム』から掛け布団と枕を取り出し、僕はそれを自分にかぶせ、それから横になった。

 寝心地はそんなに良くなかったが、隣に人がいるという安心感と、目蓋まぶたに否応なくのしかかる重みによって、いつの間にか、僕は夢の世界へと誘われていた。







 39


 日の光がもたらす〈ぬくもり〉……それが僕の身体をほのかに励起させ始めたころ、微睡まどろみの中で、僕の頬をツンツンとつつくような感覚があった。何か細くて柔らかいもので、触られているみたいだ。

 僕は瞳を開ける……。

 すると視界の端に、昨日の女の子が映り込んだ。

 彼女もこちらを見ている。

 どうやら指で、僕の頬をいじっていたらしい……彼女はバツが悪そうに、目を背けた。

 なかなか可愛らしい仕草であった。

「どうしてここで眠っていたの?」と彼女は訊いた。

「さあ……その質問は、むしろ僕がしたいものだね。君がここで夜を明かそうとしていたのが、僕にとっては不可解であるように」目蓋をこすりながら、そう応えた。

 端末を見ると、もう朝の七時過ぎだった。

「不思議な人ね。私の事なんか、気にしなくても良かったのに……」

「そうだね……。そうかもしれないけど、僕も、特にやることがなかったからさ。興味本位って感じかな、たぶん」

「そう……」彼女はそういうと、僕のとなりに座った。「どこから来たの?」

「第二十四区、八番街……そんなに遠くはないよ。電車と地下鉄を使って来て……お墓参りから帰るところだったんだ」

「誰かが死んだの?」

「そう……友人が亡くなってね。お葬式にも出られなくて、ようやく、こうして死と向き合うことにしたのさ。まあ、それを実感として受け取ったところで、マイナスにしか作用していない気もするけど……」僕は彼女の死角から、『ルーム』内にある水筒を取り出し、お茶をひとくち飲んだ。「ところで、君はどうかしたの?」

「………私は……」彼女は何かを言い掛けたあと、それからまた口をつぐんだ。そして少し時間が経ってから――話したくない、と彼女はいった。

「とにかく……私は帰りたくないの」

「どうして?」

「その、いろいろあって……誰にでも、言いたくないことの、一つや二つくらいあるでしょう?」

「うん、それはそうだ。僕もそう思う」僕はうなずいた。「でも、こんな風にいままで、ずっと野宿していたの?」

「ええ」

「そうか……。でも、やっぱり危ないと思うよ。もしも親がいないっていうなら、保護施設を頼るといい……そうすれば、食事と寝床くらいはきちんと供給されるはずだし、こんな危険な状態を続けるよりはマシだよ。ベンチの板、背中、痛くなるだろう?」

「……それは、できない」彼女は目を伏せた。「経緯とか……いろいろ、職員に伝えなければならないでしょ?」

「それはそうだけど……」

 そこで僕はすこし事情が摑め始めた。

 どうやら彼女は〈家出〉をしているらしい。

 しかもこの様子だと、それを親に知られたくないものと思われる。

 たしかに保護施設は、家出をした子供の保護も引き受けているが、その際必然的に、親の元へと連絡が行ってしまう(その後の対応がどうなるにせよ)。これは法律上仕方のないことだ。

 さて……

 僕は考える。

 彼女の家庭内事情に関しては、敢えて考えないようにするが――とにかく、このまま彼女を放置しておけば、よりマズい状態になってしまうのは確実だ。

 雰囲気から漂っているのだが、どうやら、この子の覚悟は本物のようだ。瞳に宿す、淡い意志の光がそれを物語っている。

 僕が強い口調で、それでも保護施設に行くべきだと伝えたところで、訊いてくれるとは思えないし、彼女が大丈夫だと言っている限りは、強要するのも気が引ける。

 警備の人間が発見すれば(あるいは端末で警備を呼べば)、各種の保護手続きを、彼らが無理やり行うことになるのだろうが、それでは結局、彼女の意志を打ち砕くことになってしまう。

 そうだな……

 時雨のお墓を訪れたあとに巡り逢ったのも、何かの縁かもしれない……。

 あまり僕らしくはないけれど、忙しいわけでもないし、ここはひとつ、彼女を助けてあげようか。

「ねえ」僕は呼びかけた。「僕の家に来る?」

「え?」

「もしも帰れないのなら、僕の家に住まわせてあげるよ。誰も反対する人間はいないし、気の済むまで暮らしてみるってのはどう……?」

「でも、それは……」

「いや、何か怪しいことをしようとは思っていないよ。だって、そもそも昨日、僕は何もせず、ここで寝ていたわけだし」

「親が怒るのでは?」

「ああ、それはだいじょうぶ。両親は海外に出張していて、あと半年くらい帰ってこないから」僕は嘘をついた。本当は両親など、最初からあのマンションに存在していない。「どう? 別に警備へ、届け出なんかしないけど」

「ほんとう?」

「本当だよ」

「…………」彼女は俯き、少し考え込んだ。そしてしばらくして、顔を上げる。「では、お言葉に甘えて……」







 40


 その「家出少女」は不思議な雰囲気をたたえていた。

 なんとなく、存在が虚ろなのである。

 無口であるらしいということは、初めて話したときから感じ取っていたが、それを抜きにしても、とにかく存在感がない。自己主張のようなものが全くないのであった。

 まるで、右と左、赤と青、0と1、山と海、ケチャップとマヨネーズ……たとえどっちでも、私は構わない・私は関係ない――というような感じであった。特定のこと以外には、関心をまったく向けられないのかもしれない。

 例えばひとつの例を挙げると――帰り道に電車に揺られているとき、彼女は何もせず、ただ目の前の空間を眺めているだけだった。僕のように端末を見たり、音楽を聴くことも一切せず、ただ、虚空に視線を向けていたのだ。ボーッとしているわけでも、眠っているわけでもない。やりたいことがないから、何も行動しないのだ、と言わんばかりに。

 そして僕の存在が、彼女に対して何らかの変化をもたらしていた様子もなかった。周りに誰が存在し、誰が存在していないかなど、その、彼女の閉じられた内面世界においては、瑣末な問題なのかもしれない。

 世界と自分の意識/感覚を切り離しているようだった。それが態度や表情から自然に伝わってくる。

 僕は彼女に話し掛けた。

「名前は?」

「名前……? 誰の」

「君のだよ」

「私は……楓」

「カエデ?」

「そう。下の名前。上は宮雲」

 宮雲楓みやくも・かえでという名前らしい。

 固有名詞を覚えるのはとても苦手なのだけれど、僕は頑張って覚えることにした。







 41


 マンションに到着したあと、少し厄介なことになった。

 それもそうである。突然、無断でどこかへフラフラと出発し、帰ってきたと思ったら、謎の少女を連れているのだ。不審に思うのも無理はない。

 僕は双子にざっくりとした説明をし、彼女――楓を紹介した。

「勝手にそんなことをしてよろしいのでしょうか」と双子は言った。「あと一日帰ってこなかったら、ホワイトノイズへ連絡するつもりでした……。とにかく、身勝手な行動ではないかと。それに、彼女をここに住まわせて、どうするつもりなのですか? 子犬を拾うのとはわけが違いますよ」

「わかってるよ」僕は答える。「でもあのままだと、もっと悲惨なことになりそうな予感がしたんだよ。なんだかこの子、どこか様子がおかしいし……あと、腕に痣があった。もしかしたら虐待を受けていたのかもしれない」そう言い、ソファへと身を沈める。柔らかい感触。「とにかく、僕にしばらく成り行きを任せてくれないかな? 大丈夫、いつまでもこのままにはしないさ……。ただ」僕は眼をこすった。「誰だって、精神的な面で疲れたときは……少し休息する必要がある……。君たちだってわかるだろう?」

「それはそうですが……」

「しばらくの間、どこかへと消えてしまいたいようなとき、もしも、それを受け止めてくれる場所がなければ……受け止める? いや、違うな……僕にはそこまでの事はできないし、する資格なんてない。ただ、留保の期間――猶予を与えてくれる場所、だってあっても良いんじゃないかな、と思ってさ。保護施設に預けたら、彼女は、白か黒かの結論を出さなければならなくなるだろう?」

「ルリさんの仰っていることはわかります……。賛同はしませんが――了解しました。協力は致しましょう」

「ありがとう。恩に着るよ」


 ☆


 僕は双子のことを、遠い血縁関係に当たる人物だとして、楓に説明した。

「そう……」彼女はそう応えて……あまり反応を示さなかった。「改めて聞くけど、本当に構わないの? 私、大した見返りを与えられそうにないけれど」

「いや、大丈夫だよ。気の済むまでここに居ても良い。だけど、ある程度落ち着いたら、何か……その原因になっていることを話してくれたら……それなりに僕はコネクションがあるし、出来る範囲ならば、保護団体とかの組織を通すこと無しに、その、抱えている事情を解決できるかもしれないし」僕はホワイトノイズのことを念頭に置きながらいった。

 彼女はこちらを少し見つめたあと、俯いて、

「ありがとう」

 と小さく言った。

 相変わらず、何の表情も浮かべていなかったが……やや安心したように見えた。


 ☆


 こうして、その家出少女との生活が始まったのであった。







 42


 僕は自室にこもり、ボトルシップを組み立てる作業に熱中していると、チャイムが突然鳴った。

 チャイム。

 確かにあるっちゃあるのだが、それを使う人間なんて、かなり限られている。

 ホワイトノイズの人間だろうか? しかし、だとしたら、あらかじめ端末にメールを送ってくるはずだ。アポなしなんて有り得ない。

 僕はモニターの近くまで行き、カメラに映る来訪者の姿を確かめることにした。

 背が低く、髪は短い。それは仲町茜であった。

 片手には袋のようなものを持っていて、何やら落ち着かない様子であり、ソワソワしている。挙動不審だ。

 もしかするとあの中には爆弾が入っており、誰かに脅されてインターホンを鳴らしたのだろうか……などと妄想するが、まあそれは、いくら何でもあり得ないだろう。

 僕は受話器を取った。「どうしたの?」

「え、えっと……ちょっと用事があって」と、彼女はいった。「瑠理ちゃんに直接、渡ししたいものがあるんだけど……」

「なんだい?」

「うぅ、それは言えないというか……」そういうと彼女は頭を掻き、少し笑った。

 うーむ。これはどういうことだろう。

 悪意によるものではないようだが、怪しいことは怪しい。

 もちろん彼女を招き入れてもいいのだけど、ここには僕の他に三人、彼女からしたら怪しい存在が居るしな……。

 でも、追い返すわけにもいくまい。双子や家出少女については、適当に理由をでっち上げることにしよう。

「わかった。じゃあ、エレベーターに入って、そのまま待機していて。あとは僕が動かすから」

「え、ボタン押さなくていいの?」

「あ、うん。ちょっと僕の階は特別でね」

 そういえば、時雨はここを訪れたことはなかったなぁ、と思いつつ、通話終了のボタンを押した。


 ☆


「へえ、最上階だったんだ! ビックリだよ! 瑠理ちゃんって噂には聞いていたけど、やっぱりお金持ちなんだ!」

「うーん、そうかもしれない。でもまあ、別に豪勢な暮らしはしてないよ。特に趣味もないし、結構質素というか……」

 僕は彼女を家へと招き入れ、それから部屋の電気を付けた。

 お金持ち……。確かにそうかもしれない。

 縁を切った代わりに、製薬会社の社長(代表取締役)である父親によって、一応それなりの資金を提供されているし、また、ホワイトノイズでの仕事……それから兄が殉職したことによる保険金などによって、僕の持っている資産はそれなりの額になっている。

 この最上階は賃貸ではないため、月々の使用料は取られないし、働かずに一生を終えることもできるだろう。監視付の家畜のようなものではあるが……。

「うわー、見晴らしいいねっ。まるで雲の上みたい! 雷とか綺麗に見れそうだね。バンジージャンプにうってつけだよ!」

「自宅からバンジージャンプだなんて、思いつきもしなかったよ……。むしろ僕は、投身自殺に最適かな、とかいつも思って……」

「ダメだよ、そんなネガティブなこと考えちゃ……! まさか、冗談だよね」

「ああ、うん、ジョークジョーク……」僕は曖昧に返事をして、それからキッチンのほうに向かった。お客さんには飲み物を出さなければならない……はず。「ところで、その用事って?」

「ああ、もしかして……やっぱり気づいてない?」

「え?」

「今日が何の日だか」

「今日? 今日は土曜日だけど……別に何も無かった気がするな……。ねえ、君達は何か知ってる?」僕は部屋に入ってきた双子のほうを見た。

 茜には、マロンとミルン、それから楓について、シェアハウスをしている遠い血縁関係の人間だと説明した。

 特に、マロンとミルンは容姿が極東地域の人間っぽくないので、いろいろいぶかしんでいたようだが、そこまで尋ねられなかったので助かった。

「今日?」

 双子は考え込み、それからお互いで意見交換をし始めた。

「姉様は今日が、どのような日であるか知っておりますか?」「さて、北西の旧S国では、確か今日が、某国王の生誕祭であったような……」「しかし、その国の制度はすでに崩壊しているはずです。今では無君主制共同体へと変化しており、独自の伝統は断絶しています」「とすると、もっと身近な事柄なのでは?」「そうですね」「まずは……」「ルリさんの友人が訪れた意味について考察しなくては」「あの袋の中身は何でしょうか?」「それなりの高さがあり、円筒のような形をしていますね」「円筒?」「半径が、高さよりも大きく……」「ああ、もしかすると……」「ああ、私も把握しました」「なるほど」「しかしこれは、気づかないルリさんのほうが悪いですね」「でも、良いサプライズになったのでは?」「プラス思考ですね」「私たちも何か用意するべきでした」「私たちもあとで買ってきましょう」「そちらはお金を持っていますか?」「いえ、姉様は?」「カードなら……。ホワイトノイズに、経費として引き落として貰いましょうか?」「それは名案ですね」

 ?

 僕に関係のあること……何かが浮かびそうだけど、薄いまくのようなものが思考を邪魔していて、クリアに答えが導けない。

 今日……。今日はいったい?

 カレンダーを見れば分かるような気がするが、短絡的に答えを求めるのも嫌であったので、ソファに座り、虚ろな瞳でテレビを見ている家出少女……楓に訊いてみることにした。「君は……何か分かるかい?」

 彼女はテレビから目を離し、こちらの一人一人を検分するように、ひととおり眺めたあと、袋のほうへと目を向けて、「ああ……」とつぶやいた。「貴女の誕生日なのね」

「え?」

「そうだよ瑠理ちゃん、お誕生日おめでとう!」茜はそういうと、ポケットからクラッカーを取り出し、取り付いていた糸を引っ張った。

 パン、と弾ける音がして、煙と共に紙吹雪が舞った。

「やっぱり自分の誕生日、気づいてなかったんだ。まさかとは思っていたけど……。ふう……、小学校の時もそうだったから、わたしも記憶に残ってるんだよ。そういうところはまったく変わっていないんだね。ちょっと嬉しいかも」

「ああ……そうか……」僕は端末のカレンダーを眺めた。

 普段から日付を意識していないため、すっかり記憶から抜け落ちていたが……今日は僕の誕生日だ、十五歳の……。

 五月。

 すでに新学期は始まっていたが、相変わらず引き篭もっていたため、それが余計に自覚を遅らせたのだろう……。

 それに――兄が亡くなったあとは、誕生日を祝って貰ったことがなかったから、余計に不思議な気持ちがするのだろう。

 僕は、あまり自分から話さないほうだし、仲の良かった時雨にも、誕生日を教えてもいなかった。

 紙吹雪のひとひらが、僕の髪の毛にくっついた。

 それを取り、手のひらにおいて眺める。

 奇妙な感覚だ。

 僕はまた、歳を重ねてしまった。

 生きる意欲もないくせに、ずるずると、まだこうして生きている……。

 どうして誕生日に意識を向けたくなかったのか……それはきっと、自分が生きているという、その嫌悪を忘れるための、無意識的な防御だったのかもしれない。

「どうしたの……」彼女の声が耳に届く。「あんまり元気ないみたいだけど、あれ、わたし、日付間違えちゃってた?」

 僕はいつの間にか、暗い顔をしていたらしい。「え……あ、いや違うよ。虚をつかれて、ビックリしてさ……呆然としてただけだよ。ごめん……ありがとう。わざわざケーキを買ってきてくれたんだね、しかもホールで」

「そうそう。これ、けっこう高かったんだよ! お小遣いをちょくちょく貯めてね……やっとこさ間に合ったというわけなのだよ。あ、罪悪感を覚えなくて良いからね! わたしが勝手にやったことだし」

「そうか……。しかし、僕ひとりでは食べられそうにないな……。ちょうど人数もいることだし、みんなで分け合って食べても、構わないね?」

「ええ、もちろんどうぞ!」

 茜は袋からケースを取り出し、それを開けて中身を取り出した。

 イチゴのショートケーキ――スポンジに、雪のようなホイップクリームが塗りたくられ、それは真紅の果実によって、アクセントを保持している。

 律儀なことに、ケーキの上に乗った横長のチョコレートには、白い文字で「HAPPY BIRTHDAY!」と書かれている。

 そこまでしなくても良かったのに……。なんだか申し訳ない。

「あ、そういえば、茜は誕生日、いつ?」

「わたしは九月だよ。九月の七日」

「わかった、覚えておくよ」僕はさりげなく、その日を端末にメモした。「じゃあ、お腹も空いたことだし、食べるとしようか」


 包丁で等間隔に切り、皿へと移した。

 シャンメリーはなかったのだけれど、ジンジャエールが冷蔵庫に入っていたので、それをグラスへと注いだ。

 テーブルを囲んで、五人が座る。

 それはとても不思議な光景であった。それぞれがそれぞれ同士に、そこまでの付き合いがあるわけでもない。

 それにもかかわらず、誕生日、というイベントによって、この場所へと引き合わされているのだから。偶然にも……。

 ケーキに蝋燭が立つ。茜に頼まれた楓が、マッチでひとつひとつに火をつけた。

「早く息を吹きかけたほうがいいよ。蝋がとろけちゃうから」と茜はいった。

「ああ、そうだね」

 言われたとおりにそうして、僕は火を消した。

 拍手が上がり、もう一度おめでとうと言われたあと、僕らは食べはじめた。

 ケーキの味はまあまあだった。

 たしかに美味しいけれど、飛び抜けているというわけでもない。

 でも、ケーキの味がどうこうというよりも、こうして面倒な用意をしてくれた、という事実が、僕には嬉しかった。

 そういえば……

 僕は誰かの誕生日に、何かを準備したことなんてなかった。いつも準備してくれたのは兄さんだったし……。

 きっと、誰かのために、面倒をいとわず何かができるということが、成長した人間の証なのかもしれない。この、茜をみていると、そんな気がしてくる。

 そうした尺度で人間を測ったとき、僕はきっと、未熟という範囲から脱せていない存在ということになる。

 誰かのために――

 でも、僕は自分のことだけで、どこか精一杯なのだ……

 余裕が……余裕が欲しい……

 心の広さとも呼べる、その空間が――

「なるほど、ケーキとはこういう味なのですね」「ミルン、以前にわたしたち、少なくとも二度は食べたはずですよ」「そうでしたか? あれはただのパンケーキでは?」「広義に捉えれば同じものよ」「姉様、それはいささか無理があるかと」「そうかしら……」

「えっと、お二人はケーキ、そんなに食べたことないの?」と茜が双子に問いかけた。

 どう応えるかヒヤヒヤしたが、

「ええ、誕生日にはケーキではなく、七面鳥をわたしたちの家では食べるので」

 と、無難な答えをしてくれた。嘘にしてはなかなか上出来……なのだろうか。

「ふーん、そうなんだ」茜は納得したようだ。彼女はそれから、楓のほうを向いた。「楓さんはケーキ好き?」

「私……?」

「うん。全然喋らないから……もしかしてお口に合わなかったのかなぁ、と不安で」

「…………おいしい。私は別に、不満はない」と彼女は答えた。

「ふう、よかったよかった」茜は満足げに息を吐き出した。それから、僕へと語りかける。「そのお店ね、チーズケーキのほうが人気あったんだけど、やっぱり誕生日にはショートケーキかなぁ、って思ってさ。わたしの目に狂いはなかった……よね」

「街のお店?」僕は尋ねる。

「そう。この街の地形を把握しようと思って散歩してたら、駅の向こう側で見つけたんだ。噂によるとね、元々プロのパティシエとして、何かの大会に出場してたんだって。すごいよね!」

「へぇ……」

 その割には普通の味に思えたけど、野暮なので言わないようにした。


 ☆


「そういえば」と茜は帰りぎわに言った。「瑠理ちゃんは高校どうするの?」

「え、高校?」

「そう、来年にはもう受験でしょ?」

「高校ねぇ……」

「わたし、どうせだったら一緒のところに行きたいなぁ、って思ってさ」

「自分はまだ、これっぽっちも全然考えてなかったよ」

「そうなんだ……。でも瑠理ちゃんなら、難関校でも楽々受かっちゃいそうだけど」

「それは買いかぶりだよ。ある程度は自分もやらないと……。まあ、よく考えてみるよ」

 到着のベルが鳴り、エレベーターが開いた。

 彼女はその中に乗り、こちらを見ていった。「今日のお礼として、勉強会にはちゃんと来てね! それじゃ!」







 43


 彼女の言葉を受けて、ふと気になったのだが、楓は勉強をしているのだろうか?

 家出の期間がどのくらいか知らないが、ろくに学校に行っていないのは確かだと思ったのだ。

 僕は彼女に訊いてみた。「学校は行ってないの?」

「ええ、小学校を卒業して以来、ずっと」

 他にも色々と、僕は質問を投げかけた。

 彼女は僕より一学年年下であり、また、中学校にはまったく通っていなかったらしいことを把握する。

 普通の中学ならば、学校に通っていなくとも卒業することは可能だが、それでは勉強についていけなくなってしまうのは明らかだ。

 そこで僕は、彼女に勉強を教えることにした。双子(彼女たちはホワイトノイズで『専用の教育』を受けており、知的レベルはかなり高い)の助力を借りつつ、様々な教科を施していく。

 楓は案の定、とても賢かった。勉強に対して、特に苦手意識はないようであった。呑み込みがはやい。僕の説明が特別優れていたわけでもないのだが、比較的スルスルと教えていくことが出来た。

 客観的に眺めると、不登校の中学生が、同じく不登校の中学生に勉強を教えるという、まことに奇っ怪な様子が映し出されてしまうため、いささかの滑稽さを感じずにいられなかった。

 きっと……彼女が家出をしているのは、学校にも家にも居場所が無かったからなのだろう――勝手な推測ではあるが。

 うまく、自分に適した居場所を見付けるのは難しい。そこに馴染めていると思っても、それは主観的な思い込みかもしれない。

 居場所というものはいつだって、いつの間にか勝手に形成されているけれど、もしもそこが自分にとって窮屈で、どうしようもないほど苦しかったとしても、逃げ出すことは難しい。逃げ出し方をまちがえれば、思わぬ陥穽かんせいに落っこちてしまうことだってある。

 脅威は至るところに潜み、絶えず、善良な魂を引きずり込もうと試みているからだ。

「ねえ、何かやりたいこととかない?」彼女が、一日中虚ろにテレビを眺めている様子を見て、僕は訊いてみた。

「別に」彼女は答えた。「ここに泊めさせて貰っているだけでも、感謝しています。邪魔なら、いますぐにでも出て行くつもり……」

「あー、いや、そういうわけじゃないよ。ただ、なんというか……」

「?」彼女は首を傾げた。

「その、必要なことがあったら、頼んでくれても良いというか。特に深い意味はないんだけど」

「そうね……」彼女は少し考えていた。「この家にはピアノはある?」

「ピアノ?」

「そう」

「えっと……たしか物置に電子ピアノがあった気がするけど。オルガンとかギターとか、いろいろな音が出せるやつ……。安物だけど、それでいい?」

「ええ」

 僕は物置に使っている部屋まで移動して、電子ピアノを探した。

 雑多な物を、精神の『ルーム』に仕舞っているわけだけど、そこにはさすがに容量がある。無限の空間ではない。

 だから、もう使わないだろうなと思えるものは、『ルーム』でなく、現実世界の物置部屋に片付けている。

 物置部屋にはそれなりの武器がある。

 ホワイトノイズへと取りに行くのは大変なため、ある程度の量を自宅で管理しているのだ。

 ショットガンやボウガン、ロケットランチャーや地雷、ドローンに、数体の戦闘用ロボット、剣や槍、盾に防弾チョッキ、そして各種の弾薬……。

 でも、それらはもう、半分飾り物へと変わっている。

 基本的には弾薬を補給するだけで、武器を交換したりはしない。『ルーム』の武器のメンテナンスの際に、ちょっと寄るだけ……。

 ほとんど戦闘しないし、念のための備品のようなものだ、と言えるだろう。戦争でも始めるつもりなのだろうか。

 それらの武器とは別に、奥のほうにはこの家に関する、個人的な品々が片付けられていた。昔は兄さんが管理していたのだけど、今は違う。

 僕は正直、整理が得意とは言えないため、仕舞うときには適当に並べているのだが……目的のものは意外と早く見つかった。

 電子ピアノ。

 それなりのホコリをかぶっているが、あまり使っていなかったのか、特に目立った汚れはない。

 タオルでホコリを拭いたあと、それを運んだ。

 僕はピアノが弾けない。たぶん兄さんが弾いていたのだろう……。僕が年端もいかないころ、兄はピアノを習っていたらしい。そのころはきっと、母も生きており、父とも絶縁していなかったのだろう。

 僕は母をほとんど知らない……。母が亡くなったとき、僕はまだ四歳で、兄は十一歳だった。だから兄は母についての思い出を、多く保持していたはずである。

 僕の中にある母の姿は朧気で……どうも、遠い存在に思えてしまう。それは仕方ないのだが、やはり寂しさは募る。

 兄の話によれば、母はとても優しい人物で、僕にも兄にも優しくしてくれていたらしいが――僕は、そのぬくもりを思い出せないのだ。

 父に関しては知らないし、まったく記憶が無い。

 母の死(それは事件ではなく事故であったが)を切っ掛けにして――母、そして兄と僕が、能力者の血を引くことが明らかになり――父からは絶縁され、ホワイトノイズによって引き取られることになったのだ。

 別に父についての詳細を知りたいとも思わないし、縁を切った理由も明確ではないため、親近感がわかないが――今も一応、養育費みたいなものは入れてくれているようだ。

 父は、製薬事業を基礎に置く複合企業コングロマリットの、代表取締役の一人であり、それなりに資金を持っているからこそ、難なく送金ができるのだろう。悶着を避けるための経費にしか過ぎない、のかもしれない……。

 まあ、その養育費がなくなったとしても、別に何の問題もない。

 縁を切られるときに譲与されたそれなりの額の資金、僕と兄がホワイトノイズで働いたことによって得た報酬、それから、兄が殉職したことによって生じた保険金及び哀悼金を合わせれば、相当の金額になっているからだ。

 兄は十一歳のときに母親を亡くした。

 そして僕も十一歳のときに、兄を亡くした。

 奇妙な一致だと思う。

 偶然ではあるが、何かしら運命のような力が働いているのか、といぶかしんでしまいそうになる。

 僕はピアノをもう一度拭き、それから部屋へと戻った。

 彼女はそれから、ヘッドホンをつけ、毎晩ピアノを練習するようになった。音は聞こえてこないため、どんな音が鳴っているのかはわからないが、その閉ざされた世界の中で、彼女は、自分の物語を――旋律を、紡ぎ出しているように思えた。

 まだ練習中ということで聞かせてもらえなかったが、そのうち、聞いてみたいと思う。

 夕焼けが窓ガラスの向こうを紅く染めている。







 44


 とある夜、再びベランダで……。


 ☆


「前々から思っていることがあるのだけれど……」

「なんですか?」

「どうして猫の真似をするヒトって、語尾に『ニャ』ってのを付けるのかしらね」

「は?」

「いや、私は動物と対話をすることが出来るのだけど、別に彼らの思考を言語化しても、そのような独特の喋り癖みたいなものは見られないし、そもそも『ニャ』って語尾に付けても、あんまり可愛いと思えないのよね。猫たち――彼らはあざとくするために、あんな鳴き声を生み出したのではないわ」

「それがどうかしたんですか?」

「いや、別に……」とルーシーはため息をついた。「こうやってくだらない話題で時間をつぶすのが、私にとってのストレス解消なの。私に対して、気楽フランクに話してくれる存在なんて、珍しいからね」

「まあ、貴女は僕と同じ存在ですし……」僕は、風で乱れた髪を整えながら言った。「ところで進捗はどうですか? 順調ですか?」

「仕事の話はしたくないわ。もっと雑談しましょうよ」

「嫌です」

「なんでさ」

「なんでって……」

「まあ、順調と言えるかもしれないし、そうでないとも言えるかもしれないし」

曖昧あいまいですね」

「予想は当たりつつあるけどね。全貌が摑めた頃に、まとめて話すわ。うーん、でもここに来るには気紛きまぐれのようなものだし、次の機会があるかどうかは微妙だけど」

「僕を助けてはくださらないんですね。いや、勝手な言い分だっていうのは理解していますが」

「そりゃ助けたいわよ。でも、この件に関して貴女を助けてしまうと、逆に貴女のためにならない気がするのよね。自分の問題というものは、自分で解決してこそ、価値を得ることも、活かすこともできる。私は最低限のことしかできないわ。誰に対してもね」

「そうですか……」

「それに苦い経験もあるし」と彼女は苦笑した。「助けてあげて、それが原因で駄目になってしまった事例は幾つもあるわ。私も長期的な視点の重要性に、まだ気付けていなかったのね。世界は、きっとそうした問題を、次々と『か弱い存在』に投げかけ、成長するのを促しているのかしら……それとも」

「僕は、成長なんてしたくないです」僕は答えた。「何も問題が降りかかってこないほうが、都合がいい。苦労が多い人生こそやり甲斐があるだなんて、そんなの詭弁きべんですよ。不幸にさいなまれ、報われないまま、苦しみながら死んで……来世では報われるだなんて、美談もはなはだしいです。来世なんて無くていい……死んだら、そのままちりになって、消えてしまいたい。善とか悪とか、僕にはどっちだって良いんです」

「でも、それは本心ではないでしょう?」彼女は見透かすようにそういった。「貴女はそれでもどこかで、再び、失われた存在と巡り逢えないかって期待している。誤魔化したってわかるわよ。貴女はどうしようもないくらいに、私なんですもの……」

「……………」

「でも、貴女は死ぬことができるから、まだ救いがあるわよ。私は、それを許されていない。そして、私を殺してくれる存在もいなくなってしまった。永遠に降り掛かってくる、暇潰しにも似た課題を、ひとつひとつ終わらせていくことしかできない。どんな数奇な出逢いに喜びを見出したとしても、それは失われる痛みと共に、胸の中で蓄積し続ける……。兄を先に亡くした貴女なら、先立たれるつらさを理解できるでしょう? それを、無限に繰り返すことになるのよ。貴女には耐えられる……?」

「きっと、感覚が麻痺してしまうでしょうね」僕は言った。「想像もつかないようなことですが、なんとなく、苦しさはわかります」

「私にとっての現実は、遠い昔の記憶だけ」と彼女は言った。「おぼろげで、曖昧で……もう霞が掛かってしまいそうなほど微弱になっているけれど、その記憶だけが、私の心をなごませるの」

「どのような記憶ですか?」

「子供の頃……私の村が焼かれる前……海のそばにあった、一つの花畑……。私はその中で、育ての父親――産みの父親ではないわ――を、探していた。

 花々は背が高くて、私はまだ背が低かったから、それは迷路のようで……出口が見えなかった。私は父の声がするほうへ、ただ、無邪気に駆けていて――あの頃は何も考える必要さえなかった。

 私はただの、世界の片隅に居る存在でしかなく、異端であるにもかかわらず、あの種族の中に溶け込み、家族によって守られていた――ただの微弱な存在にしか過ぎなかった」

 彼女は杖を持ち替えた。

「溢れるばかりの太陽の光によって、私は守られているようだったわ。無限の自由が心を癒し、すべてが永遠に調和を図っているものだと、私は信じて疑わなかった。

 太陽と、二つの月、私たちの住む村と、永遠の花園、海。風車は風を受けてまわり、動物たちは柵に囚われることもなく、豊かな生を謳歌していた……」

 彼女はそういうと、瞳を閉じた。

「でもそれは結局のところ、誰かに守られていただけに過ぎなかった。

 そうよね……私は無知だった。子供だったのよ。きっとどうしようもなかったのだと思う。家族を失い、種族の皆を失って、それから私は自分自身と向き合うことになった」

「……………」

「同じなのよ、貴女も私も……。でも、貴女には違う部分がある。私と違って、まだ救われる余地がある。どんな罪を背負うことになっても、逃避する慰めの場所がある。

 その、貴女の周囲の環境を視ていれば自然とわかるわ。貴女は私だけど、私そのものではない。そこに救済と意義があるのよ、たぶんね……」

「僕にはわかりませんよ……。貴女の言っていることが」

「別にわからなくても良いわよ。私の独り言だと思ってくれれば……」

「そうですか……」僕は手すりに腕を置き、景色を眺めた。

 相変わらず夜景が綺麗だ。この街は。「貴女は優しいんですね」

「私が? 何に対して?」

「なんだかんだ言いながら、慰めのようなことを述べてくれているじゃないですか。そのことに対してです」

「優しい……ね。まさかそんなことを言われるだなんて、まったく予期していなかったわ。これが会話をすることの醍醐味……他の知性と触れることの価値かしらね」

「なんとなくそう思っただけです。僕には欠けている要素のひとつが、そうした概念なのかと」

「どうでしょう」彼女は少し笑った。「私は、本当は冷徹かもしれないし、残酷かもしれないわよ。貴女の前では都合の良い部分を見せているのかもしれないし、すべてを見通したうえで、誤った方向に導いているかもしれない」

「さあ……本当のところなんて、僕にもわからないですよ。それに僕には、自分自身のことだってわからない。少なくとも、そう感じただけのことです。真実が人によって異なるように、印象だって人によって違いますよ」

「言葉回しが上手いのね。もしも貴女が私じゃなかったら、仲間にしておきたかったわ、残念ね」

「群れるのは嫌いですよ。それに、仲間ってなんですか?」

「おっと、口が滑ったかしら」

「さあ……」

 彼女はそれから、杖を持ったまま腕を組んだ。「たしかこのあと、〈出来事〉があった気がするんだけど……何だったかしらね……」

「健忘症ですか?」

「そうね……物忘れかもしれないわ……。でも昔からこうなのよ、老化とかじゃなくて……。映像で物事を記憶しているから、いったん奥の方にしまい込まれると、検索するまでに時間が掛かって……。妄想と現実も区別しないといけないし」彼女はしばらく目を閉じ、眉間に皺を寄せていたが、何かを閃いたようにポンっと膝を叩いた。「ああ、思い出したわ!」

「良かったですね」

「訊かないの?」

「どうでも良いですよ……どうせその様子だと、深刻なことではないんでしょう? 僕は、貴女が普段、この世界で何をやっているかが気になりますよ。遊んでいるようにしか見えませんが……いや、実際はそうではないのでしょうが」

「貴女は予言って信じる?」

「はい?」唐突な質問に、僕は面食らって訊き返した。「予言?」

「そう。この世界に来てから、能力が抑えられているのか、最近あんまり見えなかったんだけど、たまたま少しだけ〝予知視プレヴィジョン〟が働いてね……」

「予知視……?」

「そうね……あと少しかしら……」彼女はローブから懐中時計を取り出して、秒針を眺めていた。「そうそう……私が『見た』のは、この光景だったわ。貴女が隣に居て……もうすぐね」そう言う彼女の表情は、心なしか、わずかに明るかった。「夜空を見ていなさい」

 僕は彼女の言葉に従い、夜空を見ていた。

 今日は春にしては珍しく快晴であり、たくさんの星が浮かんでいた。この部屋は最上階にあるため、星の光が、わりと綺麗に視界へと飛び込んでくるのである。

 でも、別にいつもと変わらない、普通の夜空だ。

 UFOも飛んでないし、花火も上がっていない。日常のワンシーン。

 何も起こらないじゃないか。

 あくびが出そうになり、彼女に尋ねようとしたとき――それは起こった。

 空の向こう側から、こちらへと降り注ぐように、たくさんの流れ星が浮かび上がったのである。

 それは光のシャワーであった。数々のきらめきが、贅沢に、頭上へと降下していった。

 流星群……?

 しかしニュースでは、今日この日にこんな光景が見られるだなんて、報道していなかったはずだ。

 その光のシャワー――流れ星の大群は、ひとしきり空を占領したあと、徐々に数を減らしていって、しまいにはなくなってしまった。

 束の間であった……。

 たぶん、時間にすると、三分にも満たなかっただろう……。

「まあ、こんなものね」と彼女は言った。「それなりに楽しかったでしょう?」

「え、ええ……」

「別に私が魔法を使って、いまのをやったんじゃないわよ。そんなことに魔力を使っていたら、すぐにバテちゃうし……」

 出来ることを前提に話しているのか……?

 いや、それはいい。ともかく彼女は、今の現象を予知していた……疑いない事実として。「凄いですね」

「あ、でも貴女にはできないと思うよ。残念だけど、始祖に近い血筋の特権だから……」彼女はそういうと、柵の上にのぼった。「流星って夢があるわよね。私、こう見えてロマンチストだから、けっこう見とれるわ」

「ロマンチスト、ですか。僕は現実主義者なので、あまり共感は出来ませんね。さっきの流れ星は、とても綺麗だったと思いますが」

「でも、理想を抱いたり追い求めたりするのは、想像力のある生物にとっての、唯一の特権だと思うわよ。理想論と揶揄やゆされたとしても、そこへと向かって邁進する努力こそが、世界をより良く変革するために必要だ、ともね」

「どうでしょうかね……。『アラビアのローレンス』の冒頭にもありましたが、現実において夢を実現しようとする人間が、戦争を起こしてきたとも言えますよ。戦争、というものは結局のところ、格差や不平等を是正するために行われるものですし……。それに、想像力は時に、人を誤った道へ――破滅へと誘います」

「そうね、その通りだわ。でも、破滅を食い止めるのも、また理想――善なる思想を基底に置いた観念の産物――であるし……」彼女は咳払いをした。「でも、この世界では魔法使い――能力者のことを、ロマンサーと呼んでいるのね。まさしく浪漫ロマンが、そこにそのまま入っているじゃない。なかなか良いネーミングだと思うけれど、私は」

「格好付けているだけですよ。それに、ロマンサーが存在するからこそ、ブラッドレインのような、能力者による革命、武装蜂起が起こったんです。能力なんて特別なものがなければ、世界はもっと安定していたのでは? 僕には星の意思が理解できませんね」

「星の意思はひとつではないわ。それに、原始種から遠ざかれば遠ざかるほど、その意思は薄れる。多様化するのは当然の流れね」

「星の意思が薄れたから、人口が爆発して、破滅的な戦争が起こりやすくなったと?」

「そうね、星にも寿命がある……。力が低減するのは当然の帰結。そしてそのときが来たら、きっと、すべてが終わりを迎えるでしょう。でも仕方ないわ。終局は早かれ遅かれ、どこにでもやってくる。円周率のように、〈終わりのない始まり〉もあるけれど、基本は、始まりには終わりが付き物だからね」

「なんだか頭が痛くなってきました。壮大ですね」

「だから言ったでしょ。もっとどうでも良いこと話そうって。あなたのほうが悪いのよ……悪いのニャ」

 ……………。

 つらい。

 自分と同じような声――いや、まったく同じ声で「ニャ」とかいわれると虫酸が走る。背中をゾクゾクと、ムカデが這い上がってくるような感じだ。

 ていうか、この話し方が嫌いって言ったのは、この人のほうだったはずだが……。

「さあ、そろそろ行こうかしら」と彼女は言った。「もう、遊んでられないのよね、本当は」

「僕で遊んでいた、と?」

「本当はもっとここを寄りたかったんだけどね……。まあ、私が貴女に会おうと会うまいと、もう、事件はとっくに終わってしまっていたから、どうすることも出来なかったのよ。私はいつでも処理役。後片づけの役目にしか過ぎない。均衡を保つための……」

「貴女の悩みは分かりませんが、まあ、その侵入者捜し、頑張ってください」

「そうね……。いや、私は大丈夫よ。頑張ったことなんて、あんまりないし……。それより私は、貴女のことが心配かしら。まあ、貴女がそれを乗り越えられるって信じているけど」

「僕は別に、何にも巻き込まれていませんが……」

「…………」彼女はしばらく険しい顔をしてから、こういった。「ひとつだけ質問していい?」

「構いませんが……」

「もしも自分が、取り返しのつかない過ちを、当然の成り行きで――不可抗力で起こしてしまったとき、貴女は自分を――自分のことを、許してあげられる?」

「え?」

「例えばブレーキをきちんと踏んだはずなのに、車が暴走して、人をき殺してしまったとき、貴女は罪悪を感じずに生きていける? 例えばその被害者が、家族だったりしたとき……」

「…………」

 きっと何かの暗喩なのだろう。僕は深く考察してみる。

 もしもそうした状況があったとして、たとえば兄さんを殺してしまったら、僕は……。「あとを追って……しまうかもしれません。特に、大切な人だったら……」

「…………」彼女は悲しそうな顔をした。「そうよね……。でも、いくら責任を感じても、自分を罰する必要はないわ。悪いのは故障していた車であって、貴女ではないのだから……。でも、実際にそれが起こると、それでも構わないと言ってられないのよね……。はふう、本当は洗いざらい打ち明けて、ずっと語り合っていたかったわ」

「僕、未来に車を運転したとき、誰かを轢いてしまうのですか?」

「たとえ話よ。深く考えないで……ただ、なんでもかんでも自分を責めないようにすれば、きっと大丈夫よ。ずっと昔のことだけど……私はこの手で、復讐で〈あの男〉を殺したあと、反動というか、ショックでずっと落ち込んでいたけどね」

「…………は、はあ」ずいぶんと不穏な内容だ。

 まあ、僕も任務における戦闘で、キメラや傭兵みたいな敵を何度も葬ったし、どうこう言えたものではないけれど。

「さて、もう行くわ」彼女はそういうと、帽子をかぶり直した。

 金色の髪が月光によって輝く。月と同化した色――不気味なほどの美しさであった。

「このあとはどこへ?」僕は尋ねた。

「あらかじめこの世界へ送っておいた、仲間のところへ行くわ。まあ、私と違ってそんなに凄くはないけれど。情報もいったん整理し直さないといけないし」

「そうですか」

「あ、それから言い忘れてたけど……ひと段落したら学校には行きなさいよ」

「それもアドバイスですか」

「さて、どうでしょうね」彼女はそういうと、目の前の空間で杖を振った。

 すると、煙がどこからともなく現れ、雲のように固まり、像を成していき――それは……縫いぐるみになった。カービィの形をしている。

「別れの品よ。あげるわ」

 僕はおそるおそるそれを受け取った。何の変哲もない、ただの縫いぐるみであった。「どうも……え、でもなんで?」

「貴女の記憶を元に作ったわ。好きなんでしょう? それ」

「ま、まあ……。ありがとうございます」僕はお礼を言い、縫いぐるみを眺め回す。

 ずっと欲しいと思っていたやつだ……。

 唐突で戸惑ったが、正直、すごく嬉しい。笑みがこぼれそうになるのを、僕は我慢した。

「いえ、こちらこそありがとう……」彼女はそう言うと、マントのようにローブをひるがえした。「貴女に会えて良かったわ、本当に……。じゃあね」


 ☆


 彼女が姿を現したのは、それが最後であった。







 45


 コーヒーを飲んでいると電話が鳴った。

 珍しい、この時代に普通電話を掛けてくるとは。旧世界に思念が取り残されているのかもしれない……。

 僕は端末を取る。「もしもし」

「もしもし…………あの、貴女はタキガネルリ、さん?」

「え?」僕は驚いていった。「誰ですか?」

「あの……私は……」声がボソボソとしていてよく聞こえない。どうやら男性のようだ。「……から脱走しようとして、紙切れの中に、手帳があって……の電話番号のひとつに……」

「何を言っているか、全然分からないのですが……」

「ああ、申し訳ない。だけど私も錯乱していて……ここは、どこなのだ? まるで迷路のように……隣の部屋に収監されていた者も、連れて行かれてしまって……」彼は焦っているようだった。息を切らしている。

「手帳とは何です?」

「そうだ、手帳だよ――管理室に置いてあったんだ。リストを眺めたところ、この子は犠牲にならず、手術のあと解放されたようだが……。もしかしたら一部だけを、換金して売り飛ばしたのか……。わからん……こんなことは非合法だ。人権侵害の……」

「手術?」僕は驚いていった。「それは誰の?」

「手帳の持ち主だよ。えっと、サオトメシグレ……と書かれているが……駄目だ、頭が痛い……割れるようだ。無理やりチューブを切り落としたからな……麻痺薬も投与されておる……。クソッ、奴らは私の体をいじくり回すつもりなのか……。どちらにしろ……うう、このままでは私も……殺されてしまう。頼む……お前さんが誰だか知らないが、今すぐ警備に連絡し、この番号を逆探知して――」

 そこで電話が途切れた。







 46


「なるほど、やはりそのようだな」端末のスクリーン越しに、所長は言った。「君のもとに電話が行ったのは、本当に偶然ではあるが――これでアポトーシスが、『人身売買』をおこなっていることの確固たる裏付けになる。しかし、あまりにも都合が良いな。もしかしたら電話で君を招くための、巧妙な罠かもしれない」

「もし、あの電話が本当なら」と僕は言った。「今も奴らによって捕らえられている人々がいると?」

「そうだ。これは調査によって明らかになったことだが、どうやら管理の行き届いていない地域、廃棄都市や汚染地域、あるいはスラム街で、〈タグ〉のついていない人々を捕らえ、施設で管理し、必要に応じて売りさばいているらしい。旧オーストラリア……南東地域において、アポトーシスに関与していると思われる人間を捕まえたのだが、多重連絡網マルチネットによる緩い靭帯じんたい――つまりは追跡を避けるための連絡網が構築されていてな、捕まえた容疑者を尋問させても、限られた情報しか得られない、といった具合だ」

「でも、あの、マーマレードやメリーから聞いたんですが、その、アポトーシスの中核にいるのは、ホワイトノイズ出身の裏切り者だと……」

「ああ……その通り」所長は頷いた。「もっと確実に情報を割り出すまでは、きみに伝える必要はないと思っていたのじゃが……」

「誰なんです?」

「きみが……きみの兄が、指令を無視して、ブラッドレインの拠点へ単独で潜入しようとしたときの……その目標について、覚えているかな?」

 目標……?

 あのとき……兄が殉職する羽目になった……。

「ちょっと、待ってください。いまいち釈然としないというか、その……」

「いや、あの時は我々も混乱していたからな、別にきみの兄を責めているわけでもないし、立派なおこないだったと思う。だが、それと繋がっていてな……。それが、きみに伝えることを躊躇わせたのだ」

「兄はあのとき、ブラッドレインの人質になった、ホワイトノイズの成員を助け出そうとしていたはずです……、でも、兄も、その人質も……」僕は記憶を辿りながら言った。

「そうだ。救出は失敗し、きみの兄は亡くなることになった……。残念なことにな……」

「でも、それと何の関係が?」

「ブラッドレインはな、その人質を、本当は殺していなかったのじゃよ。ジオール博士を覚えておるかな? 彼はきみたちの首についている、監視用ビーコンの開発者のひとりでもあるが……博士は、その人質からビーコンを外していたのじゃ」

 監視用ビーコン。

 それはロマンサーの行動を縛る、小型爆弾付きの探知機――僕の首にも取り付いている、あの……。

「しかし……」自分の中に、複雑で青黒い感情が渦巻き始めているのが分かった。「それは、理論上できないはず……では?」

「あの事件のとき」と所長は言った。「我々は脅され、ビーコンの監視システムを一時的に解除していたのだ。きみも知っているだろう? 彼らは核武装しているとの情報もあったことを。あれは結局ダミーだったが、細菌兵器を持っていたのは確かだったし……いずれにせよ、ある程度、相手の情報を呑まざるを得ない状況だったのだ。それで、その監視システムを停止している間に」

発信機ビーコンを取り除いたと」

「そうだ」彼は首肯した。「あのときの人質、ダグラスは死んでいなかったのじゃ。それで……」

「しかし疑問があります。どうして……彼らはその人質――ダグラスからビーコンを取り外したのでしょう……しかもそのダグラスは、なぜ、ホワイトノイズに戻ってくることなく、敵対行為を続けているのですか?」

「理由はいくつか考えられる」と所長は言った。「ひとつは、奴が『自分は見捨てられたのだ』と思っていることだ。きみの兄を除いて、ダグラスを助けようとする人間は居なかったからな……。事実上救助は打ち切られ、その記録は残っている。だからこそ怨念が渦巻いているのだろう」

「……………」

「第二に、彼がブラッドレインによって、洗脳を受けた可能性があると言うことだ。ブラッドレインは能力者による武装蜂起だったが、もちろんその中には非能力者もいた。つまりは一般人に、彼らの思想を植えつけることで、勢力を大きくしていったのだ。その洗脳を、人質におこなわなかった、と考えるのは、都合が良すぎるじゃろう? きっと彼は、ブラッドレインが残した負の遺産を使って、組織を構築している可能性がある」

「つまり……やはり三年前のあの事件が、今もまだ続いているということですね……。でもそれならば、他にも、アポトーシスの中に、ブラッドレインの残党がいるのでは? 確か、ブラッドレインの能力者は全員捕まり、なおかつ処刑されましたが――非能力者の残党は、まだ……」

「いや、その可能性は……極めて低いと思われる」

「それは……どうしてですか……?」

「それは……」

 そこで微かな沈黙が起こった。

 所長は顔をしかめ、少し、何かを迷うようにしている。その表情はなぜか、僕の心を不安にさせた。

「悪いが、きみに話すことはできない。機密なのだ。それに関しては」

「そう、ですか……」機密事項は多い。きっと今の質問は、それに抵触してしまったのだろう。

 しかし、どうしてあんな苦しげな表情を所長は浮かべたのだろう……。

「とにかく、捜査は進んでおる。比較的順調じゃ。きみが何かを心配する必要もないし、不安に思うこともない。きみの友人についても、きちんとこちらで調査はおこなっている。わしから言えるのは、このくらいだ。何か訊きたいことはあるかな?」

「時雨は……人身売買をされたということですか?」

「前にも話したとは思うが――少なくとも、検死の際に分かったことでは、何かしらの臓器を奪われている様子はなかった。また、性的暴行を受けた痕跡もない。背中にある二つの傷だけが、唯一の謎であるが、それ以外に身体に問題はなかった。死因も不明のままだ」

 それは、不幸中の幸いなのだろうか。「そうですか……、しかし、僕とかかわりがないとはいえ、実際に、臓器を奪われたりして、人身売買されている一般の人々が、それなりにいる……と」

「そうだ。だが、過ぎてしまったことはどうにもできん。我々はだからこそ、奴らを食い止めるために動かねばならないのだ。いつの世も、闇が消え去ることはないからのう……」

「どうしていつの世も、闇が途絶えないのでしょうか……」僕は思わず、そんなことを呟いていた。

「正義というのは、それぞれの立場や状況によって、見え方が異なるからだろうな」所長はヒゲをいじった。「本来、善と悪のような二元論を、この世界に持ち込むのは間違っておる……絶えず状勢は変化し、思想もそれに合わせて変容するからじゃ。我々はその中で、少しでも確からしいと思える選択を、常に必要に迫られ、選んでいるだけだ。

 たとえば、第三次世界大戦が生じてしまったのも、根本の原因は、『地球に人類が増えすぎてしまった』のが理由のひとつであるともいえる。際限の無い人口爆発。まるでウイルスのような増殖具合だ。古い作品だが、『マトリックス』や『キングスマン』という映画でも揶揄されておったし、ダン・ブラウンの『インフェルノ』という小説では主要なテーマになっておったわい。他にも例は沢山あるが、あらゆる時代の有能なクリエーターは、この手の人口爆発の問題を正面から取り上げておるな。

 おっと、話が逸れてしまった。とにかく、その中で格差が生まれ、困窮し、餓死するものが大勢出てくる。資源リソースには限りがあるからな。たとえ資源が潤沢だったとしても、不況などで煽られて、一気に貧困が拡大することもある。アマルティア・センという学者も、『エンタイトルメントの喪失』という言葉を使って説明していた覚えがある。

 そうした状況において、資本家は自らの財産を、より強固で不動のモノに変えようとする。階級社会ヒエラルキーは自然に発生し、上層の人間が下層の人間を蹂躙するようになる……意識的にも無意識的にも……。戦争、というものは、格差・不平等を是正し、公平な世の中を作り出そうとするために生まれた、不可避の産物なのだ。螺旋らせんのように連なる果てなき憎悪、そこから生まれる必然性を伴った叛乱はんらん。きみにもわかるだろう……?

 しかし、だからといって、暴力によって革命を成そうとする存在を認めてしまえば、その暴力によって犠牲となる罪のない人々を、見捨ててしまうことになる。許容するわけにはいかないのだよ。……きみはマハトマ・ガンディーを知っているかね?」

「ええ、いちおう」僕はうなずく。非暴力・不服従運動。

「わしとしては、あのような抵抗によって、世界がよりよくなることを望んでいるのだよ、本当はね……。しかし実際は、そのような綺麗事では済まない。公共の福祉を保全するための、強行的な鎮圧行為――ホワイトノイズの任務は、どれもこれも汚れ仕事のようなものだ……。しかし、誰かがやらねば、世界は混沌に陥ってしまう」

「……いったい、そうした争いのない世の中を実現するためには何が必要なのでしょうか? 僕には、その争いが、未来永劫ずっと続いていく気がします。この世から人類……いや、生命がなくならない限り……。もちろん生きていくのは、誰かの手助けなしには実現しないということを、理解していますが、それでも、技術が発達し食糧の供給が充分になれば、争うべきことなんてないと思うのに、それでも人は……」

「きっと、欲深い生き物なのだろう」と所長は遠くを眺めるようにしていった。「人の欲望は果てしない……満たされることのない、底なし沼のようなものだ。仏陀ブッダもそう言っておる。大抵の人間は強慾なのじゃよ。満足したと思っても、その状態が長く続けば、満足できないように気持ちが変化してしまう。慣れてしまう、からな。おいしいものを食べれば、よりおいしいものを食べたいと思うようになる。ある程度の名声を得たとしても、しばらく経つと、より大きな名声を欲してしまう。力に継ぐ力。ホッブズ……リヴァイアサンじゃよ」彼は溜息をつく。「あるいはニーチェかな、力への意志……」

「僕にはわかりません。僕は、自分のいまの環境が、これ以上悪くならないで欲しいと願うことはあっても、今以上の境遇を望んでなどいません。食事なんてどうだって良いし、名誉なんて手に入れたくもありません。僕はただ……静かに、平穏に生きられれば、それで充分で……」

「うむ。実をいえば、わしにもよくわからん。極東支部の所長になったのも、向こうからの命令だしな……。しかしそれは、わしやきみの話であって、たいていの人間にはその欲望が当てはまってしまうのだよ。人間は……少しでも楽をしたいと考える。少しでも幸福になりたいと願っている。あまねく向上心。その欲望が文化をつくり、技術を進歩させ、社会を動かし、世界を発展させていった……しかし同時に、大規模な戦争をも生み出すこととなる。諸刃の剣というわけだな」

「どうしようもないんですね」

「そうだ、どうしようもない。ホワイトノイズは悪しき芽を摘み取ることはできても、社会の構造は変えることはできないからな……。社会は、鈍重な馬のように一歩一歩前進していくしかない。人類全体がお互いに、少しずつ賢くならなければ、恒久的な平和を望むのは難しいだろう。根源的な欲望を抑制し、理性と博愛が、人々の心で、そのともしびを大きくするまでは……。そしてそこには、ある程度の裕福さがすべての人々に共有されねばならない、という前提条件もある。競争社会でありつつも、充分なセーフティネットを張らなければならないのだ」

「だとしたら、その道程は険しそうですね……。戦争で、世界は一度めちゃくちゃに崩壊してしまったわけですし……。世界規模でみると――まだ、二十一世紀初頭にくらべて、統治体制だって不十分で……」

「そうだ……。だが確実に、技術も発達しているし、政治の在り方だって見直しが進んでいる。人工知能による統治システムも検討されていることは、以前に何度かニュースになったはずじゃ」

「えっと……世界各国、七つのスーパーコンピュータを統合させ、それぞれの情報交換によって答えを導き出すという……あの……」以前、僕はその模擬実験の様子を、端末のニュース動画で見たことがあった。

 第三次世界大戦の直接的被害をまぬがれた七つの都市――アメリカのシカゴ、中国の香港、ロシアのサンクトペテルブルク、スイスのジュネーブ、オーストラリアのメルボルン、インドのバンガロール、南アフリカ共和国のケープタウン。

 これらの場所それぞれの研究施設に、巨大なスーパーコンピュータが設置されている。ちなみにスイスのジュネーブにあるものは、ホワイトノイズ直属の研究所が管理をおこなっている。

 そしてそれらは人工知能としても活用されており、[素粒子同時共鳴型伝達網]――通称『タキオン・ネットワーク』によって、相互に通信し、連携し合うことが一応可能らしい。

 確か、それらのスーパーコンピュータには、それぞれ〈傾向〉のようなものが存在するらしい。それぞれの機械特有の、癖、個性、人格、というべきか……。そのちょっとした〈傾向〉を正し、互いを監視するための連携をおこなうことができる。

 また〈討論〉という機能もある。それはそれぞれの機械で演算した答えを元に、情報交換しつつ、真実を見極めるというものだ。

 スーパーコンピュータひとつによる判断よりも、複数による判断のほうが、精確さを増すのは当然のことであるからだ。

 しかし、その連携はまだ実験段階であり、実質的な研究は、別々におこなわれていて、七つのスーパーコンピュータによって〈連携〉や〈討論〉させるときには、それぞれの研究所による承認がいる。

 だから、実際に『タキオン・ネットワーク』が作動したのは、二回だけなのである。

 大ブリテン島の周囲で起こった大地震・大津波のときに、被害状況をシミュレートするために一度。

 そして、ブラッドレインの情報を収集するために、もう一度……。

 地震や台風などの自然災害をシミュレートするだけではなく、ビッグデータを解析することによって、ネットワークに散らばるあらゆる情報を、人間の手を加えることなしで容易に再構成し、未来を予測したり、状況を詳細に把握することができるのだ。

 しかし、『タキオン・ネットワーク』は優秀であると同時に、かなりの危うさを伴う。

〈旧国家体制〉(現在では解体されている)に対して支持的な権力者たちが、それを不正な目的で利用できないよう、幾重もの安全策を立てているし、基本的に軍事利用することは許されていなかったはず……だ。

「そう」と所長は頷いた。「『タキオン・ネットワーク』は、社会全体にとって良い効果をもたらすこと……あるいはそれを使わないと事態が悪化してしまい、大惨事になってしまう恐れのあること――以外には、決して使われないし、使われるにも、上からの承認が必要だ。特に機密情報は、スタンドアローン――独立させて取り扱ったほうが良いからな。しかし、いつの日か、それらの規制が緩む日が来ると思う」

「それはどうして?」

「たぶん、現在国際政府が持っている権力は、『タキオン・ネットワーク』へと譲渡されることになる、と思うからだ。ほぼ間違いなく」

「ホワイトノイズが……それを目指しているんですか?」僕は驚いていった。

「そう……実をいうとそうなのだ。きみの言ったように、人類の限界というものはある。個人では優れていても、群体ではうまく機能しないのが人間という生き物だ。人間が戦争の歴史を繰り返してきたのを見ても、それは明らかじゃろう? だから、それを根本から変えてしまうのだ」

「あまり、感心はしませんが……機械にすべての治世を任せよう、ということですよね……」

「だが、たとえ集団がうまく機能し、人道的で有効な判断がくだせたとしても、その頃には『時既に遅し』ということが、今までに何度もあった。政治の決定には利害が関わるからだ。また、人間の判断速度には限界がある。

 だが、このシステムが実用化されれば、〝最善の一手〟を〝最速〟でおこなえるようになるのだ。

 少なくとも、WW3のような悪夢は、二度とこの世に生じないだろう……。機械は平等に、数式という〝ものさし〟で、行動を決定するからだ。

 過酷な結果が生まれるかもしれないが、それを拒否すれば、ほぼ間違いなく更に悪い状況へと変わってしまう……それを分かっていながら、機械に刃向かおうとは誰もしないだろう。

 人類は、いくら愚かだといっても、死の恐怖――危機を感じる力は、誰の中でも大きな比重を持って存在しているからだ」

「だから……それが実現すれば、今のような悲しい争いがなくなり、僕の望みが叶うと……。まだ懐疑的ですが、たしかにそうなれば、平和な時代がやって来そうだとは思います……」

「そう……だから我々は、その時代がやってくる日まで、活動を続ければ良いのじゃよ。どうかな、これで少しは、きみも気分が晴れたかな? いつまでも同じ状況が続くわけではないという、かすかな希望が……」







 47


 僕はケーキ屋さんを探して散歩していた。

 今回はうしろに、双子がくっついてきている。

 さすがに無断でいなくなることを繰り返していたら、信用を失うのは当然である。でもまあ、彼女たちは、僕を心配しているためそうしているのだから、本来は感謝しなければならないのだ。

 それから、あまり彼女は乗り気でなかったが、楓も連れてくることにした。

 洋服は、僕のものを貸してあげた。白いワンピースであり、最近の僕が着ないタイプの服装である。サイズはぴったりであった。

 僕は、兄さんが昔使っていた服を着ている。兄さんは身長が高かったが、段階的に成長していったようで、様々なサイズの服があり、だからこそ僕の身体にあったものを身につけることができるのだ。

 兄さんの帽子や兄さんのズボン、それから兄さんのティーシャツを着ていると、なんだか落ち着くのだ。そういう事って、誰にでもあるだろう?

「この地域には、何年くらい住んでいるの?」と楓がいった。

「そうだね、気づいたときには住んでいたかな。物心ついたときには……」

「この街を、よく知っているのね」

「いや、そうでもないよ。バスを使わないとはしまでたどり着けないほど、かなり広いし、それに茜から聞いたケーキ屋さんだって存在を知らなかったし」

「故郷?」

「まあ、長く住んでいるし、そんなもんかな」

「いいですね」

「きみは、そうでもないの?」

「……転校が、多かったから」

「そっか」僕はそれ以上訊かないことにした。


 晴れた休日は素敵だ。青空が雲を運び、ビルの上を流れていく。

 この街は大きいため、人口は多いが、密度は低い。だから比較的閑散としているし、車の往来もそんなにない。

 ケーキ屋を探していたのだけれど、どうも見つかりそうがなかった。

 まあ、それも仕方ないことだ。あくまで主な目的は散歩なのだから。

 僕はふと思い立って、店へと寄ることにした。

 双子と楓には、自由に昼食を買っていいと告げる。そのくらいおごることなど造作もない。

 このストリートをもう少し進むと、そこそこの大きさの湖があり、そばには人工芝が生えている公園がある。『ルーム』の中にレジャーシートも入っていることだし、せっかくだから、そこで、ピクニックのように昼食でも食べようと思ったのだ。

 僕はサンドイッチと紅茶を購入した。双子はホットドッグとメロンパンを、楓は長いフランスパンを買っていた。

「え、本当にそれでいいの?」僕は楓に尋ねた。安かったが、結構な長さだし、そのままだと味もついていないだろう。

「ええ」彼女はうなずいた。「ずっと前から、一つまるごと食べてみたかったの」

「へえ……でも」

「持ち運ぶのは少し大変ね」

「いや、そういう事じゃなくて……うーむ」僕は店の奥に行き、小さめのマーガリンとイチゴジャムを取り、会計で代金を支払った。「ほい、これもどうぞ」僕はそれらを彼女に手渡した。

「どうして?」

「あ、いや……迷惑だった?」

「そんなことはないけれど……いいの?」

「うん」

「そう。ありがとう」

「…………」

 なんだか僕は、うまく話せないでいた。

 もともと人と会話するのは苦手なほうだと思うけど、更に悪化しているようだ。

 会話って不思議なもので、うまくいくときと、うまくいかないときがある。

 まるで何かが取り憑いているように、すらすら言葉が出てくるときもあれば、リラックスしているのにもかかわらず、何も頭に浮かんでこないときもある。

 楓とは、ちょっと相性が悪いのかもしれない。

 だけど不思議なことに、その感じが、嫌いじゃなかった。

 十二時を告げる鐘が、街の中心の塔から聞こえてきた。

 僕たちは芝生に敷いたレジャーシートへ座り込み、昼食を食べ始めた。

 風が吹き、近くの青い湖面に波を作り出していた。

「大きな街なのに、ここは綺麗ね」と楓はいった。

「そうだね。ここは管理が行き届いているし、都市計画で、優先的に工事がなされたからね。環境保全もかなり進んでいるかな」

「あの湖も?」

「うん……。もとからあったことはあったらしいけど、埋め立てたり、あるいは拡張したりしたから、ほとんど人工のものだと言えるかもしれない」

 景観のために、あるいは貯水池とするために……。目的に沿って、人間は環境をいじくることができる。

 でも、それは完全ではない。ときどき、想定もしないような自然現象や災害によって、もろく崩れ去ってしまうものだ。今も昔も……。

「ねえ、ネッシーって知ってる?」僕は彼女に訊いてみた。

「ネッシー?」

「そう、ネス湖のネッシー。UMA……未確認動物の」

「さあ」彼女は首を傾げた。

「そうだよね……昔のニュースだし、僕もネットで記事をたまたま読んだだけだし」

「どんな生物?」

「えーっと、こう、恐竜というか、亀というか、首の長い生き物でね……二十世紀に、ネス湖という場所でたびたび見られていたらしいんだけど、結局存在が証明されないまま、いまに至っているというわけだよ。なんだかそういうのって、ロマンを感じない?」

「さあ……。でも、ネッシーって名前はかわいいですね」

「あ、うん……まあそうだね」

 確かにUMAにしてはかわいい名前である。

 そういえば、マリオシリーズに出てくるヨッシーは、そこから名前を拝借していたのかもしれないな、といまになって気付いた。でっていう。

「あなたはネッシーを信じているの?」と彼女は訊いた。

「そうだね。僕はそういうの、ロマンがあるし、居てもいいんじゃないかなって思ってる、かな……」それに、ルーシーから『星の分身』という概念を聞いたあとだと、一層信じたくなってしまう。

「でも、それは、観光のためのでっち上げかも……」

「うん、まあね」僕はうなずいた。「でも、そうした嘘によって人々が楽しんでいたんなら、それは優しい嘘だと思ってさ。少なくとも、そうした空想が現実に入り込む余地のようなものが、昔はあったってことだから……なんとなくうらやましいな、というか……。あれ、こんな事を話すつもりじゃなかったんだけどな」僕は苦笑した。

「ネッシーの存在する世界と、存在しない世界。あなたは前者を望んでいるのね」

「……そうだね。そうした、人間以外の特別な存在が、もっと人間に脅威というか……存在感を示してくれたら、もしかしたら人間は、もっと違う見方をできるようになるのかもしれない……とか、思ったりするかな」

「でも、そのネッシーは――特別な存在は、もしかしたらうとまれるかもしれない」

「どうして?」

「だって、人は、そうした存在を邪魔者扱いするでしょ。特別だったり、かけ離れている存在を……」

「…………」

 それは、確かにそうかもしれない。もしもネッシーが存在し、捕獲されていたならば、人間はいったいどのような行為を、その奇特な生命体に施しただろうか。

 研究という名目で、おりのある閉鎖された場所に、その生命体を閉じ込めはしないだろうか。

 たとえば……ホワイトノイズ創設前に、人間がロマンサーに――能力者のような異能に対しておこなった〝仕打ち〟の数々を思い出していた。

 人々に、施しと知恵と慈愛を与えた善良なキリストは、裏切られ、ゴルゴタの丘で十字架へとはりつけにされたのだ。

 いくら、歴史が過ぎ去ろうとも、人間の本質は変わらない……。

「だから私は」と彼女は言った。「そのネッシーさんが、曖昧なままで良かったと思う。存在していなければ、疎まれることも、除け者にされることもないもの。悪いのは、ネッシーさんじゃなくて、周囲の人間だと思うけれど」

「でも………絶対にそうだとは限らない、と思う」僕は何とか反論した。「疎まれず、ただ人気になって、丁寧に扱われるだけかも……。ほら、ダーウィン島で、ものすごく長生きした亀、知っているかい? えっと、ロンサム・ジョージだっけ? あれだって……」そこまで言い掛けて、僕は口をつぐんだ。

 あの亀はたしか、高齢になってから、ずっと閉鎖された環境で管理されていたはずだ……。

 じゃあ、自由なんて結局は……どこにも……。

 沈黙。

 ポカポカ陽気の中で、どうして暗くなるようなことを考えているんだろうか。ダメだ、もっと話題を切り替えなければ……。

 とはいえ、話題がないのに口火を切るのもためらわれる。向こうから話し掛けてきた内容に対応するよりも、こちらから話しかけるほうが、数倍難しいのだ。

 サンドイッチをかじる。レタスのいっぱいのサンドイッチ。塩コショウの単純な味付けであり、それが僕の嗜好を押さえていた。なんでもかんでも、プラスアルファしていけば良い、というわけではない。シンプルイズベストを体現したような美味しさだった。

 双子は何かをひそひそと、高速で話し合っていた。

 物凄い量の情報が受け渡されているようで、その言語は独自のものと思われるほど、聞き取りづらい。マーマレードでさえ彼女たちの思考スピードについていけない、というのは、やはり本当のことらしい。

「ルリさん」と双子がいった。「私たち、湖へ行っても構わないでしょうか?」

「え、かまわないけど……どうして?」

「あれに乗りたいのです」二人は腕を上げて、それを指し示した。「湖に浮かぶ、あの鳥の形をした舟」

「ああ、スワンボートね。いいよ、行ってくれば? 端末で写真でも撮っておいてあげるよ」

「そうですか、では」彼女たちはそのまま、湖のほうへと向かっていった。

 僕と楓は、湖の岸近くにあったベンチへと移動して、そこから、ボートで遊ぶ双子の様子を眺めていた。

「あの子たち、あんな一面もあるのね」と楓はいった。

「うん、まだ彼女たちは十二だし、あれ、十三だったかな……とにかくそうして遊んだりするのが普通であるべきなんだよ。本当は」

「なんとなく、気づいてはいたけど……彼女たちも学校へ行ってないの?」

「そう、僕やきみと同じようなもんだよ」とりあえずそう返答した。

 でも……双子は、僕と違って、学校というものを経験していないのだ。

 僕は行けるのにもかかわらず、行っていないだけだけど、マロンとミルンは、学校に行くこと自体を許されていないのだ。これは大きな違いである。

 そうだな……いまはまだ、アポトーシスの問題が片付いていないから、有耶無耶うやむやにしているけど、それがひと段落したら、やはり僕は学校に戻るべきなのだろう。

 学校に行ける環境と資格があるにもかかわらず、それを放棄することは、きっと、彼女たちに失礼なことだろう……。僕はそのことを、より明確に自覚した。

「きみは……学校で何かあったの?」僕は試しに訊いてみた。

「私は何度も転校していたから、学校は――楽しくなかったし、疎外感もあったけど、そこまで辛くはなかった。ただ、落ち着いたりできるような場所ではなかったと思う」

「そっか……。フリースクール――自由に通える学校とかを、考えたりは?」

「近くになかったし……そんなこと、許しては……」

「…………」

 なるほど、きっと彼女の場合は、親が問題となっているのだろう。学校でいじめられていたりするならば、多分、はじめから沈黙を通していたか、話の内容が違ったであろう。

 家の問題。

 家庭環境――それは生まれながらに決まっていて、選択することができない、絶対の環境である。

 僕も家庭環境は特殊だったけど、幸いなことにホワイトノイズに引き取ってもらえた。

 ホワイトノイズによる支援は、かなり手厚かった。それも当然だ、ロマンサーは希少だからだ。

 また時雨は、詳しいことは知らないが、優しそうな里親に引き取ってもらえていた。

 時雨は孤児だったようだが、それがかえって、親切な環境を与えられる要因になった。

 しかし、血の繋がった両親が存在しても、それがどうしようもない人間だったら……。

 親は選べず、子供は彼らに従うだけだ。

 常識というものが、アインシュタインの言うように、大人になるまでに積み重なった偏見のコレクションだとするならば――もしも、異常を当たり前だとして育ってしまえば、そこから立ち直るのは困難な道になる。

 いや、どこにも当たり前とか、普通なんてものは存在していなくて、そうしたものがあることを、夢みているだけなのかもしれない。大なり小なり、何かしらの悩みを、人は皆抱えているからだ。

 だけど、その歪みが過度であれば、きっとどこかで「折れて」しまうのではないだろうか。

 折れてしまうのは、心が弱いせいなのか?

 心が弱い人間は、生きてちゃいけないのか?

 それは嫌だと思う。

 いくら耐えたって、その先に光が射し込むだなんて保証はないのに、折れてしまうことをその人の弱さのせいにするだなんて、それは、多数の、強者の傲慢だ。弱肉強食を是認するならば、それは、野生動物と何ら変わらない存在だということになってしまうのでは……?

「ねえ、僕たちも乗ってみる?」

「え?」

「スワンボート、乗ったことある?」

 彼女は首を振った。「いえ、一度も」

「そうか、それじゃ行こうか。せっかくだし……まあ、実は僕も、アレに乗るのは初めてなんだけど」

「でも、私は別に……」

「まあまあ、そう言わずに……」

 僕たちは船着場のようになっている桟橋まで行き、お金を従業員に支払ったあと、スワンボートに乗り込んだ。

 料金は安く、人も少ないため、気の済むまで乗っていて良いということだった。ずいぶん気前の良いサービスだ。

 足こぎ式であったが、ペダルは硬くなかったため、漕いでいてもそんなに疲れなかった。

「この湖は、お魚さんとかいるの?」と彼女は訊いた。

「うーん、どうだろう」僕は湖面をのぞき込んだ。「綺麗だけどよく見えないね。まあ、ブラックバスならいるかもね」

 しばらく僕が観察していると、隣でビニールをいじるガサゴソとした音が聞こえてきた。

 そちらを見る。楓が残ったフランスパンをちぎって、湖面へといくつか投げていた。波紋が広がり、拡散していく。

「食いつくかしら……」そう呟き、彼女はじっと、漂うパン切れを眺めていた。

 すると、ぼんやりと、底のほうから赤い影が浮かび上がってきて、水面に顔を出すと、口をぱくぱくさせてパン切れをついばみ始めた。

 それは赤と白のコイであった。

「へえ、鯉がいたんだ。知らなかったよ」僕は少し驚いた。

「鯉は、いろいろな水質でも生きられるらしい」と彼女は言った。「汚れた水でも、綺麗な水でも」

「なるほどね……でも、あんまり出てこないね」まだ一匹しか、水面近くには上がっていなかった。

「もう少し、餌をあげてみる」彼女はそう言って、さらにパン切れを、六つか七つ投げる。

 すると今度は、もっと多くの鯉が水面に現れた。彼らは競争するかのように、頑張ってエサに食らいつこうとしていた。

 しかし、彼らは歯がないためか、そのパン切れを呑み込んだと思っても、また口から出てしまうことがあって、それがなんだか面白かった。慌てて口に入れようとして、ポロポロこぼしてしまう子どものようだ。

「面白いね。僕も家で、魚とか買ってみようかな。水槽あるし」

「それはかわいそうだと思う。魚さんだって、閉じ込められるのは嫌なはず。ああ、ごめんなさい。別に否定するつもりはなかったの……。私だって、そうした生き物を食べることで、生きているわけで……」

「いや、謝らなくても……うん、たしかにそのとおりだよ」僕は以前見た、ファインディング・ニモという映画を、ぼんやり思い出していた。

 ふと顔を上げると、向こうのほうから双子の乗っているスワンボートがやって来ていた。

 僕が手を振ると、向こうも手を振った。

 彼女たちは近くまでやって来て、隣まで来ると静止した。「なにか見つかりましたか?」

「うん、まあね。鯉とか、ネッシーとか」

「ネッシー?」

「あ、いや、なんでもないよ……」僕はかぶりを振った。「そうだ、せっかくだから、いま写真を撮ってあげるよ。ここからなら摩天楼と公園がバックになって、結構いい画が撮れそうだから」

 僕は双子たちの写真を撮り、双子たちは僕たちの写真を撮ってくれた。

 データを交換し、写真を手に入れる。なかなか上手く撮れていて、特に不満はなかった。

 青空と青い湖面の中心に、白いスワンボートが浮かんでいて――空を飛んでいるようにも見えた。

 空飛ぶスワンボート。なんだか面白い響きだ。

 画像をフォルダに入れていると、楓が僕の端末を覗き込んでいることに気づいた。「あ、帰ったら、さっきの写真、プリントして渡すよ」

「…………」

 彼女は無言で頷いた。







 48


 ひととおり遊び終え、僕たちは帰路についた。

 まだ、そこまで遅い時間でもないが、他にやることもなかったし、それなりに疲れてもいたのである。

 ふと、空を眺めてみた。

 雲はさっきよりも少なくなっていて、快晴と呼べるほどの天気になっている。

 なんだかこうして平和な一日を送っていると、自分の不幸なんてものが、ちっぽけに思えて、本当に幸福で……理由わけもなく、申し訳なくなってくる。

 いったい、何に対する罪悪感なのだろう。

 たぶん、生きて、幸せになろうとしていることに対してだろう……。

 本当は、こんな気持ちは、僕じゃなく、兄さんや時雨に味わって欲しかったのだ。そう思う……。だって、彼らはきっと、僕なんかよりも優しくて、価値ある存在だったからだ。

 遠くのほうでは、黄色い飛行船が静かに蒼穹そうきゅうを渡り、西の方角へと移動していた。空に浮かぶレモンのようだった。







 49


 我々は一旦、この物語の語り手である少女、滝鐘瑠理の視点を離れ、俯瞰的に物語の『群像』を眺めることにする。







 50


 とある塔の骨組みの上に、一羽のカラスが立っている。

 暗鬱と曇った空が灰色の建物と混じり合っている。人々の姿をあまり見掛けることはない。眼下では車の赤いテールランプが規則正しく流動し、おびただしい蟻のように群がりつつ、絶え間なき尾を引き続けている。

 カラスは飛翔をする。

 そのまま上昇を続け、雲の上を目指していく。

 雨雲は低く垂れているため、距離がそこまであるわけではない。灰色の雲を突き破ると、その向こう側には青空が広がっている。

 そして、その白と青の二面世界の中で、一つの黄色い染みが点のように穿うがたれている。

 それは飛行船であった。

 陽光を受けて黄色に輝き、異様な色彩を漂わせていた。

 宣伝用の船ではないようだ。風船の表面部分に何も描かれていないからだ。

 一つの象徴のように――その空間を監視するかのように、浮遊状態を保ち続けているのだ。

 それは『統制者』の船であった。

 カラスはその『統制者』の飛行船の、甲板へと降下し、そこに降り立った。

 カラスは何かを呼ぶように鳴き声をあげた。

 その声は、上空を流れる高速の風によって掻き消されるはずなのだが――

 それを合図にしたように、地上から数多の数のカラスたちが飛んできた。そしてそのカラスたちは、鳴き声をあげた先ほどのカラスへと、鋭いくちばしを向けたまま、速度を落とさずに、まるで弾丸のようへと突っ込んでいった。

 カラスたちは甲板の上で、互いに衝突を続けた。黒い羽根が宙を舞い、風で吹き飛ばされていく。

 そのカラスたちは――混ざり合っていた。もはや原型を留めておらず、流動性のある〝塊〟へと変わり、蠕動ぜんどう運動を続けつつ、その形を変化させていった。まるで粘土がこねられていくように……。

 そしてその〝塊〟は人型へと変わっていき、ついに、形を成した。

 それは身長二メートルはあるのではないか、と思われるほどの大男であった。

 顔の彫りが深く、目付きは鋭く、その双眸そうぼうは威厳を保ちつつゆっくり動き、飛行船を観察していた。

 彼はいつの間にか黒い服を着ており、そして、銀色の仮面を装着していた。懐から出した懐中時計を使い、時刻を確認する。

 それは、滝鐘瑠理が墓参りをしたときに目撃した、あの男そのものであった。

 彼は甲板を歩き、そのまま内部へと繋がる扉の前へと来る。そしてパネルに暗証番号を打ち込み、網膜スキャンをおこなうと――ロックが解除されたようだ。彼はノブに手を掛ける。

 廊下を歩いていく。内部には人が居ないようで、閑散としている。白い廊下を迷いなく歩いていき、彼はとある扉の前に立ち止まった。

 扉を開け、中に入ると、そこは会議室のようになっていた。長机があり、椅子が幾つも並べられている。しかし、そこに人の姿はない。

 彼は一番手前の椅子に座り、それからテーブルに置いてあった、リモコンのような装置をいじくった。

 すると、部屋が暗くなっていき、ノイズのような音と、様々な電子音が鳴り響いたあと――部屋の中に、いくつも青い立体映像ホログラムが現れた。

 テーブルの右に五人、左に四人、そして彼の向かい側の席に一人……ホログラムの状態のまま、その部屋に置いてある椅子へと腰掛けていた。

 また、正面のテーブルの上には、3Dのように浮き出た地図が、立体映像として投影されていた。

 地球をあらわす球体のホログラムや、局所的な地形をあらわす直方体のようなホログラム、それから様々なデータを指し示す、数字やグラフも漂っていた。

「よく来てくれた、ガーランド。君が来るのを待ちわびていたよ」と彼からいちばん遠い、真向かいに座る老人は言った。「前回と前々回の定例会議では、君に拒否されたからな」

「吾輩は評議会の駒ではない。それは何よりも貴様らが知ってのことだろう?」彼は返答した。「それに、こちらが拒否したのではない。貴様たちが吾輩に対して刺客を送っていたのは知っているぞ。その報復のようなものだ。契約を破られたら、それ相応の代償がいる。その空白の席が、吾輩からの返答だ」彼は指で、その空いた席を指し示した。

 その言葉を聞き、彼の近くに座っていた男が立ち上がって言った。「嘘をつくな、私は彼の死因を知っている。あの航空機の墜落事故は、アームズ・コンバイン社の不備によるものだ。それに、彼は搭乗の四十五分前、チケットを変更したのだ。いくら貴様といえども、数十分前に変更された予定に対し、計画することは不可能なはずだ」

「それで」彼――ガーランドは、視線をその男に向けた。「だから何だという? 貴様はすべての事柄に対し、科学的な理屈、あるいは原因を求めている。この吾輩の存在に対しても、どこか否定的だ。だが、吾輩はあらかじめ通告しておいたはずだ。あの愚か者を、九月二十日に間違いなく殺すことになる、と……。まさか、『統制者』の一人であるから殺されない、とでも思ったか? ともかく、この評議会の、吾輩以外の十人のうちの誰かが、奴に情報を漏らしたのだ……禁則を破って。それであの愚か者は自らの便を変更し、運命にあらがおうと試みたのだ」

「だから、お前は何を言いたいんだ?」

「単刀直入に言おう。お前達がどんな策を講じても、吾輩の契約には逆らえん。ロマンサーに頼ろうとも、いくら予定を変更しようとも無駄だ。何らかの利益を求めようとすれば、そこには相応の代償が伴う。吾輩は別の世界の人間だ。星から力を譲渡されたロストスピーシーズの末裔たちではない。だから代償を支払うことなく、契約を結ぶことは不可能だし、違反にはペナルティが必要だ。吾輩が罰しようと意図したわけではない。運命の意志が、吾輩という存在を使って、あの愚か者を罰しただけだ。利益だけを享受し、逃げられると思ったら大間違いだ、ということだ」

 反論を試みた男はテーブルを拳で叩き、それから俯いて黙した。

「さて」とガーランドが言った。「吾輩は貴様たちに重要なことをいくつか伝えねばならない。出席に渋々しぶしぶ賛同したのは、それがひとつの理由だ」

「それはなんだね?」左前方に座っていた男が訊いた。「われわれは計画通りに物事を進めている。どこにも瑕疵かしはないはずだが」

「違う、これは吾輩の問題だ。要件というのは他でもない――ネクスタリア領域から、吾輩の刺客が現れた。以前から何度か議題にあげていた、あの女――例の魔法使いだ。ようやくアトランティアでの仕事を終え、吾輩を抹消しにやってきたというわけだ。かねてからの予定通り……おそらく、あと数ヶ月以内に、自分はその女によって殺されているだろう」

 会議室にざわめきが走った。一人の男が立ち上がっていった。「なぜそれがわかった。現存するネクスタリア領域は、世界の数ヶ所に点在しているが、それらはすべて絶え間ない観測下に置かれている。侵入者を許すことがあっても、見逃すことはない」

「次元は絶えず変動している」ガーランドは応えた。「貴様たちはまだ観測が追いついていないようだが、不規則に、突発的なタイミングで空間に歪みが入る。〈あちらの世界〉と〈こちらの世界〉の干渉が、年々増加しているのは知っているだろう? ネクスタリア領域は既に、短期間の間隙を含めれば、〝百以上〟にはのぼっているだろう。あの女も、そうした例外を使ってこの世界へとやってきたはずだ。自らの調査だけで過信するのは危険だという証左だな」

「そんな……では、どうやってそれらに対処すればよいのだ」男は頭を抱えた。そして今度は別の男が発言する。「君が殺される可能性は、やはり絶対なのか?」

「いかにも。これ以上逃げ延びるのはおそらく不可能だな。お前達がいくら吾輩をかくまおうとも、あるいは『カラス』のまま肉体を分割させておいても――それは時間稼ぎになっても、決定的な対策にはならないだろう。むしろ吾輩が逃げ惑うほど、お前たちと私の関係性があの女に露呈してしまう恐れがある。そうすれば、消去されるのは吾輩だけではなく、ここにいる評議会の人間全員ということになってしまうだろう。お前たちは知り得ないことを知り、行えるはずのないことを行い、いくつもの禁忌を破っている。だから、直接こうして意見を交換するのは、これが最後だと思っておいたほうが良いだろう」

「ガーランド」と議長の老人は問いかけた。「君は我々に様々な情報を提供し、尽力をしてくれたが――まだ計画は不十分な段階だ。この星を脱出する『方舟はこぶね』となる宇宙船の開発も、人類を剪定せんていするための破壊兵器もまだ開発段階だ。我々としては、その計画が破棄されたとしても対処するだけの能力は持っているが、このまま中途半端に居なくなられても困るのだ。君の望みの多くは聞き入れてきたし、餌となる――栄養となる人間も、きみに何度も提供を続けてきた。それだけではない――ホワイトノイズを弱体化させるという名目で、ブラッドレインや、最近のアポトーシスの一連の事件にも目をつむってきた。きみは契約の必要性を日頃から主張していたが、ここで君が離脱すれば、それこそ契約反故だと言えるのではないかな。せめて代替案となる方針を示してもらわなければ、逆にわれわれは、君の要望を破棄せねばならなくなるだろう」

「その件についてはお詫びを申し上げるが――もちろん代案は考えている。――貴様たちが希求してた不死の能力の一部を、ここにいる人間のうち数名に授けよう」

 ざわめきが会議室に走る。それは誰も予想だにしないことであった。

 ひとりの男が言う。「それは本当か? 我々はお前やロマンサーたちと違い、特別な能力も性質も保持してはいない。いったいどうやってそれを可能にするのだ?」

「吾輩の細胞の一部を、お前達が取り込むのだ」と彼はいった。「もちろんサイボーグ化している者は、いったん精神を通常の肉体へと移行してからになるが、ここにいる人間程度なら、不死化を施すのは簡単だろう」

「何らかのリスクが伴うのではないか?」と別の男が言った。「君の提案はあまりにも都合が良すぎる。もしかすると、細胞を埋め込んだあとになって、その細胞が精神を乗っ取るという可能性もあり得るだろう。それに、例えば私は、君の言っているようにサイボーグ化しており、少なくとも残りの寿命は三百年はある。また、不老不死とはいえども、定期的に人間を摂取しなければならないはず。それに、寿命が来なくとも、誰かに殺されてしまえば結局は一緒だ。我々はその権力ゆえに、多くの下民から狙われているからな」

「そうだな、貴様の指摘している疑問点は当然のものだ。しかし、別に吾輩は貴様たちを陥れるつもりはない。吾輩が重要視しているのは、自らの意志の譲渡であり、意識の継続ではないからだ。貴様たちとは違って吾輩は、刹那の生というしがらみに対し、従順ではないのだよ」

「しかし」とまた別の男が言う。「いったいそれはどのように行うのだ。私は彼とは違い、サイボーグ化はしていないし、病気で余命も長くはないから、君の提案には喜んで乗らせてもらう。だが、具体的な方法を提示してもらわないと、こちらも反応ができない」

「簡単だ。たいした手術も必要ない」彼はそう言うと、自らの腕を腹部へと突き刺し、なにかを手でまさぐるようにしたあと、灰色の、蠕動する肉片を取り出した。「これは吾輩の心臓の一部だ。これを水でもいい……呑み込めば自然に形を変え、腸を突き破って貴様の心臓へと至る。一時的な痛みはあるが、それもつかの間だ。気がついたときには、お前の心臓は別のものへと変わり、それから血液を使って、徐々に全体へと活力が行き渡っていくのがわかるだろう。そして半日もすれば、貴様の肉体は別のものへと変容しているはずだ。もちろん、吾輩のような能力は使えないが、不老不死に関しては問題なく機能する。後遺症もリスクも――意識を乗っ取られる心配もない。まあ、それでも心配であるなら、誰かに試して様子を見守ってから考えるんだな……まあ、肉片を譲渡する数は決めておくから、その留保は賢明とは言えないが」

「なるほど、話はわかった」と男は頷いた。「それはどこで渡す?」

「そうだな。貴様たちの研究所で渡そう……クローン開発施設なら、国際政府に怪しまれることなく、手続きや譲渡が可能であろう。いくつかのサンプルを用意しておく。好きに利用するが良い」ガーランドはそういうと、肉片を試験管へと入れた。

「ガーランド」と議長が言った。「その件とは別に、きみに尋ねたいことがあるのだが……クローン開発、それから人造人間の計画は、本当に役に立つのかね? 君に言われたとおり、その女性、ルーシー・ムーンライナーの遺伝子を使い、何度もクローンを生成させているが、今のところ、意識をうまく保てた例はひとつもない」彼は咳払いしてから、言葉を続けた。「それに、もう一つ疑問がある。我々はルーシーとは違う、この世界のロマンサーの遺伝子を使って、何体かクローンを生み出すことに成功したが――彼らは能力を宿していなかった。そこで質問だ……彼女をコピーするための計画――TRP(Transcendental Replication Project/超越者複製計画)は本当に上手く行くのか? 来たるべき時、対決の日に向けて、我々は複製体を創り上げなければならない。もう一度だけ、君の意見を聞かせてもらおうか」

「ロマンサーというものは、何度も話したように、力を星から譲渡されている身だ」とガーランドは言う。「つまり、いくらロマンサーを複製したとしても――遺伝子情報が一緒であるとしても、そこには資格がない。同じ遺伝子情報の個体が二ついた場合、星は、先に存在している個体――つまりはオリジナルにしか力を譲渡しないのだ。双子のように、生命が同時発生している事例は別であるがな……。それに、たとえオリジナルを殺しても、能力は、コピーされたほうへと移動するわけでもない――一つの命に対し、一回だけしか能力は与えられないからだ。これは数式のようなもので、この根底を覆すことは不可能だ」

「しかし、それならばやはりTRPも」別の男が口を挟んだ。

「改めて確認するが……吾輩が〈あの世界〉から秘密裏に持ってきた『あの女』の遺伝子は、星の力とは関係なく、独立で能力を行使することができるのだ。エネルギーを外部に依存しているのではなく、内部からそれを生み出している。惑星ではなく恒星だ、とたとえれば分かりやすいかな?」

「たしかに、彼女と同じ肉体を生成することには、我々は成功した」今度は奥に座っていた女性が言った。「しかし、その肉体に魂は宿らなかった。そこに精神の波形は現れなかった――まるで精巧にできた人形のようで……。魂のない抜け殻だけが、いくつも濫造されただけだった。何の進展もなく……」

「仕方ない。魂というのは気まぐれなものだ。いくら手筈てはずを整えても、必ず成功するとは限らない。未知の素粒子を発見するように、何万回、何億回という試行の果てに、やっと現れるかどうかであろう」

「我々はその複製体を生み出すために、善良な魂を――罪のない子供を、今まで八〇〇〇人も犠牲にしたのだぞ!」と別の男が言った。「お前の言うとおり、五歳以下の、まだ自我さえまともに保てていないような子どもたちをだ! 確かにあの子達は、機械によってランダムに受精させた、培養器の中で産まれた――初めから親のない存在たちだ。だが、我々とていつまでも容認しているわけにはいかないのだぞ。倫理的にも――人道的な見地からもだ」

「吾輩の知ったことではない」とガーランドは応えた。「貴様たちがその研究をやめようとやめまいと、吾輩には何の影響も無いからだ。自分の目的は、この世界を終末から食い止めることではない。利害の一致から、たまたま味方をしているだけだ。ネクスタリア領域が、そのあなをますます拡大させ、〈あの世界〉が〈この世界〉を消し去ることになろうと――たとえ、拡大を食い止めたとしても、向こうの住民と決裂し、一方的な蹂躙じゅうりんがおこなわれることになろうとも、それはそれで仕方のないこと……。ある程度の犠牲を伴う研究を選ぶか、間引きを伴う逃避を選ぶか、平等なる全体の犠牲を選ぶか、選択肢はお前達の手中にある。運命に抗うことをやめるのも、一種の美しさだからな。滅びの美学は、弱者の美徳だ」

「神に祈れと?」と先程の女が訊いた。

「最後まですがり、抵抗を続けるのだな。救いは誰かによってもたらされるものではない。自分たちで自分たちを救うほかないのだ。結局のところは」

「何か他に、知見となる情報はないか?」今度は奥に座っていた、痩身で背の高い男が言った。「きみが不死を分け与えることに、私もメリットを感じていない。たしかにここに居る『統制者』のメンツは保持できるかもしれないが、決定的な対応策にしては不十分だ。それに、ケープタウンの巨大統合型人工知能『マルチヴァク』の出した試算によれば、決定的な生物兵器の完成まであと五十年は掛かる――〈あちらの世界〉での耐性を、ウイルスに保たせることは、現段階では難しい課題だ。また、抗体となるワクチンも研究開発し製造しなければ、取引の材料にはならないし、それを巡って紛争が起き、結果的に自滅してしまうだろう。そもそも向こうが先に、そうした兵器を〈こちらの世界〉へと発射しないとも限らない――核ミサイルとてその場しのぎの気休めで、抑止力としては役に立たない……のだろう? 猶予は無いように思われる――我々としてはもう少し、君に助力して貰いたかったものだが……」

「そうだな。剪定せんてい及び逃避用の宇宙船については、もう少し後援となる智識を提供しよう。こちらは一番現実的な方法であり、少なくともお前達の種を残すには適している採択だろう」

 ガーランドはそう呟くと、空間上の立体映像に触れ、いくつかの地点を指し示してからその場所を拡大した。

 南極大陸の中心から少し外れたところにひとつ、グリーンランドの中央部にひとつ、ヒマラヤ山脈のふもとに当たる地点にひとつ、それから東シベリア山脈にひとつ――計四つの黄色い光点が、青いホログラムの中で輝きを放ち始めた。

「貴様たちの祖先――この星に移り渡ってきた愚かな生命体たちの、いにしえの船だ。既にアルプスと中央アフリカでそれぞれ発掘が進められていると思うが……残りの船はこの地点に埋まっている」

「この情報はいつ知った?」

「吾輩が独自に探り当てたのだ。星への侵入者は、波動の弱い地点を目指して宇宙船を着陸させるのが常だからな。ひとつひとつの、そうした流れが停滞している土地へおもむき、確認をしたのだ。証拠として、写真も撮っておいた」

 彼はそう言うと、テーブルにくっついている装置の溝に、小さなカードを差し込んだ。

 すると空間上のホログラムに、十数枚のデジタル画像が現れた。

 それらの写真一枚一枚に、装甲のような銀色の大きな金属板が写っており、なおかつ二つの写真には、この地球上のどの言語にも見当たらない文字で、赤いマークが刻み込まれていた。

 そのマークは大きすぎるため、氷から半分露出した状態であり、残りは地面の中へと埋まっている。

「発掘はされていないため、部分的な表面しか撮影できなかったが、それらが存在することの証明に成るだろう。画像には座標データも添付している――疑うなら、実際に調査して視認したあとでも遅くはないだろう」

「確かにこれは『ノワール船』のものだ」と男が言った。「いま、画像を解析しているが……たしかに合成写真ではないな」その男は後ろを振り返り、誰かに呼びかける。「マーカス、今すぐドローンを起動させ、座標の地点へと飛ばしてくれ。ああ、ここから一番近い場所で良い、とにかく至急撮影を頼む」

 彼の向こうのほうから返事が聞こえ、それは会議室に置かれたスピーカーを通して、ガーランドの耳にも伝わってきた。「手早いな。条約により緩衝地帯を飛行させるのは難しいと思っていたが」

「ステルスドローンだよ」と男は応えた。「レーダーからの干渉を受けないだけではなく、光学迷彩も完備している。攻撃には使えないが、監視目的ならば充分容易い」彼は姿勢を変えた。「それで、我々にどうしろと?」

「これで計六つの古代船が揃ったわけだが、それぞれの船には反重力物質アンチグラビティ・マターが備えられている。それぞれが強力な浮動力を保持しているが、それらを組み合わせればその力は倍加するだろう。いや、それどころではないな……累乗といったところか。つまりだ、現在貴様たちの技術力では、地球で建造した巨大宇宙船を、重力圏外まで運ぶことはできないが、その物質を組み合わせて使用すれば、それが可能になるというわけだ」

「つまり、現在月面で製造されている船以外にも、この地球上で、大型宇宙船をつくりあげることができるということか」

「そうだ。わざわざ物資を月面までロケットで運ぶ必要もなくなり、方舟の建造はより高速になるだろう。そうだな……あと二つは、方舟を完成させることができるだろう」

「一つの船で、約百万人収容できるから……つまり三百万人がこの星から脱出できるというわけだな」

「理論上は、だ。もちろん居住可能な別の惑星を見つけるまで、貴様たちは果てしないほどの時間を掛けて移動を続けなければならない。亜光速ワープ航法もまだ未開発だしな……もちろん、宇宙船で旅を続けているうちに、研究が進んでそれが可能になるかもしれないが……。とにかく資源も必要だし、まだ課題は山積みであることだろう」

「そうだな」と老人が答えた。「いずれにせよ、一隻に収容できる人間は多くとも百万人だ……。たとえ三つが完成したとしても、選ばれるのは三百万人。それを九〇億の人類から決めなければならないというのは、なかなかに気が重い」

「無論、来たるべき時に貴様たちが〈あの世界〉の住人たちと折り合いをつければ、なんの問題もない。しかし、終末はいつやってくるか分からないからな。来たるべき時が来る以前に、お前達が争いあって、滅んでしまっている可能性もある。第三次世界大戦さえ防げなかったのだからな」

「もう一度だけ確認させてもらうが」と老人はいった。「約五百年後にやってくるとされる〈来たるべき時〉――あの、巨大隕石の、地球への衝突を食い止めることはできないのか?」

「不可能だ」ガーランドは応えた。「お前たちは決断しなければならない。この惑星を出ていくか、〈あの世界〉の住民と交渉して移り住むか、〈あの世界〉の住民と戦って、もう一つの地球、『平行世界』を手中に収めるか――あるいは、それまでに貴様たちの種を絶やしてしまうか、だ。最後の選択がお似合いだと思うがな……もともとお前たち人間は――無能力者は、『上位階梯』から追放され流刑にあった犯罪者共の末裔なのだからな。この世界を、ロストスピーシーズ――本来の種族・生命体である〈星の分身〉から奪った責任を、清算しなければならない」

「それは、われわれの責任ではない……われわれは、生まれたときから、この星で暮らしていたのだぞ」

「それは過去を顧みない勝手な言い分だな。確かにそれは数億年も前の出来事だ。しかし、だからといって先祖の罪が消えるわけでも、虐殺の責任が途絶えるわけでもない。貴様たちは歴史を振り返ったことがあるか? お前たち人間の歴史は、戦争、腐敗、殺し合いの歴史だ。お前たちは、その存在自体が罪深いのだよ。吾輩の数倍もな……自らのけがれを、原罪を忘れているだけだ。お前たちに安住の地など存在しない、たとえ、別の星に移り住むことになったとしても」

「約束の場所……われわれは福音書の予言どおりに……」

「福音書は、もともと住んでいた本来の住民たちのためのものだ。貴様たちには辿り着けん場所だよ、無限遠点の彼方に位置する……。ネクスタリア領域を下手に変動させれば、きっとこの世界そのものが呑み込まれることだろう」

 沈黙が会議室を満たした。

 もう評議会で、彼に反論を試みようとする人間はいなかった。

「これにて吾輩は失礼させて貰おう……後始末がいくらか残っているのでな。それでは罪深き人間の諸君、無骨な健闘を――」







 51


 アシュリー・ラブドライブはその燃え盛る身体を維持しながら、空中で制動し周りの景色を見遣った。

 レーダーが反応を示したのはこの辺りだ、近くに浮遊しているのは間違いない……。

 そして彼女は上昇し、雲の間隙を抜けた白銀と群青の世界において、まばゆい黄色の飛行船を発見した。

 そうか、これが例の反応物だな……。彼女は納得しつつ、そちらへと飛んでいった。

 その飛行船は、国境線の上空を何度も越えているにもかかわらず、識別信号を出さずに移動を続けていたのだ。コンタクトを試みようと信号を送っても返答がなかった。そのためホワイトノイズの一員である彼女が、斥候せっこうのように確認しにきたのであった。

 彼女は燃焼をやめ、その船の甲板のようなところに降り立った。

 甲板の上にはもちろん誰も居ない。

 金属の床を音を立てながら迷いなく歩いていき、彼女はドアのほうまで移動した。

 そのドアを開けようとしたのだが――ロックが掛かっていた。どうやら暗証番号を入力しなければならないらしく、それ以外にも各種の認証装置が作動している。

「かったるいわね……」

 彼女はひとりごとをつぶやいたあと、手のひらに『炎でできたバールのようなもの』を作り出した。

 彼女はそれを握り、先端を、ドアのロック部分へと勢いよくねじ込んだ。

 まるでアイスクリームが溶けていくかのように、そこの金属は融解を始めていた。

 彼女はその棒でゆっくりと楕円を描いていき、それから中心を蹴飛ばすと――そこには大きな穴ができてしまった。切断面はジュウジュウという音とともに泡を立てていた。

 彼女は頭を屈めて中へと侵入する。手慣れた動作であった。

 廊下は左右に続いていた。

 遠くまで見通せるが、一直線ではなくやや曲がっており、この飛行船の乗客部をぐるりと一周しているようだ。

 天井には電灯が取り付けられているが、それは現在点灯していない。壁や床や天井は白い。真っ白でそれが不気味だ。

 彼女は、ひとつひとつの部屋を確かめようと歩き始めたとき、向こうから別の足音を聞いた。

 この船の乗員だろうか?

 物陰へと隠れる。それから彼女は、拳銃を懐から抜き、携えた。足音は近づいてくるが、暗さのせいでよく見えない。

 どうしよう、こちらに来ているのは一人だけのようだし、そいつを脅して、情報を聞き出すことにしようか? 

 そうして逡巡しゅんじゅんしていると、透き通るような美しい声がそちらから聞こえた。女性の声だ。「ああ、貴女、いま来たのね。残念ながら、ここは既に〝もぬけの殻〟よ。証拠も残されていないわ」

 アシュリーは自分が知覚されていることを知り、拳銃を構えたまま陰から出た。

 そして、近くの空間に炎を浮遊させ、それを明かりにして相手を見た。

 それは、変な格好をした女性だった。

 つばの広い帽子と、からだ全体を覆うようなローブを着た金髪の女性。そして、その身長ほどもある長い杖を携えている。

「なによアンタ」アシュリーはもっともな質問を口にした。「この船の乗客?」

「さあ、きっと思考に浮かべているどの存在にも当てはまらないと思うし、記憶をいくら辿ったところで意味はないと思うよ」

「まあ、あんたが誰であろうと関係ないわ」彼女は苛つきながら言った。「この船は、既に禁止空域の内側を飛行している。他に仲間がいるならすぐ呼びなさい。抵抗は敵対行為と見做さなければならず、殺傷する可能性も出てくるわよ」

「えっと……それはホワイトノイズの指令?」

「ホワイトノイズを知っている?」

「ええ、知っているわよ。それに貴女自身も」と、その金髪の女性は言った。「名前はアシュリー・ラブドライブ。発炎者ファイアスターターの家系、由緒正しきラブドライブ家のお嬢様。十七歳。赤いロールスロイスに乗っていて、それは貴女の父親であるフォックス・ラブドライブから譲り受けた物。近接戦闘が得意で、総合格闘技のジュニア大会で準優勝の経験あり。習慣として毎朝ゴディバのチョコレートを四つ食べる。好きな映画監督はゴダールとヒッチコック。現在トーマスマンの『魔の山』を読書中。ホワイトノイズ北西支部が本来の所属地。躰を炎に変えられることは知っていたけど、火の玉のように浮遊させることもできたのね。なかなか優秀じゃない」彼女は呪文のようにスラスラと唱えた。

 読心術だろうか……、とアシュリーは考えた。それともあたしが来ることを予期していて、それでもって調べていた?

 どちらにせよ、ロマンサーを前にしてひるまないということは、この女も能力者なのだろう。

「なるほど、話が早いわ」とアシュリーは言った。「じゃあ、遠慮無くやれるわね。その様子だと、あんたはさしずめ、この船の乗組員を守るための護衛ってところかしら?」

「護衛?」彼女は訊き返した。「違うわ。私もこの船を調べに来たのよ。でも、着いたときには既に、〝終わって〟しまっていた。だから立ち去るつもりだったのだけれど、貴女の来る気配を感じたから、ここで待つことにしたの。忠告のためにね」

「忠告? 何であたしに?」

「この船には奥のほうに、幾つもセンサーが取り付いているわ」と彼女は言った。「それが反応すると、この船自体が吹き飛ぶように設計されている。つまり、やってきた部外者を一網打尽にするつもりだった、ということ……罠というやつ。貴女ひとりで来て良かったわね」

「あんたの言葉を、そのまま受け取るとでも?」アシュリーは構え直した。「敵かもしれない得体の知れない奴の意見を聞き入れるだなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ」

 アシュリーは先程の火の玉を、触れもせずに変形させた。それは大きな〝火の鳥〟となり、主人を防護するように、くるくると彼女の周りを旋回し始めた。「さて、白状する気がないなら撃滅するけど、かまわないね? あたしは別に、敵に慈悲を向けられるほど出来た人間じゃない。いますぐ手を上げて、そこにひざまづきなさい。対能力者用の手錠を掛けさせて貰うわ」

「いいわ。試しに攻撃してみなさい。それで気が済むのなら」彼女は迎え入れるかのように腕を広げた。

 舐めやがって……。

 アシュリーは、憤りをヒタヒタと覚えつつ、さらに火の鳥を大きくしていった。

 そして眩い光を放ち始めたのと同時に、その鳥を相手のもとへと突っ込ませた。

 弾丸のように鋭い飛翔。

 敵にかわす猶予も与えず――火の鳥は相手へと接触すると、そのまま膨張し、破裂した。

 超高温の熱を帯びた「炎」が辺りへと飛散され、拡散され、近くの壁やパイプを素早く融かしていった。

 肉の焼けるような音と、金属の焦げた匂い。

 それは致命的な不可避の攻撃であった……その筈だった。

 しかし、そこには既に、彼女の姿はなかった。

 火の鳥が破裂した瞬間、アシュリーは見た。目の前の相手が、まるで陽炎かげろうのように、ゆらゆら揺らめきながら消えていくのを……。

 誰かが肩を軽く叩く。

 アシュリーは振り返って後ろを見た。

 すると目と鼻の先に、たった今、消えたはずの女性が〝初めからそこに居たかのごとく〟気配の無いまま立っていた。存在していた。

「もしも――もしもだけれど、私がナイフを持っていて、貴女の首元に突き刺していたら、たぶん死んでいたわね。まあ、血が嫌いだから、私は近距離で刃物を使わないけど」彼女は飄々ひょうひょうと呟くと、肩をすくめた。

 アシュリーは後ずさり、そのまま壁に体を預けた。体勢を崩しそうであったのだ。「な、何なのよアンタ。まさか……瞬間移動とか……?」

「違うわ」彼女は小さくあくびをした。「自らの認識というものを、あまり信じ過ぎないほうがいいわ……。それから、相手と相対した時点で、おおよその力関係を把握しておいたほうが安全ね。能力不相応の敵と戦うのは、勇猛果敢というより無謀だから」そしてコホンと咳払いをする。「とにかく、私のような慈悲深い存在でなかったら、今頃貴女はお陀仏よ。どうやら遠隔操作をしている間は、躰を燃焼化できないらしいからね。貴女が私の能力を知らなくても、私は貴女について熟知している。そのくらいの想像を先程の会話から汲み取れなかったのは、自己中心的な性格における、露悪さの表出というべきかしら。気をつけることね」

「そんな……でも、アンタからは何も……何も感じない……。気配も、脅威も――それから、生命の持つ波動のようなものも……。まるで幽霊のようで……」アシュリーは脚の力が抜け、そのまま床へと座り込んでしまった。もう、戦う気力をなくしている。「あたしをどうするつもり……?」

「別に、どうもしないわ。戦う気が無いのはこちらも同じだし……。それより、あなたたちは『あの男』や〈統制者〉について、本当に何も知らないようね」

「〈統制者〉?」

「そう……。でも、まあいいわ。別に貴女に話したってどうしようもないことだし」

 その金髪の女性は杖を掲げると、それを近くの壁面へと向け、剣を振るうかのようになぎ払った。

 すると、壁にピシピシと亀裂が生じ、そのまま崩れ去ってしまった。

 まるで空間自体を断割だんかつしたような光景であった。

 壁にはぽっかりと大きな穴が空き、そこから外気が勢いよく流れ込んできた。眩い光が射し込む。

 二人の服が、強風によって激しくはためいた。

「じゃあ、あなたもすぐに立ち去りなさい。ここは危険よ――私は行くわ……」

「ま、待ちなさい! あんたは結局何者なの? この船は誰が……何の為に……」

 アシュリーの問いに答えることもなく、その女性はローブを翻し、そのまま外へと飛び出した。

 アシュリーは慌てて壁面へと近づき、楕円形の大穴から外界を見遣った。

 しかし、一面には青空と銀世界が広がっているだけであり、彼女は何一つ、飛行物体を視認することができなかった。







 52


 オーストラリア大陸北東に位置する青い海、グレート・バリア・リーフ。

 その海岸の白い砂浜にパラソルを立て、椅子にもたれかかって横になり、甘美なホワイト・ココナッツミルクを片手で持ちつつストローでゆっくり味わいながら、どこかヌケたような表情で、サングラスの内側にある眠たげな瞳から遠くの水平線を眺めているその青年、ロイド・ウィンターソンは、ときたまあくびをしつつ、イヤホンから流れてくる音楽に耳を澄ませていた。

 彼はそのプレーヤーを近くのショップで買い、付属していたイヤホンで音楽を聴くことにしたのだが――どうも音量が小さい。そのため波の音であったり他の観光客の歓声の影響を受け、何とはなしに音楽が聴き取りにくく、それが更に、彼の眠気を誘っているといえた。

 寝てしまってもいいが、せっかくの自由時間をそんなことで消費してしまうのはもったいない。もう少しこのレジャー気分に浸っていたい。有限時間における至福と悦楽えつらくは、起床しているからこそ味わえるもの。そうした気持ちが、彼を眠気から守っていた。

 水着姿であり、特に武装はしていない。この海岸に入るまでにセキュリティ・チェックをおこなわなければならないため、拳銃を持ってはいなかったのである。

 あーあ、と彼は小さな声でつぶやいたあと、イヤホンを外して、カバンからひとつの本を取り出した。

 それはこの星で『聖書』と呼ばれているものであり、彼は暇なときにこの本を読むことに決めていた。

 この世界で一番読まれている本であり、それはひとつの宗教に関するものだ。

 彼は別に、特段面白いともつまらないとも思わなかったが、この星の住民が、この本に書かれている思想を根底にして、ある程度行動を決めているということを、幾ばくか理解し始めていた。

 正義の在り方などの倫理観は、この本に由来している部分も結構あるということを……。

 しかしやはり、今は休憩中である。彼は数ページを読むと再び本を閉じ、そのまま再びぐでりと横になって、気の抜けたように青空を見つめ始めた。彼の頭の中には、蜂蜜入りのアップルパイが浮かんでいる。

 すると、その視界の端から、スルリと人影が現れた。

 ほとんど音もなく唐突に現れたため彼は面食らった。

 あわてて跳ね起き、そちらのほうを見遣る。そこには、その場所に似合わない格好をしたひとりの女性が砂の上に立っていた。

 身体全体を覆うような濃紺色のローブと、かなりつばの広い、てっぺんがクルクル巻いた三角帽子。近くには長い杖が刺さっている。金色の長い髪が、腰の辺りまで垂れている、風に揺られながら――。

 青い瞳が、ロイドのほうへと向けられていた。

「やあ、久しぶり」

「え、ルーシーさん!?」彼は驚いて立ち上がった。「なんでこんな所に!」

「理由も何も、あらかじめ予定していた通りよ。調停が済んだから、狭間領域ネクスタリアを通じてこちらへとやって来たってわけ。それで、計画は進んでる?」

「あ、あの、ちょっと待ってくださいよ」彼は慌てふためきながら立ち上がった。「どうせなら別の場所に現れてくださいよ。こんなビーチの真ん中で!」

「大丈夫、誰も気にしてないわ。いつものように認識をそらす魔法を施しておいたから」

「そう言われましてもねぇ……」ロイドはサングラスを外して眼をこすった。「暑くないっすか、それ?」

「いや、別に……。それより早く移動しましょう。休憩中のところ悪いけれど、私としても、事件を早急に解決してしまいたいから」







 53


 自動車に乗って彼らは移動を始めた。

 白いセダンであり、ロイドは運転席に座り、ルーシーは後部座席に座った。車窓からは青い海が見える。車は海岸沿いを走っていた。

 ロイドは窓を少し開け、新鮮な潮風を内部へと行き渡らせた。

「良い景色ね」ルーシーは頬杖をついている。「白い砂浜に輝く青海……私も予定がなければ、ゆっくり海水浴でもしたいけど」

「海水浴なんて、あなたの趣味っぽくないですよ」ロイドは応えた。

「そうかしら……。まあ、仕事ばっかりで、遊んでいる様子をイメージしにくいのだろうけど。傍目から見れば」

「仕事って、あなたが自分で作って自分で消費しているだけじゃないですか。それは仕事というより、使命感に駆られた暇潰しですよ。そもそも、本来、他の世界に干渉することは許されていませんし……」

「でも、放っておくことなんか出来ないでしょう? 後始末はきちんと行わないと……。幾ら〈この世界〉が対処すべき問題とはいえ、元となる原因が私達のほうにあるんですもの」

「まあ、僕らはそのおかげで報酬を貰っているわけですし、文句を言うつもりはないんですけどね。ただ、貴女だって本当は、もっと平穏な生活を望んでいるんじゃないですか? 世界をいくつも渡り歩いていれば、相当数の悪と対峙することになります。可能世界の悪しき芽すべてを、一つ一つ摘み取っていくなんて、それこそ神さえ挫折するようなことですよ。僕はその……なんて言えば良いんでしょうかね、ただ、心配というか、その……」

「そうね……。確かにそれは無限とも言える歳月を必要とするでしょう。でも、結局は誰かがやらないといけないこと。現状を改善することが出来る能力と時間を保持していながら、それを行わないだなんて、自分には苦痛以外の何ものでもない。義務感というより、自分の問題かな……。偶然に、この永遠の生を与えられたのは、その中で答えを導き出すための、足掛かりのようなものなのかもしれない。分からないけどね……本当のところは」

「それを人は、お人好しっていうんですよ」ロイドはハンドルを回して、角を曲がった。「もしも僕が永遠に生きられるとしたら、そうですね、無人島に住んで、ゆっくりウミガメとでも過ごしていますよ」

「経験上言わせて貰うけど、それは難しいわよ。平穏さは空虚感を伴うし、同じ所にずっと留まっているだなんて、まるで牢獄にいるみたいで耐えられないはず」

「そうですかねぇ……。僕はいつまでもそんな場所で過ごしていたいです。仕事も重圧もストレスもなく、爽やかな風を浴びながら……」彼は先程の休憩時間を思い出しながら、しみじみとそう言った。「そういえば近くに、美味しいフィッシュアンドチップスの店があるんすけど、寄って良いですか? バーミリアスからも頼まれてるんですよ。あ、ルーシーさんも食べます?」

「いや、別に」

「そうすっか」

 ロイドはドライブスルーを使って店舗から食品を購入し、また公道へと戻った。

「それで、あなたたちはどこを拠点に?」

「近くの激安ホテルです」とロイドは応えた。「本当は賃貸でも借りようかなと思ったんですけど、足がつくのはまずいし、それに、現在所属しているホワイトノイズから怪しまれないよう、注意を払って行動しなければなりませんからね」

「ホワイトノイズでの仕事は順調?」

「うーん、まあまあですかね。僕もバーミリアスも無能なフリをしているため、大きな仕事は回ってこないので、危機的状況に追い込まれたことはまだ無いです。でもやはり、ある程度の成果を出さないと重要な情報に近付けないので、そのあたりの按配あんばいが難しいですね。あ、そうだ、ルーシーさんは『彼女』に会いましたか?」

「ええ、暇なときにちょっとだけ。やっぱりどの世界の私も可愛いわね」

「うわー、ナルシストだぁ」

「別にそんなつもりはないわよ。だけどあの子も数奇な運命に苛まれているわね。本当は干渉するべきではなかったのだけれど、やっぱりね、どうしても気掛かりで……」

「そんなに心配なら、助けてあげたらどうですか?」

「いや、彼女は既に助かっているのよ。ただ、彼女はまだ真実に触れていない。真実を変えることが出来ない以上、助けられるわけもなく……。行為というものには責任が伴い、それに向き合うことは、誰かの介入によって成されてはいけないもの……自らの瞳で対峙して……。あの子も昔の私のように、何とか踏みとどまってくれたら良いのだけど」

「はぁ、そうなんですか。でも、僕があの子から受けた雰囲気は、貴女とはかなり異なりましたよ」

「表層的なところはね。でも、精神というか魂のレベルでは同一なのよ。これは当事者にしか分からない微妙な感覚。ところで、宿はまだ?」

「そろそろです。退屈ならラジオでもつけますか?」

「端末貸してくれる? ホワイトノイズの成員に配られているんでしょ? あれで暇でも潰すわ」

 ロイドはサイドボックスから端末を取り出し、後部座席の彼女へと渡した。「使い方分かりますか?」

「まあ、だいたいわかるよ。こんなもの」口でそう言いつつ、既に彼女は高速で指を動かしていた。まるで使い慣れているかのように。

 自動車は狭い通りへと入っていき、灰色の不気味な建物の前で停まった。風雨によって脱色してしまったようで、廃墟のようにも見える。

 しかし幾つかある四角い小さな窓には、点々と明かりが灯っていた。

「本当にここなの?」

「そうですよ。ベランダがない分、僕たちも好都合ってわけです。壁も厚いので盗聴されるリスクも低いですしね。観光には適していないため、料金も安くなっているってわけです。それに長期で泊まっても怪しまれない……」

「他の客は大丈夫なの?」

「ええ、きちんとチェックはしましたよ。透視装置を使った結果、銃を持っているお客もいましたが、あくまで一般人でした。こちらから危害を与えようとしなければ害はありません。この周囲は比較的治安が良いですから」

「そう、じゃあ、中に入ろうかしら」

 ロビーを通りエレベーターを使って三階に上がる。

 四階建てであるため、全体的にこじんまりとしていた。エレベーターは古風な造りをしていて、シャッターを自分で締めるタイプのものであった。

 廊下を歩き、奥の一室のドアを、ロイドはノックする。

 ドアの向こう側で気配がして、やや間が空いてから扉が開いた。

「ずいぶんと早かったじゃないか、ロイド。お前らしくもない」髪の毛と髭がボサボサの、寝間着姿の男が現れ、あくびをしつつそう言った。

 ロイドは返事をせず、指で後ろを示した。

 それに呼応するかのように、ルーシーが口を開く。「やあやあ」

「えっ、ルーシーさん!」

「そうなんだよ。もうそんな時期だったみたいだ……すっかり失念していたよ」

「マジか……。つまり俺たちもこの世界に来てから、もう五年が経っちまってるって事かよ……早いもんだなぁ。まあ良い、とにかく入って入って。廊下で立ち話は良くねぇ」







 54


 バーミリアスはビール瓶を開けてグラスへと液体を注いでいった。泡がコップのふちギリギリまで這い上がったが、限界を超えて溢れる臨界点を超えることなく動作を終えた。

 彼はそのアルコールを徐々に飲みつつ、ロイドと共に、現状をルーシーに対して話していった。

「なるほど。やはりガーランドは、この世界の人間を利用しているのね」

「そうだとも」とバーミリアスはやや陽気に返事をした。「本当に馬鹿な連中だよ。奴のことをとんでもねぇ存在だって知っているのによお、自らの目的の為に保護して引き込んじまったんだ。確かに、この世界に落ちるとされる五百年後の隕石は危機的だが、だからこそ、そのためにこの世界の住民は、あっち側と平和的な調停を結んで、一時的な移住を試みるべきだっていうのに……ガーランドの奴、あっち側の世界――つまり俺たちの世界の住民が、この世界の住民を奴隷にするだとか滅ぼすだとか吹聴ふいちょうしてさ……。奴は二つの星の間に戦争を引き起こそうとしているんだよ、人々を上手に騙してな」

「そこまで摑めているなら、どうして関与している人間を追わなかったわけ?」

 彼女の問いに、ロイドが応える。「追わないんじゃなくて、追えないんです。『統制者』は匿名の人間によって構成されています。ホワイトノイズよりも上の存在でありながら、能力者は一人も混じっていません。彼らを端的に説明すれば、〈星の分身〉を滅ぼそうと企てた〈侵入者〉の思想的な末裔だと言えます。この生命体が急速に文明を築き上げられたのも、彼らが裏側で数々の統制・細工を行ってきたからです。偽史を作り上げ、人々に『自分達は昔からこの世界に住んでいた生命体であり、長い歳月を掛けて発展してきた』と思わせることが可能な、優秀な頭脳を持った策士たちなんですよ」

「そして、邪魔な能力者たちには爆弾を埋め込み、逆に利用できないか可能性を探ったと――生きたまま飼い慣らして……出来すぎているわね」

「寄生虫のようなもんさ。この世界の人間は」とバーミリアスは毒づいた。「遠くの星からやってきて、地球という惑星に棲みついて寄生し、危機が迫ったのを悟ると、今度はまた別の星を乗っ取れないか画策している。俺にはガーランドも、この星の住民も、どっちもどっちに見えるよ」

「そうでもないですよ」とロイドが反論した。「全体として捉えれば愚鈍に見えてしまうのは、どこの世界だって共通ですよ。森を見て木を見ず、というやつだね、それは」

「まあな。でも、いずれにせよ、この世界の人間が多過ぎるってのは本当に問題だ」とバーミリアス。「環境汚染も臨界点に達しつつあるし、いまだに局地的な戦争が起こっている……三回の世界大戦を経ても、省みずにな……。ホント、弱っちまったね。ガーランドを消したところで、何も変わらないんじゃないか? そもそも俺には奴の目的が分からん。こんな滅亡寸前の辺境へと時空間をジャンプした理由が、まったくもってサッパリだぜ」

「たぶんここにしか飛べなかったのよ。私と違って、ガーランドは上位階梯への扉を開ける潜在能力ポテンシャルを保持しているわけではない。持てる力を総動員して、一番近い次元に潜り込めたのがやっと、ってところだと思う」

「そうなんですかね。僕には判断がつきません」ロイドは溜息をついた。「ルーシーさんだって、本当は引っ掛かっているんでしょう。トリックスター……ただの愉快犯にしては、行動に煩雑はんざつさが欠けていると。まるで何らかの意志を持っているかのように……」

「『統制者』に接触を試みたことは?」

「一度だけあるさ」とバーミリアスが応えた。「奴らが会議に使っていると思われるサーバーに侵入を試みた。しかしな……」

 バーミリアスの目配せに、ロイドが反応した。「しかし、それも失敗に終わって、僕たちは残された断片情報フラグメンツを元に、一人の成員に接触を試みたんです。直接捕らえて、情報を吐かせようと……でも、敵は斬り捨てたんですよ」

「どういう事?」

「俺らがそいつを捕らえる前に、自殺しちゃったのさ。即座にな」バーミリアスは煙草に火をつけた。「そいつの住んでいたマンションで、俺たちは待ち構えていた。そして標的が帰ってきたのを見計らって、うまく捕獲した――はずだったのさ」

「僕たちは向こうから持ってきた強力な自白剤や、催眠魔法を使えますがね。それでも、失敗したんです……。彼らはありとあらゆる方法を使って、自らを消滅する方法に長けていたんです」

「具体的には?」とルーシーが訊く。

「一人目は、とある言葉を呟いたときに頭蓋が吹っ飛んだな。別の機会につかまえたメンバーは、俺たちを視界に入れた瞬間に死んじまったよ。ああ、嫌な記憶を思い出しちまった」バーミリアスは頭を振った。

「なるほど、言葉や意識そのものに起爆剤を仕掛けているのね。危険だと認識したその精神の揺らぎが、トリガーになっていると」

「そうなんです」ロイドはうなずく。「まったくもってぎょしがたい相手ですよ。しかも尻尾を摑めたのはその数回だけで、以降は僕たちの存在を深く意識するようになったのか、まったく手掛かりが得られなくなってしまってですね……。そんな訳で、そっちの方面の調査はあきらめて、再びガーランドを探すことにしたんです。こっちはヘマが出来ないですし、かなり注意深くやりましたよ」

 ロイドは立ち上がると、湯沸かし器のスイッチを入れた。どうやらコーヒーを飲むつもりらしい。「とにかく、少し休ませてください。堅苦しい話ばかりで、気が滅入ってきましたよ」

「もうすぐ終わらせるわ。それで、ガーランドに人間を提供している組織はどこに?」

「話すのが面倒なんで、頭の中を覗いてください。僕の場合は、別に、やましい記憶がないので」

「それもそうね。初めからそうしていれば良かったかしら」

「いや、僕もいま気が付いたんで」ロイドはそう応え、お湯が沸くのをボンヤリ待っていた。「記憶の浅いところに情報を浮かび上がらせておくので、終わったら声を掛けてくださいね」

 そして時計の秒針が半回転した頃、「終わったわ」とルーシーが言った。「なるほどね。やっと疑問に思っていた箇所がほつれたわ」

「出発しますか?」

「いや、少し休んでからにするわ。なんかテレビでもやってる?」

「さあ、番組表でも見たらどうですか?」

「テレビなんて時代遅れの代物だぜ。俺には何がおもしろいのかさっぱり分からねえなぁ」

 バーミリアスに、ロイドが反論する。「それは君の好奇心が薄れているだけだと思うよ」

「そうかなぁ。でも俺は、とにかく面白いと思えないんだよ。モニターの向こうからは一方的に情報が流れてくる。しかし俺はそれに対して文句を言うことも出来ない。芸人がつまらない発言をする。俺は文句を言う。しかしそいつは懲りずに面白くない発言を連発する。俺は電源を切る。パッ。ガシュ。プチン。これで終わりさ……やっぱりコンピュータのほうが扱っていて楽しいね。プログラムはオモチャのようだし、インターネットはインタラクティブに作用して、お互いに干渉し合える。つまりだ、俺としてはボクシングがしたい訳よ。向こうに殴られっぱなしってのは、あんまり気持ち良くはないだろう」

「それは君が、肉弾戦が苦手だから、ネット上では威勢良く振る舞っているだけだろう。ネット弁慶、という奴だよ」

「そ、それを言われちゃお終いだが、最近俺が身体を鍛えているのは知ってるだろう?」

「それがなんだっていうのさ。ぼくたち魔法使いは、身体を鍛えるよりも先に、魔術を磨かないといけないんだぜ。肉体を強化するより、シールドを展開させた方が効率がいいじゃないか」

「違うよぅ。俺は健康のために運動をしているんだ。長生きのための秘訣ってやつで……」

「長生き……長生きしてどうなるっていうんだい? 君の言っていることは無茶苦茶だよ! そんなに命が大切なら、こんな任務に手を出すはずがないだろう」

「まあ、いい。それより、こんな失態をルーシー様の前で見せて、お前は恥ずかしくないのかよッ!」

「恥ずかしいも何も、僕は別に失態を犯していないですし……」ロイドはそういうと、大きく伸びをした。「駄目だな。まだまだ休憩し足りないなぁ……。ああ、ルーシーさん、ヒーリングを使ってくれませんか?」

「別に構わないけど、そんなに疲れているの?」

「ええ。なんというかその、躰の奥のほうに蓄積している感じなんですよ。麻薬でもやればスッキリするのかもしれませんが、中毒になったら大変ですからね。自分で自分にヒーリング魔法を掛けても効果は薄いし、バーミリアスはそもそもできないし……」

「別に良いけど……でも面倒だわ。うーん」ルーシーはそういうと、少し考え込むようにしてから、ポンと手を打った。そして懐から何か丸っこいものを取り出した。包装にくるまれており、それはまるで……。「このキャンディあげるわ」

「なんすかこれ」

「サンクスブレンディの町で手に入れたとっておきのやつよ。魔力を倍増させる効果があるんだけど、それと同時に、躰の芯から外側に向かって軽い魔導パルスを流すの。だからその二次的な効果によって疲労が取れるというわけ」

「え、でも、これはルーシーさんがいざという時のために使うものでは」

「私にはあんまり効果が無かったわ。これは余りよ。あなたにあげるわ」

 ロイドは彼女からそのキャンディを受け取った。

 見た目の割にけっこうな重さであった。中身がぎっしり詰まっているようだ。

 口内で重さを感じないか不安だ、とロイドは心配した。

「それにしても、この部屋暑いなあ。バーミリアス、もう少し冷房強くしてくれよ」ロイドはそのキャンディを恐る恐る観察しながらそういった。

「もうとっくに最大限にしてあるよ。コンピュータを冷却するためにな! しかし、利きが悪いんだ、我慢してくれ」

「うーん、電力が絞られているのかなぁ……。ちょっと僕、様子見てきますよ」ロイドはそういうと、椅子から立ち上がって、扉のほうへと歩いていった。「とりあえずロビーで訊いてきます。何かあったら端末へ」


 ロイドは階段を下り、ロビーへと向かった。そこの受付で交渉しようと考えたのだ。

 いくらなんでもあの部屋は暑すぎる。少しでも節約し、利益を上げるためにあんなことをやっているに違いない。

 もう何日も泊まっているのだから、もう少しサービスを向上するよう、頼んだって構わないだろう。

 そうして通路をわたりロビーに足を踏み入れた瞬間、窓ガラスの割れる音がした。

 彼の無意識に組み込まれた安全装置がシールドを展開させた。閃光と爆音。

 そして間髪を入れず、頭上のステンドグラスが天井から落下してきた。

 彼は転がるように背後に回避し、息を整えたあと、周りの状況を窺った。

 どうやら、何らかの爆発物が窓から投擲されたようだ。

 グレネードだろうか?

 ロイドが部屋に足を踏み入れたことで、何らかのセンサーが作動し、自動的に発射されたに違いない。

 受付に立っているはずの係員は、血を流してテーブルへと突っ伏していた。おそらく、もう死んでいるだろう。

 ロイドは手のひらサイズのステッキを取り出し、それから、小さなツバメ型の幻影ファントムを作り上げた。それを使って、外を偵察しようと考えたのである。

 それにしても、ルーシーさんやバーミリアスは今の爆発に気付いているだろうか?

 いや、きっと気付いていないのだろう。

 何らかの結界を、この場所に張っていて、それが外部への影響――音や衝撃を吸収しているのだ。

 試しに端末を確認すると、その予想通り、アンテナマークが圏外を示していた。

 きっとどこかで〝つけられた〟のだろう。

 ルーシーさんの気配が敵を呼び寄せたのか?

 それとも以前から見張られていて、敢えてこのタイミングで攻撃することに決めたのか? 

 しかし、これがガーランドの仕業だとは思えない。奴の詳しい行動は把握していないが、近づいたら感知できるほどの能力は保持している。

 だとしたら、敵は『統制者』に仕えている部隊だろうか?

 わからない。

 だけども、このまま部屋まで逃げ帰るわけにはいかなかった。

 それは更に事態を悪化させてしまう恐れがある。敵の数は不明だが、殲滅することを優先するべきだ、とロイドは考えた。

 幻影はホテルの外に出て、そのまま空へと飛翔し、ある程度の高さに到達したあと、街を俯瞰した。

 どこかに、これを仕組んだ敵がいる。その相手を見つけ出さなければならない。

 そうして様々な方向に視線を向けていると、南西の方角――ある五階建ての建物の窓に、狙撃銃スナイパーライフルを構えた一人の男がいた。

 耳には大きなヘッドホンを付けていて、片目でスコープを覗いている。そのライフルの先端は、このホテルへと向けられている。きっとロイドが外へと出てくるのを待っているのだろう。

 誰だ?

 まったく見当がつかなかった。

 ニット帽を被っており、小柄な男であるが、特にそれ以上武装している様子も見られなかったし、魔力の波動も感じられなかった。

 能力者ではない…普通の人間だ。

 彼はもっと幻影を降下させようと試みた。その男をより詳細に観察するためだ。

 だが、その気配を悟られたのか、男は急にライフルを片付け、部屋の奥へと引っ込んでしまった。

 これ以上遠くまで幻影を移動させることは出来ない。

 彼は諦めて、幻影をかき消し、額の汗を拭った。







 55


 ロイドたち三人はそのホテルから脱出し、ハイウェイで車を走らせていた。

 追っ手がいないかよく確認したが、特にそれらしき追跡者は見られなかった。

「きっとそれは宗教で動いている人間ね」とルーシーは後部座席で応えた。「能力者の存在を認めたくない宗教の……きっとどこかで波動の流れを探知されて、引き寄せてしまったのね」

「しかし、一般人がそんなこと出来るんですか?」ロイドは助手席で、先程の戦闘によって誘発された頭痛により、目をつぶりながら訊いた。「能力者を探知できるのは、せいぜい能力を持った人間だけです。あの男は能力を持っていませんでしたが」

「多分、仲間に能力者がいたんでしょう。脅されたのか協力しているのかは知らないけど、そうに違いないわ。そのヘッドホンが何よりの証拠よ。きっとどこかで、もう一人か二人、私達の様子を窺っていたのでしょうね」

「毒をもって毒を制すって奴だな」とバーミリアスがハンドルを回しながらいった。「どこでも同じだということだよ」

「運が悪かったという事ね。まあ、同じ場所に長期的に留まっていたら、危険が増加するのも当たり前だわ。もしも狙ってきたのが本当に『統制者』だったら、更に大変だったと思うわよ」ルーシーは気怠そうにそういった。

「しっかり対策はしていたはずなんだけどなぁ……。魔力は消して生活していたし」

「探知能力に特化させた能力者なら、どんなに微弱でも可能だということ。あらゆる可能性を検討しておいて損はないわね」


 その車はハイウェイを降り、海岸近くの無人駐車場へと止まった。

 近くに運動公園があり、その附属の駐車場なのだ。

 ほとんど車は停まっておらず、人気ひとけはない。少し高めの場所に位置していて、近くには海が広がっていた。この駐車場の端までいけば、ビーチ全体を見渡すことが可能だろう。

 三人は車から降り、いくつも立ち並んでいる、背の高い木々の近くへと向かった。

 赤いベンチが木の根元にあり、カモメが数羽とまっていた。

「それじゃあ私は、その収容所へと向かうことにするわ」

「しかしもう、手掛かりは無いかもしれませんよ」ロイドは言った。

「でも、まだ捕らえられている人々がいるのでしょう? 解放してあげなくちゃ」

「それで俺達は、あんたがガーランドを抹殺したあと、向こうへと帰ることが出来るんだよな」バーミリアスは腕を組んでいった。

「ええ、私が例の場所に『次元孔』を開けておくわ。でも、帰るかどうかは貴方たち次第よ。別に向こうには未練がないから、この仕事を受けたのでしょう?」

「まあ、それもそうだな。じっくり考えておくぜ」

「僕は早く帰りたいですよ。だって半分、騙されて連れて来られたようなものですし……報酬がそれなりの額なので、不満はないですがね。まあ、それじゃあ、幸運を祈っていますよ。早く済ませてくださいね」

 ルーシーは軽く頷くと、そのまま空へと飛んでいってしまった。

「しかし」とバーミリアスが言った。「やっと終わるというわけだな。あいつが居なくなることで、アトランティアの歴史も一区切りがつくというわけだし」

「向こうの世界ではそうだけど、こっちの世界にとっては迷惑も良いところだよね。本来進むべきはずの未来が、ごちゃごちゃになってしまったんだからさ」

「そんなことねえさ。確定された未来なんてものは本来存在しないんだぜ。不確定要素に満ちているから、未来は面白いんだよ、たぶん」

「不確定要素……と言われてもね……。それより、君は向こうに戻ってからのこと考えているかい? 報酬で贅沢な暮らしができるとはいえ、もう、知り合いなんて居ないわけだし、どこに腰を落ち着けようかな、とか考えたりしてる?」

「いや、さっぱりだよ。何かしらの課題があれば、それを消化していくことで、生きている実感を味わうことができるけど、自分で目的を探すとなると、ことは難しくなってくるからなぁ……」

「まあ、そのときになってから考えるしか無いんだろうね。分かってはいるんだよ、そんなことは……。でもこうして終わりが見えてくると、不安が大きくなってくるのも事実なんだよ」

「まさか、こっちに残るってんじゃないよな?」

「うーん、ちょっと迷っているかもしれない。向こうに帰るより、刺激的な経験が出来るかもしれないし」

「お前さ、さっきと言っていることが違うんじゃないの?」

「何が?」

「だって、のんびり暮らすことが好きだって、なんべんも言ってたじゃねえか。無人島でずっと暮らしたいとか。アトランティアに戻れば、金を使って夢を実現できるんじゃないか?」

「それも一つの理想だよ。でも、いざそれが達成できるとなると、やっぱり考えるところもあるってことさ。思ったんだけど、夢は夢だから美しく、魅力的なのかもしれないし」

「なんか思考があべこべだなぁ。適当に喋ってない?」

「そうかもね。ぼくは生まれたときから適当なんだ。まあ、熟考してみるよ。時間はたっぷりあるしね……。そうだ、ホワイトノイズに連絡する前に、ピサでも食べに行かない? 最近、滅茶苦茶美味しいイタリア料理店を見つけてさ……」







 56


「正義の為の戦いは、必ずしも平和を生み出すとは限らない。ならば無思想の行動によって、有為な未来を生み出す可能性を検討すべきであると私は思う」

「有為な未来とは?」

「有為であるかどうかについては、その現実が今という瞬間において、振り返ることが可能になったとき、初めて検討できる。私達は逆らうことのできない運命によって、潮流の中を漂う藻屑である。運が良ければ流れの穏やかな場所へと入り込めるかもしれないが、結果としては、海という名の死へと直面しなければならない。海は広大であり、未知だ。私達には知る余地などない。不可知の領域である。しかしそこに辿り着くまでの道程において、ただ漫然と、藻屑であり続けることに耐えられるのだろうか。私には無理だ。虚無の中においても、そこに価値があると信じたならば、それは本当に価値のあることなのだ。人は主観によって、行動に意味を与えていく。その意味付けに対して懐疑的になったところで、精神を病んでしまうだけだ。私達は仮想の神のために行動を起こし、自らの心を充足させる。それは無為ではない。完全へと近づくための最初の一歩なのだ。人は不完全である。だからこそ努力し、神の御許へと邁進しようと欲するのだ。それを嘲笑うことなど誰にも出来やしない」

「その通りです」

「だから我々は、神から力を盗んだ能力者たちを罰しなければならない。あるべきものを、あるべき場所へと還すのだ。それは私達に与えられた使命である。精神的な欠乏を満たす栄養である。薬になれないのならば、毒になって毒を打ち消すしかない。それが救済を得るための必要条件なのだ」







 57


 ダン・シュナイダーは殺し屋だった。どこにも属すことなく、依頼があるたびに仕事を請け負う一匹狼であった。

 依頼を受け、その内容通りに人を殺し、金銭を得る。

 まるでルーチンワークのように仕事をこなす毎日。

 最初は罪悪感があった。

 人を殺す、という行為に対して、倫理的に許せない自分がいた。

 彼の両親は敬虔けいけんなカトリック教徒クリスチャンであり、善行が人にとって大切な行為だと信じていたし、そうした考えはもちろん、子供である彼にも受け継がれていた。

 しかし、環境は人を変える。

 彼が十二歳の誕生日を迎えた日のことである。家族で音楽祭のコンサートから帰ってくる最中、乗っていた列車の中で強盗事件が起こったのだ。

 その事件は、ダンが偶然トイレに行っている最中に起こった。

 彼は銃声を聞き、トイレの個室の中で、喧噪けんそうが止むのを待っていた。そしてしばらくすると、混乱の声はやみ、不気味な静寂が周囲を支配し始める。いや、精確に言えば、線路を走る列車の金属音だけが、まるで異世界から響いてくるかのごとく、不気味な音色で微弱に鳴っていたのだ。

 ――何やら大変な事が起こったらしい。

 ――でも、もう大丈夫だろう。早くパパとママの部屋コンパートメントに戻らないと……!

 彼は焦燥に駆られながら、自分の部屋へと戻った。

 しかし、その途中、廊下には五、六人の人間が血を流して倒れていた。

 そして、その中に……。

 彼の両親は、強盗の凶手によって殺されていた。

 父は胸から血を流したまま仰向けになり、母は頭を打ち抜かれて脳漿のうしょうが飛び散っていた。

 それは、小学校エレメンタリー・スクールに通う彼にとっては、あまりにも衝撃的な出来事だった。

 彼は叔父の家に引き取られ、それからは一応、何不自由ない生活を送っていたが、当時の記憶は鮮明にダンの記憶へと焼き付いてしまっていた。

 ふと目をつぶると想起される、あの惨劇。実の父親と母親を、一度に失った夜。床いっぱいに広がる、嘘みたいに赤い鮮血。

 何度も何度もフラッシュバックが起こり、数年経っても精神は虚ろなままだった。

 確かに強盗グループは逮捕された。しかし、終身刑とはいえ、彼らは今もあの檻の中で生き続けているのだ……!

 駄目だ。あの程度の〝罰〟では足りない。眼には眼を、死には死をもって償わなくてはならないのだ! 神が罰してくれないのならば、自分が彼らを罰せば良い。いや、神など本当は存在しないのだ。本当に存在するのならば、あんなに善良な一市民だった両親に、あんなむごたらしい〝罰〟を下すわけがない。奴ら――あの列車強盗たちは確かに捕まった。だが、監獄には死の恐怖などない。規律によって束縛される代わりに、生きることを合法的に認められている。親以上の歳月を生き、衣食住に困らない生活を送っている。人権がなんだ! 正義がなんだ! そんなのはまやかしだ! 虚像だ! 第三次世界大戦では人類同士殺し合ったくせに、こんな時だけ法の力で庇護しやがって! 慈愛? 赦しだと!? そんなもの、客観的な立場なら幾らでも言える! 絶対にこの手で、奴らを――!

 ダンはいつしか、復讐することを自分に誓っていた。

 神を捨て、無神論者になった彼は、黙々と勉強に取り組み続けた。

 そしてダンは、オーストラリア国立大学へと入学し、その後も勉強を重ね、そのまま大学を首席で合格することになる。

 大学で『犯罪学』を徹底的に勉強した彼は、ありとあらゆる状況に置いて、警察の眼を逃れつつ、犯罪を――とりわけ殺人を実行する方法を研究し続けていた。

 そして大学を卒業した直後、その地方のマフィアである【ノストラダムス・グループ】へと単身で赴いた。

 ノストラダムスのアジトへと向かうダン。

 彼はアジトの正面から、堂々と彼らの元へと訪れた。

 もちろんダンは捕らえられることになったが、彼はそこで、マフィアたちにこう言った。

 ――君達には、誰か、殺したい人間が存在するかい?

 その言葉は……意外だった!!

 囚われているはずの若造が、逆に、マフィアたちへと〈殺し〉の提案をする!

 まるで馬鹿げていた。マフィアたちは笑った。「俺達はお前のようなガキよりも、圧倒的に専門家だよ、ハハハハハ」別の者はこう言った。「ならはじめに、このオレ様を殺してみやがれってんだッ!」

 するとダンは、フフフ、と微笑する。

 ――では、お望み通り、目の前にいる人間を殺してみせよう……。

 彼は風のように呟くと、手品師のように、しなやかな指を〝パチン〟と鳴らした。

 するとどうだろう。その男のズボンが突然弾け、下半身が破裂したのだ。分離した上半身が、血を噴きながら、ロケットのように吹っ飛ぶ。

 一瞬の出来事だった。周りが混乱している間に、彼は隠し持っていたナイフを使って縄を切り、銃を奪い、ボスへと銃口を向けた。

「き、貴様……いったい何を……!?」

「先ほど数人のズボンに、特殊なシールを貼っておいたのだよ」ダンは応えた。「それは私が開発したものでね、特定の音に共鳴して、爆発する仕掛けになっている。緑色のシールが、この、指が鳴る音に対応していたというわけだ……。ちなみに、今の犠牲者以外にも数人、気付かれないように貼っておいた。私が素直に捕まったのは、『貼ること』から注意を逸らすためだったのだよ。さあ、どうする? 交渉をしよう。それがお互いにとっての得策だろう?」


 ☆


 ダンは裏社会の中で、『暗殺者ヒットマン』として、着々と名を上げていった。

 マフィアや大企業、あるいは政府関係者から仕事を請け負い、報酬と引き替えにターゲットを殺す。

 殺しの方法は状況によって千差万別であり、誰も理解できないような高度な技術を用いることもしばしばであった。

 普通、暗殺業を営むものは、その道の同業組合ギルドに所属するのが普通であったが、彼の場合は違っていた。そうしたギルドから声が掛かることがあっても、応じることはなかった。

 彼は組織や集団というものを嫌っていた。

 確かに徒党を組めば、協力し合えるというメリットはある。

 しかし、才能を充分に持った彼にとって、それは足枷あしかせの役割しか果たさない。個人で動くからこそ、過激な行為をすることができるのだ。

 どうして人は集団を作るのか。

 一人でできることでも、わざわざコミュニティを作り上げてから取り組む。それが彼には不思議に思えてならなかった。効率が悪く、自分の取り分だって減る。余計なことにも時間を割かなければならなくなる。

 世の中には、余計なものが多過ぎる。

 余計なものが多過ぎるからこそ、互いが互いを減らそうと、本能的に活動してしまうのだ。

 第三次世界大戦――WW3が起こったのだって、元を正せば、人口の爆発的増加に起因しているのだ。だから、戦争が起こってしまったのは、そうした自然界の自動調節機能みたいなものではないだろうか……。

 ダンの両親は、列車強盗によって殺されたが、そうした犯罪者が増えるのも、この世の人口が多過ぎるため、困窮や格差が生じてしまうからなのだ。

 困窮や格差を是正する為には、革命を起こさなければならない。革命には血が流れる。紅い、憎悪の血潮。それは更なる憎しみを生み出し、際限の無い地獄を繰り出すことになる。

 だから、

 だからこうして人間を〝間引き〟する、という自分の行為は間違っていない。彼はそうやって自分を納得させた。正当化した。

 自分を納得させることは、暗殺という仕事にとって大切なことだった。

 心の迷いが、手にもあらわれる。

 一瞬でも引き金を引く瞬間を躊躇えば、それが自分の危機にもつながってくるのがこの仕事だ。相手がどんな人生を歩んできたかなど関係ない。依頼を受け、そのとおりにこなす。

 あまりにも難易度が高く、自分に向いていない仕事の場合は断ることもあったが、基本的にはほぼ全て承っていた。

 殆どのターゲットは、権力者や、資産のある資本家、あるいは犯罪者である。だからそれも、気持ちを楽にさせていた側面があるだろう。

 ダンは目の前で相手を殺すときに関しては、『聖書』を読み上げることを習慣にしていた。

 彼は〝教〟を棄てた。

 しかし、宗教の持つ物語的能力は、心なしか相手を圧倒させる。神の名の許で殺す、と宣誓したときの、相手が驚愕に溢れ、震え恐れる、あの態度。あの態度が、美しい。死を前にしたときの人間という生き物は、こんなにも美しいのか……。

 不思議であった。

 生きている限りに於いて、それは醜悪以外のなにものでもないのに、殺害前後の、わずかな時間においては、生命の持つ純真な輝きを放つのである。

 つまり……つまり人間は、殺されるために生まれてきたのではないだろうか?

 伝説的な歌手や俳優が死ぬと、その後カルト的な人気が生み出されることがある。

 それはおそらく、死という出来事を通過することによって、その生命が浄化されるのだろう。ピュアになるのだ。透明で無垢。だから死は美しい。

 その理屈は、ダンの行動を支援する働きを持つようになった。

 彼が仕事を選ばずに、殺しをおこなうように変わっていったのも、そうした悟りを経験したからなのである。

 人間の裏側に潜む、行動規範。

 それはいつの間にか刷り込まれるようにして、ひとつの哲学を作りあげる。そして人は、その哲学にのっとって、行動を起こす。

 自分が自分の欲求に従って行動を起こすとき、一定以上の賢さを持った人間は、どうしてその行動をとろうと思ったのかを考えようとする。そしてその原因を見つけるときもある。なるほど、自分はこんな考えを抱いているのだから、次にこういう行動を取ろうとしているのだな、みたいな感じにである。

 でも、その根底にある哲学を、分かった上で変えようとはしない。

 なぜならば、その哲学はその人間に適しているから、精神の中に組み込まれたのであって、無理やり別の哲学を組み込んだところで、うまく機能はしてくれない。思想は、あるべきところへと還るものなのだ。

 しかしその奥に潜む考えを、人間は隠匿いんとくしている。

 家族や友人にだって、話さない事は多いはずだ。

 しかし、そんな秘密の哲学を唯一明け渡す場、白日の下にさらす場が、死の直前である。それは、言葉が語らずとも、表情や態度が語ってくれる。

 ダンは、だから、人を観察する能力にも長けていたということである。

 さて、彼は仕事で稼いだお金で何をしているのか。そのひとつの回答を提示しよう。

 ダンは調達した資金を、政府関係者へと持っていった。

 そして、彼らと取引をし、その上で、列車強盗たちを釈放させたのである。

 何故かって? 理由は単純明快だ。私刑で死刑を執行するためである。死の恐怖を味わわせ、じわりじわりと嬲り殺しにしてやる。それが彼の目的であり目標であった。

 列車強盗団をわざと散り散りバラバラに逃がしたあと、下っ端から順番に、団員を殺していった。

 初めの内は殺害方法がシンプルだったが、少しずつ方法をエスカレートさせていった。殺しと共におこなう、死刑執行前の拷問を、どんどん過激にしていった。

 ナイフで、徐々に、皮を削いでいったり、生きたまま硫酸へとゆっくり浸してみたり、痛みを倍加させる劇薬を多量に飲ませてみたり、よりどりみどり、百花繚乱、虐殺のオンパレードである。

 しかし、ダンはそれを楽しんではいなかった。少しでも多くの痛みと恐怖を与えるために、復讐のためにおこなっていることである。この件に関しては、美徳うんぬんの問題ではなかったのである。

 そして列車強盗団のボスを、もっとも残虐なる方法で殺したあと――

 彼は、自由になった。

 得も言われぬ、解放感。

 重荷が……やっと降りた。

 楽しくはなかった。しかしこれで、やっと、一つの区切りがついたのである。

 彼は目標を達成したその日の晩、両親の眠るお墓を訪れ、その傍――墓石に背中をあずけ、浴びるようにウイスキーを飲んだ。

 とても苦く、そして、格別のウイスキーだった。







 58


 ダンはその依頼、つまり能力者を暗殺するという依頼を失敗しても、特に気にすることは無かった。

 もう既に充分な金銭は持っているし、向こう(得体の知れない宗教団体)が、突然申し込んできたものだ。別に、ご破算したところでどうってことはない。出来る範囲の仕事をきっちり片付けていく。殺しの美学。

 復讐をすでに完了している彼にとって、殺しとは怨念のこもったものではないのである。淡々とこなし淡々と片づける。一定のリズムで点滅する幻灯のように。

 しかし、意外なことに、もう一つだけ彼らからの依頼があった。

 こちらは、前回のスナイパーライフルでの仕事よりも危険ではあったが、報酬は凄まじいものであった。

 たとえ失敗したとしても、それなりの報酬が出るという、条件の良いものであった。

 条件が良いということはつまり、裏があるということ……危険だということだ。

 だが、危険な任務なら今までたくさんこなしてきた。今回の標的はひとりである。いくら能力者ロマンサーとはいえ、こめかみを弾丸で撃ち抜けば死ぬのだ。簡単である――と思う。

 能力者は自分の存在を表に出したがらない。

 理由は簡単だ。自分が能力を持っていることが世間にバレたら、普通の暮らしをすることが不可能になってしまうからだ。

 であるからして、敢えて人の多い場所でターゲットを狙えば、反撃されずに仕留められることが多い。

 つまり、能力者が能力を使えない状況・環境というものを構築すれば、充分敵うことのできる相手なのである。

 以前彼は、瞬間移動をする相手と戦ったことがあった。

 しかしその相手は、移動する距離に限界があった。

 こっそりと、その標的に追跡機を付着させることにより調査したのだ。

 A地点からB地点へと、標的が移動を試みた直後、銃撃することにダンは成功した。一度瞬間移動を行使すると、次の瞬間移動まで、だいたい五分程度待たないといけないことが、調査により判明したのだ。

 どんなに強大な敵であっても、必ずどこかしらに弱点があるというのが、彼の持つ戦闘の美学だった。

 弱点のない相手などいない。むしろ弱点がないことが、弱点になる場合だってある。IQ(知能指数)や身体能力の高い人間が、争いに勝つとは限らない。様々なデータと運を味方に付けて、やっとそこがスタートラインなのだ。

 そういう訳で、ダンは依頼された通り、その「標的の男」が潜伏していると思われる場所へとやって来ていた。

 そこは巨大な工場であった。

 周りには荒野しかなく、大地の真ん中にその大工場だけがポツンと建っている。

 なるほど、確かに怪しい。

 ダンは双眼鏡を使い、遠くのほうからその施設を観察していた。

 腹這いになりつつ、数日間、昼夜を問わず張り込みを続けた。

 こうした地道な作業こそ、結果として実を結ぶということを、彼は経験則から悟っていたのだ。

 そして偵察を始めて数日後の夜、動きがあった。緑色のジープが、地平線の向こうからやって来て、その建物の前に止まった。ひとりの男性が車から降り、慌てるようにして建物内部へと姿を消す。

 あれが例の男だろうか? まだわからない。

 しかし、そこに人が向かったということは、何か目的があるに違いない。

 誰かと会う約束を立てているのだろか?

 それまでは用心のために、工場内部へと調査の目を向けていなかった。

 何かしらのトラップがあるかもしれず、また、侵入したという形跡が残ってしまえば、目標は別の場所へと移動してしまう恐れがあったからである。

 しかし、今は違う。目的は暗殺であって、調査ではない。だからこそ、今が絶好のチャンスなのである。

 ダンは立ち上がり、荷物をまとめて移動した。

 建物外部の監視カメラについてはすべて把握済みである。

 特別な透視スコープを独自に開発しているため、探知機の類いを躱しながら、目標内部へと潜入することが可能なのだ。

「透視スコープ」とはダンの発明品である。暗視スコープとは違い、一つか二つ程度の壁を〝透視して〟観察できる画期的なアイテムであった。

 だから相手が遮蔽物の向こうに隠れていようとも、こちらから先制攻撃を仕掛けることが可能なのであった。

 透視スコープを装着したまま、工場の内部へと足を踏み入れるダン。

 ――なるほど、確かに複雑な構造をしているな……。

 金属で出来た板や棒によって、たくさんの、高低差がある空間が出来上がっていた。

 幾つもの細長い足場は、立体迷宮を思わせる。

 たとえ銃撃されたとしても、即座に身を隠すことができるが、複雑な構造ゆえに、地の利は敵のほうにあるように思われる。

 しかし、連戦錬磨の手練れであるダンにとっては、それらの空間を把握することなど、朝飯前の事柄であった。一度通った道のりなど、脳内で3D映像として完全に記憶することが出来る。

 彼は金属の柱で出来た、開放的な通路を黙々と通っていくと、目の前に、不思議な色の扉を発見した。まるで大きなテレビを、横に倒してくっつけたような感じであり、その画面に当たる部分は、何やらチカチカと、さまざまな色に光っていた。

 新種の武器かなにかだろうか? わからない……わからないが、この謎の扉の向こうに、人影がある。透視スコープが指し示しているのである。

 罠か……?

 心は確証を求めている。しかし確証のある暗殺など存在しない。不確定要素はどこにでも存在する。行動しなければ結果はわからない。

 扉に触れる。

 ノブはない。ノブなど最初からなかったのだ。

 わずかな出っ張りへと指を伸ばす。

 摑む。

 引っ張る。

 中が徐々に見えてくる。

 暗室。闇がそこにはあった。

 密度の濃い闇が充満している。

 内部を充たしている。

 それは空間の外へと拡充されていく。

 漆黒の絨毯じゅうたんが、その触手を伸ばす。

 ――これは、なんだ?

 純粋な疑問。

 ダンはもう一度室内へと視線を向けた。

 そこには確かに「ヒト」がいた。

 しかしそれはもう、生きてはいなかった。

 身体が溶けていたのである。

 溶解している途中で……

 まるで胃の中に居るかのように……

 喩えるならば、

 そう、

 その人間は食べられていたのだ。

 その人間は、先ほどこの建物へと入ってきた男である。つまり、彼もまた、ここで犠牲になったということか……。

 ダンは既に走り出している。通路を縦横無尽に駆け回り、出口を探す。

 ――敵は化け物だ。俺の手に負える相手ではない……! 

 あれは、決して絨毯などではなかった。生き物だった。

 あの部屋の壁という壁が、〈ひだ〉のような生き物に覆われていたのだ。

 蠕動しているかのような微弱な振動を保ちつつ、消化し、吸収していたのだ、人間を。

 あの生き物が「標的の男」そのものなのか? それとも、「標的の男」による能力の一部なのか? 

 敵が能力者ということで、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。

 しかし、目の前で、生きた人間が溶かされていく様子をみた今となっては、意思へと、恐怖の概念が紛れ込み始めていた。

〈襞〉は、ダンを追い掛けていた。まるで波のように、高速で……。

 助けてくれ!

 しかしその叫びは心の中に堆積するだけで、喉からは出てこなかった。脚がもつれる。空間がねじ曲がっていくようだ。

 俺は走っているのか。それとも止まっているのか。

 それでも時間は動き続ける。闇も動き続ける。果ての見えない無限回廊。闇の王国。その中にダンは囚われていた。どこにも行き着くことのできない無限の地獄が、目の前に横たわっていた。

 いつの間にか身体は静止していた。まるで足の裏が床に貼り付いているようで、びくともしない。

 それどころか、感覚が無くなっていた。痛覚が失われていたのだ。

〈襞〉がダンを覆っていく。

 闇の絨毯が身体全体へとかぶさっていく。

 意識はまだ残っている。

 息が出来ないはずなのに、なぜか気持ちいい。アルコールの海に浸っているような……。しかし、それは幻想のような錯覚である。

 彼はふと、自分の腕を見た。

 腕は溶けていた。肉が融解し、中の骨が剥き出しになっている。血液はなぜか垂れてこない――おそらく、その〈襞〉が吸収しているのであろう。

 死に対する恐怖が峠を越え、恍惚に変わっていく。

 精神が崩壊してはいたが、それはかえって安定を齎していた。

 溶けていく・解けていく・融けていく・熔けていく

 蕩けて――

 ぐじゅぐじゅになった肉塊、

 臓器は既にえぐり出されて断裂/消滅。

 骨さえも原形を留めていない――

 彼は記憶を失い、最後に意識に現れたのは、眠りよりも深い虚無であった。







 59


 ダグラスにとって、その「暗殺者」がうまく罠に掛かったことは、僥倖以外のなにものでもなかった。

 どんなに知性や才能を育んだ人物であったとしても、それより上位の力の前では屈服するしかない。そのことをダグラスはかつて所属していた組織『ホワイトノイズ』のなかで、嫌というほど痛感させられていた。

 人は生まれながらにして格差がある。それは、大なり小なりの違いこそあれ、絶対である。平等主義は昔から叫ばれているが、結局この世は弱肉強食なのだ。弱き者が滅び、強き者が征服する。

 しかし、強者とてその地位は絶対的ではない。人間の数百倍の期間を生きた恐竜でさえ、隕石ひとつで「お陀仏」である。

 とにかく、もし自分の身を守りたいと思うのであれば、自分よりも強い存在を味方につけるしかない。戦い、というものはそれが基本である。

 ダグラスはかつて任務中、絶対的な危機に陥ってしまったことがあった。ブラッドレインと呼ばれる能力者たち――彼らの武装蜂起の際、その『斥候』として、単身で潜入捜査をおこなったのだ。

 彼はその時、捜査に失敗し、ブラッドレインに捉えられた。自害用の、首元に埋め込まれた小型爆弾は切除され、そのうえで幾度も拷問を受けた。

 それは地獄であった。

 気を失うことも許されず、ありとあらゆる痛みを感じなくてはならなかった。物理的にも、精神的にも……。

 それだけではない。ダグラスはブラッドレインによって、いかにホワイトノイズが正義のために、数々の非道をおこなってきたかを知ることになった。

 もちろんそこには洗脳の意味合いもあり、虚偽の情報もたくさん混じっていたが、確かに、真実を反映している側面もあったのである。

 ホワイトノイズだけではなく、その背後に潜む国際機関の悪辣な意図――あるいは、能力者を抑制しようとする普通人ふつうじん達の絶対的統制方法。

 彼の見る世界は、そこで一変した。

 戦争を何度も起こし、少数派を虐げてきた、学習能力のない人間ども……。どうして超能力をもつ選ばれた存在のロマンサーが、彼らを守る必要性があるのか。

 もともと能力を持たない人間は、この星に住んでいたわけではないらしい。

 それにもかかわらず、その、移住してきた種族が、この星で我が物顔に闊歩をしているのだ。人間以外の種族を破壊しつつ……。

 こんな理不尽があって良いのだろうか?

 絶対的な正義がこの世に存在するわけではない。

 しかし、人間、という種族はこの星において、その存在自体が間違っているのだ。

 だから、超能力を持ったロマンサーの手によって、この星をあるべき姿に戻す――取り戻す必要がある。

 ブラッドレインはただの武装蜂起したテロリストたちではなかった。狂人ではなかった。あまりにも正しすぎて、だからこそ、その芽を潰されたのだ。まるでそれは、蟻共が蝶を喰い殺すようであった……。

 ダグラスはその地獄の中を生き延びたあと、ホワイトノイズには戻らなかった。

 そして自分が死んだように見せかけ、ずっと機会を窺っていたのである。

 人類を滅ぼすにはまず、ホワイトノイズを壊滅させるしかない。少なくとも、その機能を鈍らせ、自分への賛同者を増やす必要がある。

 つまりアポトーシスは、ブラッドレインの意志ミームを、ある程度受け継いだ組織だと言えるのだ。

 しかし、ダグラスの直近の目的は、ホワイトノイズへの復讐であった。

 自らの存在を見殺しにし、見捨てた、国際機関の従順な犬たち。

 人間に媚びへつらい従うロマンサーたちこそ、一番の害悪であり、憎悪の対象であった。

 そこがブラッドレインとは確実に異なるところであった。ブラッドレインは、ホワイトノイズの能力者を、全員引き入れることも視野に入れていたからだ。







 60


 ――先程の工場内、6時間後。


「ガーランド、それで、君はどうなるんだ。君がいなければ私の目的は頓挫することになる。見捨てるつもりなのか?」

「見捨てる? 吾輩は充分、貴様の助けになってきたはずだ。問題があるとすれば、それはお前が『遅すぎた』という、ただ一点のみに表される」

「仕方ない。相手は単なる能なしではないのだ。少しずつ外堀を埋めていく必要が私にはあったのだ。軍事用ロボットの強奪だって、達成に二年も……」

「ダグラス。貴様はなにか誤解しているように見えるが、吾輩はこれ以上姿を隠せないのだ。あの女がやってきている。もう決着はついてしまったのだ」

「決着? まだだ、何もまだ終わっていない! 奴らはまだ、この基地だって摑めていないはずだ」

「そうだ。つい最近まではな……。しかしだ、あの女はすでに、この世界に派遣した『向こう側』の仲間を使役させ、おおよその情報を入手していたはずだ。そして鍵となる部分を、あの女が補完する。つまり外堀を埋められていたのはこちらというわけだ。最近、貴様のデータバンクに侵入していたのは、きっとその仲間だろう」

「だから私は頼んでいるのだ! 今まで人間を貴様に提供してやっただろう? その借りを返してくれても……」

「そうだな……吾輩は貴様との関係を完全に断ち切るために、証拠を隠滅させておこう。しかし結果的には、露見してしまうおそれがあるが。吾輩は遅くとも、この一週間以内には殺されるだろう。もしかしたら1時間後かもしれぬ……。吾輩の予想では、次元孔の出現にはあと半年掛かると踏んでいたが、きっと時空連続体をねじ曲げたのだな。仕方ない――契約は既に果たしている。所詮は時間稼ぎにしか過ぎなかったということだ」

「つまり、これからは私一人でやれと?」

「そうだ。だが少しだけ手助けをしよう。貴様の記憶から、吾輩の〝最終計画〟に関する部分だけを消しておく。ホワイトノイズの中には、記憶を閲覧し、自由に書き換える能力者がひとり存在する。もちろん記憶の消去自体はバレてしまうが、物理的な証拠だけではなく、内在的/精神的な証拠にも片をつけられるというわけだ。奴らは物理的な証拠よりも思考・記憶に重点を当てて捜査に臨むからな。たとえ捕まったとしても、殺されることはなくなるだろう。あと、そうだな……拷問を受けた際のために、痛覚の機能を一部改造しておく」

「どういう事だ?」

「一定以上の痛みを感じさせなくする魔法だ。これを貴様の神経へと施しておく。つまり、たとえ指を切り落とされたり、眼球をくり抜かれたりしても、まったく苦しくないということだ。奴らはお前を見捨てたことに、全く負い目を感じていないわけではない。それに、国際保安機関のルール上、証拠なき相手に対して死刑を執行することはとても難しい。現行犯でない限りはな」

「つまり、投降したほうが楽だと」

「その通りだ。それに運がよければ、ある程度の自由を与えられる可能性もある。もちろん爆弾は再び埋め込まれ、A級の監視対象として制限を受けることになるだろうが、普通の暮らしならできるかもしれん」

「そんなに……例の女は危険なのか? ガーランド、お前が返り討ちにすることは……」

「不可能だ。そもそもの存在する領域が異なる。あれは万能ではないが、それは〝途上の存在〟であり、いまだに自分が〝何者であるのか〟に気づいていないからだ。奴が本当に【真理】に到達したら、そもそも、始まってさえいなかっただろう」

「意味が分からない。お前だって、向こうからこっちへと来た異世界人だろう?」

「あの女はそもそも、向こうの世界においてもイレギュラーなのだ。奴の能力は魔法ではない。事実の改編でもない。〝すべて〟なのだ。すべてを行使できるにもかかわらず、いまだにそれをしていないだけだ。なぜだと思う?」

「すべて、の意味が分からないのだが」

「宇宙を内包した宇宙。終焉を迎える無限。存在自体が矛盾であり、禁忌である存在。等号の成立しない力。逆転するエントロピー。上位存在とのアクセスを唯一可能とする、最後の使者」

「SFやファンタジーの話ならよそでやってくれ。私は現実主義者だ」

「まあいい。とにかく単純なことだ。吾輩の役割はもう終わりだ。お前が私にとっての、ミスディレクションとして動いてくれた事には感謝する。だが、永遠に安定した状態が続くわけではない。ここらが潮時だ」

「君に始めて会ったとき、君は、ホワイトノイズは壊滅する運命にある、と間違いなく言っていたはずだ。それは嘘だったということか」

「いや、それは嘘ではない。本当のことだ。だが今ではない――二十二世紀の前半のうちにそれは必ず起こる。貴様のやったこともすべて、そのための布石だ。奴らはまだ気づいていない。シンギュラリティ、権力の譲渡、完全なる統制、マルチヴァク、そしてエーテルフォール。世界は再びやり直される。ほとんど君の望むような形でだ。この世界は浄化される――そして元の状態へと戻っていく。ホワイトノイズどころではない、その先の、お前やブラッドレインの目的は、ほぼ完璧な形で成就される。吾輩には明日の出来事のように、まぶたの裏側に見える」

「しかし、私には信じられない……本当に権力はコンピュータに……機械生命体に譲渡されると? それに、誰か勘付く奴がいるはずだ。そいつらを『除去』しなくては」

「大丈夫だ、『統制者』たちとも契約を交わしている。それに、いずれにせよ次の大戦が起これば、そうした流れはより確固たるものに変わるだろう」

「人は過ちを繰り返す――」

「その通りだ。そしてコンピュータの進化を止めることは出来ない。人間の存在意義とはすなわち、コンピュータを生み出し、意識を与えるまでの橋渡しにしか過ぎん。それまでの辛抱というわけだ」

「最後にひとつ聞いておきたい」

「なんだ?」

「なぜ君は、私に力を貸したのだ。ミスディレクションにしては、損失が大きかったのではないか」

「すべてはその目的のためだ。吾輩という存在は、エラーを正すための装置にしか過ぎない。しかしながら、エラーを正すためにはある程度の手続きがいる。それは廻り道であるが、欠かせない要素だ。あの女が……自らの善性を確信し、あるべき世界を保とうとしているが、それは本来一過性の、ゴミ屑のような価値しか持っていない。正義を確信した人間が、それを権力のように振り回し、悪とラベリングしたものたちを破壊しているわけだが――それは本当は、自動的に解決していくはずのものだ。正義などどこにも無い。それを薄々、奴らも気付き始めている。いや、特にあの女はそれを分かったうえで、吾輩を消しに来ているのだ。それが傲慢以外の何ものだいうのだ。バグであるはずの存在が、世界を正そうとしている。滑稽な話だ。だから吾輩は、そのバグを追い詰めるための白血球のようなものだ。生き物の持つ免疫機能。吾輩は他の高度な生命体を喰らうことで生きている。人間を喰らうことで、人間の姿を保っている……。単純化すれば、それは理想の問題だ。秩序を望むか、混沌を望むか。そしてそれが実現したうえで、どこへと到達したいのか。それが吾輩の答えだ」







 61


 室内には穏やかな音楽が流れている。

 美しく青きドナウの音楽を聴いて思い出すのは、『二〇〇一年宇宙の旅』……しかし実際の二〇〇一年は、あれほど技術は進歩していなかった。こうして私が月面基地の一画で、ワインを飲みながら、太陽に照らされた地球を眺めることができるのも、それが二十一世紀の後期だからである。

 技術革新は、強力なエネルギーによってもたらされる。たとえ理論的に可能であったとしても、それが利益を生み出さなければ、ただの数式のままである。あるいは必要に迫られることで、計画は実行に移されるのだ……。

 過ぎ去りし時代の名残を、幻想的な風景から感じとりながら、その科学者は物思いに沈んでいた。

 彼はこの月面基地で働く人間であり、月の上での生活は、まもなく半年を迎えようとしていた。初めの数週間こそ気持ちは高揚していたが、人間は慣れる生き物である。今やこの環境にすっかりと適合し、冷静に状況を摑み取れる心境にまで達していた。

 彼はワイングラスをテーブルに置き、それから席を立った。

 月面の重力は地球よりも小さいが、重力増強装置を建物に装備しているため、地球上での暮らしとあまり変わらない。月面での生活によって肉体が衰える心配は皆無であるし、ヴァーチャル・リアリティの世界に潜れば、窮屈さを覚えることもほとんどない。むしろ適度に調整された設備は、快適そのものであった。

 彼は専用通路をわたり、隣の建物へと移動した。その一室が彼の使っている研究室である。

 今日のノルマ(それは自分で自分に課したモノだが)はすでに達成しているのだが、知的好奇心が旺盛である彼にとって、それは苦になるものではなかった。一度集中してしまえば、時間が経つのはとても早く感じられたし、新たな発見をすれば、給与も上昇するという現実的なメリットもあった。

 部屋に戻ってくると、既に休息棟に戻っているはずの共同研究者、ナンシィ・メルグリーンが、椅子に座ってコンピューターをいじっていた。モニターのブルーライトが、彼女の眼鏡レンズで反射している。

 ナンシィは背の高く、顎の尖った女性であった。また理知的な瞳を宿しており、頭脳も当然明晰。対等な知性を持つ研究者でなければ、圧倒されてしまっていただろう。しかし彼にとっては、信頼の置ける仕事仲間であった。

 彼、アンドリュー・ブロックは、ナンシィへと話し掛けた。「時空変動帯の乱れを調べているのかい?」

「ええ」とナンシィは頷いた。「最近活動が活発な気がして」

「しかしだね。こんな時間まで研究していたら、次のスケジュールに疲労が残ったりしないかい?」

「そんなことないわよ。この研究は興味深くて、寝るのももったいないだけ……。ああ、そこに置いてあるファイルを取ってくれる?」

「これかい?」彼は近くに置いてあった青色のファイルを、彼女へと渡した。「ずいぶん分厚いけど、いったいこれは?」

「南極にある基地のデータよ。もしかしたら地球における極の微細な乱れと関係しているかと思って……ほら、磁気の影響を受けている可能性もあるじゃない。でも、何も発見が無かったら意味が無いと思って、誰にも言っていないだけ」

「なるほど、そういうわけね。いや、様々な数値を比較するのは研究において重要な作業だ。そのまま続けるべきだよ」

「ありがとう、ところで……」とナンシィは眼鏡を外した。「例のメール、見た?」

「メール?」

「知らないの?」彼女は怪訝そうな顔をした。

「いや、知らないな。それは端末に送られたものかい?」

「いえ、自室のコンピュータに送られているはずよ。研究リーダーのモーリスが、今朝、限られた人に一斉送信したらしいけど」

「そうなのかい? まだ見てないよ、今朝は整備士くんの会話相手になっていたからね。宇宙船につきっきりで」

「そう……。なら早く見たほうが良いわ」

「どうして?」

「二つとなりの研究室にいた、サミュエル・ポールマンって知ってる?」

「えっと、あのもじゃもじゃ頭の? 確か二年前に来て、半年前に地球に戻ったんだっけ」

「そう。彼がこの前……」彼女は言いよどんだ。

「サミュエルがどうしたって?」

「実は最近、彼、亡くなったらしいの」

「亡くなった? いったいどうして……事故かなんかなのかい?」

「いや、事故じゃないの。どうやら殺人事件があったようで、しかも、かなり残酷な殺され方をしていたらしいわ」

「殺人事件か……、それは不穏だな。原因はなんだい? 犯人は捕まったの?」

「それが……」ナンシィは声を小さくした。「犯人が、まだ捕まっていないの。しかも事件現場は密室だったらしいわ」

「密室!? この二十一世紀後期に密室とは、面白いジョークだね」

「違うわ、ジョークなんかじゃない。彼は密室の中で殺されたのよ、ホテルの中で、部屋の中で――ナイフで刺されてね」

「ナイフ……? かなり危険な殺害方法だね」

「そう。しかも私怨が籠もったような感じでね、何度も何度も刺されていたらしいわ。第一発見者は、そのホテルの清掃員だったらしいんだけど、鍵を開けて入ったときには、中は血の海で、内臓とかも……あたりに撒き散らされて……」

「なるほど……すごい、壮絶な死に方だったというわけか……。しかし、その部屋は本当に密室だったのかい? 状況がよく分からないけど、たとえば、他殺を装った自殺だったとか」

「いえ、色々調査をしたらしいんだけど、サミュエルはその先の予定も決めていたらしいわ。しかも殺される一時間前には、ロビーで楽しく電話をしていたとか。ホテルの従業員が、彼の笑っている姿を目撃しているわ。それに、彼が電話した相手との音声記録も残っている。あ、あとね……彼の背中にも、刺し傷がたくさんあったらしいの。腕の届かない場所にも」

「なるほどね……。自殺にしては動機も方法も不明だと……しかし、それは不可能犯罪だよ。どうして密室内で他殺が可能になる? まさか犯人が、壁をすり抜けたとでも……?」

「…………」彼女は少し悩むように口をつぐんだが、再び言葉を発した。「ねえアンドリュー、あなた、ブラッドレインっていう組織を知ってる?」

「ブラッドレイン……? 確か数年前に話題になったテロリスト集団だっけ? 国際政府に攻撃を仕掛けた、とかいう噂の。でも、いきなりそんな話題を出してどうしたんだい? ブラッドレインとサミュエルの間に、何か関係が?」

「じつはね、大アリなのよ」とナンシィは応えた。「捜査に当たって、サミュエルの身元も詳細に調査がおこなわれたらしいんだけどね、実は彼、元々ブラッドレインに所属していたらしいのよ。本当はライオネルという名前で、国際指名手配犯だったんだって」

「馬鹿な」アンドリューは笑った。「そんなのあり得るわけがない。ここで働くためには、いくつものセキュリティを突破しなければならないんだぞ。いったいどんなマジックを使って、そんなことを?」

魔法マジック」と彼女はつぶやいた。「その、ブラッドレインという組織には、魔法を使える人間も居たらしいの……。ほら、あの時期ブラッドレインのメンバーが、超能力者だったのかもしれないって噂されていたじゃない? それが本当だとしたら」

「なるほど……。いや、うん、なるほど」アンドリューは目蓋をこすった。それから天井に顔を向け、溜息をつく。「そうか、そういう事か……。いや、しかしだよ、彼自体には能力は無かったはずだ。もしもそうしたESPやPKを持っていたとするなら、検問所で引っ掛かっていたはずだ。たしか、この月面基地に来る前に聞いたことがあるが、検問にはホワイトノイズと呼ばれる、国際機関直属の組織がバックアップにいたはずだ。能力者を探り当てることくらい、彼らならできるのでは?」

「ええ、彼自体は能力者ではなかったらしいわ。ブラッドレインでも、機械工メカニックとして働いていたらしいし……。だから多分、誰かの力を借りて、この月面基地までやって来たということよ。ここはいったん入ってしまえば、尋問されることもないし、隠れ家としては好都合だったのではないかしら」

「不可解な点もあるが、筋は見えてきた。確かに私も以前そうしたことについての研究調査をおこなっていたからね。しかし、となると、彼を殺した人間は能力者であった、ということかい?」

「たぶん、そう思うわ。殺害方法には恨みが籠もっているようだったし、何かしらの因縁がそこで果たされたのかもしれない」

「やれやれ、物騒な話だなぁ……」アンドリューは溜息をついた。「身近にテロリストがいただなんて、この研究所のセキュリティも、ずいぶん脆弱だということだね。まあ、ここで事件が起きなかっただけマシだと言えるかな」

「ところで、アンドリュー。そっちの調査は順調?」

「順調も何も、相変わらずさ。【ゲート】から微弱に流れている電気信号を解析しようと何度も試みているけど、まあ、進展はないね。やはりあれは、我々の解析できないプログラムによって動いているとしか考えられない。人智を超えているんだよ。コンピュータの精度や、解析機の性能が向上すれば、新たな発見があるかもしれないけど、今のところは全然駄目だと言えるね。自分の予想では、あの【ゲート】の四次元的な位置を絶えず送信しているんだと思うけど、人間の持つ論理式とは勝手が異なるようだ。つまり、依然として進展がないということさ」

「やはり、閉じることは出来そうにない訳ね」

「そうだ」アンドリューは頷いた。「私たち人間が破壊できるほど、あれは簡単な代物ではない。もしも仮にアインシュタインのような天才が現れたとして、そいつが解析法を発見したとしよう。でも、その解析法を使用したところで、それに見合った――つまり破壊に見合った材料を、この地球で集められるかどうかは分からない。だから、私たちはその後のこと――奴らが来た後のことを考えていったほうが建設的だと言えるね。闖入者が向こうの世界からやって来たときのために、あの月面のゲートに向けて数百発の核ミサイルが飛んでいく仕組みになっているけど、もしかしたらその攻撃が無効化されてしまう可能性があるわけだ。そして仕留められなかった場合、我々人類は和解する道を失う。滅亡へと一直線だ。だからこそその前に、【ゲート】の向こうにいる生命体と連絡を取り合う必要がある。戦争にならないように、だ」

「でも、もしかしたら言語の通じない相手かもしれないですよ。知性と穏健さを両方とも有しているなんて、珍しいですから。人間同士でさえ、ひっきりなしに戦争をしているわけですし、別世界の生命体とコミュニケーションを取るだなんて、やはり夢物語ではないでしょうか?」

「まあ、君の言っていることはわかるよ。すごく分かる。でも、これ以上の破壊力を持つ兵器を、我々人類は開発できると思うかい?」

「…………わかりません」

「君はSF映画に詳しいかね?」

「いえ、フィクション自体はあまり触れてこなかったもので」

「ふむ、なら題名は出さないでおこう。こんな映画があった。空から宇宙船が大量にやって来て、人類を次々に虐殺していく。地球を侵略しようとしているんだ。宇宙人は優れた兵器を持っている。だからどんな武器を持ってしても、宇宙人を倒すことは出来なかった。そして人類が絶滅寸前まで追い込まれたとき――とある理由で、宇宙人のほうが先に全滅してしまったんだ」

「……あの、よく分からないのですが、追い詰められていたのは人類のほうなんでしょう? どうして攻めていたはずの宇宙人が敗北を?」

「そこがこの映画の肝なんだ。実はね、その宇宙人たちは、ウイルスによって病気に罹って死んでしまったんだ」

「ウイルス!?」

「そう、ウイルスだ。地球で進化してきた人類は、ウイルスに対する免疫力も抗体も持っている。しかし空から円盤に乗ってやってきた宇宙人たちは、そのウイルスに身体が対応しきれず、みんな死んでしまったんだ。つまり、人類が忌み嫌っているあのウイルスのおかげで、宇宙人を壊滅できた、という訳さ」

「なるほど……ウイルスね。でも、どうしてそんな話題を?」

「えっと、つまりだ。私が言いたいのは、その映画と同じように、ウイルスが地球を救ってくれる、という話ではない。別世界と行き来するゲートを作れるくらいなら、そのくらいの危険は想定できると考えられるからだ。それよりも私が主張したいのは、人類は、ウイルスに頼らないと敵を倒せなかったほどに、無力だということさ」

 アンドリューは椅子から立ち上がり、コーヒーメーカーのほうへと移動した。「どう、君も飲む?」

「ええ」ナンシィは返事をした。「ねえ、アンドリュー。あなたこそ疲れているように見えるわ。はやく休んだ方がいいんじゃないかしら?」

「そうかな、自分ではそう思わないけどな」

「きっと感覚が麻痺してるのよ。今なら急速休息装置ファストスリープマシーンが空いているはずだし、利用したら?」

「ああ、あれね。でもいいや、私は自分の部屋で休むよ」彼はナンシィにコーヒーカップを渡した。「自分の部屋のほうが快適なんだ。それに、今日は地球からの中継放送で、クリケットの試合を見なきゃいけないし」

「そう、でも、無理はしないほうが良いわ。それから、一応メールに目を通しておいたほうが」

「そうだね、忘れずに見ておくよ。そうだ、待合室の冷蔵庫に、アップルパイが入っていたはずだ。私の名前の付箋が貼ってあると思うけど、君が食べちゃって良いから。お腹、空いてるだろう?」

「ええ、とっても……。ありがとう。ありがたく召し上がらせていただくわ」

 アンドリューは扉の前で振り返った。「それじゃあおやすみ」

「おやすみ、アンドリュー」

 彼は部屋から出ると、自分の部屋を目指し、廊下を歩いていった。

 廊下の左側は全面ガラス貼りになっていて、月面の景色を遠くのほうまで見渡すことが出来た。

 それはまるで、銀色の海が広がっているようであった。空には満天の星空が浮かんでいる。

 そしてその銀色の地平線辺りに、宇宙空間の黒色とは別の濃度を持った、不気味な暗色の板が、まるで地面に刺さったチョコレートのように、その姿を現していた。

 ときおり板の表面が、チカチカと火花を放っている。

 それこそ、人類が21世紀に発見した、別世界とこの世界を繋ぐ物体【ゲート】であった。







 62


 その少女の家庭環境は悲惨であった。

 いや、そうした家庭は、もしかしたら他にも多くあるのかもしれないが、少なくとも彼女にとっては、つらく、耐えがたい環境であることには変わりなかった。

 子供は親を選べない。

 たとえどんなに酷い親だったとしても、服従するしか、生き延びるすべはない。

 子供は無力であり、無知だ。

 自分の家庭環境が異常であったとしても、それを正常だと誤認する可能性もあるし、どうやって助けを求めればいいのかを知るのも困難だ。

 じっと辛抱し、忍耐するしかない。

 でも、それには限度がある。行き着くところまで行き着いてしまえば、回復するのは難しい。途中で壊れてしまい、一生苦しむことになるかもしれない。

 閉鎖的で、先の見えない未来が、子供の周りを覆っている……。


 ☆


 その少女の父親はアル中であった。

 仕事に失敗し、それが原因でアルコール中毒となってしまった。ほとんど家に戻ることもなく、放浪し、貯蓄を食いつぶしながら酒をむさぼるようにして飲む毎日。

 彼もかつては働いていた。しかし、父親のありつけるような仕事は、どれもこれも重労働のたぐいであり、お酒を飲まないとやっていられないのであった。精神が擦り切れてしまわないように、お酒を頼っていた、と言えるだろう。

 しかしある時、父親は駄目になってしまった。廃人になってしまった。

 切っ掛けはわからない。ただ、それは重苦しくも厳然たる事実であった。

 ろくに働かないだけならまだしも、暴力もときどき振るうようになった。

 家庭内暴力(DV)。世の中に対する鬱憤、社会に対する鬱憤、そういた苛立ちや虚しさを晴らせる場所を、家の中でしか見つけられなかったのである。

 そのことに対して、良心の呵責かしゃくがなかったかといえば、それは違う。だから父親はほとんど家に帰らなくなった。できるだけ家から距離を置いていたほうが良いと思ったのだ。

 だが、お金が尽きれば家へと帰る。そして、そこにあるだけの金をぶんどると、また外の世界へと姿を消すのであった。


 いっぽう母親も、これまた正常であるとは言えなかった。

 彼女は夫の収入が減りはじめた頃から、仕事場で知り合った男性と浮気をするようになった。しかし、彼女にはKという娘がいたから、それでもある程度の節度は守っているつもりだった。

 ――あくまでも、これは遊びの関係。ちょっと魔が差しただけ……。誰かに迷惑を掛けているわけじゃないし、とがめられることもないわ。

 母親はその情事の中で寂しさを紛らわせ、ストレスを解消していたと言える。

 しかし、夫が暴力を振るい、収入が無くなってからは、その均衡が崩れてしまった。

 母親はより一層、男遊びをするようになった。また、まだ比較的年齢も若かったため、売春などの行為でお金を稼ぐようにもなった。

 本当なら離婚してしまっても良かったのだ。

 しかし、その娘の存在がとげのように、母親の心で罪悪感を引き起こしていた。

 夫から振るわれた暴力、あるいは仕事のストレスに起因して、娘であるKへの「しつけ」はさらに厳しいものへと変わった。

 ――あの夫のような〈だらけた大人〉にしないためにも、徹底的に〝しごいて〟やらなきゃ……。

 母親はそれまで、いわゆる「教育ママ」と呼ばれるような人間ではなかったが、次第にそうなっていき、躾はどんどんエスカレートしていった。少女が寝坊したりすると、脚で蹴飛ばしたり、テストで百点以外の点数を取ると、物干し竿で叩いたり……ときには頭から、熱湯に近い温度のお湯を掛けることもあった。

 体罰の種類は多岐多様だった。いや、それは明らかに、体罰の範囲を超えていたと言える。ただの虐待であった。

 少女は、誰にも助けを求めることが出来なかった。

 父も母も狂っている。

 ここに居たら、自分はそのうち殺されてしまう。

 少女はほとんど洗脳され掛けていたが、死への恐怖が、彼女の自意識を目覚めさせた。

 逃げなくては……この家から逃げなくては……。


 ☆


 昔はそんなに悪い家庭ではなかった、と思う。

 父親は真面目に働いていたし、そこまで怒ることもなかった。

 母親はそれなりに優しかったし、清楚で、浮気なんかをする女性ではなかった。

 どこで変わってしまったのだろう……。

 運命の歯車というものは、ヒトによって性能が異なっていて、だからこそ性能の悪い歯車は、簡単に壊れてしまうのだということを。

 丈夫な歯車は、簡単に壊れることもなく、安定して動き続けることができる。

 でも、はじめから不備があったり、もろかったり、あるいは必要以上の過度な「圧力」が加えられてしまうと、もう、元に戻ることはないのだということを。

 まだ、自分の歯車は壊れきってなんかいない、と少女は考えた。

 だから壊されてしまう前に、「逃避」する必要がある。


 カバンの中に、自分の所持品を詰めるだけ詰め込んだ。

 そして、学校へ行くフリをして、そのまま帰らないことを決意した。


 カバンを背負い、歩いていると、様々な想いが消えていくようだった。ただ、一定のリズムで歩いているだけ……。でもそれは、着実に進んでいるわけで、自らが歩いた道のりは、背後へと消え去っていくのだ。

 移り変わる風景。

 景色を眺め、空気を吸う。

 鳥の鳴き声と、雲の影。

 一定の間隔ごとに並べられた電信柱。

 錆び付いたベンチ。

 誰も居ない野球場。

 ヒトの居なくなった集落では、水を飲むこともできた。浄水器が水道に備わっているため、汚染することはない。

 行く場所はなかった。周りは山ばかりで、自分の現在位置もよく分からない。

 だが、気温がそこまで低くなかったのは幸いだった。

 彼女は寒いのが嫌いだった。寒さは、孤独な気分を倍加させる気がしたからだ。暖かい中での孤独には、なんとか耐えられる。でも、寒さの中での孤独は、肉体だけでなく、心の奥底へと突き刺さってくる気がしたからだ。

 蝶が飛んでいる。

 彼女は蝶を目で追った。

 ひらひらと、どこを目指せば良いのかわかっていないような、その飛行の仕方に、自然と……自分の姿を重ねる。

 ――美しい飛び方……でも、見ていて頼りなく、不安になってくる……。

 そして、その蝶が蜘蛛の巣に引っかかったとき、彼女は悟った。

 ああ、やっぱりこの世界は、結局はそういうものなのだと。

 たとえどこかに行きたくても、その道中で殺されることなんて、普遍なのだ。きっと、自分は長くは生きられない。蝶は、鳥にはなれないのだと……。

 彼女はその蝶を、巣から救い出してあげた。蜘蛛は巣の端のほうで、彼女の行為を眺めていた。

 彼女はその捕食者である蜘蛛に対して、怒ることはできなかった。蜘蛛という生物が、そのような方法でしか生きられないことを、じゅうぶん理解していたからだ。

 わずかな蜜を吸って生きるか、他の動物を食べて生きるか――。

 あらかじめ遺伝子に書かれたプログラム通りに生きている動物たち、そして人間たち。

 規定された運命を乗り越えるために必要な要素。

 絶対的な苦しみから救い出してくれる存在。

 闇の中へと差し込む一筋の光。

 それが欲しかった。求めていた。


 ☆


 答えはどこにあるのだろう……。

 わからない。どこに行っても、どこまで行っても、自分の周りには『壁』が立ちはだかっている。

 その『壁』を越えて自由になることはできても、その先に待ち受けているのは、死という絶対的な概念だ。だから、檻の中で、宿命付けられた自分の人生を甘んじて耐えるしかない。

 自分は何になりたかったのだろう。

 何を目指していたのだろう。

 かつての自分の希望が、いったい何だったのかすらも覚えていない。記憶はどんどん曖昧になり、空虚に変わる……確実性を失っていく。

 声無き声が空間を満たす。

 充ち満ちていく形のない悲しみたち。

 崩れ去りつつある、いくつもの銅像。

 ひび割れたアスファルト。

 ざらついた空気の味。

 誰もいないシーソー。

 風で揺れるブランコ。

 遠くではスピーカーからメロディが流れている。なんの曲なのかな……と思って、前に調べたことがあった。あれは「オールド・ラング・サイン」というスコットランドの曲で、日本では「蛍の光」という名前で親しまれている。

 この曲を聞くと、なんだか寂しくなる。

 自分はこの世界に、たったひとりぼっちで生きているみたいに思えてくる。自分以外の人間が、自分とは違う生き物みたいに思えてくる。断絶されているような。絶対的な疎外感とともに。

 宛のない散歩。宛のない遊歩。

 動機?

 ただ、逃げたかっただけ……。

 現実から逃げたかっただけなのに……。

 小さい頃に林の中で、数匹の猫を見つけたことがあった。まだ子猫で、とっても可愛くて、私は家へと連れ帰った。

 考えなしだったわたしは、きっとお母さんが喜んでくれると思ったのだ。

 でもそれは違った。ただただ、それは迷惑な行為だったのだ。

 次の日、家から猫はいなくなっていた。

 わたしは子猫たちを探した。でもなかなか見つからなかった。

 お母さんは、勝手にいなくなったのよ、と言っていたけど、わたしはそれが信じられなかった。

 ムキになって、朝から晩までずっと探していたと思う。

 そして、日が暮れる頃、わたしは川の中で死骸になった子猫を見つけたのだ。岩の間に挟まっていて、まるで雑巾のように丸くなっていた。わたしは無我夢中で川の中に入って、岩まで泳ぎ、その子猫を拾い上げた。それは連れ帰った三匹のうちの一匹だった。目が丸くて、黄色い瞳をした黒猫だった。

 わたしは泣いていた。ずっと泣いていた。

 どうして死ななきゃいけなかったのか。

 どうして殺されなくちゃならなかったのか。

 わからない。今でも、わからない。

 あの、魂の抜けた子猫を拾い上げたとき、わたしは自分が壊れていくのを感じた。目の前の事実に対して、どう反応すればいいのかわからなかった。

 怖かった。でも何も出来なかった。

 そこで、ひとしきり泣いて、それからその子猫を埋めてあげたあと、わたしは家に帰った。

 多分その時、わたしは家を出ることを決意したのだと思う。

 無意識だったかもしれない。でも、その出来事が、今もわたしの記憶の奥で、悪夢のようにこびりついている。

 死はわたしの隣にいる。

 みんな、自分自身がいつまでも生きていられると、心のどこかで期待しているけれど、そんなことはもちろんあり得なくて、それどころか明日、いや今日のうちに死んでしまうのかもしれないのだ、と。

 わたしは怖い。

 自分が誰かによって、自分の思いもしないタイミングで殺されてしまうのが……。

 それならば、わたしは自分で、この自分自身の手で、自分を完全に消去してしまうほうがいい。それなら怖くない。怖くない。

 でも、それをさせてくれる意志は、心の奥のほうで、判断を保留している。

 だから、わたしは家から出て、自分を促すことにしたのだ。

 誰にも迷惑を掛けたくないし、掛けるつもりもない。

 ただ、最後のひと押しのような契機を、わたしは求めている。

 それさえあれば、他に何もいらない。わたしは幸せに、決意を成し遂げることができる。

 どんなふうに生きたって、どんな功績を残したって、最後に待ち受けているのは完全な虚無だ。

 それなら、それならば、せめて最後くらい、幸せな気持ちを味わってみたい。

 ねえ……、

 その気持ちは、罪になると思う……?







 63


 真ん中に「点」があり、両脇に「線」がある。



       ―――――――



          ・



       ―――――――






 ★


             核が。



 abstract



       誰も来なかった……


     grito



             《不用意な活力は目覚めを止揚する》


モザンビーク第百十八節?


        LINDBERG


 

          エーテルフォールを忘〓るな







 (酩酊)







「君たちは壊れていくよ。どうしてかな?」

 その教師は生徒たちをにらみつけながら、彼らの目の前で、豚を、斧で解体しつつ言った。豚は涙を流している。

 ある生徒が答えた。「僕たちは豚のように、誰かに食べられることがないからです」

「どうして、自分は食べられることがないって確信できるんだい?」

「それは……それは、人間より上位の存在が存在しないからです。人間は、誰かのお腹を満たしません」

「でも、逆説的に言えば」教師は豚の中身をさらにえぐり出していく。「もしも人間を食べるような存在が居たとしたら、それはきっと、人間の上位の存在に当たるんだろうね」

 教師はそれから、その豚の内臓を引っ張り出して、片っ端から呑み込んでいった。

 するとその教師は、豚へと姿を変化させた。

 それと同時に、豚の死体は、先ほど質問をおこなった生徒の死体へと姿を変えていった。

 質問したはずの生徒は、いつの間にか、殺されていたのである。

 取り残された豚は言った。

「すべて、資本主義のせいだよ」







 64


 物語は再び、元の視点へと回帰する。







 65


「私はあの時……幻灯を見ていたわ」楓は言った。「一度だけ、『塔』が開いていたことがあった……。それは夢だったかもしれない。でも、私は中に入り、階段を上ることを許されたの。それで、しばらくのぼったあと、窓から光が差し込んできた」

「陽の光、ではなかったんだね?」

「緑色の光……それは遠くの方でまたたいていたわ。一定の時間ごとに明滅を繰り返していて……それはひとつだけだった」

「それで?」

「私は窓を開けたのだけれど、そうすると、その光は消えてしまったわ」

「つまり、閉まっているときにだけ、見られた光景なんだね」

「そう」彼女は頷いた。「窓の向こう側だから、それは存在できた」







 66


 小さい頃、「ガラスの星」という絵本を読んだことがある。

 具体的なディテールについては覚えていないが、確かその星ではすべての物質がガラスで出来ていて、空に向けて、昼夜を問わず柔らかな輝きを放っていた。

 すべての物質が、である。

 生き物から建造物、林や野原に至るまで、色とりどりの光を放ち、まるで虹色の絵の具で彩色がなされたかの様な見栄えであった。

 人間に似た生命体も暮らしていて、野原に街を作り、交易をし、文明を形成することで、一種の秩序だった社会をも生み出していた。

 何もかもがガラスで出来ていたから、例えば、少しぶつかっただけで傷がついてしまうし、最悪の場合は壊れてしまう。

 壊れる……

 つまりは死だ。

 簡単に、いとも容易く壊れてしまうのである。それは美しさと引き換えに与えられた、脆弱さだったのかもしれない。

 その物語は淡々と進行していく。柔らかな画風をしていたし、僕はてっきり、それがハッピーエンドで終わるのだと思っていた。

 しかし、そうではなかった。

 最後、その星は、空から降ってきた流星によって、粉々に砕け散ってしまうのである。

 それまで積み上げてきた歴史を、物語を、まるでそれがちっぽけで虚しくて価値のないくだらないモノだ、と言わんばかりの展開であった。

 子供向けの絵本にしては無茶苦茶だったし、大人向けのものにしては稚拙過ぎた。途中までは本当に、優しく儚い世界が広がっていたのに、最後の最後、何もかもが壊れて消えてしまうのだ。

 でも僕は、当時、その絵本がつまらないとは思わなかった。周りのヒトは、駄作だとか凡作だとか、いろいろな理由をつけてけなしていたけど……僕はその作品が、だからこそ素晴らしいと感じたのだ。

 なぜだろう?

 人と異なる考えを持ってしまう、ということは、何を意味しているのか?

 僕は昔から、深い部分で、他人というモノが分からなかったし、これからも分からないのだと思う。それを理解しようとする試みも、あまり意味をなさない事は、経験上知っている。

 ガラスの星の住民たちは、他人を傷つけないために、自らの言葉を、歴史の途中で放棄する。そう、他者を傷つけるのは言葉だと、彼らは知っていたのだ。

 言葉は人を殺す。

 ガラスの星は、流星によって壊されてしまったけれど、それは、お互いが戦争して滅ぼし合うなんて未来よりは、遥かに救いのあることだったのかもしれない、と僕は思うのだ。







 67


『この囲われて閉塞的で行き場のない苦しみから絶対に逃げ出してやるんだ。誰かにどう思われようとその先に地獄しか待ち受けていようと構わない。自分が自分であり続けることが不可能でも、その意思が消えない限り誰も自分を阻むことなどできない。向こうのほうで何かの光が点滅している。自分はそちらへと駆け出す。理由なんて分からない。根拠なんてない。過去の軌跡は誰にも視認されやしない。虚無が躰を覆い尽くしていく。だけど自分にはそれしかできないのだ』







 68


 気が付くと、僕は白い部屋の中にいた。

 白い部屋。

 目の前に一つだけ緑色の扉があって、それ以外に出入り口はない。

 部屋の中は立方体のようになっており、その一面にその扉が取り付いているのだ。

 ここは『ルーム』の中なのだろうか、と一瞬思ったけれども、すぐに違うことに気がついた。部屋の中に、自分以外の物体が無かったのである。僕は『ルーム』を貯蔵庫として使っているから、部屋に何もないというのはおかしいのだ。内部にいるのは自分だけ。

 ここはどこなのだろう。

 どうしてここに居るのか、さっぱり見当がつかない。僕は扉へと近づき、ノブを回そうと試みた。

 しかし、まったく動かない。完全に固定されてしまっている。空間自体が凝固しているのか。

 しばらく待っても変化がない。僕は扉と反対側の壁を背もたれにして、座り込んだ。やれやれ、面倒なことになってしまったぞ。

 洋服自体はいつもと変わらない。普段僕が着ているような長袖長ズボン、そしてマリンキャップ。身体には傷一つ付いていない。体調もすこぶるよい。

 試しに能力を使ってみようかと思ったけれど、なぜか、使用することが出来なかった。

 僕は目をつぶって、更に待つことにした。

 もしも何らかの理由で捕らえられているとしたら、その内誰かが来るはずだと思ったからだ。

 そして体感で一時間が経過した頃、不思議な音が聞こえてきた。

 それはうなりのような……なんというか、こすれるような音だった。壁に何かがぶつかっている……? よく分からない大きな物が触れているようであった。しかしその音は安定していて、非生物的である。

 この部屋の外で何かが起こっている。

 何か、僕の予想できないことが起こっているに違いない。しかし、外部へ行く手段が見つからない現在、それを想像しても仕方がないのかもしれない。

 ポケットに手を突っ込み、何か無いかを探った。

 以前読んだ小説で、主人公が今の僕みたいに部屋へと閉じ込められてしまったとき、ポケットにあるコインに触れて、取り出さずに、触覚だけで計算していたシーンを思い出したのだ。

 しかし案の定、ポケットには何も入っていなかった。空虚な感覚だけが、手のひらに残る。

 更に時間が経過する。僕は座っていることにも忍耐が切れ、試しに扉へと体当たりをかましてみようか、と思っていた頃合いであった。

 突然、扉が開いたのだ。そしてその扉から、大量の水が流れ込んできた。まるでこの部屋が、すでに水没してしまっていたかのように……。あっという間に、ひざ辺りまで水で埋まってしまった。

 流れに逆らって扉の方へと泳いでいるけど、勢いが強すぎる。

 僕程度の力では、抵抗のしようが無かった。

 水流に動かされるまま、流されるまま、僕は部屋の中をぐるぐると回る。

 壁に、足や頭がぶつかる。僕は丸まり、なるべく身体が傷付かない姿勢になった。

 息はどのくらい持つだろうか。段々と苦しくなってくる。

 もう部屋は水でいっぱいだ。でも、自由に身体を動かせない。別に泳ぎがまったく出来ない訳ではないけれど、得意なわけでもないのだ。

 そこで、僕は不思議なことに気がついた。

 この水はしょっぱい。まるで食塩水のように塩辛いのだ。プールとか湖などではない……これは海だ。だとすると、先ほどの無機質な音は、波の当たる音だったのかも……。

 海。

 僕は海で泳いだことはない。浄化作業がおこなわれている場所を除いて、基本的に汚染されているからだ(浄化作業が完了している海域は、閉鎖された状態で利用されている)。

 もしかすると、これは汚染された塩水なのだろうか……。分からない。どんどん意識が薄れていっている気がする。苦しさも麻痺してきたようだ。

 せめて、ここがどこで、どうしてここにいるのかを知りたかったけど、それを尋ねるべき相手がいない。

 最後に見たのは、緑色の点滅する光だった。







 69


 ザザー……ザザー……。

 それがはじめに、僕の耳に響いてきた音だった。

 身体には、柔らかくてさらさらしていて、暖かいものを感じた。

 そっと目を開ける。

 僕は横たわっているようで、周りには砂があった。

 どうやら自分は砂浜に打ち上げられたらしい。視界の端には波が見える。今は引き潮なのだろうか、少し距離がある。

 僕は自分の身体をゆっくりと起こした。特に痛みはないし、気分も悪くない。どちらかというと、ぐっすりと眠ったあとのような感じだ。

 手を使って、身体についた砂を払う。

 砂は白く、そして透明に見えた。きらきらと虹色に光っているようにも見える。スペクトル拡散というやつか。ガラスのように透明なのだろう。

 空は藍色で、無数の星空が浮かんでいた。

 夜というほど暗くはない。太陽が沈んだばかりの、マジックアワーとも言えるような色であった。

 空には星しかなく、月はない。そしてその星々は、自分の知っているモノとは、位置が異なっていた。位置というか、そこに自分の知っている星座を見出すことが出来なかった。水平線を眺めてみても、他に陸地は見えない。

 僕の知らない星空。

 そして広大で汚染のない、美しく幻想的な海。それはつまり、僕の知らない世界ということなのだろうか。

 僕の目覚めた場所は、島のようになっていた。

 ものすごく小さな孤島である。

 島の真ん中に家があって、それ以外は何もない。

 確かに数本の木や、小さな舟のようなものはあるが――それは単なる庭程度の大きさの敷地だった。まあ、庭といってもそれなりに広い。家を円の中心と考え、海岸を端だとすると、半径は百メートルかそこらであると思われた。

 草は生えているが、そこまで背は高くない。芝生のように刈り込まれているのだろうか。

 慎重に歩を進めていく。辺りを警戒しながら……。

 とても美しい場所で、それは完璧なほどに綺麗だった。

 だけどその完璧さが、逆に怖かった。

 ここはたぶん、地球ではない。地球上にこんな場所があるとは信じがたい。

 では、これは夢か。

 しかし夢にしては現実感がありすぎる。何らかの要因を経て、この場所へと飛ばされたのだろう。

 僕は家の前まで来た。白い家であり、木造のようだ。窓がいくつか取り付いているが、灯りはついていない。中に誰もいないのだろうか?

 ドアをノックする。

 少し待つ。

 返事はなかった。内部から物音も聞こえない。気配を消しているようにも思われなかった。

 不在ということだろうか。しかし、こんな小さな島で不在とは……。

 この家の反対側にいるのだろうか。そちら側はまだ探索をしていない。

 僕は建物沿いにぐるっと回り、向こう側の海まで歩いていくことにした。

 潮風がする。

 本来の海の香りがどんなものなのか、僕には確認する手立てがないけれども、それは心地よく感じられた。

 自分の髪がなびいている。ゴムで髪を留めたかったけど、あいにく『ルーム』を発動できないのでどうしようもない。

 いつも能力が使える前提で行動しているから、こんなとき困ってしまうのだ。

 確かに、能力が封じられたときのため、常に小型の拳銃くらいは持ち歩いておいたほうが良いかもしれない、とかぼんやり思ってしまった。

 こちら側の海岸で、不思議なものを見つけてしまった。

 砂浜にいくつか棒が立ててあって、そこから糸が伸びていたのだ。

 糸は海の方へと垂れている。糸の先は完全に水中へと入り込んでしまっている。波によって糸は揺れ動くが、だいぶ遠くまで伸ばされているようであった。

 まるで放置された釣り竿たちに見えたが、構造はもっと原始的だった。木の棒に、糸をくくりつけただけ。リール、みたいなものもない、シンプルな構造。

 ここにこんなものが並べられているということは、やっぱり誰かが住んでいるに違いない。

 そう思って、もう一度あたりを見回すと……。

 視界の端、砂浜の隅の方に、一体の大きな甲冑が立っていた。

 甲冑?

 僕はよく目を凝らし、そちらを眺めた。

 人のような形をしているが、人ではなかった。

 斜め後ろのほうから、その甲冑のようなものを僕は見ているのだが、それは、目の部分が光っていて……なんというか、機械っぽい印象を受けた。

 人の形をしているが、人ではない。どちらかというと、ロボットみたいである。

 人型ひとがたロボット、というやつだ。

 僕は更に警戒しながら、そちらの方へと歩いていった。武器を持っていないため、砂浜に落ちていた木の枝を拾って、構えつつ――。

 いや、構えたまま近付くと、逆に警戒させてしまう恐れがあるな。僕は背中に枝を隠した。

 おそるおそる近寄り、声を掛けた。

「あの……」

 その人型ロボットは、そこで初めて僕の存在に気付いたらしく、こちらを振り向いた。「ん? きみは」

「あなた、何者? ここはどこ?」

「ここ? ここは……」青年のような声であった。彼は考え込むような仕草をしたあと、手をポンと叩いた。「ああそうか、そういうことか。なるほどなるほど、時々あるんだよね。こういうことが」

「いったい何を話しているの?」

「いや、混乱させてゴメン。時々あるんだよ。こうして迷い込んでしまう訪問客が……。ぼくもこの数年くらい、タボロー以外と話していなかったからさ、うまくコミュニケーションが取れなくて……」

「迷い込む?」

「そう」彼はうなずいた。「たぶんきみは、別の世界から来たんだろうね。何らかの巡り合わせというか、運というか、天文学的な確率で、この世界へと入り込んでしまう存在が一定数現れちゃうんだよ。いくら隔絶されていても、世界というものは、針穴程度の繋がりなくして、成立し得ないものだと言えるからね。あ、ゴメン。余計ややこしくしちゃったかな」

「よく分からないけど、やはりここは地球じゃないのかい?」

「チキュウ? それは君の住んでる星の名前?」

「そうだよ。ということは、えっと……ここは地球じゃなくて……。うーん、どこから尋ねたらいいのやら……」

「取り敢えず、家の中にでも入るかい? きみはどうやら有機生命体に見えるし、飲料のたぐいなら提供することができるよ。たとえば、えっと、コーヒーとか」







 70


「どうだい、コーヒーの味は?」

「うーん、そう訊かれても……」僕は答えに窮した。「まあまあ、かな。長年熟成されているような感じというか……」

「そりゃそうだよ。倉庫にしまっていたわけだけど、もう、少なくとも二百年以上は保管していたわけだし……。あ、大丈夫だよ! カビとかそういうのはきちんと確認しているから、衛生的な問題は皆無だと考えてくれていいよ」

「確認、ね……。まあ、別に気にしてないよ。それより、色々訊きたいことがあるんだけど……まず、ここはどこなの?」

「ここは……どう説明すればいいかな? ぼくも毎回、難儀しているんだけど……。例えるなら、終わりきってしまった世界、というものかな。終末世界。これ以上終わることのない、行き着いてしまった現実」

随分ずいぶんと抽象的に思えるけど」

「まあね。でも、いちばんわかりやすい説明がこんな感じかな。シンプルだけど、いちばん核心をついている。世界にはいろいろな終わりがあるけれど、これもその、一つの終わりなんだよ。物語の行き着く果て、というか……。収束してしまった可能性の終点……」

「さっき、タボローがどうとか言ってたけど、それは?」

「この世界に住む、もう一体のロボットのことさ。遥か昔から、この世界で一緒に暮らしている。唯一のパートナーというやつさ」

「ふーん。今はどこにいるの?」

「小舟で海に出て、糸を沈めたりとか、観測しているんだよ。彼は軽いから、ぼくよりも舟に乗るのに適していてね。たぶん、もうそろそろ帰ってくるんじゃないかな? ああそうだ。ぼくの名前はノクターン。きみは?」

「僕は、滝鐘瑠理……。ルリでいいよ、呼ぶときは」

「苗字と名前の両方があるんだね。なるほど、そんな世界もあるって、本で読んだことがあるよ」

「本?」

「そう、本さ。二階にたくさんあるんだよ。図書館になっているんだ。だいたいが浜辺に流れ着いたもので、読めないことも多いんだけど、時々は読めるものもあってさ。綺麗なものは、乾かして並べているってわけ。昔はあんまり量がなかったんだけど、最近はいっぱいでね。入り切らないものは、倉庫へと片付けているんだ」

「本はどのくらい読んでいるの?」

「わからない。たくさん読んでいるような気がするし、あまり読んでいないような気もする。読んだものも、悠久における月日の中では、忘れてしまっていたりもするんだ。でも、やっぱり読み返すと、懐かしかったりするし……うん、難しい質問だね」

「その本を見に行ってもいい?」

「うん、いいよ。そこの階段を上がってすぐのところさ。自由に見てくると良いよ」

 僕は頷いたあと、二階へと向かった。

 部屋は掃除されていて、階段も磨かれていた。足で踏みしめるたびに、ワックスの滑らかさが伝わってくるようだった。

 二階には確かに、たくさんの本があった。

 棚も用意されていて、背表紙の色ごとに分類されていた。

 大きいものから小さいものまでたくさんあって、様々な言語で書かれているようだった。僕の知っている文字もあれば、全く知らない文字もあった。地球に存在しない言語も含まれているのかもしれない。

 僕は自分の知っている言語で書かれた本をひとつ手に取った。

 植物学に関する本であり、地球に生えている様々な植物の詳細や、その分布図が載っていた。でも、その分布図を見て、気になった事があった。

 そこに写っている地球は、僕の星のものと形がやや異なっていたのだ。大陸の形が全然違う……。

 もしかすると、これは並行世界パラレルワールドの地球なのかもしれないな。世界が幾つもあるのなら、こんな世界があっても不思議じゃないわけだし……。

 読んでいるうちに、頭が痛くなってきた。

 僕はその本を閉じて、別のものを読むことにした。

 次に手に取ったのは絵本だった。文字はちんぷんかんぷんだったが、雰囲気からして、子供向けの絵本のようであった。

 表紙には、ローブを着た男の子が、ほうきを持って立っていた。魔法使い……なのだろうか。しかし、その男の子は、決定的に不自然だった。それは……人間ではなく、クマだったのだ。

 クマ。二本足で立っているけれど、それはクマの少年だったのだ。

 僕はページをめくっていく。それはどうやら、魔法学校を舞台にした物語のようであった。

 クマの少年が、オオカミの親友と、キリンのガールフレンドとともに、学校で起こった不可解な事件の謎を解いていく……みたいな感じの内容だと思われた。

 いや、絵本なのだから、普通の人間が登場しなくたっておかしくはない。そう思って読み進めていたが、最後のページ――そこには著者の顔写真が載っているのだが――で、抱いていた疑念が、明確な形となって姿を現した。

 その著者が、ウサギだったのである。これは絵でなく、写真だった。

 何てことだ!

 僕は少し笑いそうになってしまった。

 まるでピーターラビットの世界が現実で、現実が虚構になってしまったかのようだった。

 でも……考えてみれば当然のことだ。

 世界を支配できるのが人間だけ、というのは単なる思い込みに過ぎない。

 タコが世界を支配している世界だって、ロボットが世界を支配している世界だって、はたまたオオサンショウウオが支配している世界だって、この無数の並行世界の中では、あり得て当然なのだ。

 僕はなんだか、可笑しさを通り越して、悲しくなってしまった。

 今見ている光景が、夢であるかどうかなんて、瑣末さまつな問題だった。

 僕は今、僕の住む世界がちっぽけだということを、実感として感じていた。漠然とした無力さ。

 その、無気力に似た感覚を携えながら、僕は階段を降りていった。







 71


 階段を降りると、そこには既に、もう一体のロボットが帰ってきていた。きっと本を読むのに夢中で、ドアの動く音に気付かなかったのだろう……。

 そのもう一つのロボットは黄色をしていて、なんだかタヌキのような見た目であった。ノクターンとは違い、動物型のロボットに見えた。僕の身長の、半分以下の大きさであった。

「こんにちは、わたくしめはこの島に住む、タボローと申す者です。ノクターンさんのほうから、話をうかがっておりました」

「君が……タボロー?」

「ええ、いかにも。ふむ、もしかすると、わたくしの見た目に驚いておられるのでしょうか? まあ、仕方のないことです。わたくしめの役割は、ノクターンさんとは異なりますゆえ、軽量で、動作を簡単におこなえる形状になる必要があったのでございまする」

「は、はあ」

「貴女は、人間という存在なのですね?」

「まあ定義上はそうなるだろうね。存在という言い回しは哲学的で面白いけど、とにかくそういう生き物であることは確かかな……いや、でも……」そこで僕は、自分が能力者であることを思い出した。「でも、厳密には……」

「?」

「ああ、いや、なんでもない」僕はかぶりを振った。そんなこと、今の状況ではどうでもいい事柄である。

「それで、どうだった? 面白い本は見つかったかい」ノクターンが尋ねてきた。

「うん。まあまあかな」適当に頷く。「あれらの本は、本当に流れ着いたモノなの? もっと他に……本以外のモノが流れ着いたりとかは……?」

「いや、基本的にはないかな。時々海藻とか、死んだ魚とかが打ち上げられているけど、めぼしいものは特に……」

「魚がいるの?」

「いるよ、数は多くないけどね。ぼくたちは食べないから捕まえないよ。ときどき容器に入れて観察するだけ……前は水槽とかを作っていたっけなぁ……。あ、そうだね、食べたければ取ってこようか?」

「いや、いいよ。あんまり食欲無いし……」僕は断った。「君たちはロボット、で良いんだよね?」

「そうだよ」

「燃料、とかはどうしているの? 動力源になるような……電気とかの供給は」

「星のしずくで動いているのであります」とタボローが言った。

「星の雫って?」

「空からときどき振ってくるのです。わたくしめらはそれを海から回収し、その一部を、自らの動力源にしているのでありまする」

「海岸に棒が突き刺さってたでしょ? あの、海に糸が伸びている」ノクターンは言った。「あれを使って、星の雫を引き寄せるんだ」

 うーむ。おとぎ話の中に入り込んでいるようだ。「その星の雫って、どんな形を?」

「見たい?」

「ええ」

「じゃ、少し取ってこようか。タボロー、君はついてくるかい?」

「いえ、わたくしめはここで少し、休んでおりまするので。それに、対話能力では、ノクターンさんのほうが、わたくしよりも上なので」

「わかった。それじゃあ、よろしくね」それからノクターンは、こちらを振り返った。「じゃ、行こっか」







 72


 僕達は海岸へと歩いていった。

「ねえ、あのタボローとはどういう関係なの?」僕はふと気になって訊いてみた。

「どうしてそんな質問を?」

「なんというか、彼の、君に対する態度は、君が彼に接するときの態度より丁寧だったから。つまり、どうしてタボローは敬語を使っているのか、ということなんだけど」

「さあ、あまり考えたことは無かったし、よく分からないや。でも、彼とぼくは友達だし、どちらかが上で、どちらかが下だ、なんてことは無いよ。多分、そういう風に作られていて、その通りに動いているほうが、楽なのかもしれないね」

「ふーん」

 じゃあいったい誰が作ったの? と尋ねたくなったが、なんとなく、ノクターンは応えてくれないような気がした。確信として、なぜかその事を分かっていた。

 僕達は砂浜の、棒を立てているところまでたどり着いた。

「さて」とノクターンが言った。「それじゃあ一本、引っ張ってみようか」

「ひっぱる?」

「そう。釣り……だっけ? みたいな感じでゆっくり引っ張っていけば、ちゃんと取れるからさ、星の雫は。ああ、でも勢いよく引っ張っちゃ駄目だよ。糸についた雫が、がれちゃうからね」

 僕は彼に言われるまま、その棒を持ち、徐々に引っ張っていった。

 そういえば、本当に昔、兄さんと一緒に川へと釣りに行ったことがあったっけな……。もしかしたら釣り堀だったかもしれないけど、兄さんが僕の後ろに立って、落っこちないように支えてくれたのを覚えている。

 あれはいつのことだっけ……よく、分からない。こうして記憶というものは、どんどん薄れていってしまうんだろうな、とか思いつつ……。

 そして糸を引くのにも疲れてきた頃、水面でなにかがキラリと輝くのが見えた。

「お、そろそろかな」とノクターンがつぶやく。

 僕はより慎重に、焦らないように気をつけながら、その水面を見続けていた。

 すると、虹色に光る球形の物体が、糸に貼り付いたまま、スルスルと姿を現すのがはっきりと視認できた。「あれが、そうなの?」

「うん、まあね」

 僕は更に糸を引き、近くの砂浜までその物体を動かした。

 星の雫はそれだけでなく、連なるようにしてたくさんくっついていた。大きさはだいたい、親指くらいの大きさであった。

「触れられるの?」

「触れられるよ。特に害はないよ」

 彼が何を根拠にそう言っているのかは定かではなかったが、その言葉を信じて、星の雫の一つに触れてみた。

 まるでグミのように柔らかかった。弾力性のある塊ではあるものの、力を入れるとちぎれそうであった。

 指で押して圧力を加えるたびに、異なる輝きを放っているように見えた。

 どうやら外部の刺激に反応して、光の色を変えるらしい。

「ぼくたちはそれを燃料にして動いているんだ」とノクターンは言った。「それ一つで、一週間は動けるんだ。しかも、この資源は尽きることも無さそうだし、だからこそ、永久的にここに住んでいられるというわけ」

「この島以外に、陸地はないの?」ふと気になって尋ねてみた。

「さあ、わからない。たぶん無いんじゃないかな。少なくともぼくとタボローは、他の陸地を見つけたことはない。小舟で遠くまで進んだことがあるけど、結局はここに戻ってきちゃうのさ。まるで重力に引かれるかのようにね」

「だから終末世界というわけ?」

「うん。この世界は、この島と、無限の海を除いて何もない。あるのは静寂と星空と海。変化することもなく、ね」

「舟はどこに?」

「向こうの林の奥。タボローが帰ってきたから、いまは二隻泊めてあると思うよ。見なかったかい?」

「…………ねえ、君はこの世界を離れたいって思ったことはある?」

「どうして?」

「いや、その、なんとなく……。退屈だ、と思ったことは……?」

「さあ。退屈、という感情が、イマイチぼくにはわからないな。キミは何を持って、退屈という感情を感じるんだい?」

「うん……。いや、なんでもないよ。聞かなかったことにして」僕はうつむき、しばらく黙っていた。「ここから……元の世界に帰る方法ってある?」

「帰りたいのかい?」

「いや、わからない。帰りたいような気もするし、帰りたくないような気もする。一応訊いただけ」

「君は帰れるよ」とノクターンは言った。「外部から来た人間は、帰ることが出来るようになっているんだ」

「そうなんだ……その、前に、ここに来た人たちも、そこから?」

「うん、そうだよ。だいたいの人は、すぐにそのことを訊いて、スタコラサッサと帰っちゃったね。時々、しばらくの間ここで過ごしてから帰る人とか、ずっとここに住み着いちゃう人とかもいるんだけど」

「ここにずっと住んでいた人もいたの?」

「死ぬまでずっとここに住んでいた男の人もいたね。最後、彼が亡くなったあと、希望通りに墓を作らず、燃やして、骨を海に撒いたんだけどね」

「どんな人だったの?」

「うーん。静かな人だったかな……。言葉にすると難しいけど、キミみたいに、独特の雰囲気を持っている人だったね。確か戦争の最中に、この世界へと迷い込んできたみたい。彼は日記みたいなものを書いていたっけ。ぼくはその文字を教えて貰ったから、読めると思うけど、キミには難しいかもしれないね」

「そういえば、どうして君と僕は会話が出来ているんだろう……? だって、様々な言語があるなら、言葉が通じないのが当たり前のはずなのに」

「ああ、それはね。正確には、ぼくは一言も、言葉を喋ってなんかいないんだよ。タボローもね」

「えっ、どういう事?」僕は驚いて訊いた。「だってこうして、今も会話をしているじゃないか」

「うん。確かにキミは口を開いて、何らかの言葉を音で伝えている。そしてぼくの言葉を聞いている。でも、ぼくにはスピーカーもないし、集音器マイクも備わっていないんだ。ぼくは相手の強力な思念を受信し、また、自分の考えを思念で送信している。その思念を、相手が言葉だと錯覚しているんだよ。そうだね……試しに耳をふさいでごらん。それでもぼくの声が聞こえると思うよ」

 僕はノクターンの言うとおりに、両手で耳を塞いだまま、彼に呼び掛けてみた。「や、やっほー」

「ヤッホー」彼の声は明瞭に聞こえてきた。

 僕は手を耳から離した。「それは……君の能力なの?」

「能力ってどういう事かな?」

「ほら、魔法とか……」

「さあ、わからないし、そんなことはどうだって良いと思うよ。とにかくこんな原理で、キミと意思疎通をしているんだ」







 73


 僕は、珍しいほうの訪問客に分類されるのであろうけど、しばらくその島に住むことにした。

 島での暮らしは平穏そのものだった。

 毎日毎日、のどかな時間が過ぎていく……。

 いや、毎日なんていう区切りがなかった。永遠に日は昇らないし、永遠に月も昇らない。明るいのだか暗いのだかよく分からないような、藍色の空が広がっていて、その中で無数の星々が浮かんでいる。星々は動くこともなく、同じ位置で静止している。

 ひとつ、気付いたことがあった。ときどき空から流れ星が降ってきて、水平線へと落下していくのである。

 長い尾を引きながら、刹那に近い時間のうちに、それは生じる。本当にときどきだから、ずっと空を眺めていないと、基本的に見逃してしまう。それほど稀だということだ。

 星の雫という名称の由来は、きっとここにあるのだろう、とボンヤリと思った。

 僕はふと思い立って、タボローの漕ぐ舟へと乗せてもらった。

 僕はロボットじゃないので、重量も重くないし、身体も比較的小さいので、それが可能だったのである。

 海の真ん中。

 糸を垂らしているタボローの背中を見ながら、僕は訊いた。「君はどうして、ノクターンや僕に敬語を使うの?」

 もしかしたら別の答えを示してくれるかもしれない、と期待したのだ。

「さあ、どうしてでしょうか。自らのインターフェースが、そのように設計されているのだと思います」

「誰がそう設計したの?」

「わたくしめには分かりません。それに、気付いたときにはここに居ましたから」

「ふーん」

 まあ、そんなところだろうとは予想していた。

 すると、彼は糸を垂らしつつ、海面を見つめながら尋ねてきた。「ルリさんはどうして、元の世界に戻らないのですか?」

「僕が?」

「ええ。例えば前にここで余生を過ごした方は、元の世界での戦争や、はたまた災害・病気が理由で留まっておりました。つまり、それが一番適した選択だったということであります。しかし、貴女の場合には、少し事情が異なるように見えまして……」

「そうだね……確かにそうかもしれない……」

「詮索が過ぎたのなら、お謝りします。ただ、わたくしめも疑問に思い……」

「いや、謝らなくて良いよ。たぶん、大した理由ではないと思うから……。その、何と言えばいいのかな。元の世界で追い詰められている訳ではないんだけど、漠然とした閉塞感があってさ、あそこで暮らしていても、辛いことばっかりで、良くなっていく兆しが見えないんだよね」

「何かあったのでございまするか?」

「うん、まあ、いろいろね……」僕は過去を振り返りながら言った。「あっちは……、よく分からないことだらけなんだよ。偶発的に、嫌なことがどんどんやって来てさ、みんな自分のことで精一杯だから、だから、自分のことは自分で面倒を見るしかない。でも、不公平で、耐えがたいことが多いと、自分で自分を支えられなくなっちゃうんだよ」

「……どういう事でありますか?」

「たとえるなら……そうだね、あっちの人間は、生きている限りみんな荷物を背負っているんだよ。でも、生まれつきその荷物が軽い人も居れば、重い人も居る。それに、その荷物を運ぶための力が充分ある人もいれば、一人で歩けない非力な人も居る。才能とか運とか境遇とか……」

「…………」タボローは黙って、僕の話を聞いてくれていた。

「だからさ、そうすると、絶対に取り残されちゃう人が出て来るんだよ。また、取り残されなかったとしても、苦しみを半永久的に味わわないといけない人とかね……。その労苦から逃れるための、絶対的な手段はみんな知っている。でも、それをおこなうための勇気を獲得するのにも、大きな労力が必要になる……。猶予、を欲しがってるんだよ……。少しでも、判断を先送りに出来る、ね」

「つまり、ルリさんがここに居るのも、そういう事なのでありまするね」

「そう、そういうこと」僕は頷いた。「ここは良いところだね。何よりも、静かで……それに、海しかないってのが素敵だ。きっと僕の世界には、余計なものが多過ぎる。余計なものが多過ぎて、本当に大切なものを見つけにくくなっているんだよ」

「複雑な生き物なのですね。わたくしめには到底理解できないような、難しいことを考えておられるようです」

「ゼロかイチかで割り切れたのなら、どんなに良かっただろうか……。僕はさ、ただ、単純に弱い人間なんだよ。心の一番深いところは脆弱で、それが壊れないように、何とか理屈とか知識で武装して、自我を保っているんだ。承認欲求だとか、他者のぬくもりとか、そういった願望を抑え込んで……。この『僕』って口調だってそうさ。兄さんの真似をすることで、人格を無理やりこしらえているんだよ。でも、ときどきダメになっちゃいそうになる。自分の行き先が真っ暗で、何の展望も開かれないんじゃないかって……。怖いんだ……。僕は過去の中でしか、安らぎを見出すことができない。いつも、楽しかったときのことを振り返っては、今の自分と対比して憂鬱になる。あの、甘美な日々は現実だったのだろうか……信じようにも、それは記憶の中の出来事で、まるで虚構のように……幻想みたいなものなんだ」

「…………」

「夜、いつもうまく寝付けないんだ。ベッドに入った自分はひとりぼっちで、だから寂しくて、ぬいぐるみを抱き締めたりとかさ。それでも震えが止まらないときは、兄さんの使っていた枕を引っ張り出して……でも、それがかえって辛くなったりもして……。目を閉じて、失ってきたものの像を思い浮かべると……その輪郭りんかくはぼやけていて、でも、時々見える気がして……。ああ、何を話してるんだろう。馬鹿みたいだ……」

「……辛い思いをしてきたのでありますね。だいじょうぶですよ、わたくしめに幾らでも話すと良いです。わたくしめは口が硬いので……」

「ごめん、ちょっといっぱいいっぱいになってたみたいだ」僕はいつの間にか俯いていた。「ありがとう、少し楽になったよ……ごめん」

「謝る必要はありませんよ……。どうします、そろそろ帰りましょうか?」

「もしも迷惑でなければ、もう少し、ここにいさせてくれるかな……」

 僕はそう言って、舟の横板へともたれ掛かった。

 柔らかな波の音だけが、遠くのほうで響いていた。







 74


 ここにずっと住んでいたい、という気持ちもあるけれど、そういう訳にもいかない。

 元の世界での唯一の心残り、それは彼女が亡くなった原因を突き止めることだ。

 でも、確かに原因を突き止めたところで、彼女が帰ってくるわけではない。兄さんと同じく、彼女はもう彼岸ひがんにいる。

 彼岸。あの世。死んだ後の世界。冥界。

 どれもうまく信じることができない。別に無神論者ではない、どちらかというと不可知論者だ。

 ――誰かに生まれ変わりたい?

 分からない。

 でも、誰かが……大切な人が死ぬ代わりに、自分が死ぬことを許されるのならば、そうしたいと思う。

 命の価値なんて不平等だ。世界には僕よりも優しくて、価値のある人間なんか大勢いる。

 どうせいつかは死んでしまうのに、生きることに拘る理由なんてあるのだろうか?

 大切なものを失ってまで、生きる必要なんてあるのか?

 いつかはすべてが消えてしまう。人間だって動物だって地球だって、それにこの宇宙だって。

 なのに普通の人はそれを敢えて考えないようにしていて、地位と名誉とか賞とか、そんなガラクタに似たくだらないものに拘っていてさ……。

 別に自分を特別視しているわけではない。きっと、ずっと長く生きていたら、そんな純粋な感情を持てないようになってしまうのだろう、という予感だってある。

 いや、たぶんそんなことは、みんなとっくに理解しているのかもしれない。だからこそ、せめて生きている間は楽しく快い感情を味わおうとしているのだ。

 よく、自分の身体が砂のように崩れ落ちていく夢を見る。

 誰も居ないどこかの砂漠で、途方もない道のりを歩いているうちに、身体中がどんどん崩れ落ちていくのだ。

 指先から足の先から段々と砂に変わっていく。藻掻もがくようにして前に進もうと試みる。でも、藻掻けば藻掻くほど身体中が壊れていく。痛みはない。虚無を感じる。感覚が徐々に失われていく。助けを求めようにも声が出ない。視界も薄れていく。意識だけは鮮明で……だから恐怖を感じるのだ。

 夢の中でも、現実でも、僕は世界に独りぼっちだ。

 孤独には慣れているはずだけど……その程度がはなはだしいと、心がおかしくなっていくのだ。

 ここまで辛い思いをするくらいなら、そんな感覚ごと消し去ってしまえば良いのだろう。

 機会は何度もあった……。

 それなのに、僕は……。

 堂々巡り。

 同じ事を、何度も何度も考えてしまっている。

 メビウスの輪のように、結局は戻ってきてしまうのだ。

 それがスイッチバックのように、繰り返しているように見えて、少しずつ別の地点へと移動していれば良いのだけれど、それを自分で観測することは難しく、井戸の中から外界を想像するようなものなのだ。







 75


「それで」僕は扉の近くにあった木製の椅子に座って、ノクターンに訊いた。「ここから出る方法は?」

「やっぱり、帰るんだね」

「うん、ここは良い場所だけど……僕は若くて、そして無知過ぎるんだ。余生を過ごせるほどの達成も、何も成し遂げていないしね……。ここに、また来ることはできないの?」

「さあ、ぼくには分からない。ここから帰る方法を教えることは出来るけど、ここに来る方法は分からないんだ。なんたって、不可逆的で気まぐれな場所だからね。七つのサイコロの目が偶然揃ったようなものなんだよ。だからもう一度起こそうと思っても、それは不可能に近い。だいいち、そのサイコロの振り方だって、ぼくには分からないのだから」







 76


 地下一階にある部屋、そこは大きな物置になっていて、雑多な物で溢れかえっていたが、降りてきた階段から一番遠い位置にある壁ぎわの床――そこに小さな穴が開いていた。

 どうやらはしごが取り付いているようで、その下へと更に降りていけるようだった。

 僕はノクターンのあとをついていく。

 周りには本以外にも、雑多な物体が置かれていたが、その大半には白い布が掛けられていて、中をうかがい知ることは出来なかった。

 どうやらシャンデリアや弓矢のようなものを視界に捉えることができたが、確認できたのはそのくらいであった。

 ノクターンは穴の前で立ち止まると、「気をつけてね」と言い、先にはしごを降りていった。

 今ならバレることはない。近くのシーツを取っ払って中を確認してみたかったが、ここで時間を費やしたら怪しまれる恐れがあるし、何よりも良心の呵責かしゃくが僕を自制させた。

 僕は決心して、はしごを降り始めた。

 はしごは金属のような硬い物質で出来ていたが、冷たくはなかった。ぼんやりと微弱に光っていて、他に光が無い空間の中で、それが道しるべのように遙か下まで続いていた。

 高所恐怖症ではないが、下を見るのは躊躇われたので、あまりそうしないように心掛ける。

 はしごだけでなく、もう一つ、光る物体があった。二つのサファイア――ノクターンのレンズだ。

 どれくらい降りることになるのだろうか。

 もしかしたら底無しなのでは、と思い始めた頃、僕の足が床を捉えた。

 コツコツという音がする。

 はしごから手を離して周囲を見ると、そこには光り輝く床があった。暗黒の空間に、光の床だけが広がっているのだ。

 光の床は長方形であって、端があった。

 体育館より少し小さいくらいの面積であろうか。その部分だけが光り輝き、地面としての役割を果たしていた。

「ここは?」

「ここは狭間さ。ありとあらゆる空間にもなれなかった場所、って感じかな」

「それで、ここで何をすれば良いの?」

「向こうに階段が見えるだろう?」ノクターンはとある方向を指さした。

 よく見ると……確かにそこには階段があった。

 まるでクリスタルで出来ているかのようにキラキラしていて、一段一段が空中に浮遊していた。

「あの階段を下っていけば良い。ある程度降りていくと、光で出来た扉が現れる。それを開けてくぐれば、元の世界に帰れるはずだ」

「ここからは、案内してくれないの?」僕は訊いた。

「うん。あの階段に、僕は触れることが出来ないんだ。そこから先は、きみがひとりで進むしかない」

「でも……その、本当にあそこから、元の世界に帰れるの? 君が階段を降りられない、ということは、扉の先を確認したことがないということになるし……」

「大丈夫、きみは必ず元の世界に帰れる。ぼくが保証するよ。これは絶対的なことなんだ。1たす1が、2になるくらいにはね」

 疑っても、きっと何も始まらない。「わかった。君を信じるよ。それじゃ、短い間だったけど……」

「うん、お元気で。幸運を。あ、階段を降りるときは、足許あしもとに気をつけて……そこには虚無しかないからね」

 別れの言葉を交わしたあと、彼ははしごを登っていった。

 そのまま姿が見えなくなったあと、僕は階段のほうへと近づいた。

 不思議だ。

 何もない空間に、透明な板が浮かんでいる。

 片足を乗せ、少しずつ体重を加えていく。しかし、びくともしない。どんなに力を加えても、微動だにしない。

 その板には染みひとつなく、丹念に磨き上げられたかのように美しかった。

 足を滑らすのが怖かったが、及び腰になってビクビクするのも嫌だったので、姿勢を正したまま、一定の歩調で降りていくことに決めた。

 はしごと違って、降りるときに必然的に下を見てしまうが、そこに広がるのはまったくの暗黒であるので、高さが分からず、逆に恐怖を感じられなかった。

 先ほどの不思議な床以外、発光する物体がないにもかかわらず、自分の姿や階段が、はっきりと見えているのは不思議だった。

 不思議なことが多過ぎて、クエスチョンマークが脳内で増殖しそうであった。それらのクエスチョンマークは頭蓋骨の中で跳ねつつ、外へと飛び出す機会を虎視眈々こしたんたんと窺っているのである。

 ノクターンのいっていたとおり、階段の終わりに扉が現れた。またしても光り輝いている。

 僕はノブを回し、そのドアを開けた。

 すると中には、白い部屋があった。

 またしても、白い部屋だ。

 しかし僕が目覚めた場所でも、僕の『ルーム』でもなかった。そこは少し、様子が異なっていた。

 大きさはだいたい八畳くらいであろうか。右側に大きなベッドがあって、左側には椅子とテーブルがある。テーブルの上には花瓶があり、赤い花がいけられている。

 ベッド近くの壁の上方には、曇りガラスの窓がめ込まれていて、そこから、淡く柔らかな光が射し込んでいる。

 部屋の中に入ると、ひとりでにドアが閉まった。もうノブは動かなかった。

 つまり、閉じ込められてしまったということである。

 それで……それでここから、どうやって元の世界に戻れば良いのやら……。

 溜息をつく。

 まあ、ここに置かれているものから推測して――自分が取るべき行動はだいたい分かる。もしもそれで、元の世界に帰れなかったら……。

 いや、考えるのはやめよう。

 僕は無心で、ベッドに寝ころんだ。

 枕は柔らかく、ふかふかしている。身体を布団の中に潜り込ませて、それから天井を眺めた。外から入ってくる光のおかげで、グラデーションのようになっていた。

 自然と眠気が降りてくる。

 僕は寝返りを打ち、テーブルの花を見つめた。

 それは別れを意味しているようで、なんとなく、寂しい色だった。







 77


 灰色の空から雨粒が降り注ぎ、それらが窓ガラスに打ち付けている中、ベッドの傍に置いてあった端末の画面が、微弱な光で点灯していることに気づいた。

 誰からのメールであろうか……。

 端末を手に取り画面を覗く。

 それはメリーからのメールだった。どうやら、暗号通信で電話を掛けて欲しいとのことであった。

 なんの用だろう? 緊急性があるようにも思えないし……。

 僕は疑問に思いながらも電話を掛けた。数コールのあと、彼が出た。

『おう、ルリか。久々だな』

『何の用?』

『事件の進展だよ、アポトーシス関連の。とりあえず首謀者を捕まえることが出来たんで、お前にも連絡しておこうと思ってな。やはり俺の読み通り、敵は元ホワイトノイズの人間だったよ』

『捕まえた?』僕は唐突な知らせに困惑した。『いつ? どこで』

『二日前さ』とメリーは応えた。『ホワイトノイズの南東支部の連中が捕まえたのさ。どうやら、奴は向こうから投降してきたらしい。たぶんこれ以上持ちこたえられねえ、とか考えたんだろうさ。現在こっちで拘束している』

『今どこに?』

『ああ、駄目だ。それはちょっと言えないな。とにかく、だいぶ離れたところだよ……。それで、どうする?』

『どうするって?』

『あのお嬢ちゃん、について尋ねなくて良いのか?』

『分かってるよ、そんなことは。でも、その事についてはもう済ませてるんじゃないの?』

『ああ、尋問はひととおり済ませたさ。やったのは俺じゃないが、傍聴させてもらったからな。だが、どうやら奴は思考にプロテクトを掛けていて、ある程度は自発性を引き出さなきゃならねえんだ』

『つまり、協力して欲しいと?』

『そうだ。それに、早乙女時雨については、お前自身が尋ねた方が良いんじゃないか?』

『まあ、その通りだけど。ところで、首謀者は誰だったの? 前に含みのあるようなことを、メリーが言っていた気がするけど』

『ああ、そうだったっけな。捕まったのはダグラスだ……推測通りの人物だったよ……。やはり残念だな、昔の仲間が捕まるのは……。奴はブラッドレインに捕まった際、自分が見捨てられたと考えていて、それでその私怨を晴らそうとしたわけさ。そのうえ人質のときに洗脳され、ブラッドレインの思想にも染まってしまっていた。ブラッドレイン壊滅後、奴は数年掛けてアポトーシスという組織を作り、麻薬の密輸や人身売買でお金を稼いで、その資金で、傭兵を雇ったりキメラを造ったり戦闘ロボットを購入していた、というわけさ。ルリ、あいつの能力を覚えているか?』

『たしか、物質の構造を、一定時間変化させる能力だったっけ……』

『そうだ。その能力を使えば、どんな物でも堂々と、世界中に運ぶことが出来るっつうわけだよ。麻薬も別の物体に変化させて、飛行機とか船で運んでいたらしい。ああ、麻薬だけではなく、売買した人体とかも含めて……』

『…………』

『単純にまとめればそんなところか。たしかに、あの時のホワイトノイズではやりようがなかったのは確かだし、ほとんど見捨てたようなものだったかもしれん。お前の兄を除いてな……。奴の行動は正しくはないが、まあ、気持ちは分からんでもない。俺の推測をお前に話せなかった理由、わかるだろう?』

『うん……』

『それでだ』メリーは咳払いをした。『直接ここに、お前を来させることは無理なんだが、電話では尋問なんてしにくいだろう。だから電脳空間を使って、奴と話してみないか?』

『あれを?』

『そうだ。お前の家にも、専用の装置がおいてあったよな?』

『うん。マーマレードに貰った奴が家に置いてあるよ。最近は使ってなかったけど、旧型ではないし、ドライバーを更新すれば普通に使えると思う』

『よし、じゃあ領域ドメインは俺が用意しておくから、起動してみてくれ。お前のIDに招待番号を送っておく』

『うん……でも』

『どうした?』

『いや、なんでもない。電脳空間に行ったらいろいろ話すよ。それじゃ』


 僕は通話を切った。







 78


 兄さんの死因は、とてもシンプルだ。

 ブラッドレイン蜂起ほうきの際、捕らえられた仲間を含んだ人質を、単身で救出しようと試みたのだ。

 兄さんは、命令されてそれを遂行したのではなく、人質を救出するため、自ら進んで申し出たのだ。

 ホワイトノイズは兄さんの意見を訊き、彼をブラッドレインの拠点へと送り込んだ。潜入任務は、兄さん一人でおこなうことになった。

 敵も能力者だ。

 あまりにも危険であったため、他に志願者がいなかったのもあるし、集団で敵地に乗り込むと、どんな報復措置を執られるか、分かったものではなかったからだ。

 そして、結果は失敗。

 兄は奴らに返り討ちに遭い、殉職。

 結局、ホワイトノイズが本格的に鎮圧を始めたのは、交渉が決裂し、人質が全員殺されてからであった。

 そして、その時殺されたはずの人質――仲間のひとりが、現在こうして、ホワイトノイズに対して攻撃を行っている。

 これはとんでもない皮肉だ。特に、僕にとっては……。

 だからこそ、メリーは僕に話さないようにしていたのだ。







 79


 僕は物置部屋に行き、ほこりの被っていたその装置を見つけた。

 しばらくの間使っていなかったが、丁寧に使っていたため、壊れてはいないだろう。

 ヘルメットのような装置であり、被ったまま電源を入れればそのまま電脳空間へとダイブすることができる。簡単な知覚フィードバックも搭載されており、電脳上で物体に触れることができる。

 脳波などの微弱な電気信号を、装置が精密に読み取って、それがコントローラーの役割を果たすのだ。

 電脳空間。

 まだ、電脳世界と呼べるほどには発達しておらず、普通の人々はゲームや立体映画などの用途に使っている。

 しかし一般に出回っているものは、視覚的な映像以外に関しては、ほとんど機能を取り付けていない。

 例えば、物体に触れた感覚、のようなものを、法律上搭載できないのである。

 理由は幾つかあるが――一番の理由は、現実との混同を避けるためである。

 それでは「知覚」を再現できる世界において、そこを虚構だと認識するために必要な物は何であろうか。

 視覚・触覚・聴覚以外の味覚・嗅覚を使う、という手もあるが、それはあまり現実的でないし、仮想空間への没入感を低下させてしまう。

 大切なのは、そこが現実ではない、という圧倒的な違和感ストレンジネスを、強くプレイヤーに意識させることだ。

 そこで、僕たちの使っている電脳空間、通称【eDEN】では、プレイヤーの姿を「動物」にしているのだ。

「人間」ではなく「動物」である、ということが何よりも重要なのだ。

 もしも自分のアバターの外見を「人間」にしてしまうと、そちらを「本当の自分」だと錯覚してしまう事例が起こるだろうと推測され、実際に、それが開発段階の実験で確認された。

 その解決策として生まれたのが、アバターを「動物」にしてしまうことであった。

 動物、といっても、そっくりそのまま動物の姿になってしまうわけではない。ある程度デフォルメされているし、人間と同じように、直立二足歩行することができる。

 よく漫画やアニメなどで、人間と動物を混ぜ合わせたような「獣人ケモノ」が、たびたび使われることがあるが、まさしくそんな感じである。

 アバターの姿は、現実での自分の特徴を反映したモノになっているけれども、やはり、元の自分とは異なっているのだ。

 まだ一般には販売されていないが、そのうちはこれが世の中に普及していくことになるだろう。

 世界中の人間が、電脳世界で暮らせるようになる時代が、冗談ではなく到来しつつあるということだ。

 人工知能がさらに発達した二十二世紀の初頭には、従来までのヴァーチャル・リアリティに取って代わり、【eDEN】の本格的な実用化がなされるのではないか、と試算されている。


 僕はヘルメットをかぶり、装置を起動させた。

 視覚が奪われ、それから浮遊感がしばらく続いたあと、自分が【eDEN】の中へと放り出される。

 数秒後、僕が目覚めたのは、ホテルの一室のような場所であった。

 僕はテーブルの近くに置いてあった鏡で、自分の姿を確認した。

 うん、ちゃんと動物になってる。

 鼻はとんがり、瞳の色は変わり、歯も鋭くなっている。きばのようなものも生えているし、耳の形と位置も違う。

 洋服は着ているものの、身体中のいたるところには体毛が生えているし、やはり人間の時とは全然感覚が違う。聴力もだいぶ上がっているような気がする。爪もだいぶ尖っている。指の長さは変わらないが、手のひらには、肉球のようなモノもできていた。

 僕はいま、一匹のキツネになっている。

 容貌は、人間のときとは骨格レベルで異なるにもかかわらず、やっぱり〝僕〟であった。

 眼の形とか、体格とか、輪郭とか、特徴的なところをきちんと反映させているのだろう。尻尾の感覚がくすぐったいだけで、それ以外の違和感は特にない。身体に馴染んでいる。

 eDEN体験者の中には、人間の姿よりこっちのほうが、感覚としてしっくりくる人もいるらしい。なんとなく、僕にもわかる気がする。

 どうして数ある動物の中でキツネを選んだのか……うまく思い出せないけれど、たぶん直感で選んでいたような気がする。

 兄さんは一回しか電脳空間へダイブしなかったけれど、たしかあのときは、なにかの犬だったと思う。犬種に詳しくないので名前はわからないが、たしかに兄さんそっくりの犬が選ばれていた。

 そういえば、昔は犬などのペットを飼っていた人間が多かったらしいが、いまの世の中で動物を飼っている人間は、比較的少ない。







 80


 ぼんやりと、変身した自分の姿を眺めていると、ドンドンとノックがして扉が開いた。

 僕よりも大きな体をした、目付きの怖い、白いネズミが現れた。

 首には赤いスカーフをつけている。

「よう、待ったか?」それはメリーであった。

「いや、いま来たばかりだよ。異常が無いか、装置をちょっと点検していたんだ」

「そうか。うん……。しかしそれにしても、お前と会うのもしばらくぶりだな。あのときはすまなかったな……それに、直接謝れなくて……」

「いや、いいよ。別に気にしてない。それよりも……本当にこれから会うことが出来るんだね、奴と」

「もちろんだ。手筈てはずは整えてあるし、この空間には俺たちと奴以外にはいねえ。ダグラスは現実世界で厳重に拘束されているからな。まあ、二時間までという時間制限はあるが、別に監視されているわけじゃない」

「でも、僕が質問したところで、あまり意味が無いような気もするのだけど……。しかも、僕は彼に対してそこまでの接点がない。ホワイトノイズの中には、僕よりも彼のことに詳しい人間が、いくらでもいるはずだと思われるし」

「まあ、それはそうなんだが、お前の兄が奴を助けようとしたのは事実だし、お前自体はブラッドレインの事件のときは、ホワイトノイズの動向に深く関わっていなかった。だから奴にとってお前は、私怨を晴らす対象ではない――つまり恨んでいないだろう、という推測さ」

「だけど僕たちは廃棄都市で、実際、キメラや傭兵に襲われたじゃないか」

「それはたしかにそうだが、あれはどちらかというと無作為の攻撃だ。俺たち二人をわざと狙ったわけではない。組織の一部を狙ったのさ」

 僕たちは部屋を出て、廊下に出た。

 階段を下り、1階まで降りる。

 それから大きな神殿へと繋がる、幅の広い開放的な回廊を、並んで歩き始めた。両脇にはいくつも白い柱が立っていて、その間からは、草原が広がっている。

 空は青く、仮想の雲がゆっくり流れている。

「最近、どうだ、調子は?」メリーが唐突に訊いてきた。

「調子って?」

「現実でのことだよ。なにかあったとか、なかったとか……」

「別に、なにもないよ。そっちはどうなの?」

「俺は仕事続きだよ。この前は、マフィアをひとつ壊滅させてきた。武器の輸送に関わっていて、そのルートを調査した後、お縄に掛けたってわけさ。世界中を飛び回っているぜ」

「メリーはやっぱり、引退とか考えていないの? こう、いついつまで働いたら終わりにするとか……」

「さあな、考えたこともねえよ。現実世界での俺はサイボーグなわけだし、肉体的な疲労はない。だから脳が活動を許してくれる限りは、働くことになるんじゃないかな。たしかにもうちょっち休みが欲しいが、お金がバンバン入ってくることはたしかだし」

「でも、それは働くために生きているようなものじゃないか。そんなにお金を貯めたって、何にもならないと思うけど……」

「そうかな。俺はそう思わないぜ」メリーは反論してきた。「貯蓄額が増えていくのを見るのは、なかなか気持ちの良いもんだし、貯めたお金で簡易宇宙旅行だって体験できたしな。それに、お金を貯めるということは、自由な選択権を自らに与えていることと同義だ。俺は自由が好きだ。だから金を稼ぐ」

「でも、メリーはサイボーグだし、そんなに楽しみも無いように見えるし………」

 サイボーグになるということは、自分が自分でなくなるということだ。

 例えば、美味しい食事だって食べることは出来ないし、花の匂いを嗅ぐこともできない。モノに触れたときの感触だって、生身の肉体とは異なる。睡眠時間もかなり減るし、夢を見ることも殆どなくなるらしい。食欲、性欲、睡眠欲……そうした三大欲求すらも、失ってしまうのだ。

 人間である、ということを、確かな実感として認識することが難しくなる。

 独りぼっちの脳髄が、機械の塊に浮かんでいるのだ。

「楽しみ、ね……」メリーは言った。「それじゃあ逆に訊くが、お前にとっての楽しみって何だよ」

「それは――」僕は考えながら応えた。「本を読んだり、映画を見たり、ゲームをしたり、アイスを食べたり……。何というか、自分がその時その時でやりたいことをやっているときが、漠然と楽しいというか……」自分でも少し釈然としないまま、そう言った。

「俺はな、自己満足としての楽しみなんか、本質的にはくだらないガラクタだと思っているんだ。いや、もちろんそれは必要なことだし、そうした事柄を否定しているわけではねえ。ただな、自分が楽しむためだけに活動するということは、それは即ち、単純な動物と同じなんだ。虫もそこらの動物も、自分だったり、せいぜい自分の家族のために行動している。それで、食事を食べ、眠り、毎日を暮らしているうちに老いていって、いつかは死ぬんだ。

 まあ、人間はもっと複雑な活動をしているし、趣味なんかをするために、個人の殻に閉じ篭もろうとする傾向もある。それは時には創作的な傾向を持つこともあるし、無駄だとは言えねえだろう。それに、社交的な人間の方が、遥かに害悪を引き起こしているしな。

 だがな、自分のためだけに行動するということは、つまりは他人なんて関係なく、自分が幸せならそれで良い、という発想でもあるわけだ。海の向こうでドンパチ戦争をやっていても、自分と自分の家族が幸せに暮らしているなら、それでいい――そんなことを考えているんだ。

 俺は気に入らねえ。そんなの動物どころか、動物以下の、自己中心的な考えだよ。もちろんひとりの人間にできることには限度があるし、個人的な幸せを追求する権利はあるだろう。だけどな、それだけのために行動する存在というのは、圧倒的に下等なんだ。俺に言わせればな。

 人間には、この世界をより良いものにしていかなくてはならない、という義務が、生まれたときから存在しているはずなんだ。俺たちはこの世界で生まれ、そして死んでいく。確かに死んだらそれで終わりかもしれねえ。天国なんてにわかには信じがたいしな。

 それでもよ、だからといって、死んだ後の世界がどうでも良い、なんて考えるのは、いささか情に欠けてはいねえか? 都合が良すぎるとは思わねえか? 想像力の欠如じゃないか?

 確かに人類は人口を増やしすぎて、それが原因で前の大戦を起こした。世界中のありとあらゆる地域に核ミサイルがぶっ飛んで、爆発して、たくさんの都市が廃棄されることになった。いまだって、人の住めない地域はたくさんある。

 誰がこんな世界にしちまったか、お前には分かるか?

 単純だよ、自分以外の人間なんかどうでも良い、と思っている連中によって、それが起こってしまったんだよ。

 他の国なんてどうでも良い、他の地方なんてどうでも良い。他の家族なんてどうでも良い、自分以外なんてどうでも良い……そういう奴らが増えて増えすぎて、だからこそバチが当たったのさ。こんなくだらないループは、絶対に断ち切ってしまった方がいいんだ。誰しもが戦争への加担者であり、当事者だ。地球での戦争は、人類全体の罪なんだよ。それ以上罪を重ねないためには、自分から行動しなくてはならない。

 俺はきっと、自分のやった仕事が、どこかで誰かの役に立っていて、それで世界が変わっていくことを信じているんだ。他者への貢献というのかな……。俺たちは暗躍機関に所属しているわけだから、その貢献が誰かによって祝福されることはない。

 しかし、その行為が、行動が、誰かの幸せを生み出している、という実感は、サイボーグになった今でも、消え去ることなく取得できているというわけだ。誰かの幸福を想像するその瞬間、俺は楽しみを見出すことができる。

 いや、確かに幸福なんて、幻影のような虚像かもしれねえ。それに幸福を定義する難しさは、人によって異なる。比較によってしか生まれ得ない概念だ、とも言えるからな。

 それに、ホワイトノイズが本当に正義なのかという問題もある。正義の名のもとで行われた戦争が、弱者を虐げる結果に繋がることだってよくあることだ。

 絶対的な正義なんて、俺は存在しないと思っている。それは神様だってわからないだろう。漠然とした善悪の彼岸、超越した場所で悩み続けている人間の方が、思索家としては高尚かもしれん。自らの価値観を一変させてしまうパラダイムシフトであったり常識の転換であったり、そういうのは簡単に出来ることではない。

 しかし、そこで立ち止まって悩んでいる間にも、虚構ではないこの現実の世界において、実際に苦しんでいる人間がいて、俺たちは、それを救う力を持っているわけだ。たとえそれが何らかの、善的な理由に依拠いきょしていなくたって、行動することは、大きな前進のように思える。

 目の前におぼれかけている人がいたらどうするか……その答えは簡単だ。そうせざるを得ないという直観による命令が、俺にとっての司令塔だ。

 それが――きっとそれだけが、人間としての実感が薄れたサイボーグである俺の、俺にとっての存在証明であり、存在意義であり、眼前に横たわる虚無への反駁はんばくというわけさ。

 だからこそ、俺は死ぬまで引退しないわけだ。仕事に弱音を吐くことがあってもな。それだけさ」







 81


 神殿の中へと入ったあと、僕たちは螺旋階段を上がって、天井のない大きな広間へと出た。

 数々の彫刻像が両側に並べられていて、広間の一番向こう側、そこに大きな椅子があった。

 そして一匹の動物が、椅子へと縄で縛り付けられていた。

 どうやらワニのようである。そのワニは縛りつけられたまま、こちらを睨んでいるように見えた。腕や脚は動かせないため、頭と瞳だけがこちらを追尾して動く。

 僕たちはワニの前まで歩いていき、数メートル離れたところで立ち止まった。

「おい、ダグラス」メリーは言った。「こいつが誰だかわかるか?」

「私はもう、喋っても良いのか?」

「ああ、構わねえさ。それで、俺の質問の意味は分かるな?」

「あの青年の妹だろう?」

「その通りだ。お前は俺たち全員を把握しているし、こうしてわざわざ質問する意味はない。だから、いまのは確認だ」メリーはそういうと、空間にモニターを投影した。モニターには様々な数値やグラフが並んでいて、絶えず変動している。「お前が虚偽の発言をしたかどうかについては、人工知能に逐一監視させてある。もしも虚偽の申告が発覚した場合、お前に下される刑はより重いものになる」

「承知している。それで、質問は何かな?」そのワニ――ダグラスはこちらを向いた。「君が私を訪ねる用件は?」

「早乙女時雨を殺したのは貴方ですか?」僕は単刀直入に訊いた。

「何のことだろう?」

「彼女の背中には手術痕があった。それは知っているはず……。アポトーシスが人身売買にも関わっていて、何らかの行為を、彼女におこなった。彼女の、早乙女時雨の死因を、貴方は知っているはずだ」

「事前に通告されたとき……私はてっきり、君の兄に関することを質問されるか、あるいは、君によって拷問に近い復讐がなされると思っていたのだが……どうやら事態は混迷しているようだな」ダグラスはメリーのほうを向いた。「君に訊こう。これは何が目的だ? 私はアポトーシスに関する情報を何でも話す気でいる。しかし、まさかこんなことを尋ねられるとは思わなかった……。それに、どうしてこの子は、早乙女時雨という少女に拘っている?」

「早乙女時雨はルリの友人だ」メリーは応えた。「そして彼女は、手術後数ヶ月で亡くなった。手術との直接的な関連はわからねえが、それが何らかの要因であったことは、状況証拠として疑いないものだと俺たちは考えているってわけだ」

「あの少女と友人だった……? それに、彼女は亡くなったのか……。待ってくれ。それは、いま初めて知ったことだ……」

 メリーはモニターを眺めつつ話す。「嘘はついてないようだな。よし、とりあえず知っている限りのことを話せ」

 ダグラスは少し考え込むようにしてから話し始めた。「あの少女がロストスピーシーズという存在であることを――純粋な、【星の分身】の生き残りであるということを、私は『あの方』から聞いた。私は『あの方』の命じるままに彼女と交渉した。そして手術をおこなって、背中についていた白翼を切除したのだ。確かに……あれは人間ではなかった。人間を超越した別の生き物だった……まるで天使ともいえるような……」

「まて、お前は何を言っている」メリーが遮った。「星の分身だと!? それに、『あの方』とは誰だ」

「メリー、君なら知っているんじゃないのか。君はサイボーグであっても、ロマンサーのような能力者ではないからな。能力者を制御する名目で、ロストスピーシーズに関する知識も手に入れているはずだ」彼はそう言ってから、僕のほうを向いた。「説明が必要かね?」

「星の分身、については知ってる」僕は言った。「でも……それは……どういう事で……」

「星の分身を稀釈きしゃくした存在、つまりは薄めた存在がロマンサーである。微少とはいえ、古代生命体の血を受け継いでいるからこそ、様々な能力を使うことができる。普通の人間たちは、空からやって来た侵略者どもの末裔まつえいで、星の分身の血を全く受け継いでいない。現在のロマンサーは、だいぶ血も薄まっているし、遺伝子の九十九%はそうした普通人ふつうじんたちと変わらないだろう。だが、一%でも、そうではない部分があるからこそ、特別であり続け、普通人からは恐れられる。だからこそ統制者たちは、首に爆弾を埋め込むことにより、叛逆されないという安心を手に入れているわけだ」

「それで……あなたは何をしたんだ?」 

「私は彼女から、『翼』を切除した」

「翼?」

「そう。彼女――早乙女時雨の背中には、二つの大きな翼が生えていた……あの方の仰るとおりに……。私は部下の外科医を使って、その翼を切除した。そしてその翼を分解し、取り引きに利用したんだよ。

 翼には特殊な効果があってね……。あれはどんな病気でも、傷でも、僅かな量を摂取するだけで、治癒させてしまう効果がある。

 それに、翼の永劫回帰性により、対象の寿命を延ばすことも可能だった……老化を無かったことにするもの、と言えるかな。まさに、万能薬だよ。研究所にも翼の一部を送ったが、解析は出来なかった。

 あれは人の叡智を超越した物質だ。私は彼女の同意を得て、翼を切除した。その報酬として、彼女には多額のお金を支払うことになったが」

「待ってくれ……僕は時雨に翼が生えているのなんて、一度も見たことは……」

「翼はそんなに大きいわけではない」とダグラスは応えた。「だいたい、二の腕の長さくらいかな。つまり、普通の洋服を着てしまえば、充分隠してしまえるほどの大きさだ。きっと私の基地の中に、彼女の背中の写真が残っているだろう。それに、私が彼女に頼まれ、匿名で送金をした相手……早乙女時雨の親に当たる人物は、私よりも、その少女に詳しいだろう。確か里親だったような気がするが、おそらく、彼女がロストスピーシーズだと知ったうえで育てていたのだろう。彼女の母親は借金を背負っていた。だからあの少女は、代わりに返済しようと考えたのだろうな。それにしても、ホワイトノイズが把握していなかった、というのは意外だな。もしかすると、別の機関の管轄かんかつにあったのかな?」

「…………」僕はメリーを向いた。「ねえ、メリー。これ、痛覚フィードバック機能ついてる?」

「ああ、eDENに潜る前、こいつに取り付けておいたぜ」

 僕は空間上にスクリーンを表示させ、アイテム欄から鉄パイプを選択すると、それを自らの目の前へ現出させた。

 それからその鉄パイプを摑み、ワニの方へと近づく。

 僕はそのワニを――ダグラスを、パイプで思いっきりぶん殴った。

 頭に命中。

 縛られた椅子の中で振動する肉体。

 彼は驚愕の表情を浮かべたあと、そのままうな垂れてしまった。

 僕はもう一度鉄パイプを振るい、背骨に当たる部分へと、力を込めた打撃を加えたあと……再び向き直った。

 そして、もう一度質問をする。「詳しい事情は僕達で調べます。それで、時雨の死因は、貴方ではないのですか?」

「違う……」彼は咳き込んだ。口から血が出ている。バーチャルの血液だが生々しい。「私は安全な施術をし、引き替えに……金銭を……支払っただけで……………それはお互いの……合意の上でのことだ。あの少女の………手術の際に、問題が…………あったわけでも、彼女に危害を加えたりも、していない」

「だから、分からないと?」

「……そうだ」

「お前は今、合意という言葉を使ったが」メリーが言った。「つまりあの少女は、自分の躰の一部を、理解したうえで売ったと? 洗脳することなしに?」

 ダグラスはゼイゼイと息を整えている。「……当たり前だ。私は無関係な人間を巻き込むことはしない。あの少女も、何らかの能力を持っていたかもしれないが、ホワイトノイズの成員ではなかった。だから、復讐をする必要もない」

「ルリ、他に訊きたいことはあるか?」とメリーが言った。

 僕は頷く。「時雨がただの人間ではなく、彼女の背中に生えていた翼が、何らかの意図を持って取引されていたことはわかった。でも――」僕はもう一度ダグラスに近づく。「翼は誰に売買したんだ? それについて、まだ教えて貰っていないが」

「私が翼を渡した相手は、『あのお方』だよ。ガーランド……狭間領域ネクスタリアから来た、有機生命体……」

「ネクスタリアから……!?」メリーが驚いた。「いや、俺たちはずっと監視をしているが、現時点では侵入者はいないはずだ。どういう事だ?」

「所詮、その程度の情報量が君達ホワイトノイズの限界、ということだな。まあ、とにかく話を続けよう。私はガーランドの手助けによって、アポトーシスを、より大きな組織へと作り替えていった。彼の助力無しには、ここまでの勢力を維持することは出来なかっただろう。殆どが、傭兵やキメラ、スタンドアロンの人工知能搭載ロボットや、電脳補完型のハッキング集団で構成されてはいるが、人員以外のファクター、特に初期投資・初期費用に関しては、かなり骨の折れる作業であるからな。また、専用の研究所ラボを持てたのも大きい。地下にあって、投降する前に破壊しておいたが、そこでキメラも量産することができたし……。ふ、なかなか楽しかったが」

 ガーランド……。

 その言葉を聞くと、ものすごく胸騒ぎがする。

 僕はこの存在を、どこかで知っている……? 

「彼は言っていた」ダグラスは話を続けた。「『夢の中に棲まう小人こびと達にとって、どこが現実であるか、などということは問題にならない。そうではなく、夢の完全性を維持するための活動が問題となる。なぜならば、その夢が醒めてしまったとき、その住民は同時に消えてしまうからだ。では、夢を補填ほてんするためには何が必要か。それは絶対的な秩序である。調和されている、さざなみの殆ど生じない安定した時空が、観測者に実感を与える』……。私はその意味をずっと考えさせられることになった。自らの存在理由、という普遍的な動機に、堅く結びついているようにも思えた。彼は様々な理想ヴィジョンを見せてくれた。それは言葉に包含された宇宙を、膨張させるような出来事だったよ」彼は溜息をついた。「しかし永遠という概念は、それがその世界に従属している以上は、絶対に手に入れることが出来ない。なぜならば、そこには時間という刻み目が存在するからだ。空間が存在し、そこに何らかの運動する物体があれば、それは時間を持つ。しかし空間か、あるいは[運動する物体/変化する現象]が消え去ってしまったとき、必然的に時間は消える。変化のない永久的な恒久的な状態において、未来や過去は存在すると言えるだろうか。〝超越〟しなければならない……この世界から………。彼は、復讐のその先の、〈イデア〉を見せてくれた。しかし、もう、今となっては遅いか…………だが……………」

 ダグラスは、その後も何かを独りで呟いていたが、そのうち気を失ってしまった。

 やれやれ、とメリーは頭を振った。「さて、どうするよ。こいつは……どうやらイカレちまってるみたいだが、本当に、早乙女時雨は殺していないみたいだぜ」

「じゃあ、結局誰が……。ねえ、メリーはガーランドという人物に、心当たりは?」

「いや、知らねえ」メリーは応えた。「本当の本当に、全く知らん。というかお前、一体だれに、【星の分身】のことを……?」

「違うよ。とりあえず、こいつに話を合わせただけ……」僕は嘘をついた。「そうすれば、なにか他に手がかりが分かるかな、と。それより、今の話を、メリーは理解しているの?」軽く探りを入れた。

「ああ、なんとなくな。知っている部分もあれば、知らない部分もある。だが、俺はお前に、必要以上の情報を教えることはできない。ホワイトノイズの規則、覚えているだろう? まあ、俺はそうしたもんをだいぶ破っているし、今この瞬間も、お前をここに連れてきていることで破っているわけだが……。疑問があれば、所長に訊いてくれると助かる。そっちのほうが、俺もお前も、組織としても都合が良いはずだ」

「そう、わかったよ……」僕は溜息をついた。

「まあ、心配するな。テレパスの能力者を使ったりして、これから徹底的な尋問を掛けるつもりだしよ。それに、脅威は一応去ったわけだ。もう、ホワイトノイズを狙うやからもいねえし、もっと自由に行動できるようになるはずだ。じゃあな、元気だしな」メリーはそういうと、部屋から去っていった。

 椅子に座っていたワニは既に消えていた。きっと意識が薄れたことで、安全装置セーフティが起動し、現実へと戻ったのだろう。

 いったいなにを考えれば良いのだろう……?

 何から手を付ければいいのだろう……?

 時雨が人間ではなかった……?

 翼には能力があった……?

 不老不死?

 永劫回帰性?

 Lost Species?

 ?

 意味が分からない。

 思考がついていけない。

 僕はそんなことが知りたいんじゃない。

 時雨を殺した奴が憎くて、

 ただ、それだけで……

 ガーランド。

 何者だ?

 僕は、そいつが誰かを、きっと知っている。

 確信がある。どこかで出逢ったはず……

 でも記憶はもやに隠れているようで……

 名前と顔が一致しない。

 疲れた。頭の中に浮かぶのは、その気持ちだけ……。

 考えたくない。こんな訳の解らないことに、もう付き合いたくない……。

 まるで呪いのような――もうやめたいと思っているのに、やめることができない。戻ることができない。激流の中に身体を投げ込まれてしまったかのように……。

 早く離脱しなきゃ。

 これ以上進んじゃいけない。

 この先には、きっと煉獄れんごくが……身を刻むような痛みがある……それを味わうことになる……知らないほうがいい……なのにどうして……?

 感覚がぼやけていく……

 思考がぼやけていく……

 視界がぼやけていく……

 僕はどこにいる?

 僕は……







 82


「「「転換とそれに伴う反射こそが精神を規定する「「「


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 83


 どこかの街……どこかの夕暮れ……。

 地平線には大きな光の柱が立っていた。

 あれは何なのだろう……。地面から空に向かって、一直線に光が放射されている。

 巨大な白色のレーザー光が、何かの装置で打ち上げられているようだった。光は増幅と縮小を繰り返している。

 辺りには草原しかない。微風が草を揺らしている。

 隣には兄さんが立っている。

 兄さんも私と同じように、その柱を見つめている。

「あれが、シグナルだよ」と兄さんは言った。「ああやって、地球の所在地を、別の生命体に教えているんだ」

「どうして?」私は訊いた。「そんなことしても、意味がないんじゃない?」

「そうかもしれない。でも、わずかな希望にでもすがっていないと、彼らは不安で仕方ないのさ」

「どうして不安になるの?」

「それは、この地球上の生命体は、生まれながらにして不完全だからだよ」と兄さんは言った。「不完全である、ということはつまり、弱いということ……。弱いものは、知恵を絞って強くならなくちゃいけない。でも、その程度には限界があるんだ。だから、助けを求めているんだよ」

「でも……」と私は言った。「助けが来る前に、滅んじゃったら?」

「たぶん、それでも良いんだよ。きっと、本質的なところでは、この世界に生きていた証というものを、誰かに伝えておきたい……残しておきたい、という気持ちがあるんだよ。だから、救われるかどうかは問題じゃない。観測されることが、一番大切なんだ」

「神様に見守ってもらいたい、ってこと?」

「そうかもしれない。神が存在するかどうか、ではなく、神が存在するという仮定こそが――祈りこそが、人をより深く成長させてきたようにね……」

 正直に言うと、具体的にどんなことを喋っていたか、はっきりと思い出せない。

 ただ、兄さんに握ってもらった手の、そのかすかな温もりが、いつまでも忘れることなく、心の中に堆積している。

 記憶が少しずつ失われ、輪郭がぼやけ、思い出さえもどこか遠いところへ過ぎ去ってしまったとき、言葉にも、映像にもできないけれど、それでも確かな温もりだけは――希望のように、胸の中に留まり続けるのだと思う。そう願いたい。







 84


 夜が降ってくる前に太陽を昇らせることができるならば、それは終わりなき白夜を意味するのだろうけど、そうした光景を眺められるのは、特定の場所、特定の場合においてであるか、あるいは想像の中にしか見出すことができない。想像の中では、誰しもが理想を追い求めることが可能であるし、天の邪鬼でいることもできる。他者と異なる存在であり続けたい、あるいは、他者と異なる考えを抱き続けたいと願うならば、普通なら〝そうはしない〟ことを空想するしかない。結果として、それが虚構と現実の境界線を破壊する行為になったとしても、それを止めてはならないのだ。天が落ちてくることを恐れていては、克服すべき方法が、永遠に見つからない恐れがある。だからこそ人は、幻影と共に生きていく術を学んだのだ。


 ここではないどこか。

 でも、どこにもない場所――

 オルゴールの音だけが、静かに響く。







 85


 楓がいなくなった、という話を双子から聞いたのは、学校から帰ってきた時だった。

「買い物に行く、と彼女は言っていました」双子はいった。「近くのスーパーへと――私達は問題ないと考えていたのですが」「あまりにも帰りが遅いため、様子を見に行ったら」「姿を消していたというわけです」

「彼女がここを出たのは、いつ?」

「ルリさんが学校へ行ったあとです」双子は応えた。「どうやらテレビを見ていたようですが」「そのあとしばらく部屋に閉じ篭もったあと」「買い物に行く、と言い始めました」「……私たちの不手際です。まさか突然いなくなるだなんて」「思いもしませんでしたから……それに、アポトーシスなどの脅威も、なくなったと考えていましたし」

「いや、別に責めているわけじゃない。詳しい過程が訊きたい……」

 そう言いながらも、僕は動揺していた。

 どうして楓は消えたのか?

 もしも僕たちの領域に関わっていることであったら、それは、こちらの世界に巻き込んでしまったということと同義だ。この付近は監視体制が強固だし、まさか、さらわれたなんてことはあり得ないだろう……。しかし、誰かにそそのかされていたとしたら……? いや、判断は後回しにしよう。

「彼女はここを出る前に、テレビを見ていたんだね?」僕は訊き返した。

「そうです」「そうです」二人はうなずいた。

「それなら視聴記録が残っているはず……確かめてみよう」

 僕はリモコンを取り、彼女が視聴していたと思われる番組を探した。

 テレビはすべてのチャンネルを、一週間分録画しておく機能を保持している。それは元々備わっている機能であり、だから、何か特定の番組を見逃してしまう、という可能性は皆無だった。好きなときに、好きな番組を見ることができる。雷とか断線とか、そうしたことがない限り。

 でも、僕はそんなにテレビ番組を見るタイプの人間ではないし、モニターを使う用途は、映画かゲームか、それくらいだ。

 テレビ番組がつまらないというわけではない。この地方だけではなく、ありとあらゆる地域の番組を取得するように設定してあるし、海外の番組を見ていると、ちょっとした旅行気分を味わうことができる。でもその体験は自分にとって、映画やゲームよりは刺激に乏しく感じられてしまうのだ。

 彼女はニュースを見ていたようだった。午前九時半頃から、十一時くらいまで。それはよくある類いのものであり、何が彼女をき付けたのか、概要をまとめた字面じづらだけを見ていてもわからない。

 僕はそのニュースを、彼女が見ていた部分だけ、じっくり視聴することにした。

 ソファーに座り、黙々と画面を眺める。右と左には双子が座っていた。どちらも僕に寄り掛かっている。シャンプーの香りがした。すでにお風呂に入ったのだろう。

 こういうとき、どうして左右に分かれるのか、理由がわからない。

 少なくとも、外ではこんなことをしない。また、僕のような人間以外ではしないだろう……。

 きっと自分は慕われているのだろう、と暫定的に推測している。したわれることは嫌いじゃない。

 だけど僕は、自分が慕われるに値する人間だとは到底思えない。自己評価が低いのは昔からだけど。

 見ているうちに喉が渇いてきた。

 しかし、目を離したその瞬間に、決定的な情報が映し出されるかもしれないから気を抜けない。倍速にしても良かったのだけど、だいたい1時間半ほどだし、集中して、ひとつひとつの音も聞きもらすまいという気概で、画面に臨んでいた。

 そしてついに、決定的だと思われるニュースを僕は見つけた。

 それは一分ほどの、短いニュースだった。

 とある家での殺人事件。

 夫が妻を撲殺し、そのあと、夫が首を吊って自殺。

 夫婦喧嘩をしていたらしく、いさかいの声が――この日だけでなく――普段から近所に響いていたらしい。

 その家に住んでいるはずの、ひとり娘は行方不明。

 娘の名前こそ出ていなかったが、親の名前はくっきりと、字幕付きで表示されていた。

 その姓名は、『宮雲』。

「……………」

 どうすれば良いんだろう……。

 彼女はこのニュースを目撃してしまった。そして、ここを去ることを決心した。

 …………………。

 思考が、

 上手く纏まらない。

 つまり、とても危険な状態である。

 何が危険なのか?

 思いがけぬ形で、危険は去った。彼女にとっての。

 しかし、それは、誰にも望まれぬ最悪の形で。

 その意味するところは……。

「ルリさん」と双子のどちらかが切り出した。「急いで探しましょう」「一応〈治安警備隊〉には、すでに捜索の連絡を入れていますが、」「ホワイトノイズの援助も求めるべきです」

「ああ、わかってる。だけど……」

「楓さんをいますぐ見つけ、保護し、指定された施設へと送ることが、今の私たちが取るべき行動です」「まだ一日も経っていません。街の外には出ていない可能性が高いです」

「わかってる……でも、すごく嫌な予感がする……例えば、もしかしたら……」僕は自分の脚に力が入らないのを自覚していた。「もう、すでにそれが起こってしまっている可能性が、怖くて……」取り返しのつかない状態に……。それは、僕が問題を先送りにさせていた責任でもあり……。

「「ルリさん」」と彼女たちは言った。「私たちには責任があります」「楓さんを探し出して、保護する。手遅れになっているかもしれないのが怖くとも、」「逃げずに、行わなければなりません」

「僕はまた、誰かを巻き込んで……?」

「どうしてそんなことを言うんですか?」双子は怪訝けげんそうな顔をした。「貴女には非はありません」「私たちのいう『責任』とは」「ホワイトノイズとしての責任です」「もし非があるとしても、それは私たち三人の非でもあります」「まだ悲観してはいけないです」「それよりも、迅速な行動を……」

「わかった」僕は頷いて、無理矢理力を込めて立ち上がった。「マロンとミルンは本部と連絡を取って、誰かを派遣させてくれ。彼らがここに来るまで、時間が掛かるかもしれないけど……。僕は先にマンションを降りて、彼女を探しに行く。連絡が済んだら、二人も捜索に協力する。それでいい?」

「わかりました」「すぐに始めましょう」







 86


 僕はエレベーターを使ってすぐさま一階へと降り、自動ドアを出て、マンション前の広場に出た。

 夕暮れの街は寂しげな様相を呈していて、それは、砂漠に変わりつつある森林を連想させた。

 カラスたちが電線に並んでおり、僕を含んだ世界そのものを、じっと観察しているようだった。その一匹一匹が地上を見下ろしていて、鳴き声ひとつ上げないのが奇妙でもあり、不気味だった。

 勢いで飛び出してきたものの、特に目星がついているわけではない。彼女がどういう場所を知っているのかさえ、僕は把握していない。

 走るのも大変なので、僕は自転車に乗ることにした。もうだいぶ使用していなかったが、特に不具合のようなものはなかった。周囲を注意して見回しながら、ペダルを漕ぐ。若干重いような気がしたけど、油を差している暇などない。

 車はほとんどなかった。遠くのほうに見える大通りで、チラチラとヘッドライトが瞬いているだけだ。

 まるでそれは電気信号が流れているようだった。

 ビルやマンションには、四角い明かりがたくさんで、ひとつひとつの世界がその向こうに広がっている。

 彼らはその固有・不可侵の世界において、どのような夢を見ているのだろうか? 幻想ともいえる人生時間ライフタイムにおいて、その窓を通して何を見つめているのか。互いに交わることもなく、窓を通して、お互いがお互いを観察している――窓を通じてのみ、他者を知ることができる。

 ある世界では、家族でスパゲッティを食べているのかもしれないし、別の世界では、ひとりで夫の帰りを待つ妻がテレビを見ているのかもしれない。あるいは、お風呂に入っているのかもしれないし、もしかしたら今から仕事に行くところかもしれない。同じ世界に生きていても、それぞれの人間が、別の世界で暮らしているのだ。世界は部屋であり、部屋は世界だ。

 あの光たちが総て失われてしまうような遠い未来――それを想像すると、この眼前の現実が、とても儚いものに思えてくる。十年後、二十年後、同じ状態でこの光たちが輝いているわけではない。

 …………。

 自分が同じ場所を、繰り返し繰り返し、回り続けているような気がする。

 それは場所的にも、そして心理的にも。何度も同じことを思考している気がする。

 窓の光も、星空も、それを重ね合わせようとする人の心も……。

 生まれる前の記憶が残っているとするならば、それはもっと、はっきりとした姿でわかるのだろうか。

 もしも生まれ変われるのならば、僕は誰になりたいだろう……。

 誰かの代わりに、この命を投げることができたなら……。

 夜の街は孤独の色。

 藍色の空は、何もかもを知っていて、それでいて何も教えてくれることはない。どこか遠くで聞こえるクラクションの音は、現実なのか、それとも虚構なのか。

 僕は自転車を降りた。

 そして近くのベンチに座る。

 どこに行ってしまったのだろう……。

 本当に、何の手掛かりもないものか……。

 この前みんなで出かけた、湖の近くも調べてきた。でも、誰も見当たらなかった。野良猫が一匹、芝生の端の茂みから、僕の様子を窺っていただけだった。

『ルーム』からプリン味のチュッパチャプスを取り出して、僕は舐めた。糖分を取ることで、頭が働かないかと期待したのだ。けれどもただただ甘いだけで、それ以上の考えも感想も浮かばなかった。飴ではなく、本物のプリンが食べたいな、と思った。

 空を見上げると、大きな月が東の空から昇っているところだった。

 今日は満月らしい。星空は、薄い雲がたなびいているせいで、なかなか見えづらい……。

 星空――

 僕は自然と、プラネタリウムを連想していた。







 87


 僕はいつの間にか、プラネタリウムの前まで来ていた。

 次が最終上映らしく、運良くその時間に間に合ったらしい。僕はチケットを購入し、中に入って座席に座った。

 他に客はいない。

 ひとりぼっちの空間に、架空の夜空が展開される。

 機械の動作する音以外には、何も聞こえない。

 そこに見える夜空はとても美しい。雲ひとつなく、燦々さんさんと、偽りの星々が輝いている。

 こんなに美しい夜空を実際に見られたなら、どんなに気持ちが良いだろうか。

 誰もいない世界……いや、好きな人たちだけがいる世界で、何の不安も恐怖もなく、好きなだけ、気持ちの良い景色を眺めていられたら……。

 知っている星座もあれば知らない星座もあった。

 これだけの星が天空に浮かんでいるのなら、どこかに別の生命体がいることは間違いないだろう。というか実際、パラレルワールドの人間に、僕は会っているわけだし……。

 全ての星々が消えてしまったとき、あとに残るのは何だろうか? 

 この宇宙に終わりがあるとして、それはどのような形で迎えるのだろうか。

 宇宙はビッグバンによって作られたとも言われているし、それ以前から何らかの物質があって、それらの作用によって宇宙が生まれたとも言われている。

 もし……もし、この世界に始まりがあるのなら、それを引き起こしたものは何だろうか?

 どうして0であったものが、1へと変わったのだろうか?

 みんな、いろんな物事を科学で片付けようとするけれど、本当に肝心なことは、結局分からないままだ。科学は、生きている意味も理由も、何も教えてくれない。

 生まれてきたことは無意味なのだろうか。

 全てはどうせ消えてしまうから、無駄なのだろうか。

 亡くなってしまった、あの、大切な人達の面影は、記憶の中の幻にしか過ぎないのだろうか。

 そんなことはないはずだ。そうであっていいはずがない。もしそうだとしたら、そんな世界なんて変えてやるんだ。たとえ無価値な世界だって……誰にも理解されなくたって、それでも信じ続けるんだ。神様が居ようと居なかろうと、どんな不遇な運命に、この身をかれることになろうとも、そこに反駁はんばくしつづけてやる。叛逆してやる。無念のままに終わってしまった、名もなき死者たちの意志を継いでやるんだ。

 喉はカラカラで、日の奥が痛い。まるで煉獄に放り込まれたようだ。答えもない。苦痛だけが身を取り囲んでいる。助けて、と叫んでも誰も来ない。牢獄だ。生きることは牢獄なのだ。

 目を開ける。星空がなおも広がっている。

 僕は手を伸ばした。

 摑めるわけはない。本物ではないとはいえ、天井は遥か高くだ。

 でも僕は、手を伸ばさずにはいられなかった……。

 今はまだ摑めないかもしれない。何度生まれ変わっても、星々はあそこから、僕らを見下ろしているだろう。でも、その輝きの、ほんの僅かな欠片から、何らかの勇気を拾い集めることは、もしかしたら可能かもしれないのだ。

 誰かが隣に居てくれたらな、と思う。

 でもそれは、叶わぬ夢……。

 ライトが徐々に明るくなっていく。上映が終了した。







 88


 僕は直感で、楓がここに来ていると思ったのだ。でも、その予想は外れてしまった。

 本当は今も探し続けなければならないのに、結果的に自分のことで時間を費やしてしまった……。

 馬鹿だ、と自分でも思う。

 でも、ここに……この思い出の場所に寄らなければ――寄って確かめなければ、その先へと進めない気がしたのだ。気持ちの区切りというか……。

 眼をこすって、それから立ち上がった。

 僕は通路へと出て、それから自販機のジュースを買った。一息ついてから、また彼女を探そう。僕はコーラの炭酸を舌で感じながら、つかの間のリラックスを試みようとした。

 そのとき、僕は視界の端で、何かが動くのを感じた。

 階段のほう……数匹のカラスが翼を広げ、それから階上へと飛び去っていった。

 様子が変だ。

 まず、室内にいるというのもおかしいし、僕のことを観察していたようだった。

 まるで、僕がこの部屋から出て来るのを待っていたかのように……。そこには意志を感じることができた。得体の知れない奇妙な意志が……。

 そのまま無視して、この建物から出るべきなのかもしれない。でも、僕はそいつらを追わずにはいられなかった。

 僕は階段を上がっていった。

 たしかこの建物には屋上があったはず……。

 そこに何かがあるというのだろうか。

 一歩一歩踏みしめる足が妙に重たい。身体が動作を拒んでいるようである。

 しかし止まることが出来ない。それは好奇心ではなかった。恐怖が、それが逆に、僕をせき立てているのだ。

 手すりに掴まりつつ上っていく。無限に続いているような気がした。

 そして視界が開ける。

 コンクリートの地面、背の低いフェンス。

 この建物自体が、丘の上――標高の高いところにあるため、風がやや強い。街の灯が辺りを包み込んでいる。近くには林があるが、その木々のてっぺんよりも、ここのほうが高い。見晴らしが非常に良いということだ。

 カラスたち――それは百匹くらいいたかもしれない――は、フェンスのうえに止まっていて、瞬きもせずこちらに視線を注いでいる。

 異様な光景に身をすくめそうになる。本能が逃げろと叫んでいる。天敵に囲まれたカエルくんのようだ。僕はこれから食べられるのかもしれない、となぜか思った。頭の中に浮かんでいたのは、宮沢賢治の『注文の多い料理店』……。

 僕は自動小銃を取り出して、正面を向いて構えた。「出て来い。何の用だ」

 沈黙。答えはない。

 カラスたちは鳴くこともせず、黙秘のみを貫いている。沈黙。

 それでも待ち続ける。するとそのカラスたちは突然、目の前の空間を旋回し始めた。

 それはつむじ風のようだった……。ぐるぐると回り続けているうちに、まるで大きな黒柱になって、中の部分が見えなくなってしまった。

 奇怪な儀式を目撃しているかのようだ。黒い柱はどんどん厚くなっていったかと思うと、今度は徐々に薄れていく。もうカラスたちの姿はなく、黒い羽根だけが、巻き起こされた風によって動き続けているだけである。

 ――カラスはどこに消えてしまったのか?

 その答えは分からなかったものの、もう一つだけ、大きな「変化」がそこには齎されていた。

 薄れゆく柱の真ん中に、ひとりの男が立っていたのだ。

 かなりの大男である。銀色の仮面をつけていて、闇のように暗い服を着ている。

 顔を見ることはできなかったが……その恰好かっこうに、僕は見覚えがあった。あの、時雨のお墓にいた、謎の男だ。

「久し振りだな」

 と男は言った。

 僕は銃を構えたままで、反応できなかった。

 久し振り?

 それは何に対する言葉なのだろう。

 僕はこの男と面識はない……。感じるのはただの恐怖だけである。

「お前が、ガーランドか」僕は思わず、そう口にしていた。

「そうだ。しかし、なぜ知っている?」

「ダグラスがそれに関することを喋っていた。だから漠然と、お前がそれに当たる人物ではないかと推測しただけだ。直感で」

「つまり貴様は、記憶を辿って吾輩の名前を呼んだわけではないのだな? まあ、そんなところだろうとは思っていた。しかし、貴様はいまの吾輩にとって、未知数の存在だからな。何をしでかすか分かったものではないという意味においては……」

「お前は誰なんだ!」僕は、彼の言葉を遮った。「どうして僕の前に現れる! 何らかの目的でもあるのか」

「目的?」そいつは首を傾げた。「あらゆる行動に目的があるとでも、貴様は思っているのか? 目的なき、盲目な、直観による行動というものは、万物に共通してみられる現象だ。むしろ目的を保持せず行動している存在のほうが遙かに多いように、吾輩には観察される。自由意志に基づく行動など、暗示のような幻想にしか過ぎない。この世界の住民のほとんどは、上位存在の影響を知覚することなく、盲目のまま死んでいくのだ」

「複雑な話なんて求めてない」僕は返答した。「僕を殺しに来たのか? ホワイトノイズを壊滅させようとしていた、真の黒幕はお前だろう?」

「何を焦っている」とガーランドは応えた。「貴様には、焦らなくてはならない理由があるのか? 吾輩と話していて、何か不都合なことでも?」彼はそういうと、右手で、左肘の部分を抑えた。

 何か青黒い液体が、そこから垂れていた。

 沸騰しているかのように――落下した雫からは泡が出ている。血液とは違う物質のようだ。

「吾輩は別に、ホワイトノイズを壊滅させようとはしていない。ダグラスとかいう男の手助けをしたのは、単純に、それが面白かったからだ。興味深い、とでもいうかな……」

 ガーランドはポケットから、何か――を取り出した。

 そしてそれを左肘ひだりひじへとくっつけた。

 僕は視点をそちらに向け、焦点を合わせた。

 それは白っぽい色をした、人間の『耳たぶ』だった。

 まるでスライムが物体を呑み込んでいくかのように、奴の左肘が『耳たぶ』を呑み込んでいく……。そしてそれを吸収しきると、先ほどからずっと垂れていた、謎の液体の流出が止まった。

 奴は〝肉体〟を吸収していたのだ――。

「それは……」

「これか? これは先程、近くで調達した人間のものだ」と奴は応えた。「大丈夫だ。貴様の探している小娘のものではない。近くを歩いていた警備の人間から狩ってきただけだ。どうせ警備にはクローン人間が多い。気にする必要などないはずだ。特に、お前の場合はな」

「……キメラなのか?」

「違う。人を捕食するのが、この世界の吾輩にとって、もっとも効率的な栄養補給だというだけだ。人間とその他の動物とでは、生命のエネルギーが異なるからな……」男は咳払いをした。「安心しろ、吾輩は別の世界からやって来た存在にしか過ぎない。お前は既に、そんな存在に会っているだろう? あの女と同じだ」

「あの女……?」

「分かっているだろう? お前の同位体、ルーシー・ムーンライナーだ」

「別の世界から来た、ということ?」

「そうだ。あの女がこの世界に来たのは、吾輩を殺すためだ。吾輩の存在を抹消するために、追跡を試みたというわけだ」

「じゃあ訊くけど、どうしてわざわざこの世界に来たんだ。この世界でいったい、お前は何をしているんだ。それに……」

「まず、貴様の前に現れた理由だが」とガーランドは切り出した。「それは、あと数日の間に、吾輩という存在が『かき消される』ことが確定しているからだ。あの女は万能だ。その気になりさえすれば、いつでもどこでも、誰だって、どんな物質だって消滅させることができる。いまだに吾輩が生き延びているのは、時空が乱れないようにするため、あの女が、手順に則って物事を進めているからだ。つまり、吾輩には残された時間が無い。だから、落とし前をつけに来たのだ」

「落とし前……? つまり?」

「貴様のする質問にはすべて応えよう。どんな質問でも、時間の許す限り返答してやる」

「僕の質問に応えることで、どうして落とし前がつくんだ? さっきから色々と喋っているけど、お前に何かメリットがあるように思えない」

 それに、もし僕を殺す気なら、わざわざ話し掛けたりなどしないはずだ……。そこに違和感を抱いていた。

 ガーランドは口を開いた。「世界というものは、調和を求めている。それは誰かの意志などとは別の次元でのことだ。換言すれば、これは契約における出来事の一つなのだ。吾輩は、それが世界にとって必要だから、ひとつの形として行動を起こしているだけだ。貴様の言う『メリット』は、見えざる形で、吾輩の望むところに還元される」奴は右手で、仮面の位置を調節している。「あとで詳しく話すが、貴様は記憶を消されている。それを恢復かいふくさせる役割、それが吾輩なのだ」

「記憶が……?」それは確か、ルーシーも言っていたことだ。僕は、彼女との会話を思い出していた。

「さあ、なんでも質問しろ。貴様にはそれをおこなう権利がある」

 質問。疑問。たくさんあり過ぎて、何を訊けば良いのかわからない。

 ただ、その中にも優先順位がある。僕は取りあえず、至急の案件について尋ねることにした。「宮雲楓は、どこにいる?」

「まだこの街にいるだろう」ガーランドは応えた。「その少女が歩いているのを、カラスの瞳を通して確認した。だが、吾輩には何の関係もないことだ」

「お前は肉体をカラスに変えられるのか?」

「そうだ。だが、この『ヒトの形』も『カラスの形』も、本来の吾輩ではない。これはこの世界に順応するための、形式的なものだ。器だとも言えるかな」

「彼女を探してはくれない、のか?」

「その義理はない。その要求に応えるつもりはない。権限の外側にある」

「じゃあ別の質問だ」僕は今度こそ、核心に迫ることを訊くことにした。この問いを解くために、僕はもう、何ヶ月も苦心してきたのだ。「時雨を……早乙女時雨の死因はなんだ? そして、誰が彼女を殺したんだ?」

 僕はそう言い、相手の顔を睨みつけた。

 銀色の仮面が不気味にこちらを見返す。この仮面の裏側で、こいつはどんな表情を浮かべているのだろうか。

 沈黙が少し続いたあと、そいつは奇妙な音を立てた。

 まるでそれは、悪魔の笑い声のようであった。

 金属みたいな音で、耳障りで、気分が悪くなりそうだった。底無しの井戸から響いてくるようだった。

 僕は……僕はそこで、自分の犯した過ちを、はっきりとした形で自覚した。

 こいつは、駄目だ。早く逃げなくてはいけない。話すのさえ危険だ。今すぐ耳を塞ぎ、安全な場所まで逃げなければならない。安全な場所。でも、それがどこにあるのか、僕にはわからなかった。僕はその場から、動くことができなかった。空間にはりつけにされたように……。


 奴は口を開いた。

「あの少女を殺したのは〝貴様〟だよ、滝鐘瑠理。お前が、ロストスピーシーズの最後の生き残りを殺したのだ」







 89


「え………」

 意味が分からない。

 何を言っているのだ。こいつは……。

「聞こえたはずだ。あの少女の死んだ原因が、貴様にあるということだ。吾輩はまったく、虚偽を述べてはいない。真実を口にしている」

「そんな……。いや、ふざけるな!」僕は反論した。「この街にはいくつも監視カメラが存在している。僕は最後に時雨と別れてからずっと、彼女に接触していない。科学的にアリバイは証明されている。それに、僕は自分がそんな行為をおこなっていないと知っている。動機だってないじゃないか! お前はデタラメを言って――」

「そうだ。これは科学的には証明できない事件だ」とガーランドは応えた。「しかしそんなことは、お前達もとっくに分かっているだろう? この世界には能力者がおり、科学技術とは矛盾した、魔法のような力を行使することができる。だから死因が分からないのであれば、そうした能力によって殺されたかもしれない、ということを、お前は検討しなかったのか? それとも、そんな単純なことを貴様に教えてくれる人間が、周りにいなかったのか? あの、正義を自称する集団において」

「それは……」

 能力者によって殺されたということを、まったく考慮していなかったわけではない。

 しかし、そんな能力を使ってまで、彼女を殺す必要がどこにあるというのだ?

 例えば、彼女の翼を狙っている組織なら、そうした行動を取ることもあり得るだろう。

 しかし、なぜ僕が、彼女を殺す必要がある?

 分からない……消えた記憶に関係があるというのか……?

「さて、吾輩もどこから話せば良いのか悩んでいるのだが、あいにく吾輩は、物語に出て来るような探偵でもない。解決役ではないということだ。事実だけを淡々と述べさせて貰おう……。まず、吾輩はお前に、以前から面識がある」

「以前……それはいつだ?」

「貴様の兄が死んだ後だ。ブラッドレインの武装蜂起が、一応の形で鎮圧されたあと……そうだな、二ヶ月ほどが経ってからか、吾輩はお前に会いに行った。何が目的かわかるか? 吾輩は、最も安全な形で、お前を殺すことを企てた」

「僕を……殺す……?」

「そうだ。お前はこの世界における、ルーシー・ムーンライナーの同位体だからな。目的を成就させるためには、お前の存在は邪魔なこと極まりない。できるだけ早いうちに、貴様を葬る必要があった。

 しかし、あの女と魂/精神のレベルにおいて、限りなく等しい存在であるお前を、誤った方法で殺せば、何が起こるか分かったものではない――吾輩のような、別世界から来た存在にとっては特にな。もしかすると、時間的な逆行が発生し、吾輩が強制的にこの時空間から飛ばされてしまう可能性もあった。

 だから吾輩は、『契約』を使って、お前を抹殺しようと計画した。

 そしてそれは、絶対に成功するはずだったのだ……。

 だが、その期待は裏切られた。吾輩は、そのような可能性が発生することを推測できなかったのだ。この星の『純粋な分身』に敗北したのだ。

 まさか、早乙女時雨が『予知者』であり、なおかつ運命に干渉できるなどとは思わなかったのだ。

 あの少女は本来ならば、別の用途に使えたのだが――その思念さえも看過せず、吾輩の企みを阻止したのだ。吾輩は、もっとうまくやれるはずだったのだ。あの少女を、吾輩にとっての通過点にし、上位階梯への門を開けるつもりだった」

「…………何を言っているのか、分から……」

「端的に言えば、早乙女時雨にも能力があったということだ。そして、その予知能力を利用して、この世界を――そして〝貴様〟のことを守ったのだ」

「…………」

「吾輩と結んだ契約により、早乙女時雨が亡くなった日に、『滝鐘瑠理は死ぬ予定だった』のだよ。

 つまり彼女は、お前の身代わりとして死んだわけだ。

 お前の結んだ契約のせいで、唯一無二の、お前よりも偉大で崇高で特殊な存在が消滅したのだ。

 それがどれほどの悲劇であるのかを知りもせず、貴様はのうのうと生きているのだから……これほどまで惨めで滑稽なものは、他にないといえるな」

「……僕はお前と、どんな契約を結んだっていうんだ。記憶を消したのは、お前なのか?」

「記憶を消したのは吾輩ではない。そして、記憶を消すことを決めたのは、貴様自身だ。貴様は契約自体を、忘れようと試みたのだ。先ほども言っただろう……お前は死ぬはずだった、と。だから貴様は自らの『契約に則った死』そして罪悪を忘れるために、仲間に頼って、記憶を消して貰ったのだ。

 お前の所属しているホワイトノイズには、数々の能力者がいるはずだ。記憶を消去したり、偽の記憶を埋め込んだりする――記憶の改竄かいざんをおこなえるロマンサーが存在してもおかしくない、ということは理解できるだろう?ああ、ちなみに、貴様の記憶を消したのはグラハムだ」

「所長、が……?」グラハム、それはホワイトノイズ極東支部の所長である、彼の名前であった。

「吾輩は奴のことを知っているからな。因縁のある相手のひとりだ……奴の能力ももちろん知っている。記憶を元に戻して欲しければ、あの男にお願いするのだな」

「じゃあ、所長は……知っていたというのか」

「グラハムがどれくらいの情報を握っているのか、吾輩には知り得ぬことだ。しかし、『貴様が吾輩と契約を結んだ』ということは、間違いなく知っていたはずだ。あの男は真相を悟りながらも、お前に話すことを躊躇っていたに違いない。記憶を改竄できるということは、その内容を充分に熟知しているということだからだ。他人の思考を解読し、精査し、違和感のないように作り替えるのが奴の能力だからな。

 奴はお前が違反行為をしていると知りながらも放置をした。それは未熟で若年な、無知なる貴様への配慮もあったのかもしれないが、それと同時に、ブラッドレインを完全に壊滅させるチャンスでもあったからだ。あくまでホワイトノイズは、どんな手を使ってでも正義を遂行する、国際機関によって援助を受けた特務組織だからな。目的のためなら、仲間をあざむくのも必要だと考えるはずだ。その両方の判断から、グラハムは黙秘を決めたのだろう」

「…………」

「そうだ――お前は、あのドッペルゲンガーのことを、誰かに話したか?」

「…………」

「やはりか、図星だな。どうしてお前は、あのドッペルゲンガーを目撃したあと、誰にもそのことを話さなかった? どうして早乙女時雨が亡くなったあと、所長や他の仲間に伝えなかった?

 どう考えても、そこには関連があるに違いない、と普通なら思うはずだ。たとえ該当する記憶が消されていたとしても、客観的な判断に従えば、それは当然のことだ。

 つまり……お前は無意識で、誰かに〝気付かれること〟を恐怖していたのだ。貴様は深層心理において、あのドッペルゲンガーを目撃したとき、自らが死ぬことに気付いていた。精神の領域、魂のレベルで悟っていたはずだ」

「だけど、僕は………」何かを言い返さないといけない気がした。でも、何も浮かばなかった。「僕はただ…………」

「契約の内容はこうだ」ガーランドは僕を無視して話を続ける。「数年前、ブラッドレインはホワイトノイズによって鎮圧された。それはブラッドレインに加入していた能力者を、全員殺傷することで無力化したからだ。ダグラスが生きていた、ということだけは、どうやら知り得る術を持っていなかったようだがな。

 だが、ブラッドレインを壊滅させたのは、あくまでも能力者を皆殺しにしたからであって、そこに加入していた人間全てを捕まえたわけではなかった。

 さて……ここからが重要ポイントだ。ブラッドレインにおける、〝能力を持たない〟戦闘員(兵士)と非戦闘員――これらの人間たちは、能力者が居なくなって、組織が事実上解体したあとも、逃亡を続けていたのだ。ある者は浮浪者に化け、ある者は持ち前の頭脳で科学者に溶け込み、ある者はキメラ化することで、ホワイトノイズの追跡を逃れた。ここら辺の記憶は消されているかな……?

 とにかく、そうした逃亡者たちはロマンサーではないため、ホワイトノイズにとって、捜索の優先度はかなり低いものになった。ホワイトノイズは四六時中、様々な危険に対処する必要がある。世界中へと散り散りバラバラになった、ブラッドレインの末端の人間――武装蜂起したロマンサーに、報酬などで雇われたような彼らは、そこまでの危険性がないと思われていたし、実際そうであった。

 吾輩は彼らの一部と接触したことがあるが、特に攻撃的な意志など持っていなかった。それもそうだ。ブラッドレインの理念/目的は、『能力者ロマンサーによる能力者ロマンサーのための独立国家』を築き上げることであり、能力を持たないメンバーにとっては、報酬の良い依頼主でしかなかったわけだ。

 だが――雇われていたのか、あるいは自ら志願したのかには関係なく――無能力者とはいえ、彼らの――ブラッドレインの思想に、多少なりとも賛同するところがあったから、普通の人間であるにもかかわらず協力したわけだ。

 第三次世界大戦以降、世界は混乱し、それに伴う国際統制機構が出来上がったわけだが、画一化されたシステムというものは、人によっては耐えられないほどの抑圧であるし、既存のものとは別種の、理念や思想に惹かれる人間のさがは、過去も未来もそう変わらないものだと言えるだろう。閉塞的な社会に対して風穴を開けることを夢見る、虚構を頭脳に内包する程の想像力を持った、知能指数の高い生命体の定めともいえる行動原理だ。だから本来は、そうした非能力者たちをそこまで責めることはできない。これは吾輩の意見ではなく、世間一般での意見を要説したものだ。

 さて、しかしここで、こうした結論に納得しない者が居たとしたら、それはどういう種類の存在だろうか。

 答えは単純明快だ。〈ブラッドレインに対して私怨を持っている人間〉だ。ブラッドレインのおこなった行為に、巻き込まれてしまった存在、そしてそのことにより、ブラッドレインを〈深く恨まざるを得なかった人間〉……もう、誰だか分かるだろう。


 貴様だ、滝鐘瑠理。貴様がすべての原因なのだ!


 ――単純に纏めよう。貴様は、ブラッドレインに兄を殺された恨みから、吾輩と契約を結んだ。その契約とは、『能力者であるじぶんの命と引き換えに、ブラッドレインの残党を皆殺しにすること』だ。

 残党は全部で十四人だった……お前は自らの生命と引き換えに、十四人を殺すことを決心したのだ。

 お前ひとりの存在と、十四人の命が釣り合うのか?

 その疑問に対しては簡単に応えられる。命の重みというものは、吾輩にとっては、生命の種類によって異なる。虫より哺乳類のほうが価値があると考えているし、他の動物より人間の方が上位の存在だと把握している。

 そして、普通の人間よりも、能力を持った人間――【星の分身】の血を引く者――つまりはロマンサーのほうが、遥かに価値がある。この星の起源に、より純粋である生命体ほど、希少であり、崇高な精神を保持している……。吾輩にとって、その差は天と地ほどだ。

 だから、貴様ひとりの命と、十四人の非能力者の命は、天秤に掛けたとき充分釣り合いが取れる。

 貴様は、契約を結ぶ決心をし、吾輩はそれに呼応する形で、お前と同形の〝ファントム〟を創りあげた。

 すなわち、お前がドッペルゲンガーだと認識した存在だ。

 あれは、お前の怨恨えんこんが、契約と結びついて作成された『幻影ファントム』そのものだったのだ。

 そのファントムは、お前の代わりに、残党を一人ずつ、長い期間を掛けて暗殺していった。ファントムは、お前の魂の一部を持ってはいるが、実体のない幽霊みたいなものだ。だから、よっぽど感応力の高い能力者のような存在でなければ、知覚することすら難しいだろうし、実体がないため、暗殺の際に何の手掛かりを残すこともない。監視カメラには写らないし、物体をすり抜けることも可能だ。それは幽鬼であり、虚空の中を移動する。エーテルの導くままに、それぞれの標的を探し出し、最も残酷だ、と思われる方法で残忍に殺していった。

 彼らを殺したのは紛れもなく、お前の魂の一部だ。その魂の一部は、最後に、本当は〔貴様自身〕を殺すはずだった。

 しかし、それは叶わなかった……予言者であり、最後のロストスピーシーズである、あの少女――早乙女時雨が阻止したのだ。ロストスピーシーズは紛れもなく純粋な存在だけを指す。つまり、吾輩の契約に干渉できるほど、上位の存在だというわけだ。

 あの少女の価値は、おそらく、貴様の十数倍だろう……。だからこそ、契約に介入することが可能だったのだ。

 ――お前を救うために・あの少女は・自らが代わりに死ぬことを望んだ!

 どれくらい先の未来までを視られたかは分からないが、予知によって、貴様が死んでしまう未来を閲覧してしまったのだろう。代わりに死ぬことを決心したからこそ、早乙女時雨は、自らの翼を売り渡すことにも同意したのだ。あの少女の里親は、それなりの借金を抱えていたからな……。

 より詳細なところまで語り尽くすのは難しいが、これ以上の説明は、お前を余計混乱させるようにも思えるが……。

 どうした、なぜ俯いている? これが、貴様の知りたがっていた真相だ。嘘だと思うのならば、お前の所長に訊いてみると良い。記憶を元に戻して貰えれば、すべてが即座に分かるからな。

 ……貴様は何を求めていた? 仮に吾輩がロストスピーシーズの生き残りを葬っていたとして、お前に何が出来たというのだ? 彼女のためと言いながら、心のどこかでは、自分の責任を誰かになすりつけられるとでも思っていたのか? 確かに貴様は、早乙女時雨を殺そうと意図していたわけではない。だが、殺したのは、紛れもなく貴様なのだ」

「……契約を……契約を結んだのは、ぼく、なんだろう……? だったら、どうして彼女が死ぬ必要がある。僕を殺せば……僕を殺せば良かったじゃないか」

「吾輩が結んだ厳密な契約内容は、命の等価滅却だ。


【①生贄いけにえとなる生命体の価値 ≧ ②意志に基づいて抹殺される生命体の価値】


 のとき、契約が履行される。

 そして②が履行されたあと、その反動のような形で、①がドッペルゲンガーに抹殺されるという予定だ。

 だから、②の履行をドッペルゲンガーが完了する前に、①の対象を変更することは可能なのだ。だがその時、変更することが出来る対象は、この契約の内容を知っており、なおかつ元の①――つまり今回だと貴様以上に価値のある生命体だけだ。

 その両方の条件を、早乙女時雨は満たしていた。②と①の抹殺作業をおこなうのは、吾輩ではなく、お前のドッペルゲンガーだ。それゆえ、早乙女時雨がお前のドッペルゲンガーに、『自分が身代わりとなること』を告げたのなら、それは実現するということだ。

 ①の価値は、大きければ大きいほど都合が良い。

 つまり……簡単にまとめれば、早乙女時雨の価値はとても大きかった。だからこそ、身代わりなどという異例の行動ができたというわけだ。

 おそらく早乙女時雨は、予知能力を行使して、貴様のドッペルゲンガーの位置を特定したのだろう。

 予知できなければ、貴様が死ぬさだめにあることも知らなかっただろうしな。

 そしてそのドッペルゲンガー――つまりはファントムと直接交渉し、自らが最後に殺されることを約束した。

 後は、彼女は自分が身代わりとなったことを、〝滝鐘瑠理(貴様)〟に悟られないようにするため、自殺だと思われるような【密室】を装った。

 その【密室】の中に、ファントムが入り込んで、息の根を止めたのだ。ファントムは早乙女時雨を殺し、それから消滅した。それに、早乙女時雨はわざとアポトーシスとの関連を作っておくことで、ミスリードをしたのだ。

 誰のためにミスリードをしたのか?

 それもこれも、貴様のためだ。貴様を生かし、守り、罪悪感を与えないようにするため、自らの命を、祈りとともになげうったのだ。

 最初から――早乙女時雨が亡くなった時点で、すべては終わっていたのだよ。貴様は余計な詮索せんさくをして、自らどつぼに嵌まってくれた……。

 お前を消せなかったのが残念だが、吾輩にとっての障壁は、結果的に、思いがけぬ形で叶ったのだ。そういう意味では、貴様に礼を言わねばなるまい」

「……………」

「返す言葉もないか? どうして俯いている? 貴様の望む真実を、吾輩は洗いざらい語ったのだぞ」

「どうして……どうして時雨なんだ……。彼女は、何も悪くない……。彼女には、何も、罪がないのに……、僕は……」

 何も見えない。

 視界が真っ白だった。

 思考がまとまらない。

 思考がどこかでショートしている。

 自分が立っているのか座っているのかすら分からない。

 声だけが亡霊のように、どこからか響いている。

「いやだ……僕は………うう………………違う……なんで………………………………でも、あう、……う、ううう…………………そんな…………誰か…………た………………」

 言葉が出ない。ゼイゼイと息が漏れる。唇が乾いているのがわかる。僕はとてつもなくおびえているのだ。死が目の前にいる。死が隣に座っている。いや、それは死なんかよりも、もっと恐ろしい、得体の知れない存在だ。僕は無間地獄の中に位置していた。罰せられないことによる、永遠の苦しみが始まろうとしていた。手が震えている。自動小銃を僕は持っているはずだ。手の感覚は無いし、視覚も壊れてしまっている。今すぐ、こめかみに銃弾を撃ち込んでしまいたい。僕は本気で、自殺について考えていた。

 ああ……駄目だ。真実は重すぎる。この、ガーランドという男の狙いは、これだったのだ。確かにこの男は、僕に何もしていない。ただ言葉を語っただけだ。

 しかし、言葉は時に、どんな暴力よりも残忍で、痛みを与える攻撃にもなり得るのだった。胸の奥で何かが千切ちぎれたようだった。胸の奥にある、蒼白く光る透明な線が、音を立てつつ、もがれていく音を確かに聞いた。これが、心が瓦解がかいする音なのか。




[回想]

 ――ですから、滝鐘さん。貴女は何も、責任を感じることなんてないんです。きっとそれは誰に対しても……。選択は、確かにやり直せないけれど、でも、その選択を乗り越えていくことは、誰にだって出来ることなんです。私はそれを、それだけを信じているんです。




 嘘だ。

 僕は、責任を感じなければならない。

 選択を乗り越える?

 誰にだって出来る?

 罪を犯した僕が――君を殺してしまった僕が、生きていても良いだって……?

 そんな訳はない。

 君は優しすぎたんだ。

 だから、そんなことが言えるんだ。

 君はきっと、自分というものを限りなく過小評価していたんだ。

 僕は、彼女によって、彼女の命によって生かされている亡霊だ。

 生きることはおろか、自分で死ぬことさえ許されていない……。

 君は僕が苦しむことを考えなかったのか?

 いや、それを考えていたからこそ、僕がわからないように細工をして、なおかつ、あのような励ましの――祈りの言葉を僕に投げ掛けたのだ。

 …………。


「誰もが真実を知ろうと手を伸ばしている」ガーランドは言った。「しかし真実というものは必ずしも、救いを齎すわけではない。時にはそれは、対象を断罪する効力を保持する。貴様は、記憶を消すことで自らの責任を忘れようとした――恐怖をかき消そうと試みたのだ。

 もしも貴様が、その記憶を消していなければ、早乙女時雨は殺されていなかっただろう。

 記憶を消しても、罪が消えるわけではない。すべての因子はあまねく残留し、長い歳月が経過したのちも、それは効力を持ちつづける。

 エーテルが充ち満ちている世界において、意識を持った存在は、理性や意思を通じて、絶えず不可視領域へと干渉している。知覚さえできぬ存在を認識し、理解をすることによって、夢幻からの恩寵を獲得できるのだ。

 恩寵には対価が伴う。彼らはだからこそ、存在に対して有限的な消滅の定めを与えるのだ。

 滝鐘瑠理、貴様は負けたのだ。

 お前は運命に打ち克つことができなかった、ただの無知なる子羊であり、契約を、知らず識らずに他者へと肩替わりさせた、罪深い恥知らずだ。

 さあ、どうする。すべてを知ったいま、貴様は何を望む?」







 90


 どのくらい、僕はそこに突っ立っていたのだろう。

 いつの間にか、あの男は屋上からいなくなっていて、僕だけが取り残されていた。奴はこれで、使命を果たしたのだ。

 所長に確認するまでもない。

 僕はあの日、確かに、ドッペルゲンガーを目撃したのだ。それは疑いのない真実だ。そしてその少し後に、時雨が死んだ。

 ………。

 僕は建物から出て、坂を下り始めた。

 自分がどこに向かっているのかも分からない。ただ足を動かしているだけだ。

 何も考えられない。考えたくない。体を動かすことによって、気持ちを紛らわせている。


 ――お前が殺したんだ! お前が原因なのだ! お前はそうやって、周りの人間を不幸にしていく。それがお前の宿命なのだ! お前は愛する人を奪われ続ける苦しみから逃れられない! お前は罪人だ! 生まれてきたこと自体が誤りなのだ!


 頭の中で幻聴のような声が聞こえその声は僕を責め立てる僕は反論のしようがないそれは事実であり本当のことだからだ。

 ああ……。

 頭が割れるように痛い。酷い頭痛だ。なんでこんなに苦しいんだろう……。

 僕は自動販売機でコーラを買おうとした。だけど、カードの入った財布を取り出そうとしても、うまく力が入らず、それを摑むことさえできなかった。それどころか、やっとのことで取り出した財布を落としてしまい、それを拾うことすら難儀した。

 財布からカードを取ろうとしたとき、僕は指に痛みを感じた。どうやら切ってしまったらしい。

 指を見つめる。赤い糸のような血がどんどん広がっていって、雫になって地面へと垂れた。血液はやけに生々しかった。それを見た途端、急に気分が悪くなってしまい、近くの茂みで嘔吐した。吐き気はなかなか治まらなかった。吐いても吐いても気分が悪く、胃液がすべて流れ出たかのようだった。口の中が苦い……。

 近くにあったベンチへと座った。ある程度回復するのを待つ。『ルーム』から絆創膏を取り出して怪我したところに貼った。それから、ふらふらとした足取りで、もう一度自販機の前に行き、僕は水を購入したあと、簡単にうがいをした。

 絶望、というものが具体的にどういう形か、僕はいま、身に染みて理解していた。

 きっと本当の苦しみというものは、肉体的なものではなく、精神的なものなのだ。

 自分が生きている、という事実そのものが、嫌悪感を引き起こす。

 誰か、誰か殺してくれ……。

 ひと思いに、苦しまないように殺してくれれば良い。自分で自分を撃ち抜くより、他人に撃ち抜いてもらったほうが、遥かに幸せで、苦しみのないことだ。

 雲は、風によって洗い流されたようで、星がチラチラと頭上で輝いていた。

 空はほんの少し、濃紺色へと変わり始めているような気もする。あと何時間かしたら、夜明けなのだろう……。

 僕はベンチから立って、再び歩き始めた。

 そうだ、僕は楓を探さないといけない。いろいろ考えることはある……でも、今はまず、為すべきことを為さなければならない。マロンとミルンは、今頃どうしているだろうか……。

 街はかなり広い。

 大都市、というほどではないが、端から端までの距離で考えれば、それくらいの規模はあるだろう。大きなビルも、それなりに建っている。

 遠くのほうには遊園地が見えた。彼女は遊園地に行ったのだろうか、となぜか思った。

 それは直感のようなものだったが、僕はそれに従うことにした。







 91


 遊園地へと向かうとすれば、必然的に、僕は橋を渡ることになる。

 あの、ドッペルゲンガーを目撃した橋だ。白色であり、それは明るくなり始めた景色の中で、いっそう白さを増していた。

 日が地平線から昇るまで、あと三十分くらいだろう。

 カラスはすっかりいなくなっていた。白い鳩たちが、その橋の上空あたりで滑空をしている。二十羽くらいだろうか。そのくらいの鳩たちが、群れで飛んでいるのだ。その白色は、橋の白色と同じくらい、綺麗に輝いていた。

 満月が西の空、低い場所で光っていた。

 地平線近くの月は、なんとなく、より黄色味を増しているように思えた。

 雲はもう、ほとんど洗い流されていた。今日は快晴になるのだろう。

 車の往来はほとんどない。みんな、朝を迎える直前の、あたたかな夢に浸っているのだろう。

 枕の向こう側に広がる夢の世界、それは人にとっては、現実と等しいものに違いない。

 たとえ虚構の世界であっても、それが本当に存在すると思ったとき、その世界はその人にとっての、紛れもない経験上の事実となるのだ。

 むかし、小学校の……二年生のときだったか、夢の中で夏休みを過ごしたことがあった。それは夏休みが始まったころに見た夢で、つまり僕は、二つ分の――二倍の長さの休暇を、味わうことができたのである。

 僕は、それが夢であった、とは思っていなかったから、とても驚いた。

 そして兄さんに、その出来事についていろいろ尋ねた記憶がある。「夏休みは、もう終わったはずなのに、どうしてまだ続いているの?」と。

 すべてが夢であったら、と思う。

 すべてが悪夢であり、だからこそ不幸が次々に引き起こされているなら、早く目覚めて、楽になってしまいたい。

 もしもこれが夢ならば、僕は死ぬことで、この悪夢から逃れられるのだろうか。

 夢の中で、それが夢であると証明する方法はないのか。

 ……たぶん、ないのだろう。夢から覚めることは、外部からの働き掛けなしには、叶わないのだろう。

 このまま朝日が昇ってこなきゃ良いのに……。

 太陽がなくなってしまえばいい。

 そうすれば、もう、なにも考えなくて済む。

 考えないということは、それはつまり、悩まなくていいということだ。誰も好きこのんで、悩もうとはしない。

 目を閉じて、安らぎとともに、暖かな場所で眠っていたい。

 太陽が消え、静寂が訪れたその世界では、無限の星々がまたたくのだろう。

 あの光は、遠い過去のものだ。もうないのに、そこにある、幻のようなもの。

 僕らは、幻を見て、暮らしているのだ。

 誰かが生きていた証なんて、それと同じようなもの。

 生きていることを証明することはできない。死んで、月日が経ったら、生きていたことをどうやって証明できるだろうか?

 普通の人はこう思う――生きていたときの写真や映像、それに遺骨が残るじゃないか、と。

 しかし、それらはいくらでも偽装が可能だし、生きていたことをそのまま表しているわけでもない。全部間接的だ。他人の記憶に残る自分なんて、一面だけの、儚い虚構のようなもの。

 僕は、僕は自分を、誰かに知ってもらいたかった。自分は生きていた――たしかに、生きていたということを……。

 兄さんだって、時雨だって、みんなみんな生きていたのだ。

 生きていたことを、誰かが永遠に覚えてくれるならば、それはとっても幸せなことなのだろう。まるで虹のように。







 92


 僕は橋の前まで到着した。

 全長三百メートルほどの橋だが、車はすっかり通らなくなってしまっていた。この時間帯は、深夜よりも交通量が少ない、とどこかで聞いたことがある。

 あのヴァーチャルの世界のように、白い柱が両側に立ち並んでいる。それなりに大きい橋のため、この部位が必要なのだろう。

 僕は歩道を歩いていると――進行方向、百メートルほど離れたところに、奇妙な存在が見えた。ヒト……らしきものが、橋の欄干らんかんのうえに立っていたのだ。

 しかもその場所は、僕があの日、ドッペルゲンガーを見たところと、まったく同じ位置だった。

 その人――彼女は、橋の色よりも白いワンピースを着ていて、欄干に立ったまま、水平線――日が昇るほうを眺めていた。まるでこれから、日の光を、最後のものとして鑑賞するかのごとく……。

 それは、楓だった。

 楓が欄干のうえに立っていたのだ。まるで、何かを悟っているような表情で。

 僕はおそるおそる近づいた。

 彼女はやはり、とても危険な状態にあるのだ。

 橋は、かなり高い場所に設置されている。もしも川に落ちたら、助かる保証はどこにもない。それほどの高さであると言えた。

「楓」

 僕が呼びかけると、彼女は振り向いた。

「そこで何を……」

「あなたには関係のないこと」彼女はいった。「ほうっておいて」

「だけど……」

「ニュースを見たの?」

「うん」

「ならわかるでしょう? もう、構わないで」

「飛び降りるつもり?」

「そう。だから、朝日が昇ってくるのを待っているの。水平線に雲は少ない。最後の景色には、きっとうってつけの光景に違いない」彼女は服のそでをいじっている。「それ以上、少しでも近づいたら、今すぐ飛び降りるから」そう話す彼女の表情は、真剣そのものだった。

「どうして死のうと思ったの?」

「じゃあ、あなたはどうして生きているの?」

 その質問は、今の僕には、とてもきつい言葉だった。「そんなの、僕にもわからないよ」

「生きている理由がわからないのなら、いつ死んだって構わないでしょ。わたしはそう思う」

「きみの家庭は確かに不幸だったかもしれない。でも……」僕はいった。「これからも、同様に不幸であるかなんて、わからないじゃないか」

「説得しているの?」

「いや……」自分でもよくわからない。僕には他人の生き方に、口をはさむ権利なんてないのだから。「率直な意見だよ。ひとつ年上の先輩からの」

「あなたが、わたしにとっての、つかの間の逃避場所を用意してくれたことには感謝している」楓は、風で乱れた髪をととのえながら言った。「短い間だったけれども、それは楽しかった。だからもう、悔いはない」

「そんな……」

「未来はたしかに決まっていないのかもしれない。でも、だからこそ、自分がいちばん幸せだと思っている時に、自分で自分の人生を終わらせることは、きっと罪にはならない。わたしはそう思う」

「…………」

 それはまるで、時雨が死を選んだかのように。

「たぶん人は、生まれた時点では不完全な生き物なの」と彼女はいった。「自分で自分の命を、絶対的な意志をもって終わらせることが、人が人としての尊厳を持ち得るゆえんだと思う。それは、動物や虫にはできないこと。生きていることはバグのようなものだって、むかし、小説で読んだことがある。そのバグが、自分にとってあまりにも大きくなってしまったとき、取り除く権利を人は持っている。だから、そうするの」

「……それは、ひとつの考え方だよ。絶対なんかじゃないよ」

「わかってる。でもわたしは、その考え方を採択したいの」

「…………」

「ネッシーは、人々に殺されたんだよ。あまりにも特異な存在だったから、よってたかって、みんなが潰しちゃったの。壊しちゃったの。ただ、普通とは違うというだけで。人は、普通とは違うものを排除しようとする。むかしも、いまも、変わらないまま」

「僕は……」

「滝鐘、さん……?」彼女は初めて、僕の名前を呼んだ。「わたしはあなたのことを、うまく理解することができなかったと思う。わたしがとても変わっているように、あなたもとても変わった人だった。だけど、理解できない相手だからこそ、逆に、親しみを持つことができた。

 わたしはお父さんやお母さんが大嫌いだった。だから、ニュースで訃報が流れたときは嬉しかった。でも、それは乾いた感情で――嫌いな人達だったけれど、彼らのことは理解することができた。だからこそ、余計に嫌いだった。自分もいつか、あんな風に汚れてしまうんじゃないかって……。

 わたしはわたしが大嫌いだ。輪郭、口調、ちょっとした癖、表情、匂い、好み……ちょっとでも親に似ているところを見つけると、とても気分が悪くなる。自分を壊したくなる。ずっと抑えつづけてきた。我慢してきた。

 でも、もうそれも終わり……。わたしは死に場所を探していた。ずっとずっと探していた。わたしはここで、わたしであることから解放される。肉体的な制約から解き放たれる。わたしを縛り付ける様々な概念から、私自身を救い出さなきゃいけない。

 それは、いまじゃないとできないこと……。滝鐘さん、あなたなら、理解してくれるかな……?」

「…………」僕は……。

「…………」

「ぼくは……………」

「?」彼女はこちらを見ている。

「でも……僕は、君に、生きていて欲しい、と思う。長くはない付き合いだったけれど、やっぱり、それは間違っているよ……。そんなことは……」

「じゃあ、あなたが殺してくれる?」

「え……?」

「あなたが普通の人じゃないことは知ってる。きっと、罪には問われないんでしょう? 拳銃だって持っているはず」彼女は腕を広げた。「私を殺してくれる?」

「そんな……」

「…………わかってる。あなたにできるはずはない。それに、人を殺したという事実は、一生、その人を苦しめることになるもの……」

「……………」

 彼女の立つ欄干の向こうから、陽の光が射し込んできた。

 それは朝焼けをつくり出し、空がさまざまな色で混じり合っていく様子は、とんでもなく幻想的だった。

 遠くのほうに、ひと筋の飛行機雲が延びていて、まるで、蒼穹を二つの領域に分断しているようだった。

 長い沈黙が流れた。

 それはもしかしたら、永遠より長かったかもしれない。

「それじゃ、さよなら。滝鐘さん。最後に、あなたに会えてよかった……」楓は微笑んでいた。少し涙をにじませながら……。「ありがとう」

 彼女はそういうと、目をつぶって、橋の欄干から飛び降りた。







 93


 僕は欄干まで走った。

 もうすでに、視界からは消えている。

 間に合わない。間に合うはずがない。

 でも……、

 そんな、こんなのって……。

 僕は、下界を見下ろした。

 落下していく楓の肉体。

 まるで人形のよう――。

 スローモーションに見えた。

 身を乗り出し、手を伸ばす。

 でも、彼女は遥か先に居た。手は虚空を摑む。

 もう、終わりだ。

 僕は何も反論できなかった。

 説得することができなかった。

 これで、四人目だ。自分の周りの、大切な存在が亡くなるのは。

 まずはお母さんが死んだ。

 それから兄さん、そして時雨……。

 僕はきっと、間接的に、周りの人間を不幸にしていくのだ。

 しかも……僕は殺人鬼だった。

 不当な手段で、違法に十四人の逃亡者を抹殺した……。

 こんなひとでなしが、救われるはずもないのだ。

 罪はずっと許されない。

 一度過ちを犯したら、こうやって、生きている限り永遠に、苦しみを味わわなければならないのだ。

 こんなことなら、ガーランドの話を聞いたあと、すぐに自殺していれば良かったかもしれない。

 それとも楓に、一緒に死ぬことを提案すれば良かったのだろうか。心中だったら、もっと恐怖も和らいだだろうに……。どうしてそのことを、僕は思い付かなかったのだろう……。

 楓……。

 洋服が風を受けてはためく。

 僕は目をつぶった。

 もう、見ていられなかった……。

 もう……………

 …………………

 …………………

 …………………

 …………………

 …………………

 …………………?

 なにかがおかしい……。

 水面にぶつかるはずの時間が経過したのに、何の音も聞こえない。

 僕は目を開けた。

 すると――彼女は居た。彼女は落下せずに、空中で静止していた。

 より正確に説明すると、彼女の体は、なにか大きな布のようなもので、受け止められていたのだ。

 空飛ぶ絨毯じゅうたんのようだった。それがクッションのように、彼女をキャッチしたのだ。

 僕は周囲を見回した。

 すると、そこにいた。

 橋の向こうのほうに、双子が。

 そうか、これは念動力だ。ミルンの能力――念動力で布を浮かせているのだ。

 双子の近くには自動車が停まってあって、運転席にはメリーが乗っていた。

 彼は車から降りると、手を振りながらこちらへと近づいてきた。

「よう、なんとか間に合ったぜ。お前が時間稼ぎしたのか」

「メリー、どうしてここに……!」

「焦ったぜ。きっと俺ひとりだったら、駄目だったかもな。それより、早く彼女を落ち着かせないと」

「う、うん……でも……」

 メリーは僕の話をさえぎった。「お前の言いたいことはわかるぜ。前後関係については、ここに来る前にきちんと把握しておいたさ……。運転中、双子からも、じっくり事情を訊いておいたしな」メリーは溜息をついた。「自殺を止めるのが本当に正しいことなのか、お前は問おうとしているんだろう? それに対する俺の答えは、こうだ。悩んでいるガキを導くのは、大人の役割だ。瑠理、それはお前の役割じゃねえ。お前が言葉で彼女を引き留めることができなかったのは、仕方のないことだ。お前だって、まだ中学生のガキだからな。ま、とにかく俺が言いたいのは、哀しそうにしている子供を救うのに、理由は要らねえってことさ」

「ごめん……僕は……」

「謝るこたねえよ。あとは任せな。最善の結果に向かうよう、俺たちで努力するからさ」

 メリーはそういうと、楓のほうへと歩いていった。

 明るい陽光が、世界を照らし始めていた……。







 94


“Nun sterbe und schwinde ich […] und im Nu bin ich ein Nichts. Die Seelen sind so sterblich wie die Leiber. Aber der Knoten von Ursachen kehrt wieder, in den ich verschlungen bin, — der wird mich wieder schaffen! Ich selber gehöre zu den Ursachen der ewigen Wiederkunft. Ich komme wieder, mit dieser Sonne, mit dieser Erde, mit diesem Adler, mit dieser Schlange — nicht zu einem neuen Leben oder besseren Leben oder ähnlichen Leben: — ich komme ewig wieder zu diesem gleichen und selbigen Leben, im Grössten und auch im Kleinsten, dass ich wieder aller Dinge ewige Wiederkunft lehre, — dass ich wieder das Wort spreche vom grossen Erden- und Menschen-Mittage, dass ich wieder den Menschen den Übermenschen künde. ”

  ("Also sprach Zarathustra", (Der Genesende 2))




「さあ私は死んで消え去り、(…)たちまち無となる。魂だって肉体と同じく死すべきものなのだ。だが私を巻き込む色んな原因のもつれはまた戻ってくる、――それは私を再び生み出すだろう! 私自身が永劫回帰の原因の一つなのだ。私は再びやって来る、この太陽、この大地、この鷹、この蛇と一緒に、――何か新しい人生にでもより良い人生にでも似た人生にでもなく――私は永遠に繰り返しこの、細大漏らさず全く同じ人生に帰って来る、再びあらゆるものに永劫回帰を説き、――再び大いなる大地と人間の正午のことを語り、再び人間に超人を告げるために」

  (『ツァラトゥストラはこう語った』(回復しつつある者、2))







 95


 しばらく、僕は自宅で休んでいた。学校にも休みの連絡を出しておいた。

 ベッドに寝ころんで、なにも考えないようにしていた。

 なにも考えず、食べて、寝て……。

 双子はあの日以降、ホワイトノイズ極東支部へと帰ってしまっていた。

 楓もいないし、つまり、家には僕ひとりということだ。彼らが来る前の、本来の状態に戻ったのであった。

 なんとなく、寂しい気がした。

 以前はどんな風に過ごしていたのか、うまく思い出せなかった。

 一週間くらいが経った頃だろうか、メリーがやって来たので、家の中に入れた。

「あいつの言っていた、ガーランドとかいう男だが」メリーはソファーに座っている。「どうやら、誰かが始末したようだ。どこかから情報提供タレコミがあって、そんで現場に調査員が赴いたら、連絡通り死体があったらしい。情報提供者は不明だ。匿名希望だそうで、逆探知してもわからなかった……。その死体をダグラスに確認させたが、間違いないとの事だったよ」彼は脚を組み直した。「なぜ、どのように殺されたのかは不明。俺も写真で見たが、なんだか奇っ怪な見た目で、どうやら部分的にキメラ化しているようだったが……」

「うん」

「ルリ、お前、なにか知らないか?」

「ううん。別に……」

「そうか……」彼はカメラをこすってから、大きく伸びをした。「ああ、それで、宮雲楓のことなんだが、彼女は施設に預けることにした。施設といっても、病棟のような場所というわけではない。管理的な雰囲気を、できるだけ感じさせないつくりになっていてな、開放的だから、心身的にも負担なく、穏やかに暮らせるところさ。もし、お前が望むなら、いつだって彼女に会いに行けるよ」

「そう……。ありがとう、わざわざ手配してくれて」

「別に構わねえよ。そんなこと」

「彼女の状態は?」

「いちおう落ち着いている。食事もきちんと食べているらしい。やはり、虐待されて憎んでいたとはいえ、親は親だからな……実の両親が、家出中に殺し合っただなんてことをニュースで見たら、俺だっておかしくなるね。まあ、病んでいるときは、休むことが一番大切だからな。これからも経過を見守るしかない……。まあでも、大丈夫さ。お前だって、立ち直れたんだし……」

「僕はまだ、立ち直れていないよ」

「ふうん。そうか……。でもまあ、立ち直れなくてもさ、生きていくことはできるんだから、それでいいんじゃないかって、俺は思うけどね。お前は、自殺とか考えていないよな?」

「別に……」

「自殺は駄目だからな。お前が死んだら、少なくとも俺はめちゃめちゃ悲しいし――もし、お前の兄が生きていたら、絶対に止めていただろうよ」

「うん」

「なんか気のない返事だな。メシは食ってるか?」

「食べてるよ、適当に、カップ麺とか」

「もっとまともなもの喰えよ。そうだな、俺が連れて行ってやるよ。もっとも俺はサイボーグだから、なにひとつ食えやしないけどな。ハッハッハ」

 そんな感じで、メリーと一緒に、どこかへ食べに行こうという話になったのだけれど――突然用事が入ったらしく、メリーは帰ることになった。それほど仕事が立て込んでいるということだろう。

 端末でメールすれば済むところを、忙しい暇をって、わざわざ僕に会いに来てくれているのだ。

 きっと、彼なりに心配してくれているのだろう。僕にはそれが、充分理解できた。

 彼を見送るため、エレベーターで一階まで降りる。

 別れぎわ、僕はマンションの前の広場で、彼に訊いた。

「そういえばあの時、どうして僕の場所が分かったの?」

「あのときって?」

「橋で僕を見つけたときだよ。あのとき、マロンとミルンに僕の居場所を教えていなかったし、それに、端末だってバッテリーの残量がなくなっていたし……位置特定はできなかったはずじゃ?」

「はあ……? お前、自分のしたことを忘れたのか? それとも、とぼけちゃってるのか?」メリーは訝しむようにそういった。「お前が橋の近くの公園で、公衆端末から、直接俺へと連絡を寄越よこしたんだろうが。しかも、電話でさ」

「僕が……?」

「そうだよ」彼はキーを回し、エンジンを作動させつつ言った。低音が気持ちよくお腹に響く。「なんでそんな質問をしているのか、意図がサッパリわからんが――あれは間違いなくお前の声だったぜ。なんかいつもと口調が違うし、ちょっぴり不安だったから、コンピュータで判定させて貰ったが、声紋も同じで――」

「それで?」

「だからこそ一般回線なのにもかかわらず、それを信用することに決めたのさ。俺はお前に伝えられたとおりの場所に、双子を連れて駆けつけた。双子がどこに居るかを教えてくれたのも、まぎれもなくお前だろうが。そんで途中で拾ってさ、そのまま現場に一直線だったっつうわけ。まあいいや……おれ、いま結構慌ててるんだよ。とにかく元気でな、じゃ」

 彼はそういうと、カーウィンドウを閉め、そのまま走り去ってしまった。

 そうか……。

 やはり、

 やけにタイミング良く仲間が駆けつけてきたと思ったら……。

 僕と、同じ声の持ち主。

 考え得る限り、それはたった一人しか居ない。

 あの、金髪の魔法使い……。

 ガーランドを殺したのも、おそらく彼女なのだろう。

 彼女は、なぜ僕を助けてくれたのだ?

 それに、どうしてガーランドを、もっと早く殺さなかったのだろう……。

 わからない。その他にも謎はたくさんある。

 でも、僕はとりあえず、得体の知れないコーヒーゼリーに包まれるかのような安堵に浸っていた。

 何はともあれ、すべては終わったのだ。

 しかるべき所に収束したのだ。

 あとはそれらの出来事を、僕がどう解釈していくか、の問題だけであった……。







 96


 僕はそのまま、ひとりで夕食を食べに行くことにした。

 バスに乗って、あてもなく街をさまよう。

 数々の客が乗っては降りていく。まるでそれは、大きなカバが水を飲み込んだり、吐き出したりしているようだった。

 今日はどこか、遠い場所で食事がしたかった。自分の知らないレストランで、ゆっくり、イタリア料理でも食べたかった。

 街の端から端まで、かなりの距離がある。

 そうだな、終点の所まで行こう。

 僕は窓ガラスの枠に腕をのせて、それで頭を支え、しばらくぼんやり景色を眺めていた。

 車窓の外を流れていく景色は、平和そのものだった。

 たくさんのビルが建ち並び、夕陽を受けてキラキラと輝いている。

 どうして人は、あんなに高い建造物を、今も昔も変わらずに、造ろうとするのだろう。まるでそれは、草木が太陽の光を浴びて、上へ上へと背丈を伸ばしているようだった。

 でも、人は植物とは違い、あの空の先になにがあるかを知っている。どんなに背を伸ばしても、そこには虚空しかないということを……。

 かつて、あの空の向こうに天国があったと信じられていたころは、きっと幸せに、この世界で暮らすことができたのだろう。

 星々や月の光は、神によって与えられた、慈愛のようなものだったかもしれない。

 でも、時代が移り変わり、真実を自らの手で摑み取ったとき、その甘い虚像は、音を立てて崩れ落ちたのだ。

 幸せな幻影のなかで、いつまでも生き続けることができたのなら、それはとっても素敵なことだっただろうに……。

 僕は、遠い未来や過去のことを考えているうちに、だんだんと眠くなってきた。

 どうせ、終点についたら誰かが起こしてくれるだろう。僕はそう考え、安心して睡魔を受け入れた。

 意識がファジーになって、灰色の幕が瞳を閉ざそうとしていたころ、僕は遠い世界に、自分を呼ぶ声を聞いた。

「瑠理ちゃん!」

 僕は目を覚ます。目の前に立っていたのは、仲町茜だった。

 彼女はつり革を摑んだまま、こちらを向いていた。「あ、ごめん、起こしちゃったね……。でも、会えて嬉しかったから、つい」

「茜……?」

「そう! いまね、学校の帰りだったんだ。部活動が終わったところ。もうすぐ地区大会があるから、練習が立て込んでいてさ〜」

「そうなんだ……」僕はまぶたをこすりながら尋ねた。「なんの部活?」

「アイスホッケー。わたしの学校、体育館がふたつあってね、もう一つのほうがスケート場になっているんだけど、そこで練習できるんだ。一日交替で、フィギュアスケートの部員と入れ替わらないといけないから、そこまで大変って訳じゃないんだけどさ」

「へえ、茜、アイスホッケーやってたのか」

「そうだよ。まあ、そんなに強いわけでもないし、高校行ったら辞めるつもりだけど……」彼女は、僕の隣の席に座った。「瑠理ちゃんは何か用事? 家のある方向とは、反対に思えるけど……」

「ああ、今から食事を食べに行こうと思ってね。どこか、遠くのほうで」

「食事?」

「うん」

「もしかして、一人で行くかんじ?」

「そうだよ。別に、誘う相手もいなかったし」

「あの双子の女の子とか、いとこの子は?」

「もう帰っちゃったよ。みんなそれぞれ忙しいからね……」

「なるほどなるほど」彼女はうなずいた。「じゃ、私、一緒に行っていい?」

「えっ」

「あ、もし良ければ、ってことだよ! 嫌なら嫌だってはっきり言って大丈夫だから! 私も、ときどきは一人で食べたいとき、あるし」

「いや、全然構わないよ。それじゃあ一緒に食べようか。でも、君の親が心配しないかい?」

「それなら大丈夫。学校の友達と食べたってことにするし、今日はお母さん、仕事が遅くまであるからさ、たぶんバレないと思う」

「そっか、なるほどね」

 茜はアイスホッケーをやっていたのか。今更ながら知ったことであった。

 僕はあんまり、自分から誰かに話しかける、という経験が少ない。

 向こうから話し掛けられたら、状況に合わせて、有効的に振る舞ったり、素っ気ない態度を取ったりするけれど、こちらから働きかけたり誘ったり、はたまた提案したりはほとんどなかった。皆無、といえた。

 仮に僕が、茜よりもあとにバスへ乗り込んでいたとして、眠っている彼女を見つけても、多分話し掛けず、そのままバスを降りていると思う。

 それだけの勇気が、僕にはないのだろう……。自分が劣っていると、強く感じた。

 僕たちは終点まで行かず、レストラン街でバスを降りて、それからイタリア料理店を探した。

 様々な店舗が並んでいるため、比較的スムーズに、目的に適ったお店を見つけることができた。

 ゴールデンタイムだったけど、平日なので、そんなに混んではいなかった。

 僕たちは店内に入り、隅のテーブル席へと座った。

 注文を終え、僕たちは話し始めた。

「それにしても、しばらく会えなかったね……。メールしても、なかなか返事、なかったし」茜は残念そうにそういった。「本当は勉強会、したかったんだけどなぁ……。まあ、でも仕方ないね。瑠理ちゃん忙しかったみたいだし」

「うん……ごめん」

「ううん、謝らなくて良いよ。ごめんね、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。ただ、瑠理ちゃんともっと遊びたかったな、って……」彼女はストローで、氷をいじっていた。「あ、そうだ! 夏休みに、遊園地とか行かない!? 隣町のあの遊園地、半年前に改装工事をやったらしくてね、新しいアトラクションとかできているらしいよ! ねえ、今度一緒にどう!?」

「夏休み?」

「うん! それなら、お互い予定も空くだろうし……」

「そうだね。夏休みなら遊べると思う」

「じゃ、決まりね! じゃあ、他にも誰を誘うかとか、具体的な予定は、もっと近づいてきたら決めるということで……。私、実はジェットコースターとか、乗ったことないんだよね。メリーゴーランドとか、コーヒーカップとかなら、何度か乗ったことあるんだけど」

「ふーん」

「瑠理ちゃんは乗ったことある?」

「あるよ」

「怖かった?」

「うーん、初めて乗ったときは緊張したけど、そんなに怖くないよ。怪我しないとわかっている乗り物を、怖いと感じたことはあんまり無いな。僕はむしろ、普通の自動車のほうが怖いかもしれない。まだ免許は持ってないけど、人を轢いちゃうかもしれない、って可能性のほうが、もっとスリルがあると思うよ」

 茜は笑った。「面白いね、瑠理ちゃんの考え方」

「そうかな……」僕は頭をかいた。

 料理が運ばれてきたので、僕たちは食事を食べ始めた。彼女はピザで、僕はリゾットだった。

 スプーンを使って、ライスとスープをゆっくり口に運ぶ……。

 彼女は結構ガツガツ食べていたけど、不思議と、そこに下品さは感じられなかった。彼女の持ち前の明るさと、芯の通った清らかな精神が、そうした動作を可能にさせているのかもしれなかった。僕は昔読んだ、太宰治の『斜陽』に出てくる登場人物を思い出していた。そこに、奇妙な上品さを伴って食事をする、ひとりの貴婦人が描かれていた、と記憶している。もしかしたら、勘違いかもしれないけど。

 それにしても……。

 それにしても、どうして僕は、こんなに普通の生活をしているんだろう。

 こうして、誰かと一緒に、楽しく会話して、食事をしているだなんて……。本当に、こんなことをしていて良いのか……?

 僕は唐突に、あの日、時雨と食事をしたときのことを思い出した。

 あの日も、こんな感じの夕暮れだった。

 もしも、あの時に戻れるのなら――

 僕は……

「だ、だいじょうぶ?」

 茜の呼び声に、僕は顔を上げた。「え?」

「泣いているみたいだけど……」彼女は心配そうな表情を浮かべて、僕の顔を見つめている。

 僕は手で、自分の頬を触れた。

 たしかに、濡れていた。

 気付かぬうちに、泣いてしまっていたのだ。

「わ、わたし、何かマズいこと言った……?」

「え、いや、違うよ」僕は慌てて理由を作った。「このリゾットが美味しかったからだよ。美味しすぎて、涙が出て来たのさ」

「本当に、だいじょうぶ……? 瑠理ちゃん、やっぱり、何かあったんじゃ……?」

「いや、本当に大丈夫。ありがとう、心配してくれて……。大丈夫だから、本当に……」

 僕はそう言いつつも、自分の涙が止まらないことを自覚していた。

 抑えなきゃ、と思っているのに、涙がどんどんこぼれて落ちていく。

 僕はハンカチを取り出して目に当てたが、すぐにビショビショになってしまった。テーブルの横にあったナプキンも利用した。それもすぐに洪水してしまう……。

 あふれるような感情の流出が、涙として発露してしまっていた。

 自分を維持していた殻が、破れていくようだった。

「うう……」

「瑠理ちゃん、わたし……」

「ごめん……先に、帰るね……」僕は、財布から紙幣を抜き取ってテーブルに置き、そのまま、店の外へと駆け出した。

 もう、何も聞こえなかった。







 97


 どこをどんな風に走っていたのか、まったく覚えていない。

 気がついたときには、自宅のベッドの上にいた。

 どうやら涙がれるまで、ずっと泣き続けていたらしい。

 目が腫れていて、少し、痛かった。

 ひとりぼっちの家。

 藍色あいいろの部屋。

 孤独の空間。

 時計の秒針が、意識を刻んでいる。

 その音だけが、やけに大きくて……。

 しばらくは、何もできなかった。

 クッションのなかに身体が沈んでいった。底なし沼であり、それと同時に、自分を受け止めてくれるライ麦畑でもあった。

 ――君はもっと休む必要がある。

 そう、僕は休まないといけない。時が経過するのを、待たなければならない。

 心を癒やしてくれるのは「時間」だけだ。僕も、楓も、みんなみんなそうだ。時は平等に刻まれつづけ、誰の下にも舞い降りる。どこにいても。どんな時代でも。

 今の僕には、あの時の彼女の発言が、確固たる理解と共に、深く深く実感することができた。

 僕はずっと眠っていた。何日もベッドから出なかった。時々トイレに行き、お茶を飲み、シャワーを浴びるだけ。

 眠っていると、苦しみが和らぐ。やわらぐ気がする。夢は見なかった。

 ふと、目が覚める。

 今は何時だろう……。

 疑問。

 それから食欲――もう数日間、何も口にしていなかった。

 生理的な渇望が僕を奮い立たせた。

 僕はやっとのことで起き上がり、冷蔵庫まで行って、パンを食べた。

 マーガリンとジャムを塗って……。

 咀嚼そしゃくしつつ、ミルクと一緒に流し込む。

 心地よく喉を通っていき、胃へと落ちた。

 喜んだように、お腹が鳴る。

 生きているから、お腹が鳴るのだ。そんな単純な事実に、僕は驚いていた。

 部屋を見回す。

 もうだいぶ、掃除をしていないことに気付いた。それから雨戸も閉めておらず、薄いカーテンから、景色が透けて見えた。

 今は真夜中だけど、外はぼんやり輝いていた。どうやら月が出ているらしい。

 僕はベランダに出た。

 半分に切り取られた下弦の月が、空の端っこから、斜めに僕を照らす。

 星々も、狂ったように輝いていた。天の川が、左上から右下へと、空一面を覆っている。

 僕は……、手すりを踏み台にして、柵の上に立った。

 あの魔法使いと同じ位置に――内向きではなく、外向きで。

 そして、下界を見下ろす。

 こうしていると、まるで自分が神様になったように思えるけれど、それはただの錯覚だ。きっと神様は、こんなことをしないだろう。

 僕はポケットに手を入れて――それから、羽根を取り出した。

 しばらくそれを見つめる。

 柔らかく、そして暖かい気がした。

 重さのない、ひとつの象徴として、時の流れとともに存在している。初めからそれだけのために生まれたようであり、それと同時に、いまも何かを待っているようであった。

 躊躇ためらっていたのかもしれない。

 ずっと、そうしていることもできた。思い直してやめることもできた。

 でも、僕は、最後までやり遂げる必要がある――それをしなければならないのだ。

 手を広げ、宙へと放つ。

 風が翼の断片を、空の彼方かなたへ運んでいく。

 まるで、大きな雪が飛んでいくかのようだった。

 小さくなり、そして見えなくなる。

 けがれのない、純白の祈りが――。

 

「さよなら……」


 ありがとう、時雨。

 僕は、罪を背負いながらも、

 やり直すことができなくとも、

 君がいた、この世界で――、

 この、かけがえのない世界の中で、

 生きていくことを決めた。




























【Rest in Time: The Estrangement Syndrome】is over.














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ロンサム・ウィングス 柚塔睡仙 @moonmage

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